国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国常立神は近代以前は特に重視された神である。
「伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。」
(Wikipediaより)
寛永13年、伊勢神宮の神官が新年に江戸城に拝賀の挨拶に行く際に内宮が先か外宮が先かの問題が起こった時、
幕府は時の後水尾上皇に裁定を願い出ました。
後水尾上皇は神道元締めの吉田家と五摂家に意見を求めると、吉田家は「御礼の順番は不明」と答えたのに対し
五摂家側からは摂政の二条康道から
「内宮は天照大神、外宮は国常立尊である。国常立尊は天神であり、天照大神は地神なのだから、外宮を先とすべきである。
また、嵯峨天皇の弘仁のときから、祠官任命の院宣はもっぱら外宮を第一としてきた。内宮を第一とする証拠はない」
との返答があったという。
結果的には幕府が内宮第一説に立っていたため、上皇が伝奏に過去の歴史資料から内宮第一の資料を探させて
幕府の意向に沿って内宮第一として落着させたという(間瀬久美子「神社と天皇」)
当時、国常立尊は天神の筆頭、天地初発の神(「日本書紀」)として、あらゆる神の根源に位置する神ととらえられて
いました。天御中主神を絶対的な根元神とするのは「古事記」を偏重するようになった明治以降の思潮とのこと
(「天皇の仏教信仰」)
先日偶然にも江戸時代後期に木曽御嶽山の麓にあった尾張藩祈願所護摩堂に関する資料を拝見した際に
「本地大日大聖不動明王、垂迹は国常立の尊なり」の記述を発見した。
中世以来より多くの行者が本尊と拝んできた密教系の明王である不動明王の垂迹が国常立尊
であったという説は現代ではあまり聞かないが、当時は国常立尊が重視されていた神格である
ことの現れであろう。
尚、現在でも御嶽教の祭神は国常立尊であるが、現在の一般的な学者の見解ではこれは
神仏分離以降、神道国教化政策の際に従来の御嶽座生大権現に変えて取り入れたもの
との見解が一般的であるが、上記資料によりその起源は近世まで遡ることが明らかになった
と言えよう。
近代以降、国常立尊は大本教の出口王仁三郎により「艮の金神」は「国常立神」であると
表されるなどはしたが近代以降は近代以前の重要視から比べると半ば封印されたような
存在に近くなっていると言えるのではないだろうか。