継体天皇皇族説 | 魁!神社旅日記

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継体天皇皇族説(けいたいてんのうこうぞくせつ、継体皇族説)は、継体天皇がそれ以前の皇統と何等かの血縁をもつ皇族であるという説。1950年代に提唱された継体新王朝論に反論する形で現在も幅広い分野で識者が唱えている。

応神五世または皇統に属する人物とするの各説

水谷千秋は「上宮記一伝」の「凡牟都和希王」を垂仁天皇皇子の「品牟都和希命」であるとする新王朝側の説に対し、「凡牟都和希王」が垂仁天皇皇子ならば始祖である垂仁天皇の名が男系系譜に記されていないのはおかしいと塚口義信氏の説をあげて反論している [注釈 2] [注釈 3]

また、ひとつの父系血族による王位継承が確立したのは継体天皇のあとの欽明天皇からであるという説には、坂本義種氏、武田幸男氏が倭の五王は「倭」が姓で「讃」や「隋」が名前であることを明らかにしたとし、初代の讃から武まで一貫して倭という姓を名乗っている。関和彦氏はこのことから、「珍」と「済」は続柄こそ記されていないが、同じ父系親族の一員であると主張したと反論した [注釈 4]

さらにもし五世紀の王権が血統よりも資質や能力を重視していたのならば、当時権勢をふるっていた葛城氏や吉備氏から大王が出ていないのはおかしいとも指摘している。

以上の見解からやはり継体はすでに単一の父系血族による世襲が確立していた時期に、当初から応神天皇五世孫という出自で即位した可能性が高いと考えられ、それが当時の支配層に説得力をもって受け入れられたのだとし、継体の現れた段階では、すでに大王は王族の出身でなければならないという血統観念が形成されていたと結論づけ、継体は応神天皇の血統を受け継ぐ王族の出身で「上宮記一伝」の系譜はおおよそ信じられるとし、地方豪族の王位簒奪(皇位簒奪)というものではなかったと結論づけている[11]

 

和田晴吾今城塚古墳の石棺は竜山石製であり、石棺は運ぶ段階で多くの人が目にし被葬者の政治的社会的位置を示す重要なものだとして、古墳時代の中期王権の最高位を示す長持形石棺竜山石製であり、このことは今城塚古墳の被葬者である可能性がきわめて高い継体天皇が古墳の形態、石棺の様子からも大和王権中期の大王位の正統な継承者であることを示しているという[12]

 

水野正好稚野毛二派王は二人の娘を皇后と妃に出した有力な王族であり、その継承者である意冨々等王も大きな権勢をもった王族であったであろうとし、その允恭天皇皇后となった忍坂大中姫の名前にも見える大和・忍坂の地(奈良県桜井市忍坂)が稚野毛二派王の「王家の地」であるとして、男大迹王は母・振姫の故郷越前高向に住む一方、成長しては王家の長として大和で王家の家政や執務に当たっていただろうと推測した。また稚野毛二派王の母ゆかりの近江坂田、彦主人王の別業である近江国高島郡三尾、継体天皇の妃に見られる茨田・和珥の地も深いえにしをもって流れて継体天皇にひきつがれてきた土地であるとし、継体天皇はたんなる土豪ではなく、これらの所領をもつ堂々たる王家の後継者として存在していたと述べている。また武烈時代の執政である大連大伴金村、大臣巨勢男人、大連物部̪麁鹿火の推挙を受け、かつ即位後もこの三人を大連、大臣に任命していることから所定の手続きを経た正当な王位継承者(皇位継承者)であるとし、皇位簒奪や新王朝説は資料、史料からして成り立たないと述べている[13]

 

大隅清陽は当時の王位継承は常に複数の候補者がおり、その背後に各候補者を要する在地豪族の複雑な利害関係により潜在的に即位の可能性のある「王族」を核として形成された派閥が利害関係で一つにまとまっているのが畿内豪族連合としての大和政権であり、かつ大王の側も「群臣」、「大夫」、和語で「マエツキミ」という畿内有力豪族らによる合議決定による推挙を必要としていたと分析し、継体天皇の即位に関しても億計王弘計王の例のように、前大王から見て傍系にあたる人物が、豪族たちの要請をうける形で王位を継承すること自体は、これ以前においても必ずしも珍しいことではなったとし、当時の近畿地方一帯には、大和の王家の聖なる血を引くと自他ともに認める人物が数多く存在し、状況によっては、それを支持する地元や中央の豪族たちと結んで王位継承争いに参加しうる可能性をもっていたと述べている[14]

 

吉村武彦は『日本書紀』には応神天皇5世とあるだけで具体的な名前が記されていないため系譜の信憑性を疑う意見があるが、『日本書紀』の撰上には『系図一巻』が付随していると『続日本紀』養老四年五月条に記されているとし、五世孫は事実だと述べている[15]。また古墳研究の成果によれば同じ墳型の採用は同一の儀礼を伴う葬制の継承を意味しており、儀礼には首長権の継承儀礼が付随するとされるので、同じ王墓形式をとっていることは前代の王ないし王権を継承しているという事実も指摘している[16]

 

大津透は継体天皇の出自は「記紀」ともに応神天皇5世の孫というだけで中間系譜を欠いているが、鎌倉時代の卜部兼方による「日本書紀」の注釈書「釈日本紀」に「上宮記」という聖徳太子の伝記を引用しており、そこにホムツワケに始まり「若野毛二俣王」以下中間四代の系譜、名前がが引用されており、黛弘道氏は用字法から「日本書紀」より古く推古朝遺文より新しいとしているとして、「上宮気」が7世紀の古い系譜の伝承と認めたうえで、父系二世の太郎子(意富々等王)の妹、「践坂大中比弥王」が允恭天皇のキサキ忍坂大中姫であり、安康天皇雄略天皇に対し有力な外戚であったこと、「古事記」中つ巻の末尾、応神天皇の段の最後にわざわざ若野毛二俣王の子孫の系譜が記されていることは継体天皇の一族が有力な皇族であったことを示しており、王朝交替や皇位簒奪の可能性を否定している [17]。また畿内の豪族が大王のもとに結集する核は「日嗣」つまり大王が皇祖神以来つながり、神話を背負っていることだろうと述べている[18]。したがって武烈のあと。大伴金村らが継体を迎えたのは決して唐突なことではなかった。「古事記」中つ巻の末尾、応神天皇の段の最後に、わざわざ御子の一人、若野毛二俣王の子孫の系譜が記されるのは、この一族が有力な皇族であったことを示しているのであろう。継体が越前・近江から突然入って王権を簒奪した豪族だと考えるのは誤りであろう、と結論付けている[19]

 

河内春人は、オホド王(継体天皇)は即位に際して大伴物部巨勢という大豪族が推戴し、継体大王も即位直後に彼らの地位を承認していることからオホドが即位以前から一定の勢力を持ち、ヤマトの豪族も認めていたことを意味するとして継体天皇は王族出身と認められるとしている。[20]。が、同時に彼は5世紀の倭王権はホムタワケ(応神天皇)を始祖とする讃グループ、済グループ、北陸グループの王族集団があり、その間での政権交代が行われたとする王族説と王朝交替説のハイブリッド説を唱えている[21]。なお、「記紀」が応神天皇を『ホムタワケ』、「上宮記」が『ホムツワケ』としており微妙に名前が異なることに関しては各王族集団が別個に系譜を作成し、時間の中で微妙に変化して伝承したものと判断している[22]。また下垣仁志氏の研究から考古学的立場の研究から防御集落、武器、殺傷人骨、武器の副葬、武器型祭器、戦土・戦争場面の造形などから弥生時代には高地性集落や矢じりの刺さった人骨など戦争の痕跡が多く発見されるが古墳時代に入るとそのような遺跡・遺物が見えなくなっている事実を挙げて古墳時代に日本列島で大きな戦争は確認できないという論を挙げて考古学的な事実を尊重すべきだとも述べている[23]

 

大橋信弥は、彦主人王の近江高島の拠点が文字どおり「別業」で、本拠は近畿中枢にあったと考え、隅田八幡神社人物画像鏡銘の「大和忍坂宮」がその本拠であったとし、摂津三島古墳群を継体一族の奥津城とみた。即位前の継体が大和忍坂宮にあり百済武寧王の奉仕を受けていた事実は、この時点で継体が大和政権の主要な構成員であったとし、であるならば継体天皇の出自は「王族」か山尾説の「畿内首長連合体」に擁立された存在のどちらかであるとした。ただ、近畿中枢に基盤をもたない地方豪族が政策的に大王位に擁立される必然性はきわめて薄いことから王族説をとり、摂津、南山城など畿内外縁に勢力をもっていた傍系王族の継体が和邇氏大伴氏の支持を背景に三尾氏の協力を得て、越前、美濃、尾張などと結び大和政権における地位を確立したとの説を提示している [24]

 

遠藤慶太は「日本書紀」によれば継体天皇が倭王権の王にふさわしと考えられた理由は三つあり、それは、血筋、資質、群臣推戴であるという。「日本書紀」撰者は継体天皇の即位に問題がなかったと判断し、「継体」の漢風諡号を献呈したとし、漢語「継体」は「漢書」外戚伝上の顔師古注に「継体、位を嗣ぐに謂うなり」、「史記」外戚世家の索隠に「嫡子にして先帝の正体を継ぎて立つ者なり」と注釈があるとし、古代の日本では君主の位を受け継いだ正統な継嗣であることが、継体天皇の本質と考えられていたとしている [25]

 

高森明勅は「継体天皇は「皇族」として即位」したとして、和歌山県の隅田八幡神社に伝わる人物画像鏡(国宝)の銘文に記されている「癸未年(きびねん、みずのとひつじのとし)」という年紀を何年に比定するか、長く見解が分かれていたが、近年、ようやく西暦503年と見る立場でほぼ一定したとし(山尾幸久氏・平野邦雄氏・車崎正彦氏など)ならば、同銘文に出て来る「男弟(おおど)王」は、即位前の継体天皇を指すと理解する他ない(その即位は507年)、と述べている。そのうえで、ここで注目すべきは、確かな同時代史料に、“王”という称号を付けて呼ばれていた事実であり、これは男弟王その人が、紛れもなく君主の血筋を引く人物であり、しかもその一族としての身分を認められていた事実を示す、と述べている[26] 。


また、上記以外にも、作家などから以下の見解も提示されている。

 

関裕二は「3世紀後半から4世紀にかけてヤマト大王家に断絶はない」と述べ、前方後円墳というヤマトの象徴的埋葬文化が守られていること、国王が変われば王の姓と国名が変わるのが東アジアの常識だったのに変わっていないことを挙げたうえで、王朝交替説は戦前の皇国史観への反発で、そろそろ新しい視点が必要になっているのではないかと提議した[29]。さらに継体天皇の先帝武烈天皇の悪行とそれに続く継体天皇の擁立は中国の易姓革命を意識したものであること。にもかかわらず継体天皇を「応神天皇の五世の孫」と位置付けた意味はけっして小さくないと指摘する。また王朝交替が実際にあってその王家が今も続いている皇室に続いているというのなら、『日本書紀』は新王朝の始祖として継体天皇を絶賛していなければならないはずだとも指摘している[30]

 

八幡和郎は『日本書紀』はこの継体天皇についていかなる英雄らしい逸話も語っていないことを指摘し、『日本書紀』のもとになった資料が文字化され始めたのは推古天皇の頃からとされているが、その推古天皇の祖父が新王朝の創始者であるとすれば、記憶が曖昧なほど昔の話ではなく、天皇の祖父の英雄物語を忘れるなど、あり得ないことだと指摘し、また、継体天皇はたしかに男系では遠縁だが、一方で『日本書紀』では2世代ほど前の雄略天皇が近親者を盛んに誅殺した結果であることも記録されているという事実を指摘したうえで、継体天皇の生家は、雄略天皇の母親の実家であり、女系では比較的近い皇族であるため、継体天皇の即位は唐突でなく、王朝交代の可能性は低いようだ、と述べている [31]

 

出典

  1. a b c d http://manyoug.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/03/manyo_147.pdf
  2. ^ 黛弘道「継体天皇の系譜について : 釈日本紀所引上宮記逸文の研究」『学習院史学』第5巻、学習院大学史学会、1968年12月、1-14頁、hdl:10959/901ISSN 0286-1658NAID 110007562716
  3. ^ 成清弘和『日本古代の王位継承と親族』(岩田書院、1999年)
  4. ^ 『古代文化』第52巻 第5号(六一書房、2000年)[1]
  5. ^ 『古事記』継体天皇記
  6. ^ 塚口義信『継体天皇と南山城』〔『ヤマト王権の謎をとく』所収,東京,平成5年9月〕
  7. ^ 塚口義信『継体天皇と息長氏』〔同氏『神功皇后伝説の研究』所収,大阪,昭和55年4月〕
  8. ^ 河内春人『倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア』(中央公論新社、2018年)
  9. ^ http://www.baika.ac.jp/~ichinose/kita/kitaosaka.pdf
  10. ^ 『古代文化』第52巻 第5号(六一書房、2000年)[2]
  11. ^ 「謎の大王 継体天皇」文藝春秋 平成13年9月20日 91‐101頁
  12. ^ 「継体天皇の時代」2008‐7‐1 95ー97頁
  13. ^ 「継体天皇の時代」吉川弘文館 2008‐7‐1 124‐138頁
  14. ^ 「古代天皇制を考える」 講談社学術文庫 2009‐3‐10第一刷 35‐43
  15. ^ 「ヤマト王権」 岩波新書 2010年11月19日第一刷 117頁
  16. ^ 「ヤマト王権」岩波新書 2010 49-50
  17. ^ 「神話から歴史へ」講談社学術文庫 2017‐12‐11第一刷 182‐183頁
  18. ^ 「神話から歴史へ」講談社学術文庫 2017 208頁
  19. ^ 「神話から歴史へ」講談社学術文庫 2018 183頁
  20. ^ 「倭の五王」中公新書 2018年1月25日初版 223頁
  21. ^ 「倭の五王」中公新書 2018年1月25日初版 194頁
  22. ^ 「倭の五王」中公新書 196頁
  23. ^ 「倭の五王」中公新書 155‐156
  24. ^ 「継体天皇と即位の謎」<新装版> 吉川弘文館[2007‐12‐20] 2020‐3‐1
  25. ^ 史学雑誌 2020年129巻10号 p.55-76「歴史叙述のなかの「継体」」遠藤慶太
  26. ^ 高森明勅公式サイト2020年5月21日 継体天皇は「皇族」として即位
  27. ^ 「継体天皇は新王朝ではない」新人物往来社 平成5年7月30日 34‐40頁
  28. ^ 「継体天皇は新王朝ではない」新人物往来社 127‐143頁
  29. ^ 「継体天皇の謎」PHP文庫[2004]2006‐1‐25 126‐128頁
  30. ^ 関裕二「継体天皇の謎」PHP文庫[2004]2006‐1‐25 190‐193頁
  31. ^ 「皇室のルーツ」どこまで知ってる?教科書では学べない“万世一系”の真偽 DAIAMONDonline 2023.10.22 5:05