女性天皇成立の事情 | 魁!神社旅日記

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歴史上の女性天皇成立の事情についてよく「中継ぎ」であるとか「ピンチヒッター」であるとか

書かれているが、それは女性天皇に気を遣っての抑えた表現であることがわかった。

 

実際には女性天皇のほとんどは皇位を独占したり簒奪したりするための悪意ある政治的野望の

ための道具であった。しかも、他の正統な皇位継承者の多くの犠牲を出している。

 

以下考察してみよう。

 

・推古天皇(第33代)

異母兄の敏達天皇(第30代)皇后

第31第、用明天皇の妹

第32代、崇峻天皇は異母弟

崇峻天皇が蘇我馬子に殺されるという非常事態を収拾するために、蘇我馬子本人の

要請を受けて、即位。推古天皇としては自身の子である竹田皇子への即位の目論見があった。

 

 

・皇極天皇(第35代)

皇極天皇と斉明天皇は同一人物。

はじめ第34代舒明天皇の皇后

舒明天皇が亡くなると女帝として即位し、舒明天皇の時から

対立する有力な皇位継承者であった山背大兄王(聖徳太子の子供)を

蘇我入鹿と組んで攻め滅ぼした。

 

山瀬大兄王(やましろのおおえのおう)

厩戸皇子(聖徳太子の子)、蘇我入鹿大臣の従兄弟

上宮王家当主、人々からの人望も厚く有力な皇位継承者と見られていた

 

・斉明天皇(第37代)

皇極天皇と同一人物

先代の36代孝徳天皇を追放して重祚。

有力な皇位継承者である先代孝徳天皇の息子である有馬皇子を捕らえて絞首刑にした。

 

・持統天皇(第41代)

天武天皇皇后

679年、天武天皇と6人の皇子達に我が子の草壁皇子を次の皇位継承者にすることを吉野にて

誓わせる(吉野の盟約)。

天武天皇亡き後、我が子の草壁皇子の強力な皇位継承者としてのライバルである

大津皇子(天武天皇三男)に謀反の疑いをかけて自殺に追い込んだ。

が、草壁皇子は即位前に逝去したため草壁皇子の子である軽皇子(のちの文武天皇)

を後に即位させるために自身が即位した。

この時には他に少なくとも4人以上の男性皇族(天武天皇の子2人、天智天皇の子2人)が存在したが

自身の子供の系統に皇位を継がせるために自身が即位して他の皇位継承者の皇位継承を

排斥したのである。以後この系統の女性天皇の即位理由はこの皇位を独占するためである。

 

・元明天皇(第43代)

草壁皇子の正妃

文武天皇(第42代)の母

自身の子供である文武天皇が25歳の若さで亡くなると、文武天皇の子である

首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)を後に即位させるために自身が即位。

持統天皇の時と同じ手口である。

首皇子の異母兄弟で皇位継承者となりかねない広世王(母・石川刀子娘)と

その兄弟を皇籍離脱させる

首皇子を皇太子とした後に皇位を娘の元明天皇に譲り崩御した

 

・元正天皇(第44代)

草壁皇子の長女

皇太子の首皇子(のちの聖武天皇)がまだ若かったために即位した。

右大臣の長屋王は元正天皇のいとこであり有力な皇位継承者であったが聖武天皇が

即位すると左道による謀反の疑いをかけられて自殺に追い込まれた。

 

長屋王

天武天皇長男の高市皇子の長男。つまり天皇天皇系直系長子の最有力な皇位継承者にして

元明、元正の二代の天皇を補佐した有能な政治家でもあった。

女性天皇がなければ彼が即位していた可能性は高い。

聖武天皇、藤原四兄弟により自殺に追い込まれた。

なお、彼を死に追いやった藤原四兄弟は737年に相次いで病死したため

長屋王の祟りとして恐れられた。

 

・孝謙天皇(第46代)

聖武天皇と光明皇后の子

自身が即位すると聖武天皇の遺詔により皇太子とするようされていた

天武天皇の孫にあたる道祖王を廃した。

代わりに大炊王(のちの淳仁天皇、第47代)を皇太子に立てた。

橘奈良麻呂の変が起こり皇位継承候補者の黄文王(長屋王遺子、天武天皇玄孫)、道祖王らが

捕らえられて杖で何度も打たれる拷問を受けて二人とも獄死した。

天武天皇孫の塩焼王は親戚降下させられた。

 

・称徳天皇(第48代)

孝謙天皇と同一人物。孝謙天皇は淳仁天皇に皇位を譲った後も上皇として君臨していたが、

道鏡を溺愛していることを指摘されていたこなどから淳仁天皇に不満を持ち始め、

太政大臣藤原仲麻呂を殺害し、淳仁天皇を廃位して淡路に島流しの刑にして、

自身が再び女性天皇として即位した。

再び大嘗祭を行ったが本来禁止のはずの僧侶を大嘗祭の場に出席させた。

766年には道鏡を「法王」に任命した。

あらに769年には道鏡を天皇にしようと画策したが、和気清麻呂らに阻止された。

同年、生涯独身のまま崩御した。

多数の女性天皇を輩出して繋いだ天武天皇、持統天皇系の皇統はここに断絶した。

以後800年間、江戸時代になるまで女性天皇が誕生することはなかった。