§7.「なぜ教員の質が低下しているのか」(朝比奈なを 朝日新書 2025)を読んでみた
教師にとって日本の公立学校の現状を理解する上で極めて貴重なデータ、大切な指摘が数多く登場し、現役の教師としてはぜひ、読んでおくべき良書の一つであるが、今や、多くの教師は本一冊読むことすら、大きな負担を感じてしまうに違いない。そこでお忙しい皆様の参考とすべく、以下、本書の内容の一部をかいつまんで紹介し、自分の感想を少しだけ付け加えてみた。
なお、重要なポイントとなる朝比奈氏の指摘、事柄は太字、特に重要な箇所は赤字で、自分の感想は緑字で記しておく。
2023年度小学校218238人(前年より約2万1千人増)、中学校275202人(約1万1千人増)、高校104814人(約1万8千人減)。高校では三部制の定時制など(2024年度定時制入学者7万1662人)や通信制高校への入学者(2024年度在籍数29万87人。ただし進路先未定のまま約3割が高校卒業している、といった問題点も)が増大し、不登校生徒の多くを吸収しつつある。
ヤングケアラーや日本語を理解できない保護者のサポートで長欠する児童生徒が増大。他方で「隠れ不登校」(欠席扱いされない児童生徒の増大)も約5万人。つまり2023年度の小中学校の不登校数は実際には概数として約55万人に及ぶと推測できるのでは?
また小学校低学年及び中学年の不登校が急増。くわえて不登校期間の長期化、重症化(年間の登校日数が約200日の内、90日以上欠席する児童生徒が2019年度小中学校で約1万人だったのが、2023年度には約1万9千人とほぼ倍増)が進んでいる。
原因としては学校の制度が現状の社会と酷くミスマッチ。共稼ぎ世帯が専業主婦世帯の約2.2倍となり、子どもを朝、起こせない…放課後も面倒を見られない(…学童保育の遅れ)家庭が増加。母子家庭の場合、母親の半分以上は非正規雇用で平均年収は236万円(父子家庭は496万円)であり、過重労働、貧困に直面。
学校設備の老朽化、破損に加えてエアコンや洋式トイレ設置の遅れも公立学校を忌避する傾向を助長。
2016年の教育機会確保法により、「不登校は問題行動ではない」旨が明記され、登校圧力が低下し、「学校からの逃走」が容認される。
教職のブラック化による対応力の低下。2004年の「発達障害支援法」、2014年の「障がい者権利条約」の発効により、学校には子どもの適性に応じた配慮や支援の義務があるとされた。こうした動きの延長線上に「教育機会確保法」が2016年に成立。2023年には「誰一人取り残されない学びの保障に向けた不登校対策」プランがまとめられる。これらの措置は結果的に教師の職務を激増させる。
保護者の学校や教師への評価の低下、むしろ不信、不満が増大。にもかかわらず、教師側には保護者の心情への理解が足りず、学校教師への不信感に鈍感となるか、「モンペア」(2007年以降、頻出。その出現は既に1990年代後半から)の一言で保護者を括り、ひたすら敵視して反発するだけ。
かつて学校や教師への敬意を欠き、強く反発してきた校内暴力世代に属する保護者の間でとりわけ教育サービスの消費者という意識が優勢になり、学校や教師への過大な要求と不満が過剰に噴出。加えて新自由主義の蔓延が保護者の消費者意識を高め、子どもたちの教育へ教師と共に関わろうとする意識が希薄になってかつての協力関係が崩れてしまった。結果的に保護者対応が教師の最大の重荷に。2023年の奈良県教育委員会の調査では教職員のストレスの源のトップに過大な業務量と保護者対応が並ぶ(小学校では保護者対応、中高では過大な業務量がストレスの原因のトップ)。→スクールローヤーの導入(2010年代の半ばから始まり、2020年度からは財源措置導入)、PTA、子供会の衰退。
教員もまた教育への情熱を失い、学校から距離をおくように。加えて深刻な教員不足(2000年代には表面化)の進展、非常勤職員による穴埋めも種々の問題を引き起こす。教員不足の背景には児童生徒数ではなく、学級数に応じて増減する教職員の定数を定めた「義務標準法」の欠陥も。加配は一定程度認められているが、現状では予算のハードルが厳しく、申請の手続きも煩雑。
…教員にとってより負担の大きい「個に応じた指導」を長年求め続けておきながら、一学級の子ども数を減らして教員定数を増やす努力を怠ってきた教育行政側の責任は重大。すなわち1980年代から延々と続けられた闇雲な行政改革こそが公務員の削減と義務教育費の削減をもたらし、学校の疲弊を招いた張本人であろう。
しかも学校には福祉(障がい者の学び保障)業務や危機管理(災害時の避難場所)業務、消費者教育、金融教育、英語教育、IT教育、探究学習などの教育職務が情け容赦なく続々と加わる。その都度、無意味な官製研修が増えていき、学校現場の疲弊を進めていく。その中で最大の噴飯物は教員免許更新制の導入であった。これでついに教員側の堪忍袋の緒が切れ、我慢の限界に達した教師たちの間で教職への熱意、意欲が一気に萎えてしまったケースは極めて多いはず。
「教員の質の悪化」問題自体、実際にはとっくの昔から存在していたはずだ。PL法を例にして教員の質の問題を例えてみよう。現在、教員の質が低下している原因の多くは本をただせば教員養成教育の欠陥から始まるだろう。つまり教員を生み出すプロセスこそがまずは問われるべき問題なのだ。さらに学生たちの教師像が形成される時期にも原因は遡れるだろう。つまり彼らの「恩師」たちのパフォーマンスも、現在の教師たちの質に大きな影響を及ぼしているに違いない。また新任教師を育てる学校現場や教育委員会の研修内容にも質の低下要因が少なからず潜んでいるはずだ。
つまり製品が何らかの問題を引き起こす時、まず問われるのはその製品の製造プロセス、材質など、いわゆる製造物責任である。これは教員養成プロセスの問題に該当する。またその製品を利用した側の責任もあるだろう。乱暴に扱ったり、点検を怠っていなかったか、などといった製品の使用方法や管理、保管上の問題が次に問われるはず。これは教員採用や教員研修など、文科省以下、各教育委員会や各学校側の問題となる。
世間的にもっぱら問題視されるのが後者、すなわち教師の利用のあり方(働き方)、教師の研修のあり方に偏ってしまう傾向を私は感じてきたのだが、いかがか。
教師の質を問う際に、質の劣る新任教師を生み出している教員養成のプロセスや、そうした質の劣る教員を採用したり、敢えて管理職に登用してしまう人事のあり方にも、私たちは厳しい目を向ける必要があるだろう。
さらには団塊世代の大量退職後、世代間のアンバランス(40代と50代の前半が少なく、20代、30代が多い)が一気に表面化し、教師たちの助け合いのもととなるチームワークが崩れてきた。若い教師の割合が増えることで産休、育休も増え、代替教員を見つけられないことによってその穴埋めが一般教員に割り振られ、教職の「罰ゲーム」化が進む。そこに副校長、主幹教諭などの新設による教員の階層化まで進み、職員集団の分断、挙句の果てに新任教師の孤立までも加速。今や仕事の押し付け合いによる若手教員の早期退職、安易な使い捨てが学校現場では日常的となりつつある。多くの公立学校の実情はもはやかつてのブラック企業そのものと言って良い。
教員採用試験の倍率低下に伴う、教師の学力低下も加速している。地方によっては定員割れの状態が出現し、教師の質を維持できなくなっている。不足するのは教員の「量」だけではなく、「質」もまた足りなくなっているのだ。教員による不祥事の連発はそのことを雄弁に物語っている。もちろん学校のブラック化が公然とした事実として世間に周知されるにつれ、教員志望者が若者の間で減少するのは不可避である。
こうした事態を招いた責任は専ら教育や福祉を軽視してきた国政、とりわけ問題だらけの教育行政側にあり、マスコミの報道ぶりに問題を見出す朝比奈氏の指摘は核心からズレているように感じる。また若者が教職を忌避する傾向が出てきたのはお粗末な教育行政がもたらした当然の結末であり、若者たちの進路選択はむしろ概ね正しいと言って良い。したがって「社会が若者に教員になることを俊巡させている面が大いにある」(P.133)と私は思わない。仮にそうだとしてもここで言うところの「社会」とは専ら政治・行政の方であり、マスコミの方ではあるまい。
しかし「教員志望者を増やすためには、給与を上げ、仕事を精選して労働条件と環境を改善するしか方法はないと断言できる」という指摘は問題の核心をついており、全面的に支持する。
ただし「学校には子どもの成長に配慮した施設、設備、教材が備わっており、また、大学で教職課程を学び、教育実習を経て教員となった人の専門性は高い」(P.146)という記述はこれまでの朝比奈氏の指摘と完全に矛盾しており、個人的には違和感しか覚えない。
P.172~173の記述にある通り、教員免許取得において一番重要な教育実習の期間が日本の場合、極めて短く、不十分。さらに教員免許取得に大学院卒を求める北欧と比べれば、日本の教師の専門性は決して高くはあるまい。まして朝比奈氏自身が指摘されているように現今の教員採用試験の倍率低下によって、教員の質自体、全体的な低下を余儀なくされている。そして日本の公立学校の施設は地域によっては不備だらけであり、老朽化も進んでいる、と本書のP.47~52で自ら指摘されているではないか。
この論理的矛盾は決して小さくあるまい。本書に垣間見られる論理の揺れ、矛盾はもしかすると朝比奈氏が長年抱えてきた学校教育への素朴な信頼感がもたらしてしまっているのではあるまいか。
公教育が必要悪として本質的に抱えざるを得ない負の側面(集団主義的社会化、資本主義的人材育成と選抜機能…)を完全に否定するわけにはいかないだろうが、かといって無条件に肯定して良いものでもあるまい。公教育が抱える負の側面と正の側面とのアンバランスを日本の現状の中でどうバランスよく調整していくのかが、教育問題を話題にする際には常に問われていると思うのだが、いかがか?
…とは言え、本書の終わりの方で教職を担当している大学の教官の言葉として「現代社会と自分の生活がどんな関係を持っているかを考えない学生が多い」という、「現代社会」を担当してきた元教師としては実に耳の痛くなる指摘があった。これは高校での授業に際して、多くの教師が「現代社会」という科目の果たすべき本来の重大な役割に十分な関心を向けてこなかった証拠だろうと個人的には感じた。40年余り前に設置され、今は消滅してしまった、極めて画期的な意義を持つはずの科目が、おそらくはその目的を不十分にしか果たせずに消滅してしまった…その責任の過半は私たち、当時の社会科教師にあるに違いない。
「現代社会と自分の生活」との関係性を考える材料として学校そのものを授業のテーマとして教材化する試みを個人的にはしてきたが、限界は大きかった。この点はいまだに慙愧の念に堪えない。これまでの高校社会科の授業の至らなさが、今時の教育実習生の「現代の学校教育に問題意識を持ち、それを踏まえて、子どもたちにこのように接してみたい、このような授業を行ってみたい…」(P.235)といった意欲に欠ける側面が生じてしまっているのだろう。また教育実習生に「学校現場の現状是認型の姿勢」(P.236)が一定数、見られるのも、「現代社会」の授業が不発気味に終わっていた証拠かもしれない。もちろん、これは大学での教員養成の問題でもあろうが…
こうした問題点に絡んで「教員の資質向上の掛け声の下、教員の養成、採用、さらに教員になった後の研修の全てに関して教育委員会の関与が大きくなっている」(P.237)との指摘は実に慧眼である。おそらく今後、日本の学校では全国的に「教育行政に対して、それを容認する姿勢を持つ教員しか存在」(P.237)できなくなる可能性は極めて高い(千葉県の場合は古くからそういう人事だったが)だろう。
2000年代以降、教員養成が「その時点での学校現場で必要とされる実戦的な知識や技術の育成が主眼とされ」、その結果、「教育制度や行政への批判的精神は育たず、教育の本質に関する深い思索も行われない現状是認型の育成」になっていることへの強い懸念も表明されている。
さらには朝比奈氏が指摘するように、「人材」という言葉が多用される教育が新しい「国家主義」に向かい、将来、富を築くスキルを教える教育の強調が新しい「立身出世主義」につながる危険性もまた大いにあるだろう。
最後に本書で登場した、80年近く前、ある教育実習生が記した以下の文をぜひ、熟読玩味したい。
…既に獲得すべき目的を地位や冨に置くならば、そして、これらのものが有限であるならば、当然にそれの獲得は修羅の巷を現出せしめずには置かない。日本の社会が持つ落ち着かざる慌ただしさは、ここに原因が存する。立身出世主義は最広義に於ける物質主義に属し、判然として理想主義に対立する…(P.276)
参考記事
〇高齢化で外国人の入居相次ぐ光が丘団地、小学校では日本語「個別」指導…校長
「増加スピードに対応追いつかない」 読売新聞 2026.1.9
こうした現象は都市部の小中学校や定時制高校ではかなり早くから指摘されていたはずである。日本語が分からない児童生徒を持て余し気味の中学校においては苦肉の策として既に10数年前から日本語を母語としない生徒を一クラスに集めて指導の効率化を図ろうとしていた。まして東京都や神奈川、埼玉の一部では遥かに深刻な事態が生じていたに違いない。
高齢者の割合が増えて施設の老朽化が進み、とうとう一部が廃墟化している団地は千葉県でも各地で見られる。実際、「廃墟ツアー」を謳い文句とする幾人ものユーチューバーが繰り返し訪れる有名な団地群が私の近所にも複数存在しているのだ。そのうちの一部は比較的立地条件が悪くないこともあって早くから外国籍の方の入居が目立ってきていた。私の住む市原市では東京近郊の市町村の例にもれず、やはり日本語の不自由な外国籍の方が急増している。
日本語の不自由な保護者が増え、入学式の光景はすっかり様変わりし、ある面では国際色がきわめて豊かになっている。そうした現在、日本語での授業が難しい児童生徒は千葉県の場合、その多くが大した援助を受けることなく放置されてきた。ひらがな、カタカナすら十分に分からないまま、高校三年生になっている生徒までいた。つまり中学校以降、きちんとした個別指導を通じての学力の保障を受けられずに「形式卒業」と「形式進級」が中高の数年間、無駄に繰り返されていたのである。
今後はさらに事態の悪化が進むだろう。それは学校のブラック化を止める事に失敗し続け、教員の量的不足と質の低下という最悪の事態をもたらしてしまった教育行政の、もっぱら負うべき問題である。仮に、この問題解決のために新たな負担が教職員に加わるとしたら、公立学校崩壊の日が近づくだけであろう。
◎“若者のSTEM離れ” 何が足りない? 調査が示す本当の理由
TechTargetジャパン 2026.1.5
日本の学校教育を考える上でも非常に重要な調査結果であろう。「科学分野で実験や実習といった体験型授業を十分に提供しないことは、子どもが将来STEM(科学、技術、工学、数学)分野の職業を選ぶかどうかに直接的な影響を与えること」がイギリスの調査結果から指摘されている。「体験型授業が減少傾向にあること、その背景にはさまざまな障壁が存在することが明らかになった」という指摘は日本にも十分当てはまるだろう。
「調査対象となった7~9年生(中学1~3年生)の生徒の52%が、科学への学習意欲を高める上で体験型授業が重要だと回答した。この傾向は、もともと科学への関心が低い生徒ほど顕著に見られた。体験型授業が減ることは、結果的に将来その科目を学ぶ意欲を削ぐことにつながると言える。」加えて「女子は男子に比べて、体験型授業がある科目への関心を抱きやすい傾向がある。SET 2023で、体験型授業が学習の動機になると回答した人は、男子が50%だったのに対し、女子は54%に上った。優れた教員の存在も、男子より女子にとって重要度が高いという結果になった。」という指摘は日本にとっても実に耳の痛い重要ポイントであるはずだ。
「2週間に1回以上、体験型の課題に取り組む就学者の割合は、2016年は44%、2019年は37%で、2023年には26%まで落ち込んだ。試験対策として実験や実習ではなく、授業でビデオ視聴をすると回答した就学者の割合は、2016年の39%から2023年には46%に増加した。」という指摘はイギリス以上に日本への厳しい警告となっていると考えるが、いかがか。
多少改善しつつあるものの、日本では古くから女性の理系離れが深刻であった。近年、わずかながら上昇してきた女性の理系進学率も、今後はかつてないほどに低落してしまうかもしれない。たとえば教員採用試験の倍率低下によって近い将来、教員の理数系授業における力量にも大きな問題が生じてくるのではあるまいか。特に小学校での理科分野における実験や観察、解剖実習は既に質、量とも大幅に低下しているのでは…と危惧しているのだが、いかがだろう。
授業ではイギリスでの調査に類似した、簡略な調査を実施してみて、その結果をイギリスの結果と比較し、生徒たちと差異が生じた、ないしは生じなかった理由について詳しく分析してみると面白いだろう。
〇高2自殺 学校がいじめ報告書拒否 裁判で担任教諭「認識なし」証言
朝日新聞社 2025.12.16
…第三者委は18年11月、男子生徒に対する腹の音に結びつけたからかいなどをいじめと認定。「少なくとも中学3年時以来のいじめを主たる要因としつつ、これに起因した心理的な孤独・音に関する過敏な心理状態、教師からの理不尽な指導、学習に関する悩みや焦りなどが相互に作用し合って自死につながったものと考える」と結論づけた。だが、学校側が受け入れを拒否し、両親が22年に提訴した。…
この件の突出した異様さは上記に示された、遺族の提訴に至るプロセスのゾッとするほどのグロテスクさに現れているだろう。学校側が第三者委員会の報告書を受け入れ拒否する、という前代未聞の冷徹な対応、当時の担任の、恐ろしいほどのイジメ認識への欠落、「いじめ防止対策推進法」の理解度については「読んだことはありますが、細かく把握できていなかったかもしれません」とまるで他人事のような、あからさまに乾ききった証言…
自殺にまで至ってしまった事の重大性についてひたすら「我関せず」という、開き直りとも受け取れるような冷酷で鈍感な対応…当該教師の発言や対応からは教育に関わる者として最低限に必要とされるだろう資質の欠片すら、微塵も感じ取ることができない。この教師を雇い続けた学校側の経営責任まで厳しく問われるべき、異常な事件だと思うが、いかがだろうか。
〇独自取材|仙台育英いじめ被害生徒「本当のことを知ってほしい」何度も自殺未
遂、ようやく始まった調査 “声が届かなかった2年半”“訴えても動かなかった学校”
とサッカー部指導者の対応 FNNプライムオンライン 2025.12.13
…学校側は、再質問状に対する12月3日付の回答書で、「特定の個人に関する内容のため回答は控える」としたうえで、「公式見解はホームページに公表している通り」としています…という。これはまさに個人のプライバシーの保護を盾にした、イジメ案件に対する典型的な隠蔽工作がこの学校にもいまだに根強くはびこっていることを予感させる。
問題のあったサッカー部への学校側による対応は監督および部長の辞職、全国大会への出場辞退、という、それなりの厳しさを感じるものではあった。しかしこれだけでは「トカゲの尻尾切り」の印象を免れまい。このイジメ問題が長期にわたって継続してしまった大きな原因は、決して特定の人々による不適切な対応の積み重ねだけではないはずだ。
ここまで問題がこじれてしまった背景には多くのスポーツ名門校が共通して抱えている、根深い構造的、体質的問題が潜んでいるに違いない。今夏の夏の甲子園大会でも似たような問題が他県で露見したばかり。しかしその教訓はおそらくスポーツ名門校に内在する構造的問題に阻まれ、相変わらず十分に生かされていない…と感じざるを得ない。
スポーツでの実績を宣伝材料にして生徒集めに狂奔する余り、学校の印象を悪くするような事態は出来るだけ表に出さずに隠蔽しようとする…こうした学校経営者側の姿勢はこれまでも数多く見られてきた。似たような不祥事を繰り返さないためにも、経営者側には任命責任が厳しく問われなければなるまい。一体、誰がこうした不祥事を招くような監督、部長を任命してきたのだろうか…どう見ても学校側の組織運営上の責任は決して軽くないはずだ。
〇教員1,400人調査、やりがい8割超も「多忙」が課題トップ リシード 2025.11.25
〇教員の“精神疾患による休職”7000人の時代 「働き方改革だけでは解決しない」理由
とは?【専門家に聞く】 AERA DIGITAL 塚田智恵美 2025.11.25
この対応はただの対症療法の一つに過ぎない面もあるだろう。大きな原因は教師の職務の質と量があまりにも過剰である点にあると考えるがいかがか。対策はこの点の改善に最大の比重を置くべきだと考える。大胆な業務量の削減こそが真っ先に急がれるべき課題の中心であり、この視点から目を逸らすような問題点の指摘は、何よりも深刻な教員不足の解消を急ぐべき現時点では好ましいとは思えない。
確かに多くの教育問題が「働き方改革だけでは解決しない」問題であることは事実だが、仕事量の大幅な削減を軸とする「働き方改革」を改革の先頭に置かない限り、すべての改革は水泡に帰するだけであろう。ただでさえ、「教育改革」という、教師の負担をひたすら重くする「改革」の呪縛に長く苛まれてきた教師たちなのである。教師たちの教育行政への不信感がいかに大きいものなのか、行政側はまずしっかりと認識すべきなのだ。
〇教員も実感、小学校で「暴力行為18.6%増」の深刻
東洋経済オンライン 松尾 英明 2025.11.13
今、なぜ小学校や中学校での児童生徒による暴力行為が増加してきているのか、その原因は単純に特定できるものではないだろう。松尾氏が指摘するように大人の指導力の弱体化という側面があるのは確かに否定できない。とはいえ、「目には目を」のように暴力には力で対抗する…といった対応がはたして暴力行為の沈静化にどこまで効果があるのかは、極めて疑わしい。
たとえば「叱る大人がいない社会では、子どもが「悪いことをしたら叱られる」という当たり前の構造を学べません。叱られて悪いことをやめようとする子どもに暴力が横行することは、本来あり得ないのです。」という指摘は正しいのであろうか。
かつて校内暴力が吹き荒れた時代、学校は運動部顧問、体育科教師を中心にして厳しい生徒指導を行うことで事態の鎮静化を図った事は事実である。その結果、校内暴力の沈静化は実現できたと言えるが、他方で「イジメ」や登校拒否の問題が新たに浮上してきた。つまり下手な管理主義をとったとしても別の問題が浮上するようではただの「モグラたたき」に過ぎないのかもしれない。実際に過去の校内暴力件数や学校での暴力件数の統計を確認してみよう。
まず校内暴力の件数は1981年がピークであることが分かる。例のテレビドラマ「金八」シリーズの第一弾が1979年10月から1980年3月まで。確かにこのテレビドラマが校内暴力を多少とも誘発した側面がある、との工藤勇一氏らの指摘もあながち間違ってはいないだろう。
次に今から30年ほど前の、暴力件数が急増してきた頃の文科省の統計を見てみよう。この時代には小学校と高校での暴力件数が統計に加わってきている。また典型的な対教師暴力を中心とした「校内暴力」よりもかなり広く学校での暴力行為を捉えるようになったようで、昭和での校内暴力の発生件数と単純な比較はできないが、暴力案件の増減の動き程度はある程度、捉えることができる。この段階ではまだ中学校での件数が小学校や高校に比べて圧倒的に多い。
最後にこの記事で取り上げている直近のデータを見てみよう。平成20年を境にして暴力件数が増大している。と同時に中学校の件数を小学校が上回り始めている。この変化をきちんと説明できる材料は今のところ不十分なものしかないと考えるので、これについてのコメントは控えたい。
ただ現段階を含む学校での暴力件数のピークは3つ存在している。ただし、それらの内、現在の状況に関しては現在進行中の現象なのでそのピークが来年度以降になっていく可能性もある。つまり現段階ではピークを迎えつつある、という表現にとどまるだろう。
以上を踏まえて学校での暴力案件(校内暴力を含む)の推移を見ると、一つの仮説が思い浮かぶ。まず二番目のピークに関しては校内暴力の時代の生徒らが成人して親になり、その子供たちが小学校から中学校に在籍する頃合いである点にまず注目したい。つまり二番目のピークをもたらしていたのは校内暴力世代のジュニア世代であるということ。また三番目の暴力件数急増には校内暴力世代の孫世代にあたる児童生徒が数多く関わっている可能性もある。
私自身の経験から見ても勤務校が荒れだしたのが、二番目のピークに相当する、すなわち「校内暴力ジュニア」世代が高校生となり始めた頃とピッタリ重なるタイミングであった。そういう経験も踏まえると、現状の件数増加は親世代における反学校的文化の次世代への継承が背景に潜んでいるのかもしれない。
以上はかなり不確かな仮説に過ぎない。こうした分かりやすい世代論には落とし穴がつきものではある。しかし、ここで管理主義を強めることが問題の解決には必ずしもつながらないのでは…という小さからぬ懸念を、以上のような観点も加わって、この記事から感じとった次第である。
◎学力は同じなのに…大学受験の合否を分ける「学校の先生」問題 ダイヤモンド・オンライン 孫辰洋 2025.11.27
こういう学校の現場をよく知らない、偏った立場からの意見は俗耳に入りやすい分、誤解を招きやすく、現実的には有害であることが多い。確かに伝統的な上位の進学校教師の場合、特に年配教師の場合には推薦入試、総合型選抜の在り方をハナから否定する人は決して少なくあるまい。そしてそれが生徒たちの進学の妨げになってしまう事もおそらく生じてしまっているだろう。
ただ、他方で進路指導の現場に一定期間、携わってきた教師の立場からすれば、孫氏の意見に必ずしも全面的には同意できない。特に20年以上、進学指導に携わってきた経験からすれば、安易な「青田刈り」につながりかねない推薦入試や総合型選抜の在り方に、大きな疑念を覚えざるを得ない。
この問題は大学入試の前段階、高校入試の在り方と実は深いつながりがあると、個人的には捉えてきた。高校入試において学力中位層以下の高校では大学入試よりも古くから学力試験の比重が低く、早くから総合型選抜的発想が一般的となっていた。そうしたなかで学力上位層の高校でも一部、部活動の活性化、実績向上のために受験生の部活動実績を過大評価する動きが強まっていた。その結果、以前よりも学力の乏しい入学者を抱える自称「進学校」も増えてきていた。かつての当該校における授業のレベルとの大きなズレのある生徒たちの増加が学校全体に及ぼす悪影響は少なからず存在していたはずである。
学力よりも部活動などの実績が大きく作用して高校入試を勝ち抜いた生徒の多くは大学入試でも同様の事を期待しがちである。これは、経験上、否定できない傾向だろう。そうした生徒たちが大学入試においても学力選抜を忌避し、推薦入試、総合型選抜に殺到する動きを学校全体にもたらす。一旦、この動きが表面化してしまうと、部活動の実績は上がるものの、大学への進学実績は確実に停滞する。そもそも共通テストの受験者が年々、減っていき、ついにはゼロになることすら、実際にあった。
こういう高校では内申点を気にして授業を大人しく受けることまでは出来ていても、いかんせん学習意欲の乏しさが生徒たちの間で目立ってくる。たとえそうした生徒たちが、希望通りに推薦入試などで大学へ進学できたとしても、そもそも肝心の学習意欲が保証できないのだから、大学での授業についていける保証も出来ないだろう。
体育系大学や芸術系大学ならばともかく、一般の大学において運動部等の実績を重視する入試の在り方自体が、大いに疑問である。実際には入試倍率の維持、向上を最優先し、部活動の実績を売名行為に用いているに過ぎない、大学入試の在り方を快く思っていない教育関係者はきっと少なくあるまい。
〇小学生の暴力が過去最多の皮肉。「いい子」に育てようとした親が、知らぬ間に奪っ
たもの All About 石井 光太 2025.12.5
幼児期の集団遊びの不足は小学一年生の暴力件数を激増させている大きな要因に違いあるまい。他方で現在の小学校は教員不足と教員の質の低下などによって激増する暴力事案に対応できる力を失いつつある。いよいよ公教育崩壊の日は近いのかもしれない。