世界遺産 アラモの砦(The Alamo)   | Studio Kanons memory スタジオ かのんズ メモリー

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ATHA(Association of Traditional Hooking Artists)

でセットしてくれたバスで、

半日のサンアントニオ市内観光に行った。

 


乗客はATHAメンバーとその家族。

隣に座った恰幅の良いアメリカ人紳士から

「横須賀に住んだことがある」と言われた。

「navy(海軍)ですか?」と聞いたら

「Yes! ミッドウエイに乗っていた。

滞在中は、家族とともに国内を旅した。


京都・奈良・大阪・箱根・日光・仙台・北海道etc.

いろんな所を観光した」と言われた。

 

(私より行ってるわ)と思いながら聴いた。

今は退役軍人で、

空母ミッドウエイに乗っていたといわれるから、

湾岸戦争に関与したかと思っていたら、

多分、それには関与しない時期だったようだ。


そうでなければ、3年くらいの短い赴任期間中に

こんなに観光できないはずである。

どうやら日本は,とても魅力的な国のようだった。

たあいのない話しをしているうちに、

アラモの砦に着いた。


有名なジョン・ウェインが監督・主演の

映画≪アラモ≫はここが舞台という。

ここで、アラモの砦(The Alamo)の歴史を

おおまかにまとめておこう。

アラモはスペインのカトリック布教所として

1718年にサンアントニオ

に建設されたスペイン領だった。

19世紀初頭にスペイン軍の騎兵隊が駐屯し、

その要塞を「アラモ」と呼んだ。

メキシコからの独立を画策していた

アングロサクソン系テキサス住民は、
サンアントニオ市を占領した。

1836年に、メキシコ軍隊と

189人のテキサス愛国者が

 

テキサスの土地を守る戦い

で戦死した場所であり、

 

その建物の一部が

スパニッシュミッションに再建された。

この戦いの防衛者には、

 

アラモの戦いで玉砕した

国民的英雄のデヴィー・クロケット
(Davy Crockett)が含まれていた。

 

この戦いの守備隊長トラビスは

今回のATHAの催し

の議長と同じ姓だった。

 

末裔?トラビス公園という広い公園もあった。

さて、

1845年にテキサス帝国が

アメリカ合衆国に合併された後、

 

1846年、テキサス州をめぐって

アメリカーメキシコ戦争が起きる。
1847年、アメリカの勝利。

メキシコはテキサス含め

カリフォルニア、ネバダ、

ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、
ワイオミング、コロラドなど

メキシコ領土の3分の1を失う。

その後のアメリカは

これを機に世界に勢いづいていった。

アラモの砦は南北戦争まで

アメリカ軍の施設として使われ、

 

現在はアメリカの史跡

として残されている。

そして、

 

アラモの砦はテキサス人にとっても、

 

ひいてはアメリカ人にとって

特別の地であり、

 

「アラモを忘れるな」"Remember the Alamo!"

のフレーズは、


愛国心を忘れるなの意味合である。

 

アラモ守備隊の碑




 
部分拡大


 当時使われた大砲


 資料のあるミッション


ミッションにあったアラモの戦いの模型図

壮絶な戦いだったようで、

塀の大砲や銃の跡がナマナマしかった。

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