『変身』の翻訳で解釈が分かれる箇所について、
連載の校正をしてくださっている
岡上容士(おかのうえ・ひろし)さんが、
文章を書いてくださっています。
今回は第11回の分です。
「変身」において
翻訳の解釈が分かれている箇所
(連載の第11回で取り扱われている範囲で)
岡上容士(おかのうえ・ひろし)
※詳しく見ていくと、このほかにもまだあるかもしれませんが、私が気がついたものにとどめています。
※多くの箇所で私なりの考えを記していますが、異論もあるかもしれませんし、それ以前に私の考えの誤りもあるかもしれません。ご意見がおありでしたら、頭木さんを通じてご連絡いただけましたら幸いです。
※最初にドイツ語の原文をあげ、次に邦訳(青空文庫の原田義人〔よしと〕訳)をあげ、そのあとに説明を入れています。なお邦訳に関しては、必要と思われる場合には、原田訳以外の訳もあげています。
※ほかにも、文の一部分や、個々の単語に対して、邦訳の訳語をあげている場合があります。この場合には、『変身』の邦訳はたくさんありますので、同じ意味の事柄が訳によって違った形で表現されていることが少なくありません(たとえば「ふとん」「布団」「蒲団」)。ですが、説明を簡潔にするため、このような場合には全部の訳語をあげず、1つ(たとえば「ふとん」)か2つくらいで代表させるようにしています。
※邦訳に出ている語の中で読みにくいと思われるものには、ルビを入れています。
※中井正文訳は何度か改訂されていますが、一番新しい訳のみを示しています。
※英訳に関しては、今回は、特に示す必要はないと思われた若干の箇所では省略してあります。
※ドイツ語の文法での専門用語が少し出てきますが、これらを1つ1つ説明していますと長くなりますし、ここのテーマからも外れてきます。ですから、これらに関してはご存知であることを前提とします。ご存知でない方でご興味がおありの方は、お手数ですが、ドイツ語の参考書などをご参照下さい。
前回の連載(第10回)に関する拙稿で、mit seinen hart die Front durchbrechenden regelmäßigen Fensternの中のhartをどう解釈するかについて論じ、「『冷厳に』という感じではないかと私(岡上)は思うが、『荒々しく』という感じでもよいかもしれない」という趣旨のことを記しました。詳しくはそこでの拙稿をご覧下さい。「○Es war inzwischen viel heller geworden; ... 」で始まる箇所にあります。
月刊『みすず』6月号が刊行されました!「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」10回目!
これに対して、京都大学の川島隆先生から、Twitterを通じて頭木さんにコメントをいただきまして、hartには「一直線に」という意味や、dichtと同義の「密集して」という意味もあるので、これらの意味での解釈も可能ではないかとのことでした。私は思いもよりませんでしたが、確かに考えられうるかもしれませんね。ご意見に御礼を申し上げます。そのTwitterのリンクは次のとおりです。
https://twitter.com/TakashiKawash10/status/1532109685691518981
○»Nun,« sagte Gregor und war sich dessen wohl bewußt, daß er der einzige war, der die Ruhe bewahrt hatte, »ich werde mich gleich anziehen, die Kollektion zusammenpacken und wegfahren. Wollt Ihr, wollt Ihr mich wegfahren lassen? Nun, Herr Prokurist, Sie sehen, ich bin nicht starrköpfig und ich arbeite gern; das Reisen ist beschwerlich, aber ich könnte ohne das Reisen nicht leben. Wohin gehen Sie denn, Herr Prokurist? Ins Geschäft? Ja? Werden Sie alles wahrheitsgetreu berichten?
「それでは」と、グレゴールはいったが、自分が冷静さを保っているただ一人の人間なのだということをはっきりと意識していた。「すぐ服を着て、商品見本を荷造りし、出かけることにします。あなたがたは、私を出かけさせるつもりでしょうね? ところで、支配人さん、ごらんのとおり、私は頑固じゃありませんし、仕事は好きなんです。商用旅行は楽じゃありませんが、旅行しないでは生きることはできないでしょうよ。ところで、支配人さん、どちらへいらっしゃいますか? 店へですか? 万事をありのままに伝えて下さるでしょうね?(原田義人〔よしと〕訳)
「ところで……」と、グレゴールは口をきりだしたが、いま冷静さを保っていられるのは自分ひとりだということを十分に意識した上のことだ。「わたしはすぐ着換えをして、商品見本を鞄(かばん)へつめこんで出発しますよ。出発さえしたら文句はないんでしょうな。さて、支配人さん、わたしが強情っぱりどころじゃなくて、たいそう仕事好きな人間であることがよくおわかりでしょうね。出張販売もなかなか難儀な仕事でしてね。だが、こいつをやらんことにゃ、生活できませんからな。おや、どちらへいらっしゃるんですか、支配人さん。お店へですか。そうなんでしょうね。ありのままを報告なさるつもりなんでしょうな。(中井正文訳)
① Nunが2箇所で使われています。このように文の冒頭で使われる nun は、状況によっていろいろな意味になりますから、案外訳しにくいですね。ここでは、最初の Nun は話を始めるさいの掛け声のようなもので、「さあ」とか「さて」が妥当ではないかと、私は思います。次の Nun は、訳出していない邦訳も多いのですが、話題を変えるさいに使われる用法で、「ところで」くらいの意味ではないかと思います。ですがこれらのNunに関しては、どの訳が正しくてどの訳が不適切かといったことを論じるほどのものではないとも思いますので、このくらいにしておきます。
②わりあい大きな問題になりそうなのが、Wollt Ihr, wollt Ihr mich wegfahren lassen? です。
まずこの文は、Ihrを強調するために2回繰り返しています。ですから、「あなた方は、あなた方はぼくに出かけてほしいのでしょう」(高安国世訳)のように訳したら感じが出ると思いますが、それはともかくとしまして、これらのIhrは誰のことを言っているのでしょうか。
実を言いますと、この2つのIhrは、本によってはihrとなっているのです。頭木さんと一緒に調べてみましたところ、「変身」の刊行当初はIhrであったのですが、第2版からihrになっています。カフカの親友であったマックス・ブロートが編集したブロート版の全集に収録された「変身」は、初版をもとにしているのですが、ここはなぜかihrとなっています。私は、その後に刊行された「変身」のいろいろな原書を見たわけではありませんが、近年のものでも、第2版やブロート版の影響でihrとなっているものもあるのではないかと思われます。
ちなみに、この第2版――カフカ自身は目を通していなかったという説が有力です――には誤植が多く、第1版よりも信頼度が低いようです。このへんのことは、頭木さんが連載の第1回で詳しく書いておられます。とは言え、それだからこのihrが絶対に誤りであるとまでは断言できないのですが、以下のことを考えていきますと、ここはやはり、Ihrとするのが妥当ではないかなと、私は思います。
まず、一般的なことから見ていきますと、人称代名詞のihrは二人称複数の親称(ごく親しい間柄や[目上であっても]家族で使われる)の一格です。目上の家族に使われる場合にはまた違ってくるでしょうが、一般的な訳語は「君たちは、君たちが」となります。人称代名詞のIhrは、古風な使い方なのですが、二人称単数か複数の敬称の一格で、一般的な訳語は「あなたは、あなたが」、または、「あなた方は、あなた方が」となります。
注:ihrは人称代名詞sie(女性三人称単数の一格)の三格として「彼女に」という意味にも勿論なりますし、Ihrは二人称単数か複数の敬称の所有代名詞として、「あなたの、あなた方の」という意味にもなりますが、ここでは人称代名詞の一格(主語)として使われる場合を見ています。
それで、この疑問文の主語がihrとしますと、ここではグレーゴルの両親だけということになってきます。ですが、これはちょっと不自然ではないでしょうか。ここでは基本的には支配人に対して話をしているのですから、ここだけ両親のみに話をするのは唐突ですし、仮にそうなのでしたら、そのことをはっきりさせるような書き方をするのではないかと思います。この疑問文の主語はやはりIhrで、ここでは支配人と両親の3人に対して、「ぼくに出かけてもらいたいのですよね」という感じで言ったのではないでしょうか。
それで邦訳を見てみますと、主語を「みなさん」とか「みんな」としている訳がかなりありまして、これらはIhrとして訳したのではないかと思われます。ですがその一方で、主語を両親だけとして訳している訳もかなりあるのですが、その訳者が使った原書がihrになっていたものと思われますから、それはそれでやむをえないと思います。
そのほかに、Ihrを単数とみなして、支配人だけとして訳している訳もありますが、ここから先は、支配人のことはすべてSieと言っていますから、この解釈は無理ではないかと思います。
英訳では、ほとんどがyouとしか訳していませんが、you all としている訳が4つあり、これらはやはり、Ihrとして訳したのではないかと思われます。
私は以上のように考えましたが、ご意見がおありの方がおられましたら、お寄せいただけましたら幸いです。
③このJa? に関しては、邦訳では、「そうですか?」という感じの訳と、「そうですね?」という感じの訳とに分かれています。どちらが正しいのかを決める明確な根拠はありませんが、このあたりの雰囲気から考えますと、肯定の答えを前提としていると解した方が自然のように思われますので、後者かなと私は思います。
英訳では、Yes? とだけしている訳が多いですが、[But where are you off to, sir? Back to the firm? / Where are you off to, sir? Back to the office?] Are you?、Is that correct?、Is that right?、Really?、Right?、としている訳もあります。これらはどちらの意味で言っているのかわかりませんが、Joyce Crick訳とJohn R. Williams訳は、[Where are you going, sir? To the firm?(Crick) / To the office?(Williams)] You are? としており、「そうですね?」という意味で言っているものと思われます。
注:Are you? と You are? に関しては、なぜareとなっているのかを示すため、前の2つの文も入れました。
○Man kann im Augenblick unfähig sein zu arbeiten, aber dann ist gerade der richtige Zeitpunkt, sich an die früheren Leistungen zu erinnern und zu bedenken, daß man später, nach Beseitigung des Hindernisses, gewiß desto fleißiger und gesammelter arbeiten wird.
だれだって、ちょっとのあいだ働くことができなくなることがありますが、そういうときこそ、それまでの成績を思い出して、そのあとで障害が除かれればきっとそれだけ勤勉に、それだけ精神を集中して働くだろう、ということを考えるべき時なのです。(原田訳)
今のところ働くのはむりですが、こんなときこそいい機会です。どうか前々からの働きぶりを思い出していただいて、後刻、からださえよくなったら、かならずや倍旧の勤勉さでおくれた分も一度に取り戻すだろうということをお考えいただきたいのです。(高安訳)
nach Beseitigung des Hindernissesは、「障害が取り除かれたら」という感じで訳している邦訳が多いですが、やや直訳調ですね。ですがその一方で、「具合がよくなったら」という感じで訳している訳もかなりあります。グレーゴルの場合には確かにそうでしょうが、この文の主語はmanで、一般的なイメージを前提としていますから、ここまで限定してしまうのもちょっとと思います。もっとも、man = ich となる場合もありますから、そう考えますと「具合がよくなったら」でも不適切とは言えませんが、このように訳すのでしたら、高安訳のように、man = ich という感じが出るように訳した方がよいですね。
私は「問題が解決したら」という訳ではどうかなと思いました。邦訳ではこうしてある訳はありませんが、英訳では3つあります。
余談ですが、種村季弘(すえひろ)訳は、最初の部分を「スランプというものは誰にだってあるものです」としており、原文とはニュアンスが微妙に違ってはいますが、上手だなと思いました。
○Sie wissen auch sehr wohl, daß der Reisende, der fast das ganze Jahr außerhalb des Geschäfts ist, so leicht ein Opfer von Klatschereien, Zufälligkeiten und grundlosen Beschwerden werden kann, gegen die sich zu wehren ihm ganz unmöglich ist, da er von ihnen meistens gar nichts erfährt und nur dann, wenn er erschöpft eine Reise beendet hat, zu Hause die schlimmen, auf ihre Ursachen hin nicht mehr zu durchschauenden Folgen am eigenen Leibe zu spüren bekommt.
あなたもよくご存じのように、ほとんど一年じゅう店の外にいる旅廻(たびまわ)りのセールスマンは、かげ口や偶然やいわれのない苦情の犠牲になりやすく、そうしたものを防ぐことはまったくできないんです。というのも、そういうことの多くは全然耳に入ってこず、ただ疲れはてて旅を終えて帰宅したときにだけ、原因なんかもうわからないような悪い結果を自分の身体に感じることができるんですからね。
①Zufälligkeitのおおもとの意味は「偶然」ですから、勿論こう訳しても構いません。ただ、犠牲になることとの関連を意識してのことと思われますが、それらしく訳している訳もあります。
「不慮の事件(中井訳)」「不慮の災難(高本研一訳)」「不意の出来事(城山良彦訳)」「偶発事件(立川〔たつかわ〕洋三訳)」「思いもかけぬ事件(川村二郎訳)」「思いもかけぬ偶発事(三原弟平〔おとひら〕訳)」「思いがけない事件(丘沢静也〔しずや〕訳、川島隆訳)」「unfortunate coincidences(Eugene Jolas訳)」「ill luck(Willa & Edwin Muir訳の1つ、J. A. Underwood訳)」「bad luck(Muir訳の別の1つ、Karen Reppin訳)」「mishap(Malcolm Pasley訳)」「mischance(Michael Hofmann訳)」
②zu Hauseのことは、前にも検討しました。
ここの第5回の「○»... Die geschäftlichen Aufregungen ...」で始まる箇所にあります。
そこではzu Hauseは「会社で[の」]「店で[の]」(Hausにはこのような意味もありますから)という意味になっていましたが、ここではそうとは言い切れません。
ここでは、多くの邦訳は「自分のうちで」という感じで訳していますが、「会社で」「店で」という意味で訳している訳もあります。あるいは、ここでは旅先から戻って根拠地にいることを強調した表現で、どちらとも言えないということも考えられます。このように判断したのでしょうか、このzu Hauseを訳出していない訳もあります。
英訳では、Nina Wegner 訳だけがat the officeとしている以外は、home(副詞として)、at kome、back home と訳しているか、訳出していないかのいずれかです。
私個人としましては、am eigenen Leibeという表現から考えますと、家に帰ってから、より痛切に感じるようになったというイメージもありうるかなと思いましたが、絶対に正しいとは勿論言えません。
ここははっきりとは断定できませんので、読者の好みで解釈してよろしいのではないかと思います。
○Schon war er im Vorzimmer, und nach der plötzlichen Bewegung, mit der er zum letztenmal den Fuß aus dem Wohnzimmer zog, hätte man glauben können, er habe sich soeben die Sohle verbrannt.
彼はついに玄関の間(ま)までいった。そして、彼が最後の一足を居間から引き抜いたすばやい動作を見たならば、この人はそのときかかとにやけどをしたのだ、と思いかねないほどだった。
Vorzimmerの訳語に関しては、連載の第9回に関する拙稿の、○»Haben Sie auch nur ein Wort verstanden?« で始まる箇所の③で考察しています。グレーゴルの家の間取りに関する参考文献も、そこに記してあります。
「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」9回目!月刊『みすず』4月号が刊行されました
これは解釈の違いとはちょっと異なりますが、ややわかりにくい事柄ですのでここで取り上げておきます。zum letztenmal den Fuß aus dem Wohnzimmer zog という表現はちょっと引っかかりますが、「最後に足を居間から引き抜いた」としか解しようがないですね。
邦訳もこのような直訳調が多いのですが、「居間から抜けだす最後の一歩の[、とびあがるような動き](菊池武弘訳)」「居間を出かかった(池内紀〔おさむ〕訳)」「リビングを出る最後の1歩だけ[、突然すばやくなった](丘沢訳)」「あと一歩というところで、[急な動きで]リビングの床を蹴(け)った(真鍋宏史訳)」「最後の一歩を踏み出して居間から出た(田中一郎訳)」「居間から出る最後の一足が[急に加速したので](川島訳)」といった訳もあります。
英訳も多くが直訳していますが、took his last step from(またはout of) the living room などのように、「居間から最後の歩みを踏み出した」という感じにしている訳はいくつかあります。
○Im Vorzimmer aber streckte er die rechte Hand weit von sich zur Treppe hin, als warte dort auf ihn eine geradezu überirdische Erlösung.
で、玄関の間では、右手をぐっと階段のほうにのばし、まるで階段ではこの世のものではない救いが自分を待ってくれているのだ、というような恰好だった。 ①weit von sichは、直訳しますと「自分から遠く離して」となりますね。邦訳では、ある訳が「わが身から遠くはなして」と直訳している以外には、「ぐっと(これが多いです)」「うんと」「大きく」「思い切り」「さっと(これはニュアンスが違うと思います)」「長く」「ながながと」「伸ばせるだけ」「まっすぐ」としています。
英訳はほぼすべて直訳(as far as he could、as far as it could go、away from his body、far [out]、far [out] in front of himなど)していますが、Will Aaltonen訳はblindlyとしています。
②geradezuはüberirdischの意味を強めています。邦訳では、特に訳出していないか、「それこそ」「まさしく」「まさに」「まったく」と訳しているかです。川村訳はeine geradezu überirdische Erlösungを「およそこの世ならぬ救い」と訳しており、文語的ですが上手だなと思いました。
英訳では、特に訳出していないか、quite か truly と訳しているか、nothing less than an unearthly deliverance (Stanley Corngold訳)、some almost supernatural deliverance (Underwood訳)、nothing short of divine deliverance (Reppin訳)、an almost supernatural deliverance (Richard Stokes訳)、nothing less than deliverance from heaven (Crick訳)、some all but supernatural salvation (Susan Bernofsky訳)、nothing less than heavenly salvation (Katja Pelzer訳)のように、「ほとんど...も同然」という感じで訳しているかです。geradezu には「ほとんど...も同然」という意味もありますが、邦訳ではこの意味で訳している訳は1つもありません。
どちらの意味が正しいのかは断定できませんが、überirdische Erlösungという語句からは非常に強い印象を受けますから、この geradezu も überirdisch の意味を強めているのではないかと、私は思いました。
○Gregor sah ein, daß er den Prokuristen in dieser Stimmung auf keinen Fall weggehen lassen dürfe, wenn dadurch seine Stellung im Geschäft nicht aufs äußerste gefährdet werden sollte.
支配人をどんなことがあってもこんな気分で立ち去らせてはならない。そんなことをやったら店における自分の地位はきっとぎりぎりまであぶなくなるにちがいない、とグレゴールは見て取った。(原田訳)
どうあっても支配人を、こんな気分で帰させてはならない、そんなことをしたなら、店での自分の地位は、もう風前のともしびになってしまう、とグレゴールは見てとった。(辻瑆〔ひかる〕訳)
ここも解釈の違いとは異なりますが、辻訳はとてもお上手と思い、感心しましたので、ここでご紹介しておきます。
○Wäre doch die Schwester hier gewesen! Sie war klug; sie hatte schon geweint, als Gregor noch ruhig auf dem Rücken lag. Und gewiß hätte der Prokurist, dieser Damenfreund, sich von ihr lenken lassen; sie hätte die Wohnungstür zugemacht und ihm im Vorzimmer den Schrecken ausgeredet. Aber die Schwester war eben nicht da, Gregor selbst mußte handeln.
ああ、妹がこの場にいてくれたらいいのに! 妹はりこう者だ。さっきも、グレゴールが落ちつき払って仰向(あおむ)けに寝ていたとき、泣いていた。それに、女には甘いあの支配人も、妹にくどかれれば意見を変えるだろう。妹なら玄関のドアを閉め、玄関の間で支配人の驚きを何とかなだめたことだろう。ところが、妹はちょうど居合わせず、グレゴール自身がやらなければならないのだ。
ここの文章は、動詞が過去形になっているにもかかわらず、1箇所を除いて現在形のように訳されています。これはなぜかと言いますと、ここの文章が「体験話法」になっているからです。体験話法に関しては、次の題名の頭木さんのブログで詳しく記してありますので、ご興味がおありでしたらご覧下さい。
「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」6回目!月刊『みすず』8月号が刊行されました
なお、ここの体験話法に関しては、終わりの方の「ドイツ語の体験話法に関しての補足」で、ここの前の文章も含めて詳しく検討しています。
これも解釈の違いとはちょっと異なりますが、少し難しい1箇所(Und gewiß hätte der Prokurist, dieser Damenfreund, sich von ihr lenken lassen; ...)についてだけ、手短に記しておきます。
「sich+動詞の不定形(原形)+lassen」で、非常にいろいろな意味になりますが、それらをすべて記していますと長くなりますし、本稿の趣旨からも外れてきますので省略します。ここでは「...されうる」という意味になっています。そして、接続法が使われていますから、直訳しますと、「そして、支配人、つまり、女性にやさしいこの人は、きっと彼女によって制御されうるだろう」となり、後半を意訳しますと、「きっと彼女の言うことは何でも聞くだろう」とか、「きっと彼女の言いなりになるだろう」のようになります。邦訳でもさまざまに訳されていますが、解釈の違いということではありませんので、ここではあげません。英訳ではほとんどが直訳していますが、C. Wade Naney訳だけはCertainly she could divert the manager, a ladies’ man, from leaving; ... としています。
○Und ohne daran zu denken, daß er seine gegenwärtigen Fähigkeiten, sich zu bewegen, noch gar nicht kannte, ohne auch daran zu denken, daß seine Rede möglicher- ja wahrscheinlicherweise wieder nicht verstanden worden war, verließ er den Türflügel; schob sich durch die Öffnung; wollte zum Prokuristen hingehen, der sich schon am Geländer des Vorplatzes lächerlicherweise mit beiden Händen festhielt; fiel aber sofort, nach einem Halt suchend, mit einem kleinen Schrei auf seine vielen Beinchen nieder.
そこで、身体を動かす自分の現在の能力がどのくらいあるかもまだ全然わからないということを忘れ、また自分の話はおそらくは今度もきっと相手に聞き取ってはもらえないだろうということも忘れて、ドア板から離れ、開いている戸口を通って身体をずらしていき、支配人のところへいこうとした。支配人はもう玄関の前のたたきにある手すりに滑稽な恰好で両手でしがみついていたのだった。ところが、グレゴールはたちまち、何かつかまるものを求めながら小さな叫びを上げて、たくさんの小さな脚を下にしたままばたりと落ちた。
nicht verstanden worden war は受動態ですが、過去完了形になっていますので、「もらえない」ではなく「もらえなかった」としなくてはいけませんが、全体的には上手に訳していると思います。
①schob sich durch die Öffnungはどのような意味なのでしょうか。sich schiebenは、辞書には「ゆっくり動く」といった意味が載っていますから、それに従いますと(もたれて立っていた一方のドアを離れて)「ドアとドアの間をゆっくり通って行った」のようになりますが、ここでは逐語訳的に解釈して、「自分の身体を、ドアとドアの間に押し入れて通って行った」というような意味であるとも考えられます。
邦訳でもそのように解釈が分かれています。英訳では、[he let go of the doorpost] to glide through the opening [and overtake the manager]としているA. L. Lloyd訳と、went through the doorsとしているMary Fox訳以外は、すべてが後者の意味に解しています。次の②であげた英訳もご参照下さい。
ここもどちらが正しいのかは断定できませんが、これまでの経過から考えますと、あまり順調に進んでいるようなイメージではありませんので、後者かなと私は思いました。
②それから、グレーゴルはドアとドアの間から出たとたんに、支えを失って倒れ込んでしまったのでしょうか。あるいは、少し進んだのでしょうか。wollte zum Prokuristen hingehenは、普通に考えますと、「支配人のところへ行こうと思った」「支配人のところへ行きたかった」などと訳せますから、思っていただけで進んではいないと解すべきなのかもしれませんが、私はもしかしたら、少し進んでいたのかもしれないと思いました。
それは、wollenには「...しようとしている」という意味もありますから、ここでは「支配人のところへ行こうとし[て歩き出してい]た」とも解釈できるかもしれないと思ったためと、ドアを離れたとたんに倒れ込んでしまったのであれば、脚に対してそこまで感謝の気持ちを抱くとは、ちょっと考えにくいとも思ったためです。
邦訳では、進んだと解せるような訳は1つもありませんでした。ですが英訳では、進んだとみなしている訳もあります。前の方も含めて抜粋しますと、
... , he let go the wing of the door, pushed himself through the opening, started to walk toward(本によってはtowards) the chief clerk, who ... (Muir訳)
... , he let go of the section of the door and pushed himself through the opening; he started to walk toward the chief clerk, who ... (Reppin訳)
... , he left the shelter of the half-door and pushed through the opening, making for the chief clerk, who ... (Hofmann訳)…pushのあとには、もとの英文でもhimselfは入っていません。pushには自動詞で「押し進む、突き進む、前進する」という意味がありますので、ここでは自動詞として使われているものと思われます。ほかの英訳にもこうなっているものがあります。
... ; Gregor let go of the door, shoved himself through the opening, and started toward the procurator, who ... (Charles Daudert訳)…進んだとみなしているのかどうかは、ちょっと微妙ですが。
But, emitting a little cry, Gregor promptly fell, searching for a foothold as he came to a landing on his many little legs. (Naney訳)…これは勿論、このあとの文ですが、came to a landingとありますから、ここまで進んだとみなしていますね。ここまで進むのはちょっと不自然な感じもしますが。
しかしながら、改めて前の方を読み直してみましたが、グレーゴルはベッドから離れてからドアのところまで、(スムースな動きでは決してありませんでしたが)既に移動していますね。このことも考え合わせて脚に感謝したとみなしますと、一概におかしいとは言えないかもしれません。
これはやはり、私の勇み足でしたかもしれませんが、ご意見がおありでしたらお寄せいただけましたら幸いです。
○Kaum war das geschehen, fühlte er zum erstenmal an diesem Morgen ein körperliches Wohlbehagen; die Beinchen hatten festen Boden unter sich; sie gehorchten vollkommen, wie er zu seiner Freude merkte; strebten sogar darnach, ihn fortzutragen, wohin er wollte; und schon glaubte er, die endgültige Besserung alles Leidens stehe unmittelbar bevor. Aber im gleichen Augenblick, als er da schaukelnd vor verhaltener Bewegung, gar nicht weit von seiner Mutter entfernt, ihr gerade gegenüber auf dem Boden lag, sprang diese, die doch so ganz in sich versunken schien, mit einem Male in die Höhe, die Arme weit ausgestreckt, die Finger gespreizt, rief: »Hilfe, um Gottes willen Hilfe!,« hielt den Kopf geneigt, als wolle sie Gregor besser sehen, lief aber, im Widerspruch dazu, sinnlos zurück; ...
そうなるかならぬときに、彼はこの朝はじめて身体が楽になるのを感じた。たくさんの小さな脚はしっかと床を踏まえていた。それらの脚は完全に思うままに動くのだ。それに気づくと、うれしかった。それらの脚は、彼がいこうとするほうへ彼を運んでいこうとさえするのだった。そこで彼は早くも、いっさいの悩みはもうこれですっかり解消するばかりになったぞ、と思った。だが、その瞬間、抑えた動きのために身体をぶらぶらゆすりながら、母親からいくらも離れていないところで母親とちょうど向かい合って床の上に横たわったときに、まったく放心状態にあるように見えた母親ががばと高く跳(と)び上がり、両腕を大きく拡(ひろ)げ、手の指をみんな開いて、叫んだのだった。「助けて! どうか助けて!」 まるでグレゴールをよく見ようとするかのように、頭を下に向けていたのだが、その恰好とは逆に思わず知らずうしろへすたすたと歩いていった。
ここに関しては、他訳(検討する箇所の訳のみ)は、これからの解説の中であげるようにします。
Aber im gleichen Augenblick, als er da schaukelnd vor verhaltener Bewegung, gar nicht weit von seiner Mutter entfernt, ihr gerade gegenüber auf dem Boden lag, の部分は、一見それほど難しくはなさそうですが、特に邦訳では解釈が大きく分かれています。ここでも、lag――この訳もいろいろ考えられますが、グレーゴルのこのときの状態から言いますと、「腹這(はらば)いになっていた」などの訳語がよいかと思います――の状態になるまでに、グレーゴルが進んでいたのかいなかったのかという点で、解釈の違いが見られるのです。
(1)比較的多いのは
※schaukelndは、schaukelnの現在分詞ですが、「揺れながら」という意味であり、あとのlagにかかっている。
※グレーゴルは、床にへたりこんでからは、まだ前進していない。
という解釈です。
だがその瞬間、急ブレーキをかけた車のようにゆらゆらしながら、母親からあまり遠くないところの床に彼が脚をふんばって、まともに母親に顔をつき合わした格好になったと思うと、... (高安訳)
ところが、そのとき、つまりはちょっと動きをおさえてからだをゆすぶり、母親のところからそれほど遠くはなれていないあたりの床の上に、対面するようなかっこうで四つんばいになったとたん、... (川崎芳隆訳)
はやる気持を抑えて前後にからだをゆすりながら、彼は床に横たわっていた。すぐ前に母がいた。(池内訳)
だが、母親からそう遠くない場所で、真正面の床でゆっくりと体を揺すっていると、ちょうどその瞬間、... (真鍋訳)
だが彼が控えめな動きで体を揺すってみせた同じとき、彼は母親からさほど離れていないところ、ちょうど床の反対側の位置にいたのだが、... (田中訳)
lagの訳し方などに違いはありますが、原田訳やこれらの訳はこのように解していると考えられます。
英訳はほとんどがこのように解しています。
But at that very moment, as he lay on the floor rocking with repressed motion, not far from his mother and just opposite her, ... (Corngold訳)
このように解している他の英訳も、(rockingではなくswayingとしているなどの)微妙な違いはいろいろありますが、基本的にはこれとほとんど同じですから、例はこれだけにします。
また、邦訳、英訳ともに、Bewegungを「動き」のようにしている訳と、「動きたい気持ち」のようにしている訳とがあります。Bewegungには物理的な動きという意味だけではなく、心の動きという意味もありますから、どちらの解釈も成り立つかとは思われますが、Bewegungだけで「動きたい気持ち」とまで言ってしまえるのかなという感じも、私はします。ですが結局は、そのような気持ちによって動きが抑えられることになるわけですから、意味が大きく変わってくるわけではありませんね。
それから、vor verhaltener Bewegungに関しては、上記のBewegungの解釈の違いは別として、おおむねは直訳している訳が多いのですが、中には何らかの意味合いを出している訳もあります。
ところが、彼がはやる心を抑えて、じっとしていられずにからだを揺りながら、母親のすぐそばにちょうど向きあって床の上に四つん這(ば)いになったその瞬間、... (山下肇〔はじめ〕訳)
けれどもその瞬間、つまり動きだそうとする身体を抑えきれずに貧乏揺すりしながら、母親から遠からぬ場所でちょうど向かい合わせに床の上で倒れていた瞬間、... (川島訳)
この2つの訳は、進みたいけれどもうまく行かないので、身体がついこのように動いてしまっていると解していますね。
しかしおなじその瞬間、母親のすぐそばで、近寄ろうとはやる気持を抑えるあまり、ゆらゆらしながら、相手の真向いの床に腹這ったとき、... (城山訳)
はっきりとは書かれていませんが、急に近寄って母親をこわがらせてしまうことを心配したと解したとも、考えられますね。
しかし、グレーゴルが身体をゆすりながら静かに動き出す前に、母親のすぐそばに、ちょうど母親の真正面の床の上に腹這いになっていたとき、ちょうどその同じ瞬間に、... (野村廣之訳)
この訳ではvorを原因の意味ではなく、文字通り「(時間的な意味で)...の前に」の意味と解し、動き出す前にこのように身体を揺すっていたと考えていますね。
英訳ではほぼ全部が、直訳、あるいは、砕いて訳してはいても、もとの意味と同じように訳しています。ですが、
But at that very moment, while he was still swaying from his initial impetus, not far from his mother and just in front of her on the ground, ... (Hofmann訳)
この訳は「もともとあった衝動のために(→衝動を抑えきれずに)」という意味合いを出していますね。
(2)schaukelndが「揺れながら」を意味していることは(1)と同じなのですが、実はグレーゴルは既に動き出していて、ここで動きを止めたために(vor verhaltener Bewegung)身体がゆらゆらした、と解している訳もあります。
だが、その同じ瞬間、彼はきゅうに前進をやめたためによろめいて、母親からいくらも離れていない真ん前の床の上へ転がってしまった。すると、...(中井訳)
だが、母のすぐそばまできて、動きをぐっと抑えたために揺れる身体を、ちょうど真向いに横たえた、まさにその瞬間、...(川村訳)
だがその瞬間、母親のそばを通ることになった。動きをゆるめたので、からだが揺れる。母親の真正面で床に寝そべった。(丘沢訳)
この場合には、彼はいったん進んでからlagの状態になったのですから、必ずしも「腹這いになった」と訳す必要はなくなりますが、auf dem Bogen lagを「床の上へ転がってしまった」と訳すのはちょっと無理かと思います。
But at that very instant, rocking back and forth as he contained his forward propulsion for a moment, he had come very close to his mother, directly opposite her on the floor. (Stanley Appelbaum訳)
He scuttled up to his mother and began rocking back and forth. (Aaltonen訳)…gar nicht weit von seiner Mutter entfernt, ihr gerade gegenüber auf dem Boden lag, は全く訳出されていませんし、あまりに簡単すぎる訳ですが、一応はこのように解していると思われます。
(3)schaukelndのような現在分詞は、「...しながら」という意味が一番基本的なのですが、ときには「...してから」という意味になることもあります。また、schaukelnには、「揺れる」という意味のほかに、「揺れながら進む」という意味もあります。このように考えますと、「彼はゆらゆらしながら進んできてから、lagした」のように解されます。
ところが彼がそのままからだを揺すりながら母親のそぐそば、ちょうど向かいあう床にまで来て、もう進むのはやめて這いつくばった、ちょうどそのときのことだったが、... (山下肇・萬里〔ばんり〕訳)
ところが、グレゴールが身体をひかえめに揺すりながら、母親からあまり離れていないところに辿り着いた時、...(多和田葉子訳)
vor verhaltener Bewegungの解釈だけは違っていますが、この2つの訳は明らかにこの解釈をしていますね。
He lay on the floor, wobbling because of his checked movement, not that far from his mother[, who seemed altogether self-absorbed]. (Joachim Neugroschel訳)…wobbleには「揺れる」という意味も「揺れながら進む」という意味もありますから、あるいは(1)のつもりで訳したのかもしれませんが、一般的なrockやswayを使わずに、わざわざこの語を選択していますので、ここにあげておきました。
このほかに、auf dem Boden lagは訳出されていませんが、明らかに進んでいたと解している英訳もあります。
He began to move forward when his mother, who was in front of him, suddenly jumped up. (Wegner訳)
But at the moment when Gregorio began to advance slowly, balancing at the ground level, not far and in front of his mother, ... (英語に問題が多いので『変身』の英訳リストには入れていませんが、某訳)
(1)(2)(3)の解釈のいずれが正しいのかは、私には断定できません。ただ、(2)や(3)の解釈も文法的には成り立たないことはないのですが、個人的には(1)のように解するのが一番自然ではないかと思いました。
あと少しだけ、補足をしておきます。
※sie gehorchten vollkommen, wie er zu seiner Freude merkte; strebten sogar darnach, ihn fortzutragen, wohin er wollte; ... は、(1)に解するのでしたら、実際に動き出しているのではなく、脚に対する感謝の気持ちを表現していると考えられます。ですが、(2)か(3)に解するのでしたら、感謝の気持ちを表現しているだけではなく、実際にここで動き出したと考える方が自然になりますね。しかしながら、(2)か(3)に解している諸訳において、ここを感謝の気持ちの表現だけと解しているのか、実際にここで動き出したとも解しているのかは、邦訳、英訳ともに、訳文を読んだだけではわからないものがほとんどです。ですから、訳はあげずに、こうして指摘をするだけにとどめておきます。
※(1)であげた原田訳、山下肇訳、城山訳は、私は(1)のように解したのではないかと思いました。ですが、「横たわった」→「横たわっていた」、「四つん這いになった」→「四つん這いになっていた」、「腹這った」→「腹這いになっていた」となっていれば、(1)の解釈であることは明確なのですが、そうなってはいませんから、あるいは(3)のように、ゆらゆらしながら進んできて、そのような状態になったとも、解せないことはありません。念のために。
○»Mutter, Mutter,« sagte Gregor leise, und sah zu ihr hinauf. Der Prokurist war ihm für einen Augenblick ganz aus dem Sinn gekommen; dagegen konnte er sich nicht versagen, im Anblick des fließenden Kaffees mehrmals mit den Kiefern ins Leere zu schnappen. Darüber schrie die Mutter neuerdings auf, flüchtete vom Tisch und fiel dem ihr entgegeneilenden Vater in die Arme.
「お母さん、お母さん」と、グレゴールは低い声で言い、母親のほうを見上げた。一瞬、支配人のことはまったく彼の念頭から去っていた。そのかわり、流れるコーヒーをながめて、何度か顎(あご)をぱくぱく動かさないではいられなかった。それを見て母親は改めて大きな叫び声を上げ、テーブルから逃げ出し、かけていった父親の両腕のなかに倒れてしまった。(原田訳)
「お母さん、お母さん」 そうグレゴールは小声でよんで、下から見上げた。支配人のことはその瞬間、まったく念頭になかった。流れ落ちるコーヒーをふり仰ぎながら、あごをゆるめて何度もぱくぱくっと舌なめずりをした。すると、母親はまた悲鳴をあげて、テーブルから飛びはなれて逃げだし、駆け寄ってきた父親の腕の中へとびこんだ。(中井訳)
「お母さん、お母さん」と、グレーゴルは小声で呼びながら母親を見あげた。支配人のことは一瞬念頭から消えていた。それでいて、流れるコーヒーを見ると、何度も宙にむかって顎をぱくぱくせずにはいられなかった。そのため、母親はあらためて悲鳴をあげると、テーブルのところからも退散して、駆け寄ってきた父親の腕のなかに倒れこんだ。(立川訳)
① im Anblick des fließenden Kaffees mehrmals mit den Kiefern ins Leere zu schnappen の部分を、グレーゴルがコーヒーを実際に飲んでいるように訳している訳もありますが、これはとても無理ではないかと私は思います。顎をぱくぱくと動かしていた先は ins Leere であり、これのもともとの意味は「虚空(こくう)に向かって」ですから。グレーゴルは身体を思うように動かせなかったために、飲もうにも飲めなかったという状況を言っているのではないかと思います。
②これも解釈の違いとはちょっと異なりますが、ここで取り上げておきます。最後の文の冒頭の Darüber は、どのような意味なのでしょうか。
「da(母音で始まる前置詞の場合にはdar)+前置詞」という形はよく出てきますが、一般的には「前置詞+代名詞(da[r]に該当する部分)」の代わりとして使われ、この代名詞は前に出てきた名詞の代わりをしています。たとえば、Er nahm den Brief und und ging damit(=mit ihm =mit dem Brief) zur Post.(彼は手紙を手に取りそれを持って郵便局へ行った。小学館『独和大辞典』より。例文中のカッコ内は岡上が追加)のように使われます。
ですが、この da[r] が前の文(ときには、あとに出てくる文や zu 不定詞句)の内容を受けることもあります。文法的には人称代名詞の es の代わりをしているのですが、この場合には「前置詞+ihm(es の3格) 」や「前置詞+es(es の4格)」となることはなく、「da[r]+前置詞」の形でしか使われません。たとえば、Er ist ein Säufer, dagegen trinkt sein Sohn gar nicht.(彼は大酒飲みだが(これに反して)息子はちっとも飲まない。前掲書より)のように使われます。
この Darüber も、これと同じ使い方です。前置詞の über にはいろいろな意味がありますが、ここでは「...のために」という意味で原因を表わしており、この Darüber は「その(前の文の内容の)ために」という意味になります。ですが邦訳では、立川訳のように文字どおりこのように訳している訳もありますが、おおむねは「それを見て」とか「それを見ると」とかいったように訳しており、この方が日本語らしいかもしれませんね。
英訳でも面白いことに、At that もしくは At this ――英語の前置詞の at は、「...を見て」とか「...を聞いて」とかいった意味になることがありますね――としている訳が多いですし、Upon seeing this, (Fox訳) としている訳もあります。ですが中には、あとの部分も含めて That made his mother scream again, (Muir訳、Daudert訳)、This made his mother scream again, (Appelbaum訳)、This prompted the mother to scream again, (Neugroschel訳)、This caused the mother to scream again; (Donna Freed訳)、That set his mother screaming anew, (David Wyllie訳) のようにして、因果関係をはっきりさせている訳もあります。
③ fiel の不定形(原形)は fallen で、「倒れる」という意味が一般的であり、ここでも「倒れた」と訳している訳もありますが、父親の腕に受け止められているわけですから、ちょっとどうかなと思います。「倒れかかった」とか「倒れ込んだ」としている訳もあり、これでしたらまあ構わないと思いますが。
ですが、ここで使われているような fallen は、「倒れる」という意味とはちょっと違い、方向を示す語句とともに用いられて、「...に飛びつく、飛びかかる」といったような意味になっています。また、一部の辞書では、 jm(人の3格)in die Arme fallen は慣用句のように扱われており、「ある人の腕の中に跳び込む」「ある人に抱きつく」「ある人の腕の中に身を投げる」などといった訳語が出ています。
邦訳では、「とびこんだ」としている中井訳のほかに、高安訳では「[父親の腕のなかへ]とび込んだ」、川島訳では「[父親に]抱きとめられた」としています。
○Gregor nahm einen Anlauf, um ihn möglichst sicher einzuholen; der Prokurist mußte etwas ahnen, denn er machte einen Sprung über mehrere Stufen und verschwand; »Huh!« aber schrie er noch, es klang durchs ganze Treppenhaus.
グレゴールはできるだけ確実に追いつこうとして、スタートを切った。支配人は何か勘づいたにちがいなかった。というのは、彼は何段も一足跳びに降りると、姿を消してしまったのだった。逃げていきながらも、「ひゃあ!」と叫んだ。その叫び声が建物の階段部じゅうに響いた。(原田訳)
その支配人にできるだけ確実に追いつこうと、グレーゴルはスタートをきった。が、相手も何事か悟ったらしく、階段を一気に数段とびおりて姿を消した。それでも、「ひゃあ!」と最後に叫んだ声が階段全体に残っていた。
(立川訳)
なんとかして追いつこうと、グレゴールはスタートを切る。はっと気づくところがあったのか、支配人はいっきに階段を数段にかけおりて、姿はすでに消えていた。だがなおも残していった「ひいっ」という声は、階段の上にも下にもつつぬけにひびき渡った。(川崎訳)
Treppenhaus は、辞書では「階段坑(こう)」「階段室」「階段通路」「階段のある広間」「階段の間(ま)」「階段部」「階段吹き抜き」などと訳されており、邦訳でも、単なる「階段」のほかに、「アパートの階段」「家の中の階段」「階段口」「階段室」「階段の空間」「階段部」「階段吹き抜け」「昇降口」「建物の階段部」「建物の階段部分」「吹抜き」「吹き抜けの階段室」など、さまざまに訳されています。
ここではごく簡潔に言いますと、Treppenhaus とは、階段の上の空間や天井も含めて、階段がある場所全体を意味していると考えてよいと思います。ですが、それらしく訳そうとしますと、かえって読者にはわかりにくくなるかもしれませんので、あっさり「階段」と訳してもよいのではないかと、私は思います。川崎訳は「階段」とだけ訳しながらも、Treppenhaus のニュアンスも上手に出して訳していると思いました。
○([長くなりますので、この前の文は省略しますが、]父親がグレーゴルを彼の部屋に追い返そうとしたのに対して:)Kein Bitten Gregors half, kein Bitten wurde auch verstanden, er mochte den Kopf noch so demütig drehen, der Vater stampfte nur stärker mit den Füßen.
グレゴールがいくら頼んでもだめだし、いくら頼んでも父親には聞き入れてもらえなかった。どんなにへりくだって頭を廻(まわ)してみても、父親はただいよいよ強く足を踏み鳴らすだけだ。
er mochte den Kopf noch so demütig drehen ですが、mochte の不定形(原形)は mögen であり、ここではnoch so と一緒になって、「どれほど...しても」という意味になりますから、原田訳のような訳で全く正しいです。しかしながら、「へりくだって頭を廻し」たとは、よく考えてみますと、どうもイメージしにくいですね。
実は正直なところ、この箇所の正しい解釈は私にもよくわかりませんので、知人に求めた意見や、頭木さんにいただいた別のご意見を参考にさせていただきます。私が今できる範囲で検討をしておいてから、これらのご意見をご紹介しますが、これら以外の解釈をお考えの方がおられましたら、ご連絡いただけましたら幸いです。
「首を動かしてみても」「頭をうごかしても」「頭を低くして[へりくだったのであるが]」「首を曲げて[どれほど恭順の意をあらわそうと]」「頭を下げても」「頭を傾けようとするのだが」としている邦訳もありますが、drehen はあくまでも「回す」という意味ですから、このように訳すことはちょっと無理ではないかと、私は思います。
英訳では、たとえば however(または、no matter how) humbly he turned his head, ... のように、直訳している訳が多いのですが、中には動詞に turned を使わずに、bent、bowed、hung、inclined、lowered、(his headなどの目的語を入れずに)nodded を使っている訳もあり、邦訳の状況と似ていますが、やはり drehen をこのように訳すことは無理ではないかと思います。
中井訳は「あきらめて素直に頭を自分の部屋の方向へまわすと」としており、mochte ... noch so の意味が全く出ていないことは別として、ここだけで見ますとぴったり当てはまりそうなのですが、このあと(頭木さんの連載で訳されるのは次回になります)で、グレーゴルにはこのような動きはできなかったという趣旨のことが書かれていますから、残念ながら違うようです。
それで、知人の意見では、父親が何を言っても聞いてくれないので、(へりくだったと言うよりも)あきらめた気持ちになって、頭を回すような動作をしたのではないかとのことでした。ちなみに中井訳でも、ここ全体の解釈の可否はさて置いて、demütigを「あきらめて」と訳しています。また demütig は、どの独和辞書を見ましても「へりくだった」「謙遜した」といったような意味しか出ていませんが、ドイツの大きな辞書には、「あきらめた」とも解せるような語義――たとえば、ergeben(この場合は形容詞で、「へりくだった」という意味もありますが、「あきらめた」という感じの意味もあります)とか、ohne Geltungsbedürfnis(「自分を認めてほしいという欲求がない」という感じの意味ですね)――が出ているものもあります。
また、頭木さんに寄せられたご意見では、「どんなにへりくだった顔を[父親に]向けても」という意味かもしれないとのことでした。ただ、このように言いたいのでしたら、er mochte den Kopf(あるいはむしろ、das Gesicht?) noch so demütig nach dem(または、seinem) Vater wenden ――より逐語訳的には、welch [ein] demütiges Gesicht (または、welches demütige Gesicht) er auch nach dem(または、seinem) Vater wenden mochte ――などのように言うのではないかとも思いますが、もとの er mochte den Kopf noch so demütig drehen でも、このように解釈することができないわけではありませんから、これも1つの解釈として考えられますね。
ご意見をお聞かせ下さったお二方に御礼を申し上げます。
ドイツ語の体験話法に関しての補足:ドイツ語の体験話法における、接続法の時称の変化についてなど(「変身」の連載の第11回で取り扱われている範囲で)
岡上容士(おかのうえ・ひろし)
※ドイツ語の体験話法に関しては、次の題名の頭木さんのブログで詳しく説明しています。
「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」6回目!月刊『みすず』8月号が刊行されました
※ドイツ語の接続法が使われている箇所を取り上げての説明になります。ですが、「ドイツ語の接続法とはどのようなものか」といったことから説明していますと非常に長くなりますし、ここのテーマからも外れてきます。ですから、ドイツ語の接続法に関してはご存知であることを前提とします。ご存知でない方でご興味がおありの方は、お手数ですが、ドイツ語の参考書などをご参照下さい。
※最初にドイツ語の原文をあげ、次に邦訳(青空文庫の原田義人〔よしと〕訳)をあげ、そのあとに必要に応じて原田訳以外の訳もあげ、さらにそのあとに説明を入れています。
※邦訳に出ている語の中で読みにくいと思われるものには、ルビを入れています。
※ご意見がおありでしたら、頭木さんを通じてご連絡いただけましたら幸いです。
本論に入る前に、体験話法における、接続法の時称の変化に関しての、一般的な説明が必要なのですが、それは前回の第10回に対する拙稿「ドイツ語の体験話法に関しての補足:ドイツ語の体験話法における、接続法の時称の変化についてなど(「変身」の連載の第10回で取り扱われている範囲で)」の中でしました。ここにそれを全部再録すると内容が重複しますので、再録はいたしません。初めてお読みになる方は、お手数ですがそちらをご参照下さい。
月刊『みすず』6月号が刊行されました!「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」10回目!
ただ、要点だけをここに記しておきます。
※登場人物が思っている内容が接続法で言われている場合には、体験話法になってもそのままにされることが多いが、現在形の接続法が過去形の接続法に変えられることもある。
※現在形の接続法が、体験話法になったさいにそのままにされるか、過去形に変えられるかということに関しては、特に規則があるわけではなく、作者の好みによると言ってよいと思われるが、中にはそれなりに理由があると考えられる場合もある。
それで、今回の第11回でも、「現在形の接続法が、体験話法になったことにより、過去形の接続法に変えられた例」が出てきていますので、見てみることにしましょう。
Die Eltern verstanden das alles nicht so gut; sie hatten sich in den langen Jahren die Überzeugung gebildet, daß Gregor in diesem Geschäft für sein Leben versorgt war, und hatten außerdem jetzt mit den augenblicklichen Sorgen so viel zu tun, daß ihnen jede Voraussicht abhanden gekommen war. Aber Gregor hatte diese Voraussicht. Der Prokurist mußte gehalten, beruhigt, überzeugt und schließlich gewonnen werden; die Zukunft Gregors und seiner Familie hing doch davon ab! Wäre doch die Schwester hier gewesen! Sie war klug; sie hatte schon geweint, als Gregor noch ruhig auf dem Rücken lag. Und gewiß hätte der Prokurist, dieser Damenfreund, sich von ihr lenken lassen; sie hätte die Wohnungstür zugemacht und ihm im Vorzimmer den Schrecken ausgeredet. Aber die Schwester war eben nicht da, Gregor selbst mußte handeln.
両親にはそうしたことが彼ほどにはわかっていないのだ。両親は永年のうちに、グレゴールはこの店で一生心配がないのだ、という確信を築き上げてしまっているし、おまけに今は当面の心配ごとにあんまりかかりきりになっているので、先のことなど念頭にはない始末だった。だが、グレゴールはこの先のことを心配したのだ。支配人を引きとめ、なだめ、確信させ、最後には味方にしなければならない。グレゴールと家族との未来はなんといってもそのことにかかっているのだ! ああ、妹がこの場にいてくれたらいいのに! 妹はりこう者だ。さっきも、グレゴールが落ちつき払って仰向(あおむ)けに寝ていたとき、泣いていた。それに、女には甘いあの支配人も、妹にくどかれれば意見を変えるだろう。妹なら玄関のドアを閉め、玄関の間(ま)で支配人の驚きを何とかなだめたことだろう。ところが、妹はちょうど居合わせず、グレゴール自身がやらなければならないのだ。(原田義人〔よしと〕訳)
両親にはそれがよくわからないのだ。二人とも長年のうちに、グレゴールはこの店で生涯食べさせてもらえるものと、すっかり思いこんでしまっているし、おまけに今は、目のまえの心配ごとでいっぱいになっており、先のことなど全然考えてはいられないのだ。しかし、このグレゴールには、ちゃんと先のことが見えている。ぜひとも支配人をひきとめ、なだめ、説得して、味方にしてしまわなくてはならない。自分と家族との将来は、それひとつにかかっているのだ! 妹がここにいてくれたら! あれは利口者だ。こちらがまだゆうゆうと仰向けに寝ていたときに、もうあの子は泣いていた。それに、女には甘い支配人のことだ、妹にうまく言いくるめられるだろう。あの子なら玄関のドアをしめてしまって、びっくり仰天している支配人を、控室でいろいろとなだめてくれるだろう。ところが、その妹がいないのだ。おれが自分でやらなければならない。(辻瑆〔ひかる〕訳)
両親にはこの間の事情がおれほどわかっちゃいまい。お店につとめているかぎり一生ご安泰だといった信頼は長年のもの、もっかのところは突然の心配ごとで動てんして、さきのことなど考える暇(ひま)もない。ところがグレゴールにとっては、このさきざきが重大なのだ。支配人をひきとめ、なだめ、説得して、なんとかわかってもらわにゃならん。おれ自身と一家の将来は、まさしくそのひとことにかかっている。妹がいてくれさえしたら! あいつはかしこい女だから。おれがまだ安穏(あんのん)とあお向けに寝ころがっていたときから、もう泣いていたような奴(やつ)。女にゃからっきし甘い支配人のことだもの。妹の口説(くぜつ)にあったらいちころさ。あいつなら、ドアをしめて驚きふためく支配人をなんとかなだめ、外に出ない工夫ぐらいはしたことだろう。ところがあいにく妹は居合わせちゃいなかったからそれをやるのはおれさま自身でなけりゃならん。(川崎芳隆訳)
両親はそのことを十分に分かっていない。長い間のうちに会社がグレゴールのことを生涯雇ってくれるものと確信してしまい、その上心配することといったら今差し当たってのことばかりで、将来のことについてはおろそかになっているのだ。だがぼくは将来のことを見通している。店長には分別を保ち、落ち着いて、納得してもらい、最終的に味方になってもらわなくてはならない。そこにぼくと家族の将来がかかっているんだ。ここに妹がいてくれたならなあ。彼女は賢(かしこ)いし、ぼくが仰向けでじっと寝ているときにもう涙を流していた。店長もきっと女性には親身になって話を聞いてくれるだろう。彼女が玄関の扉を閉めておいてくれたら、そしてびっくりしている店長を説得してくれたらよかったのに。でもとにかく妹はここにいないのだから、ぼくが自分でなんとかしなくてはならない。(田中一郎訳)
ここが体験話法であることはほぼ間違いありませんが、邦訳では訳し方がずいぶん分かれています。全文を体験話法として訳している訳から、ごく一部分だけしか体験話法として訳していない訳まで、実にさまざまなのですが、私がかねてから言っていますように、体験話法らしい雰囲気の文が本当に体験話法か否かを判断する絶対的な決め手はありませんから、ここでもどの訳し方が正しいとかは断言できません。ただ、Der Prokurist mußte gehalten, ... から ... , als Gregor noch ruhig auf dem Rücken lag. までは、体験話法として訳している訳が多いです。私としましては、ストーリーの流れやこのあたりの雰囲気などから考えて、全文を体験話法とみなしてよいのではないかと思っています。
ここにあげた諸訳を見てみますと、原田訳は、3箇所を過去形で訳しており――ただし、sie hatte schon geweint, als Gregor noch ruhig auf dem Rücken lag. はもともと過去のことであり、体験話法でも過去形で訳すべきものですので除外します。これ以下の訳でも同じとします――、主人公のことは「ぼく」などとはせずに「グレゴール」で通しています。辻訳は、全体を一貫して現在形で訳していますが――ただし、Wäre doch die Schwester hier gewesen!の訳である「妹がここにいてくれたら!」は日本語として微妙で、現在のこととも過去のこととも解せますが、一応現在形で訳したとみなしておきます。この文に関してはこれ以下の訳でも同じとします――、主人公のことはいろいろに表現しています。川崎訳と田中訳は、それぞれ2箇所を過去形で訳しており、主人公のことはそれぞれ1箇所だけ「グレゴール」としていて、それ以外は「おれ、おれさま」「ぼく」としています。ですがいずれの訳も、全体を体験話法とみなしていると言ってよいと、私は思います。
ここでは全体を体験話法とみなしたうえで、グレーゴルが心の中で思ったこととして、直接話法で書いてみます。
Die Eltern verstehen das alles nicht so gut; sie haben sich in den langen Jahren die Überzeugung gebildet, daß ich in diesem Geschäft für mein Leben versorgt bin, und haben außerdem jetzt mit den augenblicklichen Sorgen so viel zu tun, daß ihnen jede Voraussicht abhanden gekommen ist. Aber ich habe diese Voraussicht. Der Prokurist muß gehalten, beruhigt, überzeugt und schließlich gewonnen werden; (1)meine Zukunft und die meiner Familie hängt doch davon ab! (2)Wäre doch die Schwester hier! Sie ist klug; sie hat schon geweint, als ich noch ruhig auf dem Rücken (3)lag. (4)Und gewiß ließe der Prokurist, dieser Damenfreund, sich von ihr lenken; sie machte die Wohnungstür zu und redete ihm im Vorzimmer den Schrecken aus.(またはsie würde die Wohnungstür zumachen und ihm im Vorzimmer den Schrecken ausreden.) Aber die Schwester ist eben nicht da, ich selbst muß handeln.
この中で、接続法が使われている箇所に関して見てみますと、
※体験話法のWäre doch die Schwester hier gewesen! を直接話法に書き換えますと、(2)Wäre doch die Schwester hier! となります。邦訳では「妹がここにいてくれたらなあ」という感じで訳している訳がほとんどですが、このような表現は「た」とあっても、必ずしも過去のことを言っているとはかぎりませんし、ここではおおむね、現在のこととして訳していると考えられますから、それでよいと思います(私が見たかぎりでは、ここを明確に過去のことのように訳している訳は1つだけでした)。「妹がここにいてくれりゃあなあ」などとした方が、現在のことを言っているということが、より明確にはなりますが。
※体験話法のUnd gewiß hätte der Prokurist, dieser Damenfreund, sich von ihr lenken lassen; sie hätte die Wohnungstür zugemacht und ihm im Vorzimmer den Schrecken ausgeredet.を直接話法に書き換えますと、(4)Und gewiß ließe der Prokurist, dieser Damenfreund, sich von ihr lenken; sie machte die Wohnungstür zu und redete ihm im Vorzimmer den Schrecken aus.(またはsie würde die Wohnungstür zumachen und ihm im Vorzimmer den Schrecken ausreden.) となると思います。これの全体、もしくはsie hätte以下のみを、過去形として訳している邦訳も少なくないのですが、ここでは、「今、支配人に帰られては絶対にいけない」という感じの緊迫した状況の中で、「妹がここにいて、こうしてくれればなあ」という、現在の状況に対する気持ちを表わしているのではないかと、私は思います。
それで、上記の(2)と(4)を体験話法に戻して考えてみますが、これらがなぜ、このままの形(現在形の接続法)で体験話法にされず、過去形の接続法にされたのかということに関しては、今回は私も明確には判断できません。
順番が前後しますが、まず(4)の後半の文に関しては、動詞(ここでは分離動詞が使われています)のmachte ... zuとredete ... ausは過去形と接続法第Ⅱ式が同じ形ではありますが、前半の文の動詞がließe(明確な接続法第Ⅱ式)となっており、その文とセミコロンで続いていますから、machte ... zuとredete ... ausが過去形と混同される可能性は、あまり高くないように思われます。にもかかわらず、あえて過去形の接続法にしたのは、作者の好みか、あるいは、machte ... zuとredete ... ausが過去形と同じ形であることがやはり気になって、接続法であることをはっきりさせたかったためかの、いずれかであろうと思われます。(ちなみに、würde ... の方の形でそのまま体験話法にしますと、未来形の体験話法と同じになってしまいますから、これはあまり適切ではありませんね)
(2)と、(4)の前半の文を過去形の接続法にしたのは、これらも作者の好みか、あるいは(4)の後半の文を、machte ... zuとredete ... ausが過去形と同じ形であることを気にして、過去形の接続法にしたので、これらもそれに合わせたためかの、いずれかであろうと思われます。
個人的には、(4)はともかく、(2)に関しては、体験話法でもWäre doch die Schwester hier! のままにした方が、むしろ簡潔で、生き生きした感じが出るのではないかと思いました。ですが、作者の好みか、(4)の後半の文に合わせたということ以外で、過去形の接続法にされた理由にお心当たりがおありの方がおられましたら、ご教示いただけましたら幸いです。
最後に、接続法以外の事柄に関して、少しふれておきますと、
※ichが体験話法になるのであればerとなるべきであり、Gregorとなっているのはおかしいという考え方もあるかもしれませんが、体験話法でも人称代名詞ではなく固有名詞が使われることは、(少ないですが)ありえないことではなく、おかしくはないと私は思います。
※die Zukunft Gregors und seiner Familie hing doch davon ab!を直接話法に書き換えますと(1)のようになり、die Zukunft meiner und meiner Familie hängt doch davon ab!とはなりません。人称代名詞ichの2格はmeinerなのですが、人称代名詞のこのような2格は、2格支配の前置詞、形容詞、動詞のあとに置かれるものであって――これ以外の用法もあるにはありますが、特殊なものですのでここでは省略します――、名詞の付加語になることはありませんから。また、(1)では書き換えによって主語が2つできましたから、動詞はhängenとしても構いませんが、ここでは2つを一体として考えて、hängt としました。
※(3)のlagのような過去形は、体験話法になりますと、gelegen hatteかgelegen warのように、過去完了形にされることが多いのですが、過去形のままにされることもあります。この点も大体は、作者の好みによると言ってよいのではないかと思います。
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他に、このようなリストもアップしています。