カフカの『変身』の翻訳で解釈が分かれている箇所について | 「絶望名人カフカ」頭木ブログ

「絶望名人カフカ」頭木ブログ

『絶望名人カフカの人生論』『絶望読書』『絶望図書館』、NHK『絶望名言』などの頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)です。
文学紹介者です(文学を論じるのではなく、ただご紹介していきたいと思っています)。
本、映画、音楽、落語、昔話などについて書いていきます。

月刊『みすず』という雑誌で、

カフカの『変身』を超スローリーディングする、

「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」

という連載をさせていただいています。

 

隔月連載で、

第1回が2020年8月号

第2回が2020年10月号

第3回が2020年12月号

第4回が2021年4月号

第5回が2021年6月号

第6回が2021年8月号に掲載されました。

 

 

 

連載では、

カフカの『変身』を新訳しています。

訳す上で、難しい箇所、面白い箇所については、

連載中でもご紹介しています。

 

ただ、すべてをご紹介しているわけではありませんし、

ご紹介できているのは、むしろごく一部です。

 

そこで、

『変身』の翻訳で解釈が分かれる箇所について、

今回の連載の校正をしてくださっている

岡上容士(おかのうえ・ひろし)さんが、

文章を書いてくださいました。

これまでの連載分についてまとめて記してあります。

 

以下に、その文章をご紹介させていただきます。

 

———————————————————————

 

「変身」において

翻訳の解釈が分かれている箇所

 

岡上容士(おかのうえ・ひろし)

 

※詳しく見ていくと、このほかにもまだあるかもしれませんが、私が気がついたものにとどめています。

 

※多くの箇所で私なりの考えを記していますが、異論もあるかもしれませんし、それ以前に私の考えの誤りもあるかもしれません。ご意見がおありでしたら、頭木さんを通じてご連絡いただけましたら幸いです。

 

※最初にドイツ語の原文をあげ、次に邦訳(青空文庫の原田義人〔よしと〕訳)をあげ、そのあとに説明を入れています。なお邦訳に関しては、必要と思われる場合には、原田訳以外の訳もあげています。

 

※ほかにも、文の一部分や、個々の単語に対して、邦訳の訳語をあげている場合があります。この場合には、『変身』の邦訳はたくさんありますので、同じ意味の事柄が訳によって違った形で表現されていることが少なくありません(たとえば「ふとん」「布団」「蒲団」)。ですが、説明を簡潔にするため、このような場合には全部の訳語をあげず、1つ(たとえば「ふとん」)か2つくらいで代表させるようにしています。

 

※邦訳に出ている語の中で読みにくいと思われるものには、ルビを入れています。

 

※高橋義孝訳と中井正文訳は何度か改訂されていますが、別の回のブログから引用した箇所以外では、一番新しい訳のみを示しています。

 

※英訳に関しては、どのようになっているかということをすべての箇所に対して示した方がよいかとも思いますが、あまり長くなることを避けるため、英訳も示した方がわかりやすいと思われた箇所だけにとどめています。

 

※「接続法第Ⅱ式」などのドイツ語の文法での専門用語がときどき出てきますが、これらを説明していますと非常に長くなりますし、ここのテーマからも外れてきます。ですから、これらに関してはご存知であることを前提とします。ご存知でない方でご興味がおありの方は、お手数ですが、ドイツ語の参考書などをご参照下さい。

 

第3回(頭木さんの連載の第3回で扱われている箇所という意味です。以下同様)

 

○Als Gregor Samsa eines Morgens aus unruhigen Träumen erwachte, fand er sich in seinem Bett zu einem ungeheueren Ungeziefer verwandelt.

ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。

 

冒頭のこの文に関しては、個々の語句の解釈の違いも含めて、頭木さんが連載で詳しく論じておられますので、ここではごく簡単に記しておきます。

①これは解釈の違いとは必ずしも言えませんが、重要なことですのでふれておきます。aus unrhigen Träumenと書かれていてTraum(夢)の複数形が使われていますので、夢が複数であることを訳で表現するか否かという問題が生じてきます。これは結局は訳者の考え方次第ですが、邦訳の中でそのように表現しているものは4つ(高安国世訳、神品〔こうしな〕友子訳、山下肇〔はじめ〕・萬里〔ばんり〕訳、多和田葉子訳)しかありません。

②ungeheuerには「巨大な」という意味と「恐ろしい」という意味とがあり、邦訳でも解釈が分かれています。どちらに解釈しても誤りではありませんし、両方の意味を入れている訳もあります。

③Ungezieferの邦訳での訳語には、「虫」、「毒虫」、「害虫」、「甲虫」(種村季弘〔すえひろ〕訳のみ)、「(原語の発音のとおり)ウンゲツィーファー(ただし、直後のカッコの中で詳しい説明をしています)」(多和田訳のみ)があります。どれを選ぶかは、これも訳者の考え方次第です。ただ、私個人の考えではありますが、「毒虫」と訳すのにはあまり賛成ではありません。「毒虫」と言いますと毒針などで刺すようなイメージがありますが、『変身』にはそのような記述はありませんから。

 

第4回

 

○Er lag auf seinem panzerartig harten Rücken und sah, wenn er den Kopf ein wenig hob, seinen gewölbten, braunen, von bogenförmigen Versteifungen geteilten Bauch, auf dessen Höhe sich die Bettdecke, zum gänzlichen Niedergleiten bereit, kaum noch erhalten konnte.

彼は甲殻(こうかく)のように固い背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓形のすじにわかれてこんもりと盛り上がっている自分の茶色の腹が見えた。腹の盛り上がりの上には、かけぶとんがすっかりずり落ちそうになって、まだやっともちこたえていた。

 

①wenn er den Kopf ein wenig hobを、菊池武弘訳は「頭をすこし持ちあげてみるたびに」、三原弟平(おとひら)訳は「頭を少しもたげるたびに」としています。菊池訳(対訳書)の解説では「wenn: ここでは過去にくり返されたことがらをあらわす. 過去の一回かぎりのことがらをあらわすのは, 冒頭に用いられているals.」(岡上注:『変身』の冒頭の文は、上記の第3回のところにあげています)と書かれています。また、辞書によっては、「wennは、動詞が過去形以外の場合には『...するとき』と『...するたびごとに』の両方の意味になるが、過去形の場合には『...したたびごとに』の意味にしかならない」という趣旨のことが書かれているものもあります。

しかし、『独和大辞典』(小学館)のwennの項を見ますと、まれではあるものの「...したときに」の意味に使われることもあるとされていますし、ここではこの動作を何回も繰り返しているという感じでもありませんから、あえて「...たびに」とは訳さなくてもよいのではないかと、私は思います。

②[die] Bettdeckeですが、辞書には「かけぶとん」という意味と、「毛布」という意味が出ています。邦訳では「かけぶとん」もしくは「ふとん」としている訳が多いですが、「毛布」としている訳もあります。この場合はどちらなのか断定はできませんが、「ずり落ちる」という感じからして、毛布よりもふとんの生地の方がそれらしくて自然なのではないかと、私は思います。

なお、第7回で、Die Decke abzuwerfen war ganz einfach; ...(かけぶとんをはねのけるのは、まったく簡単だった)という文が出てきますが、この [Die] Deckeも上記の[die] Bettdeckeと同じものを意味しています。

 

○Seine vielen, im Vergleich zu seinem sonstigen Umfang kläglich dünnen Beine flimmerten ihm hilflos vor den Augen.

ふだんの大きさに比べると情けないくらいかぼそいたくさんの足が自分の眼の前にしょんぼりと光っていた。(原田義人〔よしと〕訳)

ほかの部分の大きさと比べると哀(あわ)れなほどにか細い無数の脚(あし)が、ザムザの目のまえでたよりなげにチラチラ動いていた。(三原訳)

 

「からだのほかの部分にくらべて」(高安訳)、「胴体にくらべて」(立川〔たつかわ〕洋三訳)などのように意訳している訳もありますが、これらの訳も三原訳と同じ解釈をしていると思われます。

邦訳ではseinem sonstigen Umfangの解釈がこのように分かれていますが、私としては三原訳のような解釈を採りたいと思います。このseinemは明らかに「彼(グレーゴル)」のことをさしています。原田訳のような解釈ですと、「足」をさしているとみなしていることになりますが、そうであれば、Beineと複数形になっていますから、seinem(彼の)ではなくihrem(それらの)となるべきではないかと考えられます。

 

第5回

 

○Über dem Tisch, auf dem eine auseinandergepackte Musterkollektion von Tuchwaren ausgebreitet war – Samsa war Reisender –, hing das Bild, das er vor kurzem aus einer illustrierten Zeitschrift ausgeschnitten und in einem hübschen, vergoldeten Rahmen untergebracht hatte.

テーブルの上には布地の見本が包みをといて拡(ひろ)げられていたが――ザムザは旅廻りのセールスマンだった――、そのテーブルの上方の壁には写真がかかっている。それは彼がついさきごろあるグラフ雑誌から切り取り、きれいな金ぶちの額に入れたものだった。(原田訳)

――ザムザは外交販売員であった。――テーブルの上方の壁には絵がかかっている。ついこのあいだ、絵入り雑誌にあったのを切りとって、こぎれいな金箔(きんぱく)の額に入れてかけておいた絵だ。(高橋義孝訳)

 

①das Bildを絵と解釈するか写真と解釈するかということは、頭木さんも連載でふれておられ、訳では「絵」としておられます。山下肇・萬里訳の『変身・断食芸人』(岩波文庫)のあとがきで、山下萬里さんが「居間の壁にはグレゴールの少尉時代の『写真』が掛けられており、これはPhotographie が使われている」などと書いておられることによっています。もっとも、「写真」とするのが誤りとまでは言えませんが。

②vergoldenに関しては、辞書には「金メッキをする」「金色に塗る」「金箔を張る」などの訳語が載っています(vergoldetは過去分詞形で、「...されている」という意味になります)。正確にはどの意味なのかは、ここからだけでは判断できませんね。邦訳では「金の」「金色の」「金箔の」「金縁(きんぶち)の」「金メッキの」などとしています。「金の」では本物の金で作られているようにとれますし、「金縁」は、国語辞典によりますと本物の金の場合にもそうでない場合にも言うようで、両方の意味にとれます。「金色の(これでしたら、本物の金で作られているとは思いにくいかなと考えられます)」か、「金箔の」か、「金メッキの」とした方がよいのではないかと、私は思います。

 

○»Wie wäre es, wenn ich noch ein wenig weiterschliefe und alle Narrheiten vergäße«, dachte er, aber das war gänzlich undurchführbar, denn er war gewöhnt, auf der rechten Seite zu schlafen, konnte sich aber in seinem gegenwärtigen Zustand nicht in diese Lage bringen.

「もう少し眠りつづけて、ばかばかしいことはみんな忘れてしまったら、どうだろう」と、考えたが、全然そうはいかなかった。というのは、彼は右下で眠る習慣だったが、この今の状態ではそういう姿勢を取ることはできない。いくら力をこめて右下になろうとしても、いつでも仰向(あおむ)けの姿勢にもどってしまうのだ。

 

Wie wäre esは、逐語訳をしますと「(wenn以下のことをするならば)それはどうなのだろう」という意味ですから、原田訳のとおりでよいのではないでしょうか。

しかし、一部の邦訳では、「(wenn以下のことをするならば)どんなにいいだろう」といったように訳していたり、wenn以下も含めて全体的に意訳して、結局は「(...ならば)どんなにいいだろう」と同じような意味にしていたりします。

私としては、このような意味になるのでしたらWie gut wäre esのように書くのが自然ではないかと思われますので、原田訳のように普通に解釈した方がよいのではないかと考えます。英訳では、Mary Fox訳は“It would be nice to sleep a little longer and forget this nonsense”としていますが、これ以外にはこのような意味を明確に出して訳しているものはありません。

 

○»... Die geschäftlichen Aufregungen sind viel größer als im eigentlichen Geschäft zu Hause, und außerdem ist mir noch diese Plage des Reisens auferlegt, die Sorgen um die Zuganschlüsse, das unregelmäßige, schlechte Essen, ein immer wechselnder, nie andauernder, nie herzlich werdender menschlicher Verkehr. ...«

「... 自分の土地での本来の商売におけるよりも、商売上の神経の疲れはずっと大きいし、その上、旅の苦労というものがかかっている。汽車の乗換え連絡、不規則で粗末な食事、たえず相手が変って長つづきせず、けっして心からうちとけ合うようなことのない人づき合い。...」(原田訳)

店にいてのあたりまえの仕事に比べたら、商売の苦労はずっとずっと大きい。(以下略)(山下肇訳)

 

zu Hauseは原田訳のようにも解釈できますが、Hausには「会社」とか「商店」という意味もあります(辞書によってはこの意味を載せていないものもありますが)。ここではこちらの意味であり、「会社(または、店)にいての本来の仕事[において]」と言っているのではないかと、私は思います。

邦訳ではおおむね、「会社(または、店)での仕事」とか「会社(または、店)勤め」とか「内勤」とかいったようにしています。Hausをこれらとは別の意味に解釈しているのは、原田訳以外では、「自分のところでやる自営」としている菊池訳と、「家でする仕事」としている野村廣之訳だけです。

 

○Er fühlte ein leichtes Jucken oben auf dem Bauch; schob sich auf dem Rücken langsam näher zum Bettpfosten, um den Kopf besser heben zu können; fand die juckende Stelle, die mit lauter kleinen weißen Pünktchen besetzt war, die er nicht zu beurteilen verstand; und wollte mit einem Bein die Stelle betasten, zog es aber gleich zurück, denn bei der Berührung umwehten ihn Kälteschauer.

彼は腹の上に軽いかゆみを感じ、頭をもっとよくもたげることができるように仰向けのまま身体をゆっくりとベッドの柱のほうへずらせ、身体のかゆい場所を見つけた。その場所は小さな白い斑点(はんてん)だけに被(おお)われていて、その斑点が何であるのか判断を下すことはできなかった。そこで、一本の脚でその場所にさわろうとしたが、すぐに脚を引っこめた。さわったら、身体に寒気(さむけ)がしたのだ。

 

①Bettpfostenは、文字通り「ベッドの柱(または、支柱、前柱〔まえばしら〕、柱脚〔ちゅうきゃく〕も)」としている邦訳が多く、意味としてはこれでよいと私は思います。ただし、今のベッドには柱がついているものはほとんどありませんから、ちょっとイメージが浮かびにくいかもしれませんね。

上記の訳以外では、「[寝台の]ヘッドボード」(アッペルバウム英訳・柴田元幸邦訳〔英訳の原語はthe bedpost〕、多和田)、「ベッド(または、寝台)の前枠〔まえわく〕」(高橋、片岡啓治、立川)、「ベッドの頭板〔あたまいた〕」(山下肇・萬里)としている訳や、思い切って意訳して、「枕もと」(ナボコフ英訳・野島秀勝邦訳〔英訳の原語はthe top of the bed〕)、「ベッドのはし」(池内紀〔おさむ〕)、「ベッドの隅(この語句全体に「ベッドポスト」とルビがあります)」(丘沢静也〔しずや〕)としている訳もあります。

なお、Bettpfostenは一部の辞書によれば「ベッドの脚」を意味することもあるようですが、これですと脚のあるところまで行っても身体をあずけられるものが何もありませんから、そこまで行く必要性は乏しく、この意味ではないような感じですね。

②umwehenは、もとの意味は「...のまわりに吹く」ですから、寒気が彼を囲むように吹き付けたというイメージですね。邦訳では「寒気が身内を走った」という感じになっているものも多いのですが、イメージ的にはちょっとどうかなと私は思います。「まわり」という感じを出しているのは、「ぞっと寒気が五体のまわりを走った」としている川崎芳隆訳だけです。私は、「まわり」という言葉を入れなくても、「全身が寒気におそわれた」などと訳したらそれなりの感じが出るかなと考えましたが、もっとよい訳もあるかもしれませんし、原田訳のようにさらにあっさりと訳すのもよいかもしれません。

 

○Wenn ich zum Beispiel im Laufe des Vormittags ins Gasthaus zurückgehe, um die erlangten Aufträge zu überschreiben, sitzen diese Herren erst beim Frühstück.

たとえばおれがまだ午前中に宿へもどってきて、取ってきた注文を書きとめようとすると、やっとあの連中は朝食のテーブルについているところだ。(原田訳)

たとえば、僕が獲得した注文を発注するために午前中に宿屋へ戻ってくると、それらの人たちはようやく朝食の席についたところだったりするのだ。(野村訳)

たとえばぼくが午前中駆けまわって集めた注文を本社に書き送ろうとして宿に戻ってくると、この連中ときたらまだ悠々(ゆうゆう)と朝ごはんをたべているといった始末だ。(高安訳)

 

überschreibenを(注文を)「書き写す」「書きとめる」「メモする」などとしている訳も少なくありませんが、ここでのüberschreibenは「書面で通知する」という意味であり、einen Auftrag überschreibenで「発注する」という意味になります。高安訳は「本社に」という言葉を足して、わかりやすく訳していますね。

 

○Das sollte ich bei meinem Chef versuchen; ich würde auf der Stelle hinausfliegen.

そんなことをやったらおれの店主がなんていうか、見たいものだ。おれはすぐさまくびになってしまうだろう。(原田訳)

おれがそんな真似(まね)を社長のいる所でやってみろと言うのだ、おれはたちどころにクビにされるだろう。

(高本研一訳)

 

このsollte(不定形〔原形〕はsollen)は過去形ではなく、接続法第Ⅱ式です。ここでのsollenは、「...するものならしてみるがいい」という、挑発的なニュアンスを含んだ意味です。この意味は、辞書によっては載せていないものもあります。原田訳もこの意味で訳していますが、かなり言葉を足していますね。高本訳はここでのsollenの意味に忠実に訳しています。

「おれの社長のところでそんなことをやってみようものなら、おれはすぐにクビになるだろう」という感じで訳している邦訳も多いのですが、このように言いたいのでしたら、Wenn ich das bei meinem Chef versuchensollte(またはSollte ich das bei meinem Chef versuchen), würde ich auf der Stelle hinausfliegen.(こちらでのsollteもやはり接続法第Ⅱ式ですが、ここでの意味は「万一...なら」となります)と書かれますから、文法的には正確な訳とは言えないと私は思います。

ついでながら、Chefを「店主」としている訳と、「社長」としている訳とがありますが、店が会社組織になっているような場合もあるでしょうから、これは解釈の違いというほどのことではないと思います。

 

○Wer weiß übrigens, ob das nicht sehr gut für mich wäre.

ところで、そんなことをやるのがおれにとってあんまりいいことでないかどうか、だれにだってわかりはしない。

(原田訳)

それはそうだが、でも、クビになるのも俺(おれ)には悪くない話かもしれないぞ。(浅井健二郎訳)

 

このdasは勿論、そんなまねをしてクビになることをさしています(あるいは原田訳のように、自分がそんなまねをすることに限定して解釈している訳もありますが、実質的には同じことですね)。しかし、中井正文訳は、「こんな仕事が自分に誂(あつら)え向きかどうか、他人様(ひとさま)にわかってたまるもんか」という、独特な解釈をしています。ちょっと無理な感じもしますが、誤訳とまでは言い切れないと私は思います。

 

○... ; habe ich einmal das Geld beisammen, um die Schuld der Eltern an ihn abzuzahlen – es dürfte noch fünf bis sechs Jahre dauern –, mache ich die Sache unbedingt.

両親の借金をすっかり店主に払うだけの金を集めたら――まだ五、六年はかかるだろうが――きっとそれをやってみせる。

 

mache ich die Sache unbedingtは、逐語訳をしますと、「私はなんとしてでもそのことをする」のようになりますが、具体的にはどのようなことをするのでしょうか。原文のmache ... die Sacheからだけでは、明確な断定はできません。邦訳ではこれに近い訳をしているものが多いのですが、中には「親の借りた金は、きれいさっぱり社長に返してみせる」(山下肇・萬里訳)のように、借金を返すことに限定している訳もあります。私は、前後から推測して、「言いたいことを言って会社をやめ、新しい人生を歩む」ということを言っているのではないかと思いますが、前記のように、断定はできません。

原田訳のような訳でも勿論構いませんが、ご参考までに、もう少し具体的に言っている訳をあげておきますと(借金の返済に限定している訳は除きます)、「断固としてあとへは引かぬ」(川崎訳)、「おれはきっぱりけりをつけてやる」(片岡訳)、「何が何でもその通りにやってやる」(川村二郎訳)、「おれはどうあってもこの件にきまりをつけてやる」(三原訳)、「僕は必ず言いたいことを言って辞めてやる」(野村訳)。やめたあとのことまで言っているものはありませんが。

英訳ではほとんど全部が、「それをする」とか「それをやり遂げる」という感じに訳していて、何をするのか具体的に書いてあるものはありません。唯一、C. Wade Naney訳だけが、... – I'll do whatever I have to do. としていて、ちょっとだけ詳しい程度です。

 

○Dann wird der große Schnitt gemacht.

この文は原田訳では訳されていません。この文に関しては、次の題名の頭木さんのブログに邦訳と英訳の一覧を載せてありますので、ご興味がおありでしたらご覧下さい。

月刊『みすず』6月号が刊行されました!「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」5回目+追記

この一覧をご覧になりますとおわかりのように、この文は解釈がいろいろに分かれています。私は、「そうすれば大きな転換がなされる」という感じの意味ではないかと思いました。ですが、これは解釈のうちの1つと位置づけておきたいと思います。この文とその前後からだけではどのような解釈が正しいかという判断はつきかねますから。

 

第6回

 

これらの文は動詞が過去形になっているにもかかわらず、邦訳ではおおむね、現在形のように訳しています。それはなぜかと言いますと、これらの文が「体験話法」になっているからです。このことに関しては、次の題名の頭木さんのブログで詳しく記してありますので、ご興味がおありでしたらご覧下さい。

「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」6回目! 月刊『みすず』8月号が刊行されました

 

○Ja, aber war es möglich, dieses möbelerschütternde Läuten ruhig zu verschlafen? Nun, ruhig hatte er ja nicht geschlafen, aber wahrscheinlich desto fester.

だが、あの部屋の家具をゆさぶるようなベルの音を安らかに聞きのがして眠っていたなんていうことがありうるだろうか。いや、けっして安らかに眠っていたわけではないが、おそらくそれだけにいっそうぐっすり眠っていたのだ。(原田訳)

だが家具が揺れるほどの大音量で鳴ったのに、安らかに眠っていられるものだろうか? まあ、十分に眠ってはいないのだが、おそらくそれだけ深く眠ったのだろう。(田中一郎訳)

 

このNunは案外難しいです。邦訳では「いや(「いや、いや」「いやいや」「いいや」も含めて)」としている訳が非常に多いですし、そう訳すと次につながりやすいですね。しかし、この訳ですとドイツ語のneinと同義ということになりそうですが、どの辞書を見てもこの意味は出ていません。

このNunを訳していない訳もありますし、「ところで」(中井訳)、「たしかに」(高本訳)、「さて」(菊池訳)、「もちろん」(立川訳)、「すると」(浅井訳)、「まあ」(田中訳)のように、「いや」と訳していない訳もあります。私の考えでは、消極的な同意を表わす意味の「まあ」が近いのではないでしょうか。

英訳では、A. L. Lloyd訳とWill Aaltonen訳がCalmly, noとしていて「いや」という感じになっており、Ian Johnston訳とM. A. Roberts訳がNow、David Wyllie訳がTrueとしている以外は、すべてWellとしています。wellには消極的な同意を表わす意味も確かにありますが、私の考えが正しいという絶対的な証拠とまでは言えませんね。

 

○... ; um den einzuholen, hätte er sich unsinnig beeilen müssen, und die Kollektion war noch nicht eingepackt, und er selbst fühlte sich durchaus nicht besonders frisch und beweglich.

その汽車に間に合うためには、気ちがいのように急がなければならないだろう。そして、商品見本はまだ包装してないし、彼自身がそれほど気分がすぐれないし、活溌(かっぱつ)な感じもしないのだ。

 

この文の邦訳は、このような部分否定的な感じの訳と、「まったく...ない」といったような強く否定している感じの訳とに分かれています。nicht besondersは「特に、それほど…ではない」という明確な部分否定の意味になるのですが、そのnichtの意味をdurchausで強めており、原文のこの書き方はちょっとわかりにくいですね。

私は、やはりbesondersがある以上は部分否定であり、その否定の仕方をdurchausで少し強めたということではないかと思います。

英訳にもいろいろなパターンがあり、原文と同じような言葉を3つ重ねている訳や、強い否定の形にしている訳もありますが、多くはnot … especiallyやnot … exactlyやnot … particularlyのような、普通の部分否定の形にしています。

 

○Das wäre aber äußerst peinlich und verdächtig, denn Gregor war während seines fünfjährigen Dienstes noch nicht einmal krank gewesen.

だが、そんなことをしたら、ひどく面倒になるし、疑いもかかるだろう。なにしろ、グレゴールは五年間の勤めのあいだにまだ一度だって病気になったことがないのだ。

 

このpeinlichにはいろいろな意味があり、ここでカフカがどの意味で使ったのかは、この文とその前後からだけでは判断することが困難です。ここの文脈に合う意味でさえあれば、訳者が好みのとおりに訳してよいのではないかと、私は思います。ご参考までに、邦訳と英訳がどのように訳しているかを以下に示します。

邦訳では、書き方に微妙な違いはあっても同じ語と考えてよいものは、1つにまとめました。また、語尾は(「避けるべき」を除いて)「い」か「な」に統一しました。そうしますと、「いやな」「疑わしい」「気づまりな」「気まずい」「決まり悪い」「苦痛な」「心苦しい」「避けるべき」「ダメな」「辛(つら)い」「ばつが悪い」「不愉快な」「まずい」「面倒な」「やりきれない」となります。

英訳ではembarrassingという語を使っている訳がわりあい多いのですが、ほかには、awkward、disconcerting、distressing、hard、mortifying、painful、strained、tiresome、unpleasantが使われており、Aaltonen訳のように[that would] cause its own problemsと意訳している訳もあります。

 

○Gewiß würde der Chef mit dem Krankenkassenarztkommen, würde den Eltern wegen des faulen Sohnes Vorwürfe machen und alle Einwände durch den Hinweis auf den Krankenkassenarzt abschneiden, für den es ja überhaupt nur ganz gesunde, aber arbeitsscheue Menschen gibt.

きっと店主は健康保険医をつれてやってきて、両親に向ってなまけ者の息子のことを非難し、どんなに異論を申し立てても、保険医を引合いに出してそれをさえぎってしまうことだろう。その医師にとっては、およそまったく健康なくせに仕事の嫌(きら)いな人間たちというものしかいないのだ。

 

①durch den Hinweis auf den Krankenkassenarztに関しては、上記のブログでも取り上げていますが、ここでも記しておきます。

原田訳の「保険医を引合いに出して」は、「保険医の意見をたてにとって」(高安訳)などの訳とほぼ同じことを言っていると思われます。この解釈でも勿論構いませんが、「保険医に見てもらえといって」(菊池訳)とか、「保険医を指さしながら」(丘沢訳、浅井訳)などとしている訳もあります。Hinweisのもともとの意味は「指し示すこと」ですから、このような解釈も可能であると私は思います。

②für den es ja überhaupt nur ganz gesunde, aber arbeitsscheue Menschen gibtは、原田訳のとおりでよいと思います。

ごく少数の邦訳では、nur ganz gesunde, aber arbeitsscheue Menschenをグレーゴルだけのことのように解釈して訳していますが、Menschenにかかっている形容詞の語尾がeとなっていて、Menschenが複数であることは明白ですから、この解釈は無理でしょう。Menschenが単数でグレーゴルのことだけを意味しているのでしたら、形容詞の語尾はenとなりますし、さらにはnur den ganz gesunden, aber arbeitsscheuen Menschenと定冠詞がつくのが自然ではないかと思います。

多和田訳だけは「すべての人間は健康であり、ただその一部が仕事を嫌う性質をもっているということになってしまうのだから」と訳していますし、英訳ではWyllie訳だけがこのような感じで訳していますが、原文からしますと、このように読むことも無理であると思います。ただし、一般的な観点から見ますと、言っている内容は多和田訳やWyllie訳の方が適切と言えそうな感じもしますね。

 

○Und hätte er übrigens in diesem Falle so ganz unrecht?

それに、今の場合、医者の考えもそれほどまちがっているだろうか。

 

ここも上記のブログで取り上げており、こちらではブログでの記述を以下にそのまま再録しておきます。ここでも中井先生は、独特な解釈をしておられます。

... 、中井正文訳だけは、このerを医者ではなくグレーゴルと解して、「だが、こんな場合でも非はまったく自分の方にあるのかな」(1952年刊の角川文庫。1968年の角川文庫改版以降は、「だが、こんな場合、非はまったく自分のほうにあるのかな」)と訳しています。前後から考えますと、このerはやはり医者のことではないかと思われますが、中井訳は全くの誤訳であるとまでは言い切れませんね。