たまつくりのこころ


古事記に登場する

「八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠

(やさかにのいほつのみすまるのたま)」


古事記には、

「この珠を常に御身から放さずに大切に奉持しておられた」とあります。



古代における「たま」は、

単なる玉ではありません。


そこには、


🌸 魂(たま)

🌸 霊(たま)

🌸 神宝(たま)


という意味が重ねられています。


だから珠を持つということは、「魂を忘れない」



珠とは、ただ身につけるものではなく


自分が何者であるか

何のために生まれてきたかどのように生きるか


を忘れないための「しるし」だったのです。



「たまつくのこころ」

それは単に工芸品を作りたい、という意味ではありません。


「私もまた、天照大御神のお心に沿って生きたい」という祈りなのだと思います。



古事記では、

八百万神は、


「ひのかみ」の使命実現を助ける存在として描かれています。



神々は、それぞれ勝手に存在しているのではなく、


🌸 大いなる調和

🌸 天の理想

🌸 光の実現


のために働いている。


だから古事記には

「神議り(かむはかり)」があります。


神々が集い、


「どうすれば、

よりうるわしい世界になるか」を相談しているのです。


これは、

現代を生きる私たちにも通じるのではないでしょうか。


競い合い、

奪い合うためではなく、


それぞれが自らの役割を生きながら、

共に光を実現していく。


それが本来の「たまつくりのこころ」


人は忙しさの中で、

いつの間にか使命を忘れます。


何のために生きているのか。


何を大切にしたかったのか。


でも本当は、

誰の中にも「珠」がある。


その珠を曇らせず、

大切に奉持して生きること。


それが、

古事記が伝えようとしている

「いのちの道」なのだと感じています。



全国古事記塾主宰 今野華都子記す




話が伝わる人、伝わらない人


〜伝える側として本当に大切なこと〜


「どうしたらもっと伝わるのだろう」


人に何かを伝えていると、

誰もが一度は感じることかもしれません。


同じ話をしても、


深く頷き、

涙を流しながら受け取る人もいれば、


まるで風のように

通り過ぎていく人もいる。


昔は、

「言い方が悪かったのかな」

「説明不足だったのかな」

と思っていました。


でも、今は少し違うように感じています。


話が伝わるかどうかは、

知識や理解力だけではなく、


その人が

「どこで聞いているか」

によって大きく変わるのだと思うのです。


頭だけで聞いている時。

損得で聞いている時。

自分を守りながら聞いている時。


本当に大切な言葉ほど、

奥まで入っていきません。


反対に、

理屈ではなく、

その人が魂で受け取る瞬間があるのです。


だから私は最近、

伝わらないことに、

以前ほど焦らなくなりました。


どれほど素晴らしい種でも、

芽吹く「季節」がある。


古事記でも、

神々は「時」を待ちます。


無理に岩戸をこじ開けたりはしない。


その人の内側から

静かに「開きたい」と願った時に、

初めて本当に届くのでしょう。


だから、

伝える側に必要なのは、

無理に理解させようとする力ではなく、


相手の時を信じて待つこと

なのかもしれません。


そしてもう一つ、

とても大切だと思うことがあります。


それは、「何を語るか」以上に、


「どう生きているか」

が伝わっているということ。


人は、

言葉よりも、


その人の空気、

眼差し、

静けさ、

在り方を感じています。


だからこそ、

伝える側は、


知識を増やすこと以上に、


自分自身を整え、

出来ないながらも誠実に、

善(うるわ)しく生きようと努めていること、


そして同時に、

自分もまた、学びの途中であることを忘れない

こと。


「自分は分かっている側」

になった瞬間、

言葉は硬くなり、

どこかで人を裁き始めてしまう。


でも本当は、

誰もが未熟で、

誰もが人生の途中。


だからこそ、

相手にも余白を持てるし、

待つことができる。


私たちは皆、

それぞれの痛みを通りながら、

少しずつ、

いのちを学んでいるのだと思います。


人を変えようとしなくていい。

無理に引っ張らなくていい。


ただ、

自分の光を静かに灯して生きる。


その姿そのものが、

いつか誰かの岩戸を開く光になる。


私は、

そんなふうに感じています。


全国古事記塾主宰 今野華都子絵と文記す


絵の題名「宇宙の目」


《宇宙の目》

それは、はじまりのまなざし。

この目は誰をも裁かない。

ただ、ありのままを抱きしめる。

宇宙は外にあるのではない。

あなたの内側で、いまも静かに光っている。



今朝方

去年5月に亡くなった母が会いに来てくれた。


すごく自然にいつものように部屋にいてお片付けをしてくれていた。


「えっ!どうしたの?お母さんは去年光になったんだよね」


母は、手は動かしながら、私をみて微笑んでいた。


目が覚めて


明日が母の日だから、

命日も近いから来てくれたんだね。


私はお父さんとお母さんがくださったこの体で

祖先から受け継いだ、厳しくても優しく魂の使命を果たして行きます。


いつも見守ってくれてありがとう✨✨


感謝🌸✨




〈善とは何か――古事記の“善・うるわし”〉


私たちは普段、

「善い人」と聞くと、


正しい人

立派な人

我慢できる人


そんなイメージを持つかもしれません。


けれど古事記では、

「善」はもっと深く、

もっと命そのものに近い感覚で語られています。


それが

「うるわし」です。


「善・うるわし」とは、

単なる「綺麗」や「美しい」ではなく、


「汚れを祓い、

その中より“うるわしきこと”を生ぜしむること」


命が本来の姿へ戻り、調和している状態 を表しています。


だから古事記でいう「善」とは、

誰かを打ち負かす正しさではありません。


その人の命が、

その人らしく美しく響いていること


なのです。


さらにとても深いのは、


「善・うるわし」と決定する権威は

〈ひのかみ〉にある


これは、


人間の狭い価値観で


成功したから善い、

お金があるから善い、

有名だから善い、


そうではない。


本当に“うるわしきひと”とは、


🌿 人を安心させ

🌿 調和を生み

🌿 命を活かし

🌿 周囲を和ませる


そんな存在だったのだと思います。


古代日本人が目指したものは、


「何を持ったか」ではなく、


✨ どんな存在になったか ✨


でした。


だから「善」は、

誰かを裁くためのものではなく、

命が本来の調和へ戻っていくこと。


真・美・愛が

ひとつに結ばれている状態。


それが日本人の最高目的

「善・うるわし」なのでしょう。


人は皆、

まだ途中だから


祓いながら、

迷いながら、

揺れながら、

未熟さを抱えながら生きている。


それでも命は、

“善・うるわし”へ向かっている。


その眼差しこそ、

古事記の語る「善・うるわし」なのだと感じます。


昨日の神戸古事記塾の学びよりシェアします。


全国古事記塾主催 今野華都子絵と文記す


題名

【アマテラス「ほむら」】






スサノオの「泣きいさち」とは、単なる号泣ではない。

人は本当に深く泣いた時、
以前の自分ではいられない。

古事記は、その「いのちの変容」を、スサノオを通して描いているように感じます。

「なきいさち」
古事記原文では、

「青山(あをやま)は枯山(かれやま)なす泣き枯らし、
河海(かはうみ)は悉(ことごと)に泣き乾(ほ)しき」

と続きます。

この「泣きいさち」の
「いさち」は古語で、

✨ 勇み立つ
✨ 激しくなる
✨ 荒れ騒ぐ
✨ 勢いが止まらない

という意味があります。

つまり単なる「シクシク泣く」ではなく、魂が爆発するほど泣く状態です。

本当に深い悲しみ、
喪失、愛するものを失う痛みは、

世界の見え方そのものを変えてしまう。

そして重要なのは、

古代人は
その荒ぶる感情を
単純に「悪」とは見ていないことです。

スサノオは、

激しい感情

浄化

創造

へ転化し後に
〈八岐大蛇退治〉へ向かうのです。

人は本当に深く泣いた時、
以前の自分ではいられない。

古事記は、その「いのちの変容」を、スサノオを通して描いているように感じます。

全国古事記塾主催 今野華都子絵と文記す

絵は「親子で読める日本一わかりやすいえほん古事記」今野華都子著の挿絵より

今日は京都古事記塾へ







水を飲みたくない馬に水は飲ませられないように、魂の渇きを覚えていない人には、言葉を伝えても届かないことがあります。


人は、

「当たり前」に与えられていた

健康も

愛も

尊厳も

失った時にはじめてその尊さに気づきます。


けれど、失ってからでは遅いことも多いのです。


だからといって、


「感謝しなさい」

「あなたは恵まれている」


と正論をぶつけても、

心は閉じてしまいます。


なぜなら、

「当たり前」に慣れている人ほど、与えられているものが見えなくなって、


むしろ「自分の方がやってる」と思っているからです。


「与えられているもの」を心から感じることを重ねていくことが重要なのだと思います。


・誰かが黙って支えてくれていたこと

・食事が並ぶまでに、どれだけの命と労力があるか

・自由が、誰かの責任や我慢の上に成り立っていること

・愛されることが、本当は奇跡であること


そうした「見えなかったもの」が見えた時、

「有難し」と自然に頭が下がります。


尊敬も感謝も、

教え込まれるものではなく、


心が震えた時、

内側から湧き上がるもの 


そして、

本当の自由とは、


「好き勝手に振る舞うこと」ではなく


本当に自由な人ほど、

傲慢ではなく、

むしろ謙虚です。


本物の在り方を生き続ける

その姿に触れた時、


人の魂は、本来の渇きを思い出し始めるのだと思います。


感謝


アマテラスとスサノオの「受け日」

親子で読める日本一わかりやすいえほん古事記の挿絵





シリーズ3作目完成〜❣️

題名『光胎(こうたい)』


いのちは、

見えないものに抱かれ、


魂の案内者に見守られながら、

静かにこの世界へ降ろされてくる。


産霊を見守る古き母性と

そのはじまりの記憶。


全国古事記塾主催 今野華都子絵と文記す



〈体と心と魂、血統と霊統

目を描きたい理由には秘密があった〉


昨日の京都お絵描き教室で、

ふと、ひとつの記憶がよみがえりました。


それは、私が生まれたときのこと。


兄のあとに、女の子が四人続き、

厳格だった祖父は「また女の子か」と、落胆していたそうです。 

けれどその赤ん坊の「目」を見た瞬間、


祖父は直感で

「この子だ」と感じたといいます。


そして、ほかの姉妹は父母が名付けたのに対し、

私の名前だけは祖父がつけてくれました。


この「目だ」という感覚。


そこには、神道の家系としての意味があったことを、昨日、改めて思い出しました。


体と心と魂。

そして、血統と霊統。


肉体は、先祖代々が生き抜いてきた記憶をDNAに刻み、「血統」として受け継がれていく。


一方で、魂の役目は「霊統」として受け継がれ、

それが、この体の中に現れてくる。


そしてそれは

「目」にあらわれる。


それぞれの魂には、

今世で果たす役割があります。


生まれたその瞬間から、

たとえ自覚がなくても、

その役割に必要な出来事や試練が与えられていく。


振り返れば、

この体を授かったことのありがたさ。


これまでに経験してきた困難や試練、

受け取ってきたたくさんの愛情、

そして授けられた智慧や勇気。


その大きさ、深さを思うと、

自分の非力さに、

ご先祖様に申し訳ない気持ちになることもあります。


けれど


非力ながらも

私は私の今世の役割、


人の心を素直に開き、


その人が本来の光を出す喜びを知り、

優しく楽しく生きがられるよう


祈りながら


そっとそっと、ほんの少しの後押しと、

本質にたどり着く、道しるべとなれるよう


目の前のことをひとつひとつ丁寧に歩んでまいります。


万謝




今日は台湾から仏教を元にした幸せを学ぶオンライン勉強会でした。


その中で一般の方の「利他を行うときの自利の線引き」がわからないという質問に高僧が答えてくれたことをシェアします。


「利他」と「利己」のあいだで迷ったときに


「人のために生きたい」

そう思えば思うほど、どこかでぶつかる問いがあります。


どこまでが利他で、どこからが利己なのか?


■ まず大前提


とてもシンプルなことですが、大切な真理があります。


お腹が空いている人は、誰かを満たすことはできない


疲れきっているとき、心に余裕がないとき、

どんなに「人のために」と思っても、本当の意味で支えることは難しいものです。


だからまずは


✨ 自分を満たすこと(健全な利己)

これが土台になります。


■ では、自分を満たしてからでないとダメ?


ここで多くの人が誤解します。


👉「自分が完璧になってから人のために」

そうではなくて


✨ 自分を整えながら、今できることをする


これが自然な在り方です。


■ 無理な利他は続かない


仏教でも


👉「何でもかんでも人のために尽くすこと」は勧めていません。


無理をして与えることは、やがて


心がすり減る

苦しさになる

見返りを求める

そんな状態になってしまうからです。


■ 利他は小さく始めていい


仏教にこんな教えがあります。

「まずは野菜の葉っぱを分けるところから」


つまり


今の自分にできること

無理のない範囲

ここからでいいのです。


■ 本当の意味での「強さ」とは


人はつい


強くあろうとする

正しくあろうとする

でも本当は


弱い自分を認められることが、本当の強さ


そこから初めて、

やさしさも、深い利他も生まれていきます。


利他と利己の線引きは、とてもシンプルです。


✨ 自分を整える

✨ 無理のない範囲で与える

✨ その循環の中で成長していく


「満ちた分だけ、自然にあふれさせる」


がんばって与えるのではなく、

満ちたものが、自然に流れていく。


そんなやさしい循環の中にこそ、

本当の「利他」があるのだと思います。


感謝🙏💕


全国古事記塾主催 今野華都子記す




「いのちは、ちゃんと見てもらえたときに輝き出す」✨


私たちは、特別なことをしなくても

本来ひとりひとりが光を持って生まれてきています。


けれどその光は、

忙しさや役割、我慢や思い込みの中で、

いつの間にか見えなくなってしまうことがあります。


「ちゃんとしなければ」

「迷惑をかけてはいけない」

「弱さを見せてはいけない」


そんなふうに自分を押さえ込んでいるうちに、

いのちは静かに奥へ奥へと引っ込んでしまうのです。


でも


誰かにやさしくされたとき

否定されずに受け止められたとき

「そのままでいいよ」と感じられたとき


閉じていたいのちは、ふっとほどけて

内側から光を放ち始めます。


そしてそれは、

誰かにしてもらうだけのものではありません。


一番大切なのは


自分が自分を見てあげること

自分の声を「どうしたい」と聴いてあげること

自分の感情を「ダメ」と否定せずに感じてあげること


「私、本当はどうしたい?」


そうやって静かに問いかけてあげるだけで、

いのちは安心し、また輝きを取り戻していきます。


人は、誰かに見てもらえたときに輝く。

そして同時に、

自分で自分を見つめたときにも、同じように輝き出す。


いのちの光は、消えることはありません。

ただ、ちゃんと見てもらうことを待っているだけ。


そのまなざしで


いのちは再び温かさと優しさ

を、取り戻し光として動き始めます🌸


全国古事記塾主催 今野華都子絵と文記す