◆中西輝政『アメリカ外交の魂。帝国の理念と本能』を読む



★要旨



・「国家としてのアメリカ」をつくったのは、

ただ自分たちの信仰を守るためだけに、

大西洋を放浪した「ピルグリム・ファーザーズ」ではない。



・それは、

アメリカ大陸に真の宗教にもとづく、

「新しい国家」をつくり、

それによって本国イギリスの堕落した教会と国家を改造し、

ひいては全世界をつくり変えることを目指した、

ジョン・ウィンスロップと千人になんなんとする集団であった。



・ウィンスロップと、

その国家構想を深く知ることがなければ、

国家としての「アメリカ」はいつまで経ってもわからない、

といっても言い過ぎではないだろう。



・アメリカというのは、

その始まりからして徹頭徹尾、「宗教国家」であった。



・「タバコこそが、アメリカ史の本質を典型的に表している」

と、

歴史家ポール・ジョンソンは示唆する。



・つまり、

アメリカという国の「誕生の秘密」は、

実は、タバコにあったというのである。



・17世紀の第一の建国の時点で、

アメリカの富と繁栄にあったのは、

バージニア植民地のタバコ栽培であった。

それが、経済的なアメリカの始まりだった。



・当時、ヨーロッパの常識では、

「国王のいない国」というものは、成り立ちえない。



・このことは、

ワシントンやジェファーソンといった、

「建国の父」たちのの脳裏に重くのしかかった。



・彼らは、考えに考え抜き、辿り着いたのが、

古代のギリシャ・ローマであった。



・じつは、

ギリシャ・ローマつまり「古典古代」への希求こそが、

独立以来アメリカ政治、あるいは

アメリカという国家を動かしてきた有力な衝動であった。



・ワシントンDCの連邦議会議事堂は、

古代ローマ、

あるいは古代ギリシャのアテネのイメージを

意識的に復原させている。



・「古いヨーロッパ」との断絶を図るには、

一層、古い「古典古代」にしか、その範を求めるものはない、

という思想がそこにはっきり表されている。



★コメント

アメリカは、歴史の新しい新興国家だと思っていたが、

目指すところが古代ローマであったというコンセプトは、

新しい学びであった。



 

 



 

 


◆天野紹子『子育ては、最高のキャリア』を読み解く



正式タイトル

→『子育ては、最高のキャリア、最高のウェルビーイング』



★要旨



・私は専業主婦として3人の子供を育てた。

しかし、子どもが成長したあと、

50歳を過ぎて夫が経営する会計事務所

(レガシィマネジメントグループ)で仕事を始めた。



・外で仕事をするのは初めての経験で、

最初は自分にできるだろうかと躊躇した。



・しかし、会社のグレードアップを目指し、

オフィスの移転や人事制度改革、組織改革など

さまざまな事業改革を行い、

会社の業績向上に貢献できた。

「子育て」で培われた能力がビジネスで役立った。



・「子育ての大変さ」の裏には、

「かけがえのない喜び」があることも、また事実だ。



・子どもの笑顔や喜びは、

親にとっては最高の「ごほうび」となる。



・子育てという、貴重なチャンスを

自ら遠ざけないでほしい。



・育児には、多様な能力が求められる。

女性は、子育ての期間に、

ほとんど初めての経験を積み重ねながら、

さまざまな能力を養うことができる。



・子育て期間を経た女性は、

圧倒的な強さや力を備えることができる。



・子育ての経験をビジネスに活かした女性の例でいえば、

実業家の薄井シンシアさんが、自著で、

自分の経験を書いている。



・薄井さんは大学卒業後、

貿易会社に2年間勤務したのち結婚。

子どもを授かり、産休後は仕事に復帰する計画だったが、

生まれてきた娘さんを抱いた瞬間、

「この子を育てることが私の人生最大の仕事になる」

と直感した。



・娘が17歳になり、

48歳で「給食のおばちゃん」として仕事復帰。

バンコクの学校のカフェテリアだった。

混乱するカフェテリアだったが、

楽しく食事ができるよう改善し、

評判のカフェテリアを作りあげた。

その後、外資系ホテルの日本法人社長にキャリアアップした。



・薄井さんは、専業主婦のとき、

経営者のつもりで費用対効果を考えながら、

家計を回し、

PTAやボランティアにも積極的に携わり人脈を作った。

さらに夫や娘と対等に対話できるように

新聞や本から毎日多くの情報を仕入れた。



・マネジメント能力は、

子どもの数が多ければ多いほど伸びていく。



・母親となった女性は、

ビジネス現場よりもハードな環境で、

忍耐力やコミュニケーション能力など

さまざまな能力を伸ばしていくことになる。



★コメント

あらためて、子育てや育児の大切さ、重要性を感じた。

 

 



 

 


◆奥山真司『世界最強の地政学』を読み解く



★要旨



・わたしの考えでは、

実際の国際政治や安全保障について考えるとき、

今なお強い説得力をもっているのは、

アルフレッド・セイヤー・マハンや、

ハルフォード・マッキンダーといった、

20世紀前半の理論家たちに源を持つ、

「古典地政学」のほうだ。



・現実の政治を動かしている指導者・担当者たちは、

基本的には、

古典地政学の理論枠組みで思考している。



・現代の地政学に直結しているのは、

英米系の地政学で、

その特徴は、海洋の比重が高いこと。



・なかでも古典地政学の三大スターが、

アルフレッド・マハン、

ハルフォード・マッキンダー、

ニコラス・スパイクマンである。



・「海の地政学」創始者マハンの理論で重要なのは、

シーパワーを海軍力のみに限定していないこと。



・マハンは、

海上輸送の有利さを説き、海軍は通商保護のためにも存在する、

と述べた。



・シーパワーとは、

通商、情報網なども合わせた「海洋力」なのだ。



・じつは、現代でも輸送において、

海運は圧倒的に優位を保っている。

世界貿易のうち、

海上輸送が占める割合は、

金額で7割、重量では9割強を占めている。



・さらにいえば、

艦船建造能力などの産業力、

港湾などの拠点をつくり運用する能力、

通商や外交に不可欠な情報のネットワークなども、

シーパワーを形成する重要な要素なり。



・日本の城や関所は、チョークポイントなり。



・イギリスの国力のピークは1860年代だった。

自国の衰退を見すえながら、

国家の存続のために譲れない一線は何か。

そこを突き詰めたところに、イギリスの凄みがある。



・英国は、第一次と第二次大戦を通じて、

多くの植民地を手放したが、

それだけの犠牲を払っても、

「ドイツによるヨーロッパ大陸の支配を許さない」

というグランド・ストラテジーを貫徹した。

それこそ、譲れない一線であった。



・いちばん大事なのは「国家が存続すること」なり。



・情報の歪みは、「世界観」の歪みにつながる。

頭に正しい地図を描くには、

絶え間ない実地調査と情報更新が、不可欠である。



★コメント

地政学と大戦略の本質と面白さを、

わずが200ページの新書にまとめあげるところに、

奥山さんの凄みがあると確信しました。

本書は確実に、人生、会社経営、ビジネス活動に応用できます。

もちろん国家運営、国際関係にも。


 

 

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◆渡辺恒雄『自民党と派閥。政治の密室』を読み解く



★要旨



・選挙と密接に絡むのが政治資金だ。



・派閥はこれまで、

資金集めと配分で、重要な役割を果たしてきた。



・派閥や政治家個人の

金集めの新たな舞台となったのが、

政治資金パーティーだった。

自民党の各派閥にとって資金パーティーは重要な収入源だ。



・自民党の派閥形成は、

党首である総裁の選出を究極の目標としている

「総理大臣への道」であることに変わりはない。



・昭和35年の総裁選で、

候補者大野伴睦を探していた私は、

ようやくその秘密の部屋のひとつに、

もぐりこむことに成功した時、そこにふたつのボストン・バッグが無雑作においてあるのを見た。



・それに、三億の実弾が入っていると教えられた時、

私は、そこから一種の妖気のようなものを感じ、

ゾッとしたのをおぼえている。



・今日の政界で、権力を保持し続けるためには、

行動の転換の迅速さは、

必須の条件であるように思われる。



・大野伴睦と河野一郎、

二人の党人の敗北には、多くの共通点がある。

まず、勝者がいずれも高級官僚出身で、

かつ大蔵大臣の経験者であったこと。



・第二に、二人とも、現首相との密室の約束を信じ、

裏切られたということ。



・これは、

密室の取引きに、大きく依存しようとした党人派の敗北であり、

実力(金力)をバックに、

正攻法で多数派工作を展開した官僚派の勝利であった。



★コメント

政治の裏側を垣間見た。


 

 



 

 

◆畑中章宏『今を生きる思想。宮本常一。歴史は庶民がつくる』を読む


副題→「歴史は庶民がつくる」



★要旨



・『忘れられた日本人』に収録された「対馬にて」の

「寄りあい」は、

1950年に八学会連合の対馬調査に民族学班として

参加した宮本が仁田村伊奈で体験した寄り合いの話である。



・この紀行文は、

日本の共同体が継承してきた熟議による民主主義、

満場一致の民主主義の一例として取り上げられることが多い。



・寄り合いでは板間に20人ほど、

その外にも多くの人が詰め、

区有文書の貸し出しや、さまざまな議題について、

朝からずっと協議していた。



・みんなが納得のいくまで話し合い、

結論が出ると守らなければならない。

「理窟をいうのではない。

一つの事柄について自分の知っているかぎりの

関係ある事例をあげていくのである」



・村の伝承に支えられながら村の自治が成り立っていた。

すべての人が体験や見聞を語り、

発言する機会をもつことは、

村里生活を秩序だて、

結束を固くするのには役立った。



・伝承が急速に消えつつある時代に、

宮本のフィールドワークはどのようなものであったのだろう。 



・フィールドワークを可能にするには、

まずできるだけ「よい老人」に会ってみることが大切であるという。



・そういう人たちは祖先から受けついできた知識に私見を加えない。



・なぜならその知識を「公」のものと考えているからである。



・幕末生まれの老人と明治時代に生まれた人とのあいだには、

民間伝承の保有量において明らかに差があった。



・話す態度が端然としていること、

私見を加えないこと、そのうえもっている知識を後世に伝えたいとする情熱など、

話を聞いていて胸を打たれることが多かったという。



★コメント

いろいろ考えさせられることが多い。


 

 



 

 


◆奥山真司さん新刊『世界最強の地政学』に注目します。



★ポイント



・「指導者たちの頭の中」

「国民感情」に、

できうる限り近づき、

モデル化する作業は、

国際政治を考えるうえで、非常に重要な作業です。



・そうした実践的な営みを

教えてくれるヒントのひとつが

「地政学」なのです。



・奥山さんが

本場イギリスで学んだ

地政学のエッセンスが

6つのキーワードでわかる。



・地政学は学問ではない。



・地政学とは、

「国家を率いる指導者や安全保障の担当者たちが、

自国の安全や優位の確保を考える上で参照する、

地理をベースとした思考のパターン」

ということになります。


 



 

 


◆北野幸伯『プーチンはすでに、戦略的に負けている』を読み解く




副題→「戦術的勝利が戦略的敗北に変わるとき」




★要旨



・戦略は、戦後のことまで考えることである。



・日露戦争での日本の大戦略は、

「世界の2大国イギリスとアメリカを味方につけて、

ロシアとの戦争に勝つ」

ということ。



・戦略脳の指導者は、

大局的に、長期的に考えることができる。



・プーチンは、常に戦っていた。

2000年から2008年までは経済が成長し、

仲間も多く、有利に戦いを進めていた。



・しかし、

プーチンが2012年に大統領に返り咲き、

2014年にクリミアを併合すると、

流れは変わった。



・制裁と原油価格の低迷で、

経済成長が止まったのだ。



・ロシアは、ウクライナ侵攻によって、

「旧ソ連圏の盟主」の地位を喪失した。



・ロシアは、

ガス大国であり、石油大国である。



・ロシアの歳入の約4割を

石油ガス産業から収入が占めている。



・中国は、ロシアに対し、

エネルギー価格の決定権を握れるようになった。



・ロシア経済が、

石油・天然ガスに依存していることを考えると、

中国は、ロシアの

「生殺与奪権を握った」

といえる。



・資源大国ロシアには、

「ガスが来ていない場所」「道路がない場所」が

たくさんある。



・国のパワーは、

人口、経済力、軍事力によって決まる。



・日本でも世界でも、

「目先の欲望を満たす」ために違法行為をすれば、

戦略的敗北が待っている。



・戦術的勝利が、戦略的勝利につながるとは限らない。



★コメント

過去の世界史と、現在の国際情勢を組み合わせながら、

今のロシア・ウクライナ情勢を考察する、

北野さんの分析力は、圧巻である。

この一冊には、

超カオスな国際情勢と、世界のキーパーソンの人物像、

ロシア近現代史、国際金融と資源・世界経済のしくみが、

凝縮されている。

真面目な、大学の授業では知ることのできない、

剥き出しの世界情勢とリアリズムを体得でき、

どう生きるべきかを熟知することができました。


 

 

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◆君塚直隆『教養としてのイギリス貴族入門』を読み解く



★要旨



・第一回ロンドン万博の水晶宮は、

当時のヴィクトリア女王の夫アルバート公が、

さる貴族の屋敷に感銘を受けて作成したもの。



・それがデヴォンシャ公爵家の「チャッツワース・ハウス」である。

莫大な借金を抱えながら築きあげた「英国で最も美しい館」

といわれる。



・公爵となったデヴォンシャ家が

所有するチャッツワース・ハウスはロンドンの邸宅(デヴォンシャ・ハウス)も、

やがてイギリス社交界の中心地へと位置づけられていった。



・イギリスの王家もハノーヴァー家に代わった18世紀前半に登場したのが、

第4代公爵ウィリアムである。



・21歳で庶民院議員に当選し、

一躍若手政治家の中心的な存在となった彼は、

父から公爵を引き継いだ翌年、1756年になんと首相にまでのぼりつめる。



・44歳で急逝した4代公のあとに5代公となったウィリアムは、

父とは違って政治には関心を示さなかった。



・5代公が関心を示したのは社交生活のほうだった。

25歳のときに初代スペンサ伯爵の長女ジョージアナ

と結婚し、

ロンドンの邸宅はホイッグ系の政治家たちのたまり場にもなっていく。



・公爵家が負債を抱える原因を作ったのが2人の長男で、

1811年に家督を継いだ第6代公ウィリアムだった。



・彼は生涯独身を貫き、愛人をつくるようなこともなかったが、

唯一のめりこんだことがある。

それがチャッツワース・ハウスだった。



・この屋敷が一族の居城となって300年近く経過していたが、

6代公はここを自身の趣味によって大改修していく。



・こうした大事業で、公爵の借財は瞬く間に膨らんだ。1858年に彼が亡くなったとき、

デヴォンシャ公爵家には100万ポンド以上もの借金がのしかかっていたとされる。



・これを請け負わされたのが遠縁にあたり、

7代公爵を引き継いだウィリアムだった。 

彼は公爵になるや、イングランド北西部のバローで製鉄業や造船業にも莫大な投資をおこない、

1874年にはついに30万ポンドの年収を手にする。



・3万ポンドの年収があれば大貴族といわれた当時にあって、

それは公爵がイギリスで最も富裕な人物と言わしめたほどの莫大な富であった



・8代公は、所領経営の才にも長けていた。

公爵はアイルランドに保有していた土地を売却し、

その利益を株式市場に投資した。

これが大当たりとなって、

父が残した200万ポンドもの借金を50万ポンドにまで減らすことに成功する。



・1946年から屋敷はチャッツワース財団の管理下に置かれることとなった。



・そして11代公爵アンドリューの妻デボラというこれまた「女傑」を得て、

公爵家の財政は再建されることとなる。



・2014年に彼女が94歳で大往生を遂げたとき、

600人以上にも及ぶ召使いや従業員らが公爵夫人の野辺送りに立った。

それはいにしえの公爵家の栄光の名残りにも思われた。



★コメント

英国貴族の歴史を通して、

イギリスの歴史を学びたい。


 

 



 

 

◆今村翔吾『戦国武将を推理する』を読み解く



★要旨



・庶民から天下人まで上り詰めた豊臣秀吉ほど、

「立身出世」という言葉が似合う人物いない。



・生年月日もそうだが、

若い頃の秀吉はとにかく謎だらけ。



・私は、秀吉は百姓と下級武士の間、

今風にいえば「季節労働者としての契約社員の息子」くらいの感じだったと考えている。



・信長には古くからの譜代家臣が少なく、

実力があれば新参者でも抜擢され、

出世しやすい環境でした。



・同じく謎の出自から出世した織田家臣として滝川一益、

明智光秀などもおり、

秀吉の出世も不自然ではなかった。



・宿老が主君の脇をガッチリと固める武田氏なら、

信玄に見初められない限り

重臣の列に加わるのは難しかっただろう。



・秀吉が短期間で出世したのは紛れもない事実である。



・後年栄達した後も周囲には語りたくない働き、

例えば、敵方を内部で対立させ、

組織を切り崩す調略やスパイ工作活動、

あるいはそれ以上の「裏の汚れ仕事」で

信長の期待に応え、

するすると出世していった。



・秀吉の立身出世を下支えしたのが、弟の秀長だ。




・戦働きから事務的な調整や資金調達までもこなした非常に優れた人物で、

最終的には大和・紀伊・和泉に河内国の一部を加えた約110万石余りを領しています。

従二位権大納言まで昇ったことから、

「大和大納言」と呼ばれた。



・気になる点が一つあります。

兄の秀吉もそうだが、

百姓の家に生まれた秀長が、なぜ武将として有能だったのか。 

この兄弟は明らかに二人とも相当に優秀です。

尾張国中村で必要な教育を受けていたわけではなさそうだ。



・机上の勉強だけで

天下人までのし上がるのは難しかったはず。

そこで考えられるのが人脈、そして実地での学びだ。



・秀吉が人たらしだったのは多くの人が知るところだが、

若い頃からさまざまな人物と交流している。



・前田玄以や三成の逸話からわかるのは、

秀吉がさまざまな場所を巡り、人と会っていたということだ。



・ひと昔前の営業担当は、

よく歩き、多くの人に会う人が優秀とされてたが、

秀吉はさながらスゴ腕の営業担当という感じだ。



・まずは尾張国内を巡り、

地理はどうなっているのか、

優秀な人間はいないかなど常に探っていた。



★コメント

戦国武将から学べることは、

たくさんある、


 

 



 

 

◆大木毅『決断の太平洋戦史 。指揮統帥文化からみた軍人たち』を読む



★要旨



・日本海軍の神重徳(かみ・しげのり)は、

キスカ撤退戦などで水際立った才能を発揮する一方で、

「捷(しょう)」号作戦や「大和」沖縄特攻など破滅的な作戦を次々に立案し、

「神がかり参謀」と呼ばれた。



・神重徳は1900年に鹿児島県の造り酒屋に生まれ、

何度か受験に失敗しながら海軍兵学校へ進学。

卒業後は砲術科の将校となった。



・神は、

こと戦術面に関しては強気の姿勢を崩さなかった。

以下、その具体例。 



・大本営海軍部参謀時代、真珠湾攻撃成功の後、

連合艦隊を挙げてパナマ運河を叩くべしと上官に提言。

補給困難を理由に却下される。 



・第1次ソロモン海戦を立案。

ガダルカナル上陸作戦の援護に当たっていた連合軍艦隊に完勝。

艦上にていわく

「これだから海戦はやめられないのさ」。 



・アッツ島玉砕の後、

キスカ撤退作戦に臨んで、躊躇する司令官を一喝。

軽巡「多摩」に乗り込み守備隊の完全救出に成功する。



・戦史の表層には現れることのない参戦各国の「教育」が、

戦いの帰趨を左右した。



・前線では「優れた闘将」と評された神だが、

1943年12月、海軍省教育局に戻される。

その後は水上艦艇の「殴り込み」の成功体験が忘れられなかったのか、

すでに航空兵力の前に無力であることが証明された戦艦を活用すべしと主張。

犠牲ばかりが増大する作戦を、次々に立案していくのである。

以下、その具体例。



・連合艦隊先任参謀として、

フィリピン海上において空母機動部隊を囮として米艦隊を引き付け、

その隙に水上部隊を敵上陸船団に突っ込ませるという「捷」号作戦を立案。

結果は惨敗。 



・沖縄に来寇した米軍に対する水上艦艇の特攻を主張。

その結果、「大和」を旗艦とする第2艦隊は沖縄へ向かい、

悲惨な結末を迎える。



★コメント

先の大戦から学ぶことは多い。

膨大な資料を読みときたい。