連載24 城野遺跡/帰ってきた弥生人 第3章① “墓づくりの真相”
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章 注目すべき事実① “墓づくりの真相”これまで、城野遺跡の発掘調査開始の様子から、見つかった遺構や遺物について色々とご紹介してきました。弥生時代終わり頃、ちょうど邪馬台国の女王卑弥呼が生きた時代の城野ムラが、この地域でどのようにして発展してきたのか、ムラびとたちの暮らしぶりや死者に対する思いにも想像を交えて述べてきましたが、ここでは再度、注目すべき発掘成果とそれに対する私の考え方をまとめておきたいと思います。城野遺跡で何が一番すごい発見なのかは、もうすでに繰り返し述べてきたように、九州最大規模の方形周溝墓と朱塗りの石棺に葬られた幼児たちに対するムラびと達の行為そのものを追体験するかのように明らかにできたことだと考えます。それは、この巨大なお墓が1800年の時を超えて、私たちに語りかけてきた紛れもない歴史的事実であるからです。私たちはそこに現代を生きるヒントを授かり、遠い祖先である前に同じ人間として、彼らの様々な営みに共感を覚える時間をもらいました。今度は私たちが彼らに、その思いを届ける番だと思っています。さて、再び南棺に描かれた方相氏(ほうそうし)の絵画文様について、その描いた状況を発掘調査の成果をもとに考えてみました。まず、どの段階でそれを描いたのかを解明するため、再度木口石(こぐちいし)をじっくりと観察しました(写真1a、1b)。木口石の面はとても平坦で、絵を描くにはうってつけです。これは、弥生人が当初から絵を描くことを想定して整えた、いわば「石のキャンバス」といえるでしょう。【写真1a】木口石に描かれた方相氏の絵画文様よく見ると、木口石の表面には右上から左下に向かって、放射状の線が走っている。これは石を割った際にできるフィッシャーという痕跡で、扇のかなめになる部分が、叩いた箇所(打点)になる。かなめ部分は木口石に残されていないので、打点はもう少し右上数センチ先にあったと思われる。つまり、本来この木口石は一回り大きかったのだ。この平滑なキャンバスを得るのに、いかに彼らが手をかけているかがわかるのは、石の周囲に最終的に細かい敲打(こうだ/こつこつ叩くこと)で形を調整して仕上げていることだ。【写真1b】敲打(こうだ)による調整が行われた石の縁辺部彼らは、それを幼児の頭の上に据えることに決めたのです。人間の体で最も大切な頭ですから、彼らは子ども達に赤と紫の水銀朱で厚みのある枕までしつらえました(写真2)。首には母親譲りの玉のネックレス、足もとには生前さわらせたこともないような鋭い刃物=鉄の刀子を置いて魔除けとしました(写真3)。【写真2】南棺に残された頭部人骨と水銀朱の枕、および目張り粘土の状況南棺の頭部分は、まず土で数センチ盛り上げてその上に赤い朱を撒き、さらに紫色の朱を丸く重ねて、死者の頭を安定させている。木口石と左右側石との境には目貼り粘土を押しつけて埋め込んだため、角が丸みを帯びている。【写真3】石棺内の鉄製刀子出土状況→部分、側石に沿わせて長さ23.6㎝の刀子を添えている。丁度幼児のひざ元あたりになろう。これも魔除けの目的があったものと思われる。写真4や図1に見えるように、木口石には絵画が描かれた下方に、ゴンドラ船の底のような朱の赤いラインが見られますね。これは彼らが意識して描いたものではなく、箱式石棺内の床面に撒かれた水銀朱の輪郭を示しています。つまり、このゴンドラ船より下は土中にあったのです。そして左右の角の丸みは石棺を築き、朱を撒く順序を以下のように教えてくれています。【写真4、図1】方相氏の下のゴンドラ船の底に似たライン写真の赤いラインから下が土中に埋められていたことを示している。また、床にまかれた水銀朱の厚みがそのまま赤いラインとなっている。写真4の→で示す箇所が丸みを帯びているのは、石と石の角、石と床面の境を白色粘土で目貼りしていたためだ。したがってその上から水銀朱を撒いたことがわかる。図1(実測図)の→部分になる。木口石と側面の石の角部分、土の床面との間には厳重に目貼り用の粘土が埋め込まれていました。そのために石と石、石と床面の境が丸みを帯びているのです。つまり、木口石は側石とともに現地に据え置かれたあと、粘土で目貼りされ、そののちに朱が塗られ、同時に床面にも撒かれたのです。もうひとつ重要な事実は、木口石の絵画文様の線がこのゴンドラ船のラインの下までには達していないということです(写真5)。【写真5】木口石にみられるゴンドラ船の底に似たライン絵画文様の線がこれより下には達していないため、この木口石が据えられたあとに水銀朱を塗り、そのあと方相氏を描いたことになる。一部の研究者、見学者の中には絵画文様は木口石を据える前に別の場所で描いたのではないか、と言う人もいました。そもそも木口石は地中にある程度の深さまで埋めなければ、ぐらついたり倒れたりしてしまいます。それは現地で組み立ててみなければどの深さで止めればいいのかわかりません。よって、方相氏の絵画文様を描くまでの作業は次のような順番になると考えられるのです。1.方形周溝墓内に箱式石棺を築くための墓坑を掘る。(実際は二段掘りになっています)2.石棺の石を据える。(これにも順番があります)3.据えた石が内側、外側に倒れないように、床面と石の接点部分に土をつめたり、押さえつけたりして安定をはかる。同時に石棺外側は墓坑を掘った際に出た土で石棺の高さまで埋め戻す。4.石棺内部の石と石の接合部分、石と床面との境界部分を白色粘土で目貼りする。5.水銀朱を木口石や側石の内側全面に塗り、床面には大量に撒(ま)き敷く。6.頭部側には2色の水銀朱で枕を作る。さて、この後に方相氏の絵画文様を描いたのか、遺体を安置したのちにそれを描いたのか、が問題です。しかし、発掘調査ではその解答は出せませんでした。もし、遺体を安置する前に描いたとしたら、どうやって描いたのでしょうか。石で囲ってしまったら、木口石に絵を描くには非常に無理な姿勢となります。かといって、足もと側の木口石を設置する前に足もと側から描くとしても、床面には水銀朱が厚く敷かれているので、頭部側の木口石には近寄れないし、腹ばいになることもできません。石棺の上に板を渡してその上に乗れば可能かもしれませんが、据えたばかりの石棺が歪んでしまう可能性もあります。また南棺の幅は29.0〜38.5㎝しかなく、大人の肩幅(現代人の男女平均43.2㎝)もないので、到底石棺内に入り込めないのです。一方、遺体を安置した後に方相氏を描くのは可能だし、厳粛な葬送(そうそう)行為の一場面を演出するのに効果的だとは思いますが、遺体のすぐそばでの作業になるので、遺体もしくはそれをくるんだ装束(しょうぞく)を汚したり、傷つけたりする可能性もあります。ですから、この順序については結論が出ないのです。しかし、絵画文様の線をよく見ると、水平方向の線は概ね向かって左上から右下方向に少しだけ傾斜しているのです(図1,写真1)。ということは、方相氏を描いた人物は石棺の南側(向かって左側)に座るかひざまずき、断面が丸みのある工具(例えば細い植物の茎や竹など)を持ってやや窮屈な姿勢で手前方向(木口石の左方向)から奥方向(木口石の右方向)に工具を動かしたのです。体は石棺より上位にあるので、描く線はどうしても右下がりになってしまいます。そうです。ですからこの人物は右利きだったと考えられるのです。左利きの人が石棺の南側(向かって左側)に座って組まれた石棺の頭部側木口石に絵を書くのは非常に難しいのです。また、木口石の真上から見下ろす形で絵を描くことも可能ですが、わざわざ方相氏の姿を逆さまから描くでしょうか。その場合左右の傾斜角度がそろっているのも不自然だし、厳粛な行為に曲芸技は似合いません。ですから私が考える作業の続きは以下のようになります。7.頭部側木口石の横(石棺の南側、(向かって左側))に座って方相氏の絵を描く。8.遺体を収める。9.遺体の右膝元に、側石に沿わせて鉄製刀子(とうす)を置く(写真3)。10.あらかじめ内側に水銀朱を塗っておいた蓋をかぶせる。11.石棺の棺外に、水銀朱を撒くのに使った小壺を据え置く。12.石棺の上に土をかぶせて盛り上げ、墳丘を築く。ひとつ大切なことを言い忘れました。方相氏を描いた人物は、真っ赤な朱で覆われた木口石のキャンバスに、窮屈な姿勢で、しかも丸みのある工具で押さえつけるようにして線を引いているのですから、本人にとってもどんな仕上がりで方相氏が描かれているのか確認できません。なぜなら赤に赤の線を押し付けているのですから。描かれた線はあいまいな輪郭となって、何を描いているのか私たちにはきわめて判別が難しいのです。いえ、きっと本人もその出来栄えはわからなかったでしょう。ということは、この絵が決して人に見せるための絵ではなかった、つまり、「墓に侵入する悪霊を追い払う方相氏を描く」ということ自体が大切な儀式がこの場で行われたことを物語っているのです。上で述べた順番で10~12の作業のどこかでムラびとを集めての葬儀が執り行われたことでしょう。皆さんだったら何番目に葬儀の行為を入れますか? (次号に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。↓ここをクリックしてください。 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0■日本考古学協会の要望書日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回) 城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか? ☛①2020/8/2 ②8/10 ③8/17第2章 発掘調査の内容(未定) 発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか? ☛①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8 ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16⑳8/6第3章 注目すべき事実(6回) 城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか? ☛①2021/8/30(今回)第4章 立ち退かされた弥生人(4回) ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?第5章 遺跡保存への道のり(3回) 発掘担当者の悩みと苦しみ第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回 守ることと伝えること…第7章 立ちはだかる壁(4回) 行政判断の脆弱さを問う最終章 帰ってきた弥生人(3回) 新たな歴史の誕生※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・