帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-

第2章 発掘調査の内容⑬ “出そろった玉作り工房の道具たち”

 

玉作り工房の報告がまだまだ続きますが、大発見と思っているのでもう少しお付き合いください。

 

H16は2本の棟持ち柱で支える構造の竪穴住居で、周囲に幅10㎝の周溝がめぐり、中央に二つの炉、北側の隅に小さな四角いベッドをもっていました(写真1図1)。炉は直径50㎝の円形のものと、88×72㎝の楕円形のものが接するように設けられています(写真2)。

 

■写真1 H16の床面清掃状況

中央に二つの炉、その両側に棟持ち柱(主柱穴)がみられる。また手前の長方形はH16に切られたH29の住居。壁寄りに入口土坑が存在する。

 

■写真2 H16の二つの炉

中央部に炭の詰まった穴が接して見つかっている。同時に使用されていると考えられるため、何らかの使い分けがなされたものであろう。周囲にはたくさんのチップが散乱している。

■図1 H29の入口土坑とH16

 

 

通常の住居では、炉が二つある場合は重なり合ってみつかることが多いのですが、この住居は同時に機能していたと考えられ、この点でも何か特殊な使い方をしていたと考えています。そして、床面をさらに詳しく調べると、南側中央付近に径48×40㎝、深さ20㎝の円形のピットが見つかりました。位置的には小さい方の炉と一直線に並ぶ位置にあります(図1の緑色部分)。

 

私は、当初入口部分に設けられた土坑だろうか、とやや疑問に思いながらも掘り進めることにしました。H16に切られたH29を見て下さい(図1の青色部分)。入口土坑は住居の中に入るのに、壁の高さが本来は80〜100㎝くらいはあるので、梯子を掛けて下りていくための固定用に穿(うが)たれた方形の穴ですが、ふつうはこのように周囲の周溝とつながっているので、排水の機能も果たしているものです(写真3)。

 

■写真3 H5で見つかった入口土坑と周溝

入口土坑は、壁面の周溝とつながっており、溝に溜まった水を集めてくみ出すのに便利である。中央は炉である。

 

 

つまり、壁面に密着してつくられ、大きさも80㎝くらいある長方形土坑がほとんどなのですが、H16のピットは小さくて、円形に近い………ここでも、この住居の特殊性が表れています。

 

ピットを掘り下げていくと、中から奇妙な遺物が出てきました。割れた土器のかけらなのですが、その表面にはこすったことで出来た幅5㎜くらいの溝が何カ所もつけられているのです(写真4)。また、割れ口をみると、工房H10でも紹介しましたが、周囲になにやら磨いたというかこすったというか、割れ口がすり減った破片がたくさん見つかったのです。

 

■写真4 「高島式」土器の高坏

高坏内面に溝状の凹みがたくさん見られる。管玉の直径に合うため、玉磨きのために外面をこすりつけたものと考えている。上二つは外反した口縁部で、「高島式」を特徴づけている。

 

 

前々回のブログではH10から出土した同様な遺物についてお話ししましたが、同じような土器のかけらが、H10とH16から見つかる………。私はこの遺物が玉作りに利用された道具の一つに違いないという考えがさらに強くなったのです。

 

しかも、これらの土器のかけらには口縁部(口の部分)が含まれており、その形態から弥生時代の終わり頃(後期終末)にこの地域で特徴的な「高島式」というタイプの高坏であることがわかりました。写真5に示すような形をしている高島式土器は、弥生時代後期の後半ごろから作られ始め、古墳時代の初め頃までの約70年間使用された土器で、口の部分が外側に反って湾曲した形をしているので、見ればすぐそれとわかります。

 

■写真5 形が特徴的な「高島式」の高坏

豊前地域の特徴を示す「高島式」土器の高坏。

玉作り職人の出身地も城野遺跡のある豊前地域だったのだろうか。(弥生時代終末期)

 

 

そして、私が夢にまで見た(?)遺物も一緒に出土したのです。それは玉作りが行われたことを証拠づける遺物、筋砥石です。写真6にあるように、高島式高坏のかけらに混じって、中央に細い溝が設けられた部分が目に飛び込んできました。

 

■写真6 筋砥石の出土状況

砥石の中央にU字形の溝がみられるため、管玉の外面を研磨したものと考えられる。

 

 

これは管玉というストローみたいに孔の空いた玉でその外面を磨いたために溝が出来たと考えられています。この出土状況はだれが見ても土器と筋砥石が同時にこのピットに納められた、あるいは捨てられたと思えるものなのです。このような見つかり方をする遺物を考古学では「共伴関係にある」と呼びます。

 

この時私は、なんと自分は幸運な人間だろうか、と思いました。ささやかな喜びかもしれませんが、「考古学をやっていて良かった」という気持ちが湧いてきたのを今でも覚えています。

 

もうひとつ忘れていました。このピットからも多数の水晶製、碧玉製チップが出土しています。ですから、このピットは玉作りに関わる何らかの用途に使用されたと考え、「工作用ピット」と名づけました。たとえばこのピットに玉作りに必要な道具類をしまっていた、あるいは玉の素材を蓄えていた、またはこの穴に何かを固定して作業しやすい土台(作業台)のようなものをつくっていたなど………。想像は色々出来ますが、はっきりした使い方はわかりません。

 

この玉作り工房をイメージしたのが図2に示すイラストです。水晶や碧玉を素材に数名の職人が小さな玉作りに励んでいたのではないでしょうか。

 

■図2 玉作り工房の想像図

炉を囲んで3人の玉作り職人が作業をしている。それぞれ工程ごとに受け持ち分担があったと思われ、水晶、碧玉のチップや未完成品の出土位置にも片寄りが見られた。

 

 

調査終了後にはこの住居の中に埋まった土をすべて持ち帰り、水で洗浄してふるいにかけ、小さなチップ類やその他の遺物を探しました。土のう袋で700個もある土を洗い始めてまもなく、私はさらに驚きの遺物と遭遇することになったのです。(次回に続く)

 

 

【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 

1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師。

 

 

■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)

発掘調査当時の感動がよみがえります。ぜひご覧ください。

ここをクリックしてください。

https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0.

 

 

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城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次

-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日

 

第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回

     城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか?

     ☛ ①2020/8/2 ②8/10 ③8/17

第2章 発掘調査の内容(12回予定)

     発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか?

     ☛ ①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8

      ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫1/25

      ⑬2/16(今回)

第3章 注目すべき事実(6回予定)

     城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか?

第4章 立ち退かされた弥生人(4回予定)

     ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?

第5章 遺跡保存への道のり(3回予定)

     発掘担当者の悩みと苦しみ

第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回予定)

     守ることと伝えること…

第7章 立ちはだかる壁(4回予定)

     行政判断の脆弱さを問う

最終章 帰ってきた弥生人(3回予定)

     新たな歴史の誕生

 

※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。

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