城野遺跡は、1800年前の弥生時代の大規模集落、九州最大規模の方形周溝墓、真っ赤な水銀朱が塗られた幼児の石棺2基、北部九州で2例目の玉作り工房などが発見されており、すぐ近くには2016年8月に国の重要文化財に指定された祭祀用の広形銅矛が出土した重留遺跡があります。
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章 注目すべき事実⑦ “九州の玉作りフロンティア2”※前回の連載29(2022.2.8)から4ヶ月半ぶりと大変遅くなったことをお詫び申し上げます。佐藤氏の原稿は届いていたのですが、ブログ担当者の多忙により投稿が遅くなりました。引き続き連載は続きますので今後ともよろしくお願いいたします。また、6/22に公開した新しい動画「城野遺跡 実録80分」を添付していますので、ぜひご覧ください。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城野遺跡の玉作りが、九州のどの遺跡よりも先んじて開始されたと考える根拠はまだあります。玉作り工房H10から北西14.5mのところに築かれた弥生時代の袋状貯蔵穴(写真1、図1)の中から、水晶製玉類の素材となる円礫の一部や剝片、それが飛び散ったチップ、珪化木(けいかぼく)、敲打具(こうだぐ 石を叩いて割るための道具)などが出土しました(図2)。■写真1 城野遺跡5号貯蔵穴土器出土状況土器は貯蔵穴の中間位置でまとまって出土しており、玉関連遺物はこの土器群のすぐ下からみつかっている。■図1 城野遺跡5号貯蔵穴実測図貯蔵穴は断面が袋状(フラスコ状)を呈しており、その中央付近のアミがかかった部分に土器が大量に見つかっており、その下位から玉関連遺物が出土しているため、決して後の時代の混入ではない。■図2 城野遺跡5号貯蔵穴出土玉関連遺物上段の12は水晶の素材の剝片、13は水晶の飛び散った破片、14はメノウの小さな原石。下段の5は石材を割ったり叩いたりする敲打具。いずれも玉作りに必要な遺物である。これらは写真1に示す土器の下位から出土しており、土器とほぼ同じ時期に捨てられたか、混じり込んだものと判断できます。そしてこれらの土器は須玖Ⅱ式という、この地域で弥生時代中期後半(今から約2100年前)を中心とする時代のものであることがわかるのです。残念ながら、この時期の玉作り工房は見つかっていませんが、山陰地域の玉の原材料である花仙山産の碧玉を手に入れるずっと前から、城野ムラでは、地元の水晶山(小倉南区貫所在)に産出する水晶(写真2)を利用して玉作りに挑んだ人々がいたことは間違いありません。■写真2 水晶山で採取した水晶(石英)純度が低く透明感がないので、石英に分類される。これでは玉作りに使えない。全国的に見ても、水晶を加工して玉類を製作した弥生時代遺跡は少なく、富山県江上(えがみ)A遺跡、京都府奈具岡(なぐおか)遺跡、鳥取県西高江(にしたかえ)遺跡、島根県平所(ひらどころ)遺跡、福岡県糸島市潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡など、いずれも日本海側に位置する遺跡ですが、江上A遺跡は後期後半、奈具岡遺跡は中期中頃、西高江遺跡が中期末〜後期前半、平所遺跡は後期終末期、潤地頭給遺跡は後期終末〜古墳時代初期と考えられており、さっき述べたように、城野遺跡の貯蔵穴から出土した水晶製素材やチップが玉作りを行った証拠と認めるならば、城野遺跡での玉作りの開始は丹後地域に所在する奈具岡遺跡とほぼ同時期となり、日本列島でも極めて早い段階のものとなるのです。もうひとつ、是非ともご紹介しておきたい遺跡が城野遺跡の近くにあります。小倉南区高坊遺跡は城野遺跡の北東側650mの低い台地上に位置しますが、図3、写真3に示すように、円形の1号竪穴住居の中央に設けられた土坑(炉跡?)を中心に石錐(石針?)が66点、また住居床面各所からは690点の赤色チャート、玉髓(ぎょくずい)、ジャスパー、メノウなどの石材が出土しました(●部分)。発掘担当者は、最初気づかずに土坑を掘り進めていたため、もともとは数百点の石錐が存在していたと思われます。また、それらの石材はすぐ近くを流れる紫川河口部付近で採取できるものであると、石材鑑定者が語っています。■図3 高坊遺跡1号住居実測図(●点部分は石針出土地点)円形住居の中央にある円形土坑を中心に石錐が大量に出土した。帯状にまとまっているのは、土層ベルト内に大量に含まれていたからだ。本来は円形土坑の全体に存在していたらしい。その他の箇所には石材片が散乱していた。■写真3 高坊遺跡1号住居石錐出土位置写真みつかった箇所に1点ずつつまようじを突き刺さしている。円形土坑(右側円形部分)は炉と思われるが、火を炊いた痕跡(焼土や炭など)はなかった。図4がその石錐ですが、いずれも長さ0.9〜2.0㎝、幅3.1〜8.9㎜で似たような形をしており、先端を尖らせているものが多く見られます。そしてその形状は、まさに奈具岡遺跡でみつかったメノウ、碧玉、鉄石英製の石錐にそっくりなのです(図5)。ただ、その大きさは高坊遺跡の石錐と比べると、長さ0.75㎝〜1.25㎝、幅2.6〜4.6㎜とかなり小さいですね。■図4 高坊遺跡1号住居の石錐先端を尖らせており、回転させながら石材に孔を開けるため、消耗が激しい。よってたくさんの代替品が必要となる。形態は奈具岡遺跡出土品と酷似している。■図5 奈具岡遺跡の石錐高坊遺跡出土品よりひとまわり以上小さい。より機能的に進歩しているようだ。しかし時期的には高坊遺跡が奈具岡遺跡より約200年古く、水晶の玉類の製作技術はここから丹後地域に伝わった可能性もある。さて、この住居からはわずかな弥生土器しか出土していないため、正確な時期がわからないのですが、住居の覆土から出土した土器に朝鮮系無文土器によく似た土器の口縁部がみつかっていることや、住居周辺の土坑から出土した遺物がほとんど弥生前期後半に属することから、1号住居は弥生時代前期後半と考えてもいいと思います。すると、この住居では、なぜこんなにたくさんの石針を製作しなければならなかったのでしょうか?この時代、もうひとつ石に孔を開けて使う道具には石庖丁がありますが、その孔の直径は7㎜前後もあり、玉類の孔の直径はせいぜい2〜3㎜ですから、まったく合いませんし、石庖丁の穿孔(せんこう 孔をあける作業工程のひとつ)にはふつう先端が太くて丸いドリル状の回転工具を使うため、やはりこれらは玉作り用の石錐と考えられるのです。玉類の穿孔にはたくさんの石錐・石針を使い消耗が早いので、大量に準備をしておかないと間に合わないのです。以前に紹介した城野遺跡の鉄錐についても同様で、水晶製や碧玉製の玉に孔を開けるため、130本近くもの鉄錐がみつかっているのです。したがって、私は高坊遺跡のこの住居を玉類製作のための道具である石錐を専門的に作る工房だったと考えているのです。玉自体を作る工房だったら、城野遺跡のように玉の未完成品、破損品や失敗品が必ず見つかるはずです。このことから、玉製作に関する分業化という新たな視点も開けてきます。つまり、弥生時代前期後半段階には城野遺跡、高坊遺跡付近で玉作りを行っていた可能性が高い、そして北部九州で最も早く高度な玉製作技術を取り入れた集団がここにいたということにほかならないのです。(次回に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師、日本考古学協会会員■動画「城野遺跡実録80分『弥生墓制の真の姿』」(2022年6月公開)新作です!この動画は、佐藤浩司氏が九州最大級の方形周溝墓で発見された幼児の箱式石棺2基の発掘調査を2ヵ月半、約3時間撮り続けたビデオ記録を約80分に編集したものです。佐藤氏のコメントとともに現場の声や音もはいっており、発掘調査の歴史的瞬間の感動がよみがえります。↓をクリックしして、ぜひご覧ください。https://youtu.be/qafp00zCTzQ?t=10■動画「城野遺跡 朱塗り石棺の謎」(2017年1月公開)城野遺跡の重要性を多くの方々に知っていただくために、城野遺跡の全体像が分かるように、上記の発掘調査のビデオ記録を約14分に編集したものです。↓をクリックしてご覧ください。https://youtu.be/QxvY4FBnXq0■日本考古学協会の要望書日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回) 城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか? ☛①2020/8/2 ②8/10 ③8/17第2章 発掘調査の内容(20回) 発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか? ☛①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8 ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6第3章 注目すべき事実(未定)? ☛①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28 ⑤2022/1/8 ⑥2022/2/7 ⑦2022/6/25(今回)第4章 立ち退かされた弥生人(4回) ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?第5章 遺跡保存への道のり(3回) 発掘担当者の悩みと苦しみ第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回) 守ることと伝えること…第7章 立ちはだかる壁(4回) 行政判断の脆弱さを問う最終章 帰ってきた弥生人(3回) 新たな歴史の誕生
2009年~2011年に北九州市小倉南区の城野医療刑務所跡地の発掘調査で発見された弥生時代後期(1800年前/邪馬台国時代)の城野遺跡。九州最大級の方形周溝墓と水銀朱(中国産)がたっぷりと塗られた幼児の箱式石棺2基、石棺に描かれた「方相氏」ともいわれる絵画文様、九州2例目の玉作り工房などが見つかり、日本考古学協会が発見当時から国県市に3回も「現状を保存し、史跡として整備・活用を求める」要望書を提出するなど、学術上極めて重要な遺跡です。そして、2020年3月、方形周溝墓は「地域の有力者に関係する人物が埋葬されたと考えられ、城野遺跡から見つかった九州2例目の玉作り工房の存在も含めて、邪馬台国と同年代の『クニ』の実態を知る上で重要」と評価され、福岡県史跡に指定されました。この動画は、九州最大級の方形周溝墓で箱式石棺2基が発見され、「世紀の発見があるかもしれない」と判断した発掘調査担当の佐藤浩司氏が2ヵ月半、約3時間撮り続けたビデオ記録を約80分に編集したものです。城野遺跡の発掘調査の唯一の録画であり、当時の佐藤氏のコメントや現場の声や音も入っており、城野遺跡発掘調査の感動がよみがえってきます(下記に添付しています)。開発によりほぼ全域が消滅した今、発掘調査の歴史的瞬間を撮り続けたビデオ記録は城野遺跡の貴重な証しです。ぜひご覧いただき、城野遺跡の大切な現地である「城野遺跡公園」も訪ねてください。~城野遺跡方形周溝墓の発掘記録ビデオに託する思い~ 撮影者 佐藤浩司氏学術的に極めて重要な発見、めずらしい遺物の出土、驚くほどの美しい輝きとの遭遇…。私は、発掘調査に携わって本当に感動したことをカメラにおさめ、ノートに記録してきました。これは自分がその現場に立ち会えたという感動とともに、後で振り返り、人に伝え、また検証できるようにとの思いからです。城野遺跡の方形周溝墓の発見、そして自分が担当した玉作り工房の発掘はまさにその感動そのものでした。幸いビデオカメラが私の手元にあったため、方形周溝墓に眠る二人の人物を発見する瞬間、泥に埋もれているのかいないのかを記録に残したいと思い、箱式石棺の蓋を開ける前からビデオを回しはじめたのです。ビデオはいずれ発掘調査の記録として、たくさんの人に見てもらいたい、そのためには自分が何を撮っているのか、説明できなければなりません。ですから、ビデオには私の音声がほとんど絶え間なく流れてくるものと思います。お聞き苦しい部分も多くありますが、言い間違えても、解釈や予測が違っていてもいい、それを記録に残し、誤りに気づいたらビデオを通して修正すればいい、そうしたコンセプトで2カ月半、3時間の録画を重ねました。今回、その全編を80分に縮めました。加工や修正は極力行っていません。ですので、発掘のとなりで見学している気分をぜひ感じてご覧いただければ幸いです。 【佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。 ●動画「城野遺跡 実録80分 『弥生墓制の真の姿』」(2022年6月公開)です。発掘調査の歴史的瞬間から目が離せません。↓をクリックして、ぜひご覧ください。https://youtu.be/qafp00zCTzQ?t=10●動画「朱塗り石棺の謎」(2017年1月公開)も城野遺跡の全体像がわかるようにこの発掘調査のビデオ録画を約14分に編集したものです。↓をクリックして、ぜひご覧ください。現在、視聴回数13万回を突破しました。https://youtu.be/QxvY4FBnXq0■動画「城野遺跡 実録80分『弥生墓制の真の姿』」のタイトル画面■方形周溝墓での葬儀の様子の想像図。幼い二人の子どもを相次いで失い、悲しみに暮れる母親。■九州最大級の方形周溝墓の発掘調査時の航空写真。■幼児の箱式石棺2基の発掘の様子。■箱式石棺の木口石(こぐちいし)に描かれた「方相氏」(子どもを悪霊から守る役人)とも言われている絵画文様■城野遺跡の主な遺構と市が整備した「城野遺跡公園」の範囲。※市は整備中は「(仮称)城野遺跡史跡広場」の名称を使用していましたが、オープン直前に「城野遺跡公園」の名称に決定しました。■2017年12月までの城野遺跡の様子。足立山を望む広大な丘陵地に広がっていました。■2018年1月に西エリア(道路の向こう側)の、2019年2月に東エリア(道路の手前側)の造成工事が始まり、城野遺跡はほぼ全域が商業施設とマンションになりました。唯一現地が残った「方形周溝墓」は道路手前の左側にあります。
「城野遺跡公園を実現する会」(以下「実現する会」)は、2014年9月に活動開始した「城野遺跡の現地保存をすすめる会」(以下「すすめる会」)を引き継ぎ、2018年2月12日に発足しました。「すすめる会」「実現する会」の7年8ヵ月にわたる城野遺跡の保存運動を通して、城野遺跡の全滅を阻み、九州最大級の方形周溝墓の現地が保存され、福岡県史跡に指定後、遺跡公園として整備されたことは大きな成果ですが、4/26にオープンした「城野遺跡公園」は広さもその内容も発掘調査の担当者、考古学の専門家、私たち市民の願いとは大きくかけ離れたものであり、北九州市の埋蔵文化財行政の実態を象徴しているかのようです。しかし、北九州市が大和ハウス工業(株)から土地を譲り受け、約9000万円をかけて整備した「城野遺跡公園」は、貴重な市民の財産であり、市内外の方々が訪れ、北九州市の邪馬台国時代の歴史に触れていただくことを願う思いに変わりはありません。「城野遺跡公園」が完成したこと、会のあり方の見直しもあり、「実現する会」は5/8の第5回定期総会で解散し、その活動を発展的に引き継ぎ、「城野遺跡の会」を発足しました!~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「城野遺跡の会」の目的 (会則第3条より)九州でもまれにみる巨大な弥生時代方形周溝墓と玉作り工房がみつかり、福岡県指定史跡にも 登録された城野遺跡は、郷土の歴史と文化を学ぶことができるたからものである。このたび「城野遺跡公園」として整備・公開されたことを機に、周辺の遺跡群との関連性を重視するなかで、さらに一体的な保存と活用をめざし、地域の歴史や文化を大切にするまちづくりに寄与するための活動を行うことを目的とする。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「城野遺跡の会」は、長年にわたる「すすめる会」「実現する会」の活動を糧に、新たな会の目的の達成にむけて引き続き活動を続けます。何かと困難もありますが、城野遺跡でつながった会として、情報発信しながら、やれること、やりたいことに取り組んでいきたいと思っています。今後ともよろしくお願いします(^^)/~~~※5/8第5回定期総会終了後、オープンしたばかりの「城野遺跡公園」見学会を開催しました。その後すぐ近くにある「重留遺跡公園」も見学しました。次回に掲載します。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)「城野遺跡公園を実現する会」がつくった動画です。城野遺跡発掘調査の唯一のビデオ録画(約4時間)を城野遺跡の全体像がわかるように編集したものです。ぜひ、ご覧ください。 ↓ここをクリックしてください。https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0■5/8第5回定期総会の様子。会員の過半数(委任状を含む)の出席で無事成立しました。第4回定期総会以降の「活動報告」「会計報告」「『実現する会』の解散と『城野遺跡の会』発足の各議案が提案され、全員賛成で採択されました。これからは、「城野遺跡の会」として活動を続けます。コロナ禍で会場も二人かけの机が一人ずつに制限されています。■「城野遺跡公園を実現する会」発足を知らせるチラシ■「城野遺跡公園を実現する会」の主な企画案内チラシ 「実現する会」の企画は、城野遺跡の発掘調査担当者だった佐藤浩司氏(埋蔵文化財調査室前室長/日本考古学協会埋蔵文化財保護対策前委員)のご協力なしには開催できなかったと改めて感謝しています。なお、コロナ禍により、2020年、2021年は企画がなかなか開催ができませんでした。<2018年3月24日><2018年6月24日><2018年6月29日><2018年8月26日><2018年12月2日>↓上記チラシの裏面<2019年4月14日><2019年5月26日>※上記チラシの裏面<2019年11月4日> ※「八幡市民会館の活用を求める連絡会」と共催↓上記チラシの裏面<2019年10月20日><2019年12月8日><2020年2月23日><2020年7月5日><2020年10月4日><2020年11月8日><2022年1月23日><2022年5月8日>
2009年~2011年の広大な城野医療刑務所跡地の発掘調査で発見された弥生時代後期(1800年前/邪馬台国時代)の城野遺跡。かろうじて現地が保存された方形周溝墓が「福岡県指定史跡/城野遺跡公園」としてオープンしました!発見当時、全国的に注目され、現地見学会には約600名が参加し、北橋健治市長も視察し、日本本考古学協会や九州考古学会も国県市に「現状保存し、史跡として整備・活用」を求める要望書を出すほど、学術上極めて重要な遺跡でした。北九州市は国(財務省)と2年にわたり保存交渉をしましたが、最後まで土地取得を要望しなかったため、国の一般競争入札により2016年3月に大和ハウス工業(株)に売却され、開発による消滅の危機に瀕しました。「城野遺跡公園を実現する会」(旧 城野遺跡の現地保存をすすめる会)は、城野遺跡や市内の弥生遺跡の重要性や魅力を広く知ってもらうために講演会や学習会、連続講座の開催、大和ハウス工業(株)との懇談や活動報告、ブログや会報での情報発信等しながら、繰り返し市長や市議会に要望、陳情しましたが、2018年1月に東エリアが工事着工により全滅、2019年2月に西アリアもほぼ全域が破壊され消滅しました。同時に、大和ハウス工業(株)は城野遺跡の重要性と市民の保存運動に配慮し、西エリアの方形周溝墓部分を市に無償譲渡したことにより、市は「(仮称)城野遺跡史跡広場」の整備計画を進めました。しかし、市が購入した土地は方形周溝墓の保存に必要な最小限の面積しかなく、1800年前の弥生人が眺めていた足立山の全貌は見えなくなり、真横には10階建てのマンションが建ちました。「実現する会」は狭いながらも城野遺跡と周辺の遺跡に刻まれた歴史と文化を学び、語り継ぐ大切な場所であり、よりよい遺跡公園へとイメージ図をつけて提案し、市も整備計画について事前に説明し意見を聞くと何度も話していましたが、その説明は着工直前でした。しかも、整備計画の内容は遺跡全面がアスファルトやウレタン樹脂に覆われ、1800年前の遺跡とは程遠く、すぐに抗議、要望しましたが聞く耳はなく、2020年8月に舗装・外柵の整備工事が始まりました。やり直しも含めて整備計画の見直しを求めましが、2022年2月から展示工事も始まり、4月26日に「城野遺跡公園」の名称でオープンし、記念式典が開催されました。私たちが記念式典の開催を知ったのは開催日の1週間前。文化企画課によると、市政だよりには掲載せず、マスコミにも案内していない、北橋健治市長は別の式典に参加するため欠席、案内状を送ったのは教育文化委員会委員と周辺の自治会、学校とのことでした。市は城野遺跡が北九州市の歴史を語るうえで重要な遺跡と何度も繰り返しながら、最初から最後まで、その保存活用はもちろん、地域や市民への周知にも極めて消極的でした。城野遺跡の全滅を回避し、遺跡公園として保存整備されたことは大きな成果ですが、完成した「城野遺跡公園」をみると、北九州市の埋蔵文化財行政の無責任さを象徴しているかのようです。記念式典の最中は土砂降りだった雨が、終わるころには小雨になっていました。なんだか1800年前の弥生人の嘆きの涙に見えました。しかし、大和ハウス工業(株)から土地を譲り受け、約9000万円をかけて整備した「城野遺跡公園」は市民の財産であり、市内外の方々が訪れ、北九州市の邪馬台国時代の歴史に触れていただくことを願う思いに変わりはありません。ぜひ、北九州市の邪馬台国時代のクニの歴史が刻まれた「福岡県指定史跡 城野遺跡公園」を訪ねてください。※ブログ担当者の多忙により、なんと3ヵ月ぶりの投稿となりました。まだまだ情報発信しますので、今後ともよろしくお願いします<(_ _)>~「城野遺跡公園」と「城野遺跡オープニング記念式典」のご報告~<日時> 2022年4月26日(火)10時から10時30分ころ<場所> 福岡県指定史跡「城野遺跡公園」<来賓> 大和ハウス工業北九州支社常務理事、教育文化委員会(委員長、副委員長、委員2名 ※委員10名のうち参加は4名のみ)、小倉南区自治総連合会会長、北方校区中城野自治会会長、城野校区南自治連合会会長、霧ヶ丘南校区自治連行会及び霧ヶ丘南校区重住町自治会会長、城野校区新富士見町自治会副会長、北方小学校校長、企救中学校校長、福岡県教育委員会文化財保護課技術主査、公益財団法人北九州市芸術文化振興財団理事長(紹介された順)<スケジュール> ※30分程度1 市民文化スポーツ局長の挨拶2 教育文化委員会委員長(来賓代表)3 来賓者の紹介4 オープニングテープカット5 「城野遺跡公園」の説明(テント内)6 「城野遺跡公園」の説明(方形周溝墓上)●雨でなければ舞台になった場所。なお、これは記念式典終了後の写真です。●来賓のみなさん、毎日新聞の記者、「実現する会」会員。翌日、毎日新聞に記事が掲載され、唯一の報道となりました。●ずーっと雨でしたが、オープニングテープカットのときは土砂降りになりました。なんだか1800年前の弥生人の嘆きの涙にも見えました…。●園内に設置された3枚の説明板。内容はともかく、年代が元号表示しかなく、西暦の併記を指摘しましたが修正が間に合わなかったようです。このままでは後世の人々には年代がわかりにくいですね。●出入口からみた城野遺跡公園。3段に分かれていますが、一番奥の小高い真っ平らな部分が方形周溝墓です。●一番奥の方形周溝墓側から撮った城野遺跡公園。方形周溝墓部分だけでも芝など自然な舗装であれば、まわりと明らかに区別され大切に復元された遺跡だと伝わるのではないかと思うのですが…。芝での舗装も検討したが管理と費用が大変ということでアスファルト舗装にしたそうです。●九州最大級の方形周溝墓。まわりの濃い茶色のラインは周溝を示しているそうです。●高価な水銀朱がたっぷりと塗られた幼児の箱式石棺。当初「石棺内部は掘り下げることはできない、下には埋め戻している遺構があるし、排水溝を作らないといけなくなる。石棺は舗装面の上に乗せる」と説明していましたが、結局、石棺内部に排水溝が設置され「実現する会」が要望したような形になっていたのはよかったです。●この段には「玉作り工房」を復元予定と聞いていましたが、屋根のある椅子が設置されました。丸いのは方位盤です。●方位盤。「実現する会」の提案でしたがイメージが違っていました。●「城野遺跡公園オープニング記念式典」終了後の様子。土砂降りだった雨が小雨になっていました。雨の中、お疲れ様でしたた。●「城野遺跡公園」の真横には10階建てのマンションが建っています。●当日撮った写真。このゆめマート城野店の店舗も駐車場も、道路も、手前の駐車場も、写真を撮ったお店の建物も、すべてが城野遺跡です。ほぼ全てが破壊され消滅しました。「城野遺跡公園」は手前の駐車場の左側のマンションの隣にあります。●2017年12月までの城野遺跡。足立山を望む広大な丘陵地に広がっていました。●城野遺跡の主な配置図。北九州市で初めての「人々が集い、学び、歴史体験できる本格的な遺跡公園」を実現する最後のチャンスだったのではないかと、心底残念です。●当日配布された資料■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)この動画も発掘調査のビデオ録画の一部(映像のみ)を使用しながら、城野遺跡の全体像がわかるように編集されたものです。ぜひ、ご覧ください。 “朱塗り石棺の謎”は↓ここをクリックしてください。https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0
※2/8記事の再投稿です。最も重要な「図3」を添付し忘れていました。ご覧いただいた方も、再度ご覧いただけると幸いです。城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章 注目すべき事実⑥ “九州の玉作りフロンティア1”この連載の第2章では数回にわたって、城野遺跡でみつかった玉作り工房について、その希少性と重要性を述べてきましたが、もうひとつ大切な事実をお話しするのを忘れていました。それは、城野遺跡の玉作りの開始が糸島市でみつかった潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡のそれよりも若干古いのではないかということ、そして、九州での玉作りの始まりは、ここ北九州市からはじまったのではないかということです。まずは前者の問題を取り上げたいと思います。時代の新旧(先後)関係は、もし土器が一緒に出土していれば、土器の形態やセット関係で決めることが出来ます。とくに弥生時代の土器では高坏の形態に注目すれば、その変化の方向がわかるとされているのです。潤地頭給遺跡の高坏の形状(写真1)を見て下さい。口縁部が大きく開き坏部の長さが長くなっています。そのため坏部の深さが浅くなるのです。一方、城野遺跡の高坏(図1)は破片でわかりにくいかもしれませんが、口縁部の外反度がきつく、坏部の深さもやや深いのです。この変化はさらに前後の形式を並べればよくわかります(図2)。■写真1 潤地頭給遺跡の玉作り工房から出土した土器群左下の高坏の坏部形態が最も時代を反映しているが、口縁部で大きく開き坏部が長く浅い傾向があるため、城野遺跡の高坏より新しいと考えられる。■図1 城野遺跡の玉作り工房から出土した高坏上段がH10出土、下段がH16出土。どちらの高坏の口縁部も短く強く外反し、潤地頭給遺跡のものより古い傾向をもっている。■図2 高坏の形態変化口縁部の外反度と開き具合を比べてほしい。古墳時代になるとさらに直線的に大きく開いている。また、潤地頭給遺跡では、玉作り工房(写真2)と同時期の井戸が見つかっており、その中から出土した土器(写真3)を見ると、壺や甕に丸底の底部が多く、外面に細いタタキをもつ畿内系の甕も一緒に出土しています。これは庄内式土器と言って、古墳時代初頭に近い時期のものとされており、明らかに城野遺跡の玉作り工房で出土した土器群よりも新しい様相なのです。つまり潤地頭給遺跡では、弥生時代終末期から古墳時代初期のあいだに玉作りが行われていたわけです。そうなると、城野遺跡の玉作りは潤地頭給遺跡よりも前に開始されたといえないでしょうか。■写真2 潤地頭給遺跡の玉作り工房工房の周囲には溝を巡らしており、城野遺跡の工房とは形態も異なる。このような工房が合計30軒ほど築かれ、まるで玉作りコンビナートのようだ。■写真3 潤地頭給遺跡の井戸から出土した土器群井戸の側板は船の廃材を利用して築かれていた。山陰や北陸へ向けて何度も航海してきたのであろうか。土器は薄手で、底部が丸底のものが多く、畿内地域の古墳時代初期の特徴を持つ甕(中央)も見つかっている。城野遺跡の玉作り工房でみつかった碧玉製管玉のチップ(破片)を蛍光X線分析したところ、その多くが島根県出雲地域にある花仙山産の碧玉であることがわかりました。また、玉作り工房から東に33m離れた位置で新潟県糸魚川産のヒスイの勾玉とともに出土した碧玉製管玉も花仙山産でした。つまり、玉の製品や石材が日本海を対馬海流と逆ルートで城野遺跡にもたらされた可能性が極めて高く、このルートの先に潤地頭給遺跡が位置しているのです(図3)。■図3 製品・石材の流れ弥生時代のさまざまな文化が対馬海流にのって東へ伝わっていったが、中期以降玉作り文化は、北陸地方や畿内の日本海側、また山陰地域の遺跡から製作技術が石材と共に北部九州へと伝わった。日本海逆ルートとでも呼ぶにふさわしいなかで、城野遺跡での玉作りが弥生時代終末期に始まったのである。このように考えると、交易で手に入れた花仙山産碧玉をいち早く管玉に加工する技術なり、技術者を受け入れ、玉作りに励んだのは城野集落だった……そしてその技術は日本海逆ルートを介して伊都国の中心地に近い潤地頭給遺跡に伝えられ、あるいは城野遺跡とほぼ同時にかもしれませんが、そこで大規模かつ専業的に玉作りを行うようになったと考えられないでしょうか。残念ながら城野遺跡では、集落のうち2軒の工房でのみしか玉作りを行っておらず、集約的な生産体制はとらなかったようですが、一方で地元産石材である水晶製の算盤玉を主力製品として生産する体制を築いたのです。しかし、出土した土器の形式をみると、その期間は長くは続かず、弥生時代終末期(高島式期)のほんの数十年間であったと考えられます。城野遺跡の碧玉の剝片をみると、原石に近い大きさの破片が全くなく、粗く割った比較的小型段階の素材しか出土していません。一方、潤地頭給遺跡では碧玉の原石をはじめ、大型の粗割段階の素材が多数持ち込まれているのです。このことは、城野遺跡とは別に、おそらく紫川流域の河口付近の場所に、碧玉の原石を山陰出雲地域から運び入れた中継地点のような遺跡が存在した可能性を示唆していると考えます。城野遺跡の玉作りは流域の中継集落とのネットワークのうえに成り立っていた、言いかえればそれが出来るほどの有力拠点集落だったのです。 (次回に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。↓ここをクリックしてください。 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0■日本考古学協会の要望書日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回) 城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか? ☛①2020/8/2 ②8/10 ③8/17第2章 発掘調査の内容(未定) 発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか? ☛①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8 ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6第3章 注目すべき事実(6回) 城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか? ☛①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28 ⑤2022/1/8 ⑥2011/2/8(今回)第4章 立ち退かされた弥生人(4回) ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?第5章 遺跡保存への道のり(3回) 発掘担当者の悩みと苦しみ第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回) 守ることと伝えること…第7章 立ちはだかる壁(4回) 行政判断の脆弱さを問う最終章 帰ってきた弥生人(3回) 新たな歴史の誕生※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章 注目すべき事実⑥ “九州の玉作りフロンティア1”この連載の第2章では数回にわたって、城野遺跡でみつかった玉作り工房について、その希少性と重要性を述べてきましたが、もうひとつ大切な事実をお話しするのを忘れていました。それは、城野遺跡の玉作りの開始が糸島市でみつかった潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡のそれよりも若干古いのではないかということ、そして、九州での玉作りの始まりは、ここ北九州市からはじまったのではないかということです。まずは前者の問題を取り上げたいと思います。時代の新旧(先後)関係は、もし土器が一緒に出土していれば、土器の形態やセット関係で決めることが出来ます。とくに弥生時代の土器では高坏の形態に注目すれば、その変化の方向がわかるとされているのです。潤地頭給遺跡の高坏の形状(写真1)を見て下さい。口縁部が大きく開き坏部の長さが長くなっています。そのため坏部の深さが浅くなるのです。一方、城野遺跡の高坏(図1)は破片でわかりにくいかもしれませんが、口縁部の外反度がきつく、坏部の深さもやや深いのです。この変化はさらに前後の形式を並べればよくわかります(図2)。■写真1 潤地頭給遺跡の玉作り工房から出土した土器群左下の高坏の坏部形態が最も時代を反映しているが、口縁部で大きく開き坏部が長く浅い傾向があるため、城野遺跡の高坏より新しいと考えられる。■図1 城野遺跡の玉作り工房から出土した高坏上段がH10出土、下段がH16出土。どちらの高坏の口縁部も短く強く外反し、潤地頭給遺跡のものより古い傾向をもっている。■図2 高坏の形態変化口縁部の外反度と開き具合を比べてほしい。古墳時代になるとさらに直線的に大きく開いている。また、潤地頭給遺跡では、玉作り工房(写真2)と同時期の井戸が見つかっており、その中から出土した土器(写真3)を見ると、壺や甕に丸底の底部が多く、外面に細いタタキをもつ畿内系の甕も一緒に出土しています。これは庄内式土器と言って、古墳時代初頭に近い時期のものとされており、明らかに城野遺跡の玉作り工房で出土した土器群よりも新しい様相なのです。つまり潤地頭給遺跡では、弥生時代終末期から古墳時代初期のあいだに玉作りが行われていたわけです。そうなると、城野遺跡の玉作りは潤地頭給遺跡よりも前に開始されたといえないでしょうか。■写真2 潤地頭給遺跡の玉作り工房工房の周囲には溝を巡らしており、城野遺跡の工房とは形態も異なる。このような工房が合計30軒ほど築かれ、まるで玉作りコンビナートのようだ。■写真3 潤地頭給遺跡の井戸から出土した土器群井戸の側板は船の廃材を利用して築かれていた。山陰や北陸へ向けて何度も航海してきたのであろうか。土器は薄手で、底部が丸底のものが多く、畿内地域の古墳時代初期の特徴を持つ甕(中央)も見つかっている。城野遺跡の玉作り工房でみつかった碧玉製管玉のチップ(破片)を蛍光X線分析したところ、その多くが島根県出雲地域にある花仙山産の碧玉であることがわかりました。また、玉作り工房から東に33m離れた位置で新潟県糸魚川産のヒスイの勾玉とともに出土した碧玉製管玉も花仙山産でした。つまり、玉の製品や石材が日本海を対馬海流と逆ルートで城野遺跡にもたらされた可能性が極めて高く、このルートの先に潤地頭給遺跡が位置しているのです(図3)。このように考えると、交易で手に入れた花仙山産碧玉をいち早く管玉に加工する技術なり、技術者を受け入れ、玉作りに励んだのは城野集落だった……そしてその技術は日本海逆ルートを介して伊都国の中心地に近い潤地頭給遺跡に伝えられ、あるいは城野遺跡とほぼ同時にかもしれませんが、そこで大規模かつ専業的に玉作りを行うようになったと考えられないでしょうか。残念ながら城野遺跡では、集落のうち2軒の工房でのみしか玉作りを行っておらず、集約的な生産体制はとらなかったようですが、一方で地元産石材である水晶製の算盤玉を主力製品として生産する体制を築いたのです。しかし、出土した土器の形式をみると、その期間は長くは続かず、弥生時代終末期(高島式期)のほんの数十年間であったと考えられます。城野遺跡の碧玉の剝片をみると、原石に近い大きさの破片が全くなく、粗く割った比較的小型段階の素材しか出土していません。一方、潤地頭給遺跡では碧玉の原石をはじめ、大型の粗割段階の素材が多数持ち込まれているのです。このことは、城野遺跡とは別に、おそらく紫川流域の河口付近の場所に、碧玉の原石を山陰出雲地域から運び入れた中継地点のような遺跡が存在した可能性を示唆していると考えます。城野遺跡の玉作りは流域の中継集落とのネットワークのうえに成り立っていた、言いかえればそれが出来るほどの有力拠点集落だったのです。 (次回に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。↓ここをクリックしてください。 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0■日本考古学協会の要望書日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回) 城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか? ☛①2020/8/2 ②8/10 ③8/17第2章 発掘調査の内容(未定) 発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか? ☛①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8 ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6第3章 注目すべき事実(6回) 城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか? ☛①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28 ⑤2022/1/8 ⑥2011/2/8(今回)第4章 立ち退かされた弥生人(4回) ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?第5章 遺跡保存への道のり(3回) 発掘担当者の悩みと苦しみ第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回) 守ることと伝えること…第7章 立ちはだかる壁(4回) 行政判断の脆弱さを問う最終章 帰ってきた弥生人(3回) 新たな歴史の誕生※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑩“驚くほどに文化の砂漠”城野遺跡の調査中に生起した様々な問題点は、それを共有する場がないために、その解決策が示されないまま、また次の問題が起こった際の教訓にできないことが、北九州市の文化財行政が進化しない根本原因であると感じる。城野遺跡の重要性は巨大な方形周溝墓の発見にとどまらず、当時貴重品であった真っ赤な水銀朱を惜しげもなく大量に二人の幼子のため塗り込めていること、謎の絵画文様が墓を悪霊から守る「方相氏」の姿と考えられること、さらには九州で2例目の玉作り工房の発見や、遺跡範囲がほぼ確定できる台地全域を調査できたため、弥生時代の集落の構造や変遷過程を考えるうえでのモデルケースにできること、また地層面でもAso4と呼ぶ今から7~9万年前に阿蘇山が噴火した際に降下した広域火山灰層が良好な状態で堆積していることなど、数え上げれば枚挙にいとまがない。それなのに、北九州市所管課はその重要性も認識できないばかりか、調査を行っている埋蔵文化財調査室職員の調査所見を聞く場、述べる場、一緒に協議する場も設けず、ただ遺跡処理に終始する姿勢しか感じられなかった。当初予定の調査期間、調査予算を超える事態になっても、いつも難色を示すため、調査室職員には無力感とストレスのみが滞留、沈殿していく感覚が積み重なって、それが不信感や調査室内部での上司と職員との意見衝突や協力体制の分断につながっていったと思っている。北九州市はこれまで、埋蔵文化財の発掘調査を約50年間で800か所ほども行ってきたが、調査後に保存にこぎつけることのできた遺跡がいくつあっただろうか。また保存できてもその現地ではなく、遺跡内の別の場所に移築する場合やそれすら叶わず遺跡とは関わりのない場所に移築する場合、遺跡のほんの一部分だけ保存の場合、さらには遺跡の中のたったひとつの遺構のみ保存の場合など、遺跡保存の規模もやり方もケースバイケースであるが、福岡県太宰府市の大宰府史跡や朝倉市の平塚川添遺跡、福岡市の板付遺跡や鴻臚館跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や東名遺跡など広大な範囲を史跡指定して整備・公開し、現地にガイダンス施設や展示施設を設けて誰でも訪れたり学習できる施設は北九州市には全く存在しない。上にあげた遺跡は大宰府史跡、板付遺跡を除いて、いずれも開発により壊される運命にあった遺跡を、自治体の所管課や関係機関の努力と協力でまるごと保存することができた事例である。表1を見ていただきたい。同じ政令指定都市でありながら、福岡市には国指定を受けた埋蔵文化財関連の遺跡(史跡)が12か所もあるが、北九州市には皆無である。また国の重要文化財に指定された考古資料は、福岡市が10件あるのに対し、北九州市は唯一重留遺跡の広形銅矛1点があるのみである。県指定の考古資料は福岡市が16件に対し北九州市が3件、市指定の考古資料は福岡市が57件にものぼるが北九州市が14件となっている。市民が現地で歴史や文化に触れることができる遺跡公園施設もお寒い状況である。参考のため久留米市のデータも作成してみたが途中でむなしくなった。■表1 県内三都市の文化度比較この格差はいったい何に由来するのであろうか? 北九州市のほうが福岡市より古代遺跡が少ないからであろうか。それとも福岡市に比べて貧弱だから、つまり重要な遺跡が少ないということであろうか。北九州市には指定に値しない遺跡や考古資料ばかりそろっているのだろうか。答えは簡単である。北九州市が遺跡を守り、後世に残す努力をしてこなかったからである。文化財に携わる職員を増やし、育て、遺跡保存のノウハウ(北九州方式)を構築し引き継いでいく体制を作らなかったからである。よそに先駆けて作ったのは、いざとなればいつでも手放すことができる財団組織である。時は約40年前の高度経済成長時代末期……北九州市では北九州直方道路建設、九州縦貫自動車道建設、都市モノレール小倉線建設、徳力土地区画整理事業など大規模開発行為が目白押しで、それらに伴う埋蔵文化財行政に対応させるためこの財団組織(当時の教育文化事業団)を作ってその一部門に埋蔵文化財調査室を設置し、ここに発掘調査を委託し、職員を採用してその賃金は開発行為を行う原因者に負担させる方式である。この組織のメリットは経費の収支が行いやすい、自治体自身の手を下さずに(煩わさずに、汚さずに)文化財の緊急調査やその後の処理に対応できる、そして何よりも、雇用した財団直庸(ちょくよう)職員(プロパー職員)は身分的に市の職員ではないので、事業がなくなり財団が解散あるいは消滅しても、市が彼らの職を保障する義務は負わない、というシステムである。実際には人道的見地から首切りはできないので、財団内の他部署への配属や民間出向などの逃げ道も用意できる。こうしたいわば不安定な、しかも市より低い地位と待遇の中に閉じ込め、市の意向や判断に沿わせることができるなど、自治体・市にとって都合の良い組織ともいえるのである。その後の九州地区の埋蔵文化財行政で、北九州市の財団方式を導入した自治体が一つもないのは、その弊害に各自治体が気づいたからである。もちろん私もことあるごとに、この組織の問題点を発信してきたため、当局にもにらまれていたにちがいない。(次号に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。↓ここをクリックしてください。https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0※なお、この連載は平和とくらしを守る北九州市民の会が発行している「くらしと福祉 北九州」2021年8月1日号に掲載された記事です。転載をご快諾いただきありがとうございます。
今日は“節分”ですね。実は、城野遺跡は日本における節分の始まりを400年早めるとも言われています。それは、城野遺跡の九州最大級の方形周溝墓で発見された幼児の箱式石棺に描かれた絵画文様が「方相氏」の可能性があるからです。手に盾と矛をもつ四ツ目の「方相氏」は古代中国の「周礼」に登場する悪霊払いをする役人で、日本では節分の鬼やらい(追儺)となり、京都の吉田神社の節分祭の鬼は「方相氏」の姿を今に残しています。※最後に掲載している発見当時の朝日新聞一面の記事をご参照ください。さて、1月23日、九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査のビデオ録画を編集した「城野遺跡/実録80分」の上映会を開催しました!感染力の強いオミクロン株により、コロナ感染が急増する中、開催できるかどうか最後まで迷いましたが、会場の小倉南生涯学習センターは休館とならず、大ホールは会場が広くもともと換気がいいということもあり、コロナ感染対策を万全に、約70名の参加で無事開催することができました。ありがとうございました。「実現する会」の久々の企画で、コロナ感染対策のため定員588名の大ホールを290名に制限し、できるだけ多くの方々に参加してもらうためにもっと宣伝する予定でしたが、コロナ感染急増で積極的にできませんでした。そのため、開催日当日まで開催確認の問い合わせがありました。ご迷惑おかけしてすみませんでした。コロナ感染の急増がなければ、もっと多くの方にご参加いただけたかとも思いますが、このような厳しい状況の中、約70名もの方々にご参加いただいたことに心から感謝しています。上映会では、城野遺跡の発掘調査の担当者でビデオの撮影者でもある佐藤浩司氏から、城野遺跡全般についての大まかな説明があり、その後上映開始。大スクリーンに映る“城野遺跡/実録80分”は映像だけでなく、現場の音や声とともに佐藤氏のコメントが絶え間なく入っており、参加者はまるで当時の発掘調査の現場にいるような感じで熱心に見入っていました。上映終了後の質疑応答でも7名の方々から質問がありました。上映会で配布された資料と会場の様子、ご協力いただいたアンケートの一部をご紹介します。ぜひ、ご覧ください。~参加者のアンケートより~■歴史的瞬間を目で追うことができてよかった。■ビデオ撮影開始日に佐藤氏の「世紀の発見があるとビデオ撮っとった方がいいから」という言葉が印象的。発掘調査の担当者として古代へのロマンと熱意、後世への責任感が伝わってくる。■臨場感があり、調査の過程がよく理解できた。■すごい遺跡だったんだなぁと思いました。ほとんどの市民は知らないことですね。■貴重な録画を見ることができありがとうございました。■遺跡がつぶされたこと残念です。ビデオが残されたことは何よりも救いです。■石棺内の絵画文様ですが、埋蔵文化財センターの展示物ではわかりにくいのですが、発掘時の映像でははっきり見て取れます。■北九州市は文化不毛の地、腹立たしいです。■北九州市の埋蔵文化財行政は100万都市としては非常に粗末です。人員、予算ともに「目先の現金」を生まないという理由で進行中の調査でも不足状態が続いています。遺跡を残すこと、学ぶことは市民に歴史の重さ、自分を見直すことにもなり、市民力の底上げになることです。明日のお金にならずとも、じわじわと効果が出てくること間違いありません。■あまりにも覆い隠されてしまっている日本の歴史を地道に明らかにしていく一歩一歩なのだと頭が下がる思いです。■北九州市はなぜこれほど保存に消極的なのか。■問題意識をもって活動していることに感服しています。■地道な粘り強い活動、本当に大変だと思います。お疲れ様です。■ビデオ上映、何かの機会にまた広げられたらよいと思います。■今後も注目していきたい。etc.※なお、「城野遺跡/実録80分」は後日YouTubで公開する予定です。公開したらお知らせしますので、ぜひご覧ください。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)この動画も発掘調査のビデオ録画の一部(映像のみ)を使用しながら、城野遺跡の全体像がわかるように編集されたものです。ぜひ、ご覧ください。 “朱塗り石棺の謎”は↓ここをクリックしてください。https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0■上映会の案内チラシです。■上映終了後、参加者の質問に答える佐藤浩司氏。<佐藤浩司氏のプロフィール>1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。■上映会で配布した資料です。2頁には「城野遺跡/実録80分」で流れるプロローグとエピローグを掲載しています。■大スクリーンの迫力ある映像。熱心に見入る参加者のみなさん■コロナ感染対策。定員588名の大ホールは半数に制限。後ろの出入り口は全て常時開放しました。■手指の消毒、非接触検温に協力してもらいました。咳や熱のある方はいらっしゃいませんでした。エレベーターも密にならないよう案内し、受付まで1メートル以上の距離を取っていただきました。■2010年7月22日付朝日新聞の1面記事。城野遺跡の幼児の石棺に描かれた絵画文様の発見は大ニュースでした!「方相氏」ではないかと指摘されています。
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章 注目すべき事実⑤ “水銀朱の入手先”前回のブログでは、城野遺跡の二つの石棺内に撒かれた水銀朱の量が、今まで日本でみつかっている墳墓の中でも群を抜いて大量であることを述べました。朱の採取と分析を行った九州国立博物館の志賀智史さんは、その後別の角度からさらに研究を進め、それらが中国産の水銀朱であることを突きとめました。「硫黄(いおう)同位体分析」とよばれるこの分析方法は、朱に含まれる元素のひとつである硫黄の4つの同位体比を測定し、それを産出する鉱山資料の値と比較することによって産地推定をおこなうもので、これにより鉱山レベルまでの分析が可能となるわけです。まずは図1をご覧下さい。水銀朱に含まれる硫黄の同位体比は中国産と日本原産では、プラスとマイナスで全く逆の数値を示し、これは同じ原産地(鉱床)の鉱脈なら地下深く採取した鉱石でも、地表近くのものでも値は変わらないということです。■図1 硫黄同位体比分析結果(志賀智史「城野遺跡の方形周溝墓から出土した朱の産地について」『研究紀要』第31号 北九州市芸術文化振興財団 2017)中央の0から右がプラス値、左がマイナス値。城野遺跡(★)は北部九州の墳墓のなかで最もプラス値が高く、最上段に示す中国鉱山のそれに近い。そこで、北部九州地域の弥生時代墳墓で出土した水銀朱と城野遺跡の水銀朱、そして中国鉱山のそれを比較するとどうでしょう。城野遺跡の値は他のどの遺跡のものよりもプラス度が高く、中国貴州省産や陝西省産の値と似かよった値であることがわかったのです。一方、三重県、奈良県、徳島県の鉱山で採取した水銀朱の硫黄同位体比はいずれもマイナス値を示しており、その差は歴然です。城野遺跡では図1に示すように、南棺、北棺でピンク色(赤色)と紫色の水銀朱をそれぞれ採取し分析していますが、南棺が高い数値(+21.8と+22.6)、北棺がやや低い数値(+16.7と+16.5)を示しています。つまり南棺2点、北棺2点のそれぞれで近似した値を示すことから、この分析方法が有効であることがわかるとともに、ピンク、紫とも色は違っていても同じ鉱床から採取したものである可能性が高いといえるのです。図1をさらに詳しくみると、弥生時代中期までは、硫黄同位体比がマイナスを示すものがほとんどであるのに対し、後期になると逆にプラスのものがほとんどを占めています。つまり後期段階で中国産水銀朱を手に入れる社会状況が生まれ、地域の権力者はこぞって中国産水銀朱を欲したといえるのではないでしょうか。志賀さんは中期段階でプラスの値を示す比恵遺跡、安徳台遺跡がいずれも魏志倭人伝に登場する奴国の拠点集落であることから、対外交易を通じて中国鏡とともに、中国産水銀朱を入手できた可能性を考えておられます。城野遺跡に関しては、極めて大量の中国産水銀朱を保有し、亡くなった二人の幼子に惜しげもなく施朱、使用していることに驚愕するとともに、この水銀朱は本来、自らの死に際して使用されることを前提にあらかじめ入手していたものと考えられないでしょうか。それだけ二人の幼児の死は、おそらく親の思い描く死生観を変えるほどの重大事だったことが改めて理解できるのです。今回の分析結果に対し、わたしは新たな疑問点がわいてきました。中国産の水銀朱の値が、南棺、北棺それぞれで異なっていることです。北棺は二つの鉱山(貴州省、陝西省)の中間値を示し、別の研究グループによれば、湖南省の鉱山では+18前後の値を示すため(図2)、鉱山まで断定するにはまだ資料不足のようですし、城野遺跡北棺に近い数値は北部九州の他の遺跡(糸島市泊熊野甕棺墓、同市ヤリミゾ6号木棺墓、久留米市高三潴石棺墓ST20西)でも見られます。よって、二つの中国産水銀朱を混ぜ合わせればこうした数値が出てこないのだろうかという初歩的な疑問も持っています。■図2 鉱山から採取した水銀朱の硫黄同位体比比較図(河野摩耶・南武志・今津節生「北部九州地方における朱の獲得とその利用-硫黄同位体比分析による産地推定-」『古代』第132号 2014)中国産と日本産で全く異なっている。中国湖南省の値は城野遺跡北棺のそれに近い。また志賀さんによれば、中国では例外的にマイナス値を示す吉林省の鉱山も存在するとのことであり、まだまだ中国鉱山での分析例を増やす必要があるようです。その他、日本での三つの鉱山(三重県、奈良県、徳島県)周辺で見つかった弥生時代墳墓の硫黄同位体比分析例が示されていないこともあげられるでしょう。図3は徳島県の水銀朱を出土する遺跡の分布図ですが、若杉山がここでいう水井(すいい)鉱山の場所です。この地域でマイナス値がどうような範囲でみられるのか、その値は水井鉱山の-3.6と近似しているのかなど、数々の疑問がわいてきます。■図3 徳島県内の水銀朱関連遺跡分布図(岡山真知子「弥生時代の水銀朱の生産と流通」『考古学ジャーナル』No.438 ニューサイエンス社 1998)若杉山遺跡すぐ近くに水井鉱山がある。ここからは石臼や石杵など、多数の水銀朱生産に伴う石器が出土している。でも、私の最大の疑問点は、先ほども述べたように、二人の親があらかじめ中国産水銀朱を手に入れていたとした場合、二人の墓に施した水銀朱の産地が異なることになり、後で亡くなった北棺に葬られる子どものために、新たに中国産水銀朱を調達したのか、最初から二つの鉱山産の水銀朱を厳密に分けて保管していたのか、あるいは時の経過のなかで手に入る水銀朱の産地が変化したのか、など派生する問題は限りなく広がってくるのです。しかし、いずれも解決出来るほどの材料が現時点ではありませんので、この問題はきっと永遠の宿題になるかもしれません。(次回に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。↓ここをクリックしてください。 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0■日本考古学協会の要望書日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回) 城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか? ☛①2020/8/2 ②8/10 ③8/17第2章 発掘調査の内容(20回) 発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか? ☛①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8 ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6第3章 注目すべき事実(6回) 城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか? ☛①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28 ⑤2022/1/8(今回)第4章 立ち退かされた弥生人(4回) ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?第5章 遺跡保存への道のり(3回) 発掘担当者の悩みと苦しみ第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回 守ることと伝えること…第7章 立ちはだかる壁(4回) 行政判断の脆弱さを問う最終章 帰ってきた弥生人(3回) 新たな歴史の誕生※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。
九州最北端にあり、古くから交通の要衝として、また大陸からの文物交流の門戸として栄えた北九州市では数多くの弥生遺跡が発見されています。2009年~2011年の城野医療刑務所跡地の発掘調査で発見された城野遺跡は、弥生時代後期(1800年前/邪馬台国時代)の学術上重要な遺構や遺物が次々と発見され、当時、多くの専門家が現地を訪れ、マスコミでも大きく取り上げられ、現地見学会には600名近くの参加があり、全国的に注目された遺跡です。残念ながら、ほぼ全域が開発により消滅しましたが、九州最大級の方形周溝墓は現地が保存され、2020年3月、「九州2例目の玉作り工房跡の存在も含めて、邪馬国台と同時代の『クニ』の実態を知る上で重要」と福岡県史跡に指定されました。この度、方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査を2ヶ月半にわたり撮影したビデオ録画(約3時間)を編集した「城野遺跡/実録80分」の上映会を開催します。城野遺跡の発掘調査を撮影した唯一のビデオ録画であり、撮影し続けた佐藤浩司氏の城野遺跡への思いとともに、当時の現場の様子と感動が伝わる臨場感あふれる記録です。上映会では佐藤浩司氏の解説もあります(後記の佐藤浩司氏の「発掘記録ビデオに託する思い」もあわせてお読みください)。1800年前、邪馬台国時代の北九州市の歴史が刻まれた城野遺跡の発掘調査をご一緒にのぞいてみませんか。ぜひ、ご参加ください。※詳しくは、添付の案内チラシをご覧ください。※案内チラシ記載の新型コロナ対策にご協力ください。※会場が休館の場合は延期します。■「城野遺跡/実録80分」の案内チラシ■佐藤浩司氏の「城野遺跡方形周溝墓の発掘記録ビデオに託する思い」学術的に極めて重要な発見、めずらしい遺物の出土、驚くほどの美しい輝きとの遭遇…。私は、発掘調査に携わって本当に感動したことをカメラにおさめ、ノートに記録してきました。これは自分がその現場に立ち会えたという感動とともに、後で振り返り、人に伝え、また検証できるようにとの思いからです。城野遺跡の方形周溝墓の発見、そして自分が担当した玉作り工房の発掘はまさにその感動そのものでした。幸いビデオカメラが私の手元にあったため、方形周溝墓に眠る二人の人物を発見する瞬間、泥に埋もれているのかいないのかを記録に残したいと思い、箱式石棺の蓋を開ける前からビデオを回しはじめたのです。ビデオはいずれ発掘調査の記録として、たくさんの人に見てもらいたい、そのためには自分が何を撮っているのか、説明できなければなりません。ですから、ビデオには私の音声がほとんど絶え間なく流れてくるものと思います。お聞き苦しい部分も多くありますが、言い間違えても、解釈や予測が違っていてもいい、それを記録に残し、誤りに気づいたらビデオを通して修正すればいい、そうしたコンセプトで2カ月半、3時間の録画を重ねました。今回、その全編を80分に縮めました。加工や修正は極力行っていません。ですので、発掘のとなりで見学している気分をぜひ感じてご覧いただければ幸いです。 【佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。 ■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分) この動画は短時間に編集したためビデオ録画の一部の映像のみ使用し編集していますが、今回の“城野遺跡/実録80分”は映像だけでなく、撮影した佐藤氏のコメントや現場の声や音が絶え間なく入っており、よりリアルに当時の様子と感動が伝わってきます。朱塗り石棺の謎”は↓ここをクリックしてください。 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑨“遺跡の保存・整備に疑問④”西日本最大級の弥生時代方形周溝墓と、内部で見つかった2基の箱式石棺、真っ赤な大量の水銀朱で塗り込められた石棺内部、被葬者(ひそうしゃ)が二人の幼子であることに加え、その頭部側の小口石に描かれた謎の絵画文様、そのどれをとっても日本でもほとんど類例のない貴重な発見であった。しかし、北九州市文化財課はその取扱いの方向性も見いだせないままいたずらにこの重要遺構を放置し続けた結果、見るも無残な光景を目の当たりにすることになった。いや、目の当たりにしたのは文化財課の職員ではない。そばで発掘調査を行っていた私たち埋蔵文化財調査室の学芸員たちであった。彼らは誰一人として、この作業をじかには見ていないのだ。私は、文化財課が委託した業者によって、8か月ぶりに開けられた箱式石棺内部の様子をつぶさに観察しながら写真に収めた。まず、目に飛び込んできたのは石棺の真っ赤な床一面に生えた雑草であった(写真1)。内部はほぼ暗闇状態に置かれていたはずだが、雑草の成長はわずかな光を糧に間断なく続いていたようで、まるでカイワレ大根の生育を見る思いであった。■写真1 まるでカイワレ大根のように生えた雑草そして石棺内部をよく見るとキラキラ光るラインが幾筋か確認できた。ナメクジが這ったあとだった。石棺は湿気と暗闇につつまれていたためナメクジには絶好の環境だったようで、真っ赤に塗られた側石(そくせき)のいくつかが被害にあっていた。一方、足元側の小口石のコーナー部分にはクモの巣が張られ(写真2)、ダンゴムシも床面を這っている。幸い、絵画文様が見つかった頭部側の小口石と側石のひとつは事前に抜き取って埋蔵文化財調査室で保管していたため難を免れているが、そもそもこうした状態になることは目に見えていたはずだ。■写真2 石棺のコーナーには蜘蛛の巣が……石棺を築くために掘った墓坑の壁面のヒビ割れは極限に達していたが、文化財課の指示なのか、業者の自主作業手順なのか、作業員が壁面を亀の子タワシでこすって緑色のカビやコケを削り取っている(写真3)。この作業もよほど注意しないとさらに壁面崩壊を広げることになるのだが、作業員の手元の様子に、それへの配慮は感じられなかった。■写真3 墓坑の壁面をタワシで清掃する作業員私は、水銀朱の床面に生えた雑草をどうするのだろう、まさかそのままにして埋めるのではないだろうな、と思って見ていたのだが、自分の発掘現場に戻る必要があったため、その場を後にした。その後、1時間ほど経ってまた石棺を見に行ったところ、石棺にはすでに金属製のパネルが掛けられており、内部の様子はうかがえなかった(写真4)。作業員は忙しそうに石棺に覆いをかけるための足場を組んでいた。私は、床面の雑草はどうしたのか、と尋ねるのも気が引けた。そもそも大事な遺構が覆われようとしている中、最後の確認もしないで業者に任せっきりにしている文化財課に対し、さらに怒りが込み上げてきた。■写真4 金属のパネルで蓋をされた石棺彼らはおそらくこのようなことになっていようとは思っていないだろうし、作業終了後に提出される業者からの完工書類に添付される管理写真をみれば済むとでも思っているのだろう。翌日、業者は石棺の金属パネルの上に砂をかけて埋め戻す作業を行ったが(写真5)、この日も文化財課の職員は誰も立ち会わず、業者による石棺の保全と埋め戻し作業は終了した。■写真5 翌日には砂で埋め戻されていたこれは推測であるが、石棺床面の清掃作業は大切な水銀朱をはがさないように除草しなければならないので、短時間でできるものではない。そのまま埋め殺した可能性が高いと考えている。しかしこれは業者の責任ではなく、紛れもなく担当所管課である文化財課の管理責任である。その日現地に立ち会えないほど多忙なら、作業日を改めるか、そばで発掘作業を行っている私たちにでも、埋め戻し作業の様子を時々見ていてほしい、などと一言頼めなかったのか。私は、彼らがあとになってでも、業者の埋め戻しがどんな様子だったか知らないか、と尋ねてきてくれるのを期待したが無駄だった。このように現地で確認しなかったために、その後も様々な場面で大きな過ちを繰り返し続けている文化財課の根本原因は組織体制の不備(おもに人員不足)と課を統率するべき課長職が事務屋であること、そしてなにより担当職員に北九州市の歴史と文化を大切に守っていこうとする気概がないからである。(次回に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。↓ここをクリックしてください。 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0※なお、この連載は平和とくらしを守る北九州市民の会が発行している「くらしと福祉 北九州」2021年7月1日号に掲載された記事です。転載をご快諾いただきありがとうございます。
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章 注目すべき事実④ “あふれる鎮魂の赤”このブログの19回(連載19)では、城野遺跡の二つの石棺に塗り込められた赤色顔料について、それが酸化第二鉄からなる「ベンガラ」であるのか、硫化水銀を主成分とする鉱物の「辰砂」であるのかを明らかにせずに、私の直感で「水銀朱」「朱」と呼んだことだけを述べました(写真1)。今日はその真相について詳しくお話しすることにします。【写真1】 城野遺跡の方形周溝墓で見つかった箱式石棺墓二つの石棺内は赤色顔料で真っ赤だった。といっても私たち考古学研究者は、鉱物組成まで自分で調べることは分析機器も薬剤も持ち合わせていないため出来ませんし、その知識もありません。従って、岩石や鉱物を専門的に研究している研究者や専門機関へ調査を依頼するのが通常です。城野遺跡の赤色顔料は、すべて九州国立博物館科学課に依頼し、志賀智史さんに大変お世話になりました。志賀さんは城野遺跡の方形周溝墓の調査中、現地に二度来ていただき、詳細な観察と赤色顔料の試料採取を行い、博物館に持ち帰って顕微鏡観察と蛍光X線分析ほか複数の機器による分析方法で、以下のような非常に興味深い結果を知らせてくれました。① 城野遺跡の2基の箱式石棺内の赤色顔料はすべて水銀朱であること② 石棺全体には赤色の水銀朱を、頭部部分には紫色の水銀朱を施し、明確に使い分けていること③ その上下関係は赤色の朱が下、紫色の朱が上であること④ 紫色の朱には黒い粒が含まれており、粒子の大きさも赤色の朱よりも大きいこと⑤ 石棺の外にも二種類の朱の飛沫が数ヶ所点在していること、などがわかったのです。私は、自分の目で初めて間近で水銀朱の様子を観察できた幸運と、自分の当初の想定が正しかったことに胸をなでおろしました。日本列島では、縄文時代の早い時期から、「ベンガラ」の利用が始まりましたが、朱の利用は弥生時代早期になってからと考えられており、弥生後期の北九州市域では小倉南区祇園町遺跡、同高津尾遺跡、同郷屋遺跡など紫川流域の弥生時代墳墓群でベンガラを主体として、朱も少量ながら部分的に使用されていることがわかっています。しかし、この城野遺跡の箱式石棺に塗られた水銀朱の量は極めて大量であり、さらに希少かつ高価と考えられる紫色の朱(写真2、3)までこんなにふんだんに使っている例はほとんどありません。【写真2】 南棺の頭囲部分にみられる紫色の水銀朱黒い粒を多く含み、やや粒度が粗い水銀朱は頭部を囲むように敷き置かれていた。【写真3】 紫色の水銀朱の顕微鏡写真黒い粒子が多く含まれ、赤色と混ざって紫色に発色している。また、粒子が粗いと、赤い色が暗くなるという。私は、水銀朱の重量がどれほどあるのか、興味がわいてきたため、その計算をすることにしました。まず南棺ですが、志賀さんの計測によると赤色の朱は頭部付近で薄く、胸部付近で厚く、下半身では又薄くなっており(写真4)、最大の厚さは0.9㎝ある一方、紫色の朱は最大で厚さ1.2㎝あったそうです。【写真4】 南棺の水銀朱断面土層左側が頭位で枕を敷いたように土を盛り上げて高くしている。朱が最も厚いのは胸元の位置で0.9㎝の厚さがある。一方、北棺では赤色の朱は上半身側で厚く、下半身側で薄く最大で1.2㎝ある一方、紫色の朱は最大で2.9㎝と非常に厚く敷かれているのです。もっとも、紫色の朱は赤色の朱を撒いたあと、頭部周囲を囲うようにして敷き置かれているため(写真 5)、その範囲は広くありません。【写真5】 北棺の水銀朱上の頭位部分は、紫色の朱が厚く盛り上がって見える。ここでは、2基の石棺に撒かれた朱の範囲が床面全面に見られたため、床面積(長さ×幅(㎠))×厚さ(㎝)×辰砂の比重8.09=水銀朱の重量(g)となるのですが、問題は厚さが均一ではないことです。ここからは前提条件の話になりますが、私は志賀さんの出された最大厚をもとに、赤色の朱の重量のみを積算しました。紫色の朱の重量をはずすことで、均一でない厚さの平均に少しでも近づくことになりますし、実際には石蓋の天井部内面や側石の内側、また側石上面の目張り粘土上にも多くの水銀朱がこびりついているので(写真6、7)、それを除外すれば本来の重量にさらに近づくと考えたのです。【写真6】 蓋石内面の水銀朱手前が南棺、向こうが北棺の蓋石。周囲を縁取るように水銀朱が付着している。【写真7】 蓋石をはずした後の北棺側石内部や、上面にも水銀朱がかなり付着している。よって、南棺は107㎝×33.8㎝×0.9㎝×8.09≒26,332g≒26.3kg北棺は106㎝×35.5㎝×2.9㎝×8.09≒88,283g≒88.3kgという結果になります。両方あわせると、なんと100kg以上の水銀朱が二人の幼子のために使用されたという驚くべき数値が出ました。今までに水銀朱の大量出土が確認できた墳墓は、卑弥呼の後継者壱与の墓ではないかと考える研究者もいる桜井茶臼山古墳の200kg(奈良県 3世紀末)を筆頭に、41kgの水銀朱が検出された大王墓級の大和天神山古墳(奈良県 3世紀末〜4世紀初)、30kgの水銀朱が見つかった楯築墳丘墓(岡山県 2世紀後半〜3世紀前半)、また少し時代が降って34kgの水銀朱があったとされる築山古墳(大分県 5世紀中頃)があり、近隣の糸島市熊野甕棺墓(弥生後期後半)でみつかった水銀朱(写真8、9)は約3リットル(推定24.3kg)ですから、城野遺跡の方形周溝墓に築かれた2基の箱式石棺墓は、先ほども述べたように積算方法の精度に問題はあるものの、現在日本で知られている弥生〜古墳時代の墳墓の中でも、群を抜いて大量の水銀朱が使用されていたということは間違いない事実でしょう。【写真8】 熊野甕棺墓の水銀朱推定出土状況とその内部痕跡朱を納めた甕棺墓は合わせ口タイプで、3リットル分が堆積していたという。【写真9】 糸島市熊野甕棺墓の水銀朱糸島高校に大切に保管されている。そして、城野遺跡の水銀朱に関して、その後志賀さんによりさらに驚きのデータが公表されることになるのです。(次回に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。↓ここをクリックしてください。 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0■日本考古学協会の要望書日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回) 城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか? ☛①2020/8/2 ②8/10 ③8/17第2章 発掘調査の内容(20回) 発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか? ☛①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8 ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6第3章 注目すべき事実(6回) 城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか? ☛①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28(今回)第4章 立ち退かされた弥生人(4回) ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?第5章 遺跡保存への道のり(3回) 発掘担当者の悩みと苦しみ第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回) 守ることと伝えること…第7章 立ちはだかる壁(4回) 行政判断の脆弱さを問う最終章 帰ってきた弥生人(3回) 新たな歴史の誕生※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章 注目すべき事実③ “権力者の眠る場所”方形周溝墓に葬られた幼児二人の親の墓はいったいどこにあるのでしょうか?当然、城野遺跡の集落内かそれに近い場所でしょうが、これほど広い周溝内ですから、この中に築かれていてもおかしくありません。実は発掘調査にとりかかってまもなく、二つの箱式石棺を納めた墓坑の南側で意味ありげな四角い穴(3.1m×2.4m)が発見されました(写真1、写真2の→部分)。図1で見れば黄色部分にあたります。赤色部分が二つの箱式石棺が納められた墓坑(3.4m×2.5m)です。正確にいうと、二つの長方形に近い土坑が至近距離でほぼ同時に見つかったのです。【写真1】真上から見た城野遺跡方形周溝墓と攪乱土坑攪乱土坑は方形周溝墓のすぐ南側に位置し、偶然にも周溝とほぼ主軸が合っている。また、床面の土の色が黄色いことから、かなり深くまで掘り下げられていることがわかる。【写真2】北九州市から見た方形周溝墓と攪乱土坑攪乱土坑は方形周溝墓のすぐ南側に位置し、この段階ではすでに掘削されていることがわかる。一方、方形周溝墓の主体部箱式石棺墓と、周囲の周溝はまだ発掘前で、黒い土が詰まっている。【図1】方形周溝墓の実測図(約1/375)攪乱土坑は大きさが東西3.1m、南北2.4mあり、深さも1m以上である。もし箱式石棺が築かれていたとしても不思議はないが、子ども二人の墓坑の大きさと比較すると、成人一人用の箱式石棺1基しか据えられないであろう。一つは固く、しっかり締まった土が入っており、もう片方は締まりのない濁った土で埋まっていました。私たち調査担当者は、後者のような土坑を攪乱(かくらん)土坑と呼んで、ふつう調査の対象にはしません。それはつい最近に掘られたゴミ穴のようなもので、掘ってもコンクリート片やバラス、現代のお茶碗や針金、電線の碍子、ビニール袋などが含まれているからです。ただ、調査の対象とはならなくても、その中に含まれているものから、その穴が掘られた目的や用途、時代などがある程度わかるので、ひとまず掘り上げてみるのです。ですから、順序でいえば先にこの攪乱土坑が掘り上がり、そのあともうひとつの墓坑(これが箱式石棺墓です)を掘り始め、二つの石棺が確認されたのです。残念ながら、攪乱土坑からは方形周溝墓や箱式石棺墓に関わりのある弥生時代の遺物は全く出土しませんでした。もうひとつの土坑が箱式石棺墓だと判明したあと、私はそのそばでみつかったこの攪乱土坑について改めて思いを巡らせてみました。それは、最初に述べたように子供の親の墓が方形周溝内に築かれていても不思議はないと思ったからです。『しかし紛らわしい穴だなあ。大きさも深さもお墓に丁度良いくらいで、場所も方形周溝の中央に近いし………。』しかしこのゴミ穴が本来親の墓だった………後世にそれが盗掘されて、内部の遺物や棺材がすべて持ち出された後、ゴミ穴に利用されたのだ、と考える根拠はどこにもないのです。考古学は科学的根拠を積み重ねて物事を実証していく学問ですから、想像でモノは言えないのです。では、いったい親の墓はどこに?本ブログの1回目では城野遺跡の北130mのところでみつかった「猫塚古墳」についてお話しました。この距離については私の計測ミスで実際は約70mです。お詫びして訂正致します。その猫塚古墳は昭和24年に城野医療刑務所の敷地内でみつかったもので、小倉高校により記録と石棺取り上げがなされていますが、その原位置がはっきりわからなくなっています。石棺の規模や構造から、この地域の首長(リーダー)の墓であることは間違いなく、すると城野遺跡の方形周溝墓に葬られた幼児ともつながりのある人物と考えても差し支えありません(写真3)。【写真3】小倉高校の中庭に移築復元された猫塚古墳の箱式石棺両方の側石は、長さ1.88〜2.23m、厚さ35〜50㎝もあり、まさに巨石である。近年、運動場の一角に再度移築されている。調査当時の記録では「小円墳」とされていることから、なんらかの盛り土の痕跡か、周溝の痕跡などがあったと思いますが、昭和10年代の古地図(図2)には3箇所ほどの丸や四角い土地区画があり、これらが古墳の名残と考えられます。【図2】古地図に見える、小さな方形、円形の区画この3箇所の区画は、古墳の可能性が高く、猫塚古墳の調査記録では、小円墳状を呈していたという。2号墳の位置が猫塚古墳とすれば、方形周溝墓を皮切りに、首長墓が北に向かって築かれていったと考えることができる。なお、方形周溝墓が見つかった場所は、この古地図が作成された時にはすでに城野医療刑務所が所在していたはずであるが、「官地」と記載されているだけで、方形周溝墓を示す区画も存在しない。当時ここには刑務所施設ではなく、上級刑務官の戸建て住居が建てられていたため、方形周溝墓はさほど破壊されずに済んだのである。この部分に発掘調査のメスが入ったのは平成24年の夏でした。城野駅南口に建設される駅前広場改良工事に伴って埋蔵文化財調査室が行った調査で、方形周溝墓か方墳1基(2号墳)、円墳1基(1号墳)が検出されたのです(写真4a)。【写真4a】城野遺跡6区、7区で見つかった2基の古墳2号墳は四角く周溝がめぐっており、これだけでは方形周溝墓か方墳か判別がつかない。しかし、古墳の変遷過程を踏まえれば方形周溝墓→方墳→円墳の順序で新しくなるとされており、城野遺跡では、南から北に向かって(写真の下から上に向かって)、順次首長墓が築かれていったと考えられる。2号墳が一辺17m以上、1号墳が直径約27mと、いずれも大規模で有力者の墓であることは間違いありません。両者は7mほどの距離を置いて築かれており、被葬者(ひそうしゃ)は密接な関係があったと思われます。しかし残念なことにいずれも墓の主体部が納められた墓坑は見つからず、後世に削平を受けて消滅したもの、と担当者は判断しました。ただ、2号墳には写真4bの黄色部分に示すように、城野遺跡方形周溝墓でみつかったのと同じような攪乱土坑が存在し、中から近現代の遺物が多数出土しました。私は現地を見学したあと、調査担当者や上司にこの土坑もきちんと掘り上げて内部を確認する必要があることを伝えましたが、次に現地に訪れたときは調査で排出される土の捨て場として利用され、きれいに埋められていたのです。【写真4b】 2号墳でみつかった攪乱土坑早々に埋めてしまったので、正確な位置がわからないが、黄色の範囲くらいになると思われる。周溝内に他に大きな攪乱土坑は存在せず、これが猫塚古墳の箱式石棺が見つかった場所と考えている。前記したように猫塚古墳の位置がわからないという問題があるにもかかわらず、2号墳内に存在した攪乱土坑をきちんと精査せず埋めてしまうことは、永久にその手がかりを失うことなのです。ましてや、猫塚古墳の巨大な石棺材は掘り上げられて、小倉高校の敷地に移設されたわけですから、その墓坑はひどく損傷しているはずです。再度、写真4bをご覧下さい。もしこの攪乱土坑が猫塚古墳なら、巨大な方形周溝の中でもやや片寄った位置にあったことになり、城野遺跡方形周溝墓とよく似た状況を示すことになるのです。私は、この2号墳こそが猫塚古墳であり、この攪乱土坑が箱式石棺が納められていた主体部と考えているのです。しかしまた別の埋蔵文化財調査室学芸員は、当時残されていた石棺掘り上げ状況写真(写真5)から、2号墳は猫塚古墳ではなく、図3に示すような位置にあったのではないかと主張しています。【写真5】猫塚古墳の石棺取り外し作業風景(昭和24年)こんな大きな石棺材を掘り上げるのは大変だったろう。当然墓坑は大きく壊されていると思われる。【図3】調査室学芸員の一人が想定した猫塚古墳の位置図猫塚古墳は、2号墳ではなく、里道(小道)の反対側(東側)に存在したと考え、下図のような位置に推定しているが、発掘調査範囲外であり、大きさも、方向も、深さも不明である。しかも、3号墳の位置も間違えている。この図に示されている猫塚古墳は調査範囲外なのでその規模も、方向もまったくの推定でしかありません。この推定が許されるのなら、私の推定も許されていいのではないかと思うのですが………。(次回に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。↓ここをクリックしてください。 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0■日本考古学協会の要望書日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財に指定後(広形銅矛では全国唯一の国重要文化財) http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回) 城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか? ☛①2020/8/2 ②8/10 ③8/17第2章 発掘調査の内容(20回) 発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか? ☛①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8 ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6第3章 注目すべき事実(6回) 城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか? ☛①2021/8/30 ②9/30 ③11/6(今回)第4章 立ち退かされた弥生人(4回) ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?第5章 遺跡保存への道のり(3回) 発掘担当者の悩みと苦しみ第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回 守ることと伝えること…第7章 立ちはだかる壁(4回) 行政判断の脆弱さを問う最終章 帰ってきた弥生人(3回) 新たな歴史の誕生※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑧“遺跡の保存・整備に疑問③”城野遺跡の方形周溝墓が見ごろになるのをみはからって、市民を対象に現地説明会を開催することになった。石棺の蓋を開ける際にも報道陣に公開し、新聞、テレビも取り上げたことから、地元をはじめ市民の関心は高く、開始時間前から大勢の見学者が訪れた。石棺の前には中の様子を一目見ようと長い行列ができ【写真1】、我々担当者は遺跡解説だけでなく、順路誘導や安全上の注意喚起に追われた。結局参加者は600人近くとなり、記憶する限り北九州市での現地説明会では最多記録ではあるまいか。【写真1】 現地説明会の様子北橋市長も短い時間であったが見学に来られ、調査担当者に質問もされていた。私は遺物解説を担当していたが、市長が方形周溝墓の現地見学を終えられた後、出土した遺物を前に2、3質問を受けた【写真2】。【写真2】 北橋市長の見学風景(右端が筆者)その間のやりとりはよく覚えていないが、最後に市長が『この遺跡、保存できればいいですね。』と語られたのにはびっくりした。古代史に造詣が深く、邪馬台国所在地についても持論をお持ちの市長であるが、私たち調査担当者と同じ気持ちを口にされるほど、方形周溝墓を見て感動されたのだろうか。すかさず、ずっと市長のそばに控えていた市文化財課の埋蔵文化財担当係長が「はい、そうできるよう精一杯努力します。」と答えた。私は意外な返答に驚きを覚えた。我々がいくらその重要性を訴えても、まともに答えるどころか、城野遺跡の歴史的価値など口にもしなかったのに、さも自分が一生懸命に城野遺跡の保存に向けて尽力しているかの口ぶりだったからである。いや、ひょっとしたら我々には話せないところで努力していたのかもしれないが、少なくともそうした素振りは感じられなかった。かつては埋蔵文化財調査室に出向してきて、ともに発掘調査を行ってきた仲間であったが、市職員の彼にはやはり我々財団職員とは一線を画する意識が存在していたのであろう。ある時彼は私たちに向かって『財団職員を食わしてやらんといかんから遺跡見つけてくる』と平気な顔をして言ったことから、仲間にひんしゅくを買ったこともある。さて、こんな貴重な城野遺跡の方形周溝墓であったが、その後の市文化財課の対応には全く緊張感も遺跡を守るという気概も文化財保護を職務とする責任感も感じられなかった。方形周溝墓の重要性をようやく認識した文化財課であるが、そのエリアで見つかった遺構(方形周溝、箱式石棺、周辺の弥生時代の住居跡や土坑など)の調査が終わったあと、調査担当者にブルーシートをかけて保護しておくようにとだけ言い残し、今後その個所をどうしていくのか、そもそも保存交渉を開発側としているのかどうかの情報すらくれなかった。現地は長期間放置されたため、シートがめくれたり、土のう袋が破れて土砂が散乱したり、雑草が生えてきたりと、荒野の状況を呈してきた【写真3】。【写真3】 荒れ放題の城野遺跡ただ箱式石棺部分は調査担当者側でもできる限りの保護に努め、上面にコンパネや足場板をわたして墓坑の壁面崩落や土砂流入に備えていたが【写真4】、調査中の遺構の開け閉めや日射しによる乾燥、風雨による浸食などでかなり傷んできていた。【写真4】 箱式石棺部分の保全作業こうして文化財課の次の方針が知らされないまま7か月ほどが経過したが、箱式石棺部分を専門業者に依頼して養生を施したあとに土砂で埋めることになった、という情報が入ってきた。私は次の調査区の発掘を担当していたが、どんな方法で遺跡を保護保全しようとしているのか気になったため、調査の合間をぬってその様子を見に行った。ちょうど作業員が箱式石棺周囲で作業していたが、それをみて驚いた。箱式石棺を据えるために掘られた墓坑の壁面は大きくヒビ割れし今にも崩れ落ちそうだったことに加え、石棺内部の状況は目を疑うほどに悲惨だった【写真5】。【写真5】 長期放置のためヒビ割れた墓坑の壁面九州最大規模の方形周溝墓と大量の水銀朱に抱かれて黄泉の国へと旅立った二人の幼児、その頭上に描かれた絵画文様………。そのどれもが初ものづくしの発見だったし、当時の日本の弥生時代社会、とりわけ邪馬台国と同時代の北九州の墓制の在り方を考えるうえで計り知れない情報を備えた遺跡であった。それを、まがりなりにも保存の方向に舵を切ったとはいえ、その判断の遅さに加え、そうした場に立ち会って現状確認すらせず、ただ業者に保全作業を丸投げしている文化財課。私は放置した7か月のあいだに大切なものを失った失望感と無策の文化財課に何ともいわれぬ怒りが込み上げてきたのをはっきりと覚えている。その詳細は次回で述べることにしたい。【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。↓ここをクリックしてください。 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0※なお、この連載は平和とくらしを守る北九州市民の会が発行している「くらしと福祉 北九州」2021年6月1日号に掲載された記事です。転載をご快諾いただきありがとうございます。
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章 注目すべき事実②“権力者の住まう場所”城野遺跡で亡くなった二人の幼子はこれだけ巨大な方形周溝墓に葬られていたことから、その身分の高さがうかがわれますが、同時に命のはかなさも思い知らされます。死因はわかりませんが、私は流行病(はやりやまい)にかかった可能性を考えています。丁度今、私たちは新型コロナウィルス感染症というはやりやまいと戦っています。この医学、病理学が進歩した現代でも、いつ収束するのかもわからない不安にさらされていますし、本当にいつ自分が感染し重症化して命を落とすかもしれないのです。二人が兄弟、姉妹としたら、相次いで我が子を亡くした親の無念はいかばかりだったでしょうか。母親は幼子に泣きながら自分の持ち物であった玉のネックレスを首に飾り【写真1】、父親は墓に悪霊が入り込まないように、またあの世でも身を守れるようにと、当時最先端の鉄製工具である刀子(とうす)をひざ元に据えました【写真2】。【写真1】南棺の頭蓋骨、玉類出土状況幼子の頭蓋骨のあごの部分に、青い碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)、その間に挟まれた赤いメノウ製棗玉(なつめだま)が確認できる。母の子に対する愛情が伝わってくる。【写真2】南棺の床面と、鉄製工具出土状況(矢印部分)丁度幼子の右ひざ元あたりに、丁寧に据え置かれた鉄製の刀子。刃物であるため、魔よけに副葬したものと思われる。そしていち早く辟邪(へきじゃ 魔除け)の思想を中国から取り入れた城野遺跡では、「方相氏」なるエクソシストを石棺木口石に描くことで悪霊を追い払う儀式を行ったのです【写真3】。この儀式を担ったのはおそらく、ムラの祭祀を執り行う司祭者のような立場の人物だったと考えられます。【写真3】木口石に描かれた方相氏表面を整えた石のキャンバスに、先の丸いヘラ状工具で、押しつけながら描いたエクソシスト(方相氏)の絵画文様。これを絵画とは認めない研究者もいるし、そもそもこの文様が発掘時に傷つけられたものと考える研究者もいる。筆者は明らかに、弥生人が意図して描いたものと考え、弥生時代絵画の第一人者前東京大学教授設楽博己先生の「方相氏説」を支持している。 幼子二人は時期を隔てて亡くなっていますが、少なくとも先に亡くなり南棺に葬られた子どものためにムラびと達を集め、盛大な葬儀が催されたことでしょう。そこには司祭者、そして木口石に描かれた方相氏という、現実(リアリティ)と仮想現実(バーチャリティ)による二重の辟邪の儀式が厳粛に行われたものと思われます【図1】。【図1】葬儀の様子復元図(二人の子供は同時埋葬ではないが、イメージとして描いたもの)亡くなった幼子に取りすがろうとする母親。ムラびとは皆集まり、司祭者のもと厳粛な葬儀が行われている。このときには石棺の木口石にはすでに方相氏が描かれていると考えられる。さて、ではいったいこの子らの親はどんな身分で、どこに住んで、どんな墓に葬られたのでしょうか。親は集落の中で巨大な方形周溝墓を我が子のために築くことができた人物ですから、城野ムラを束ねる権力者(首長)だったと考えられます。その居住する場所は一体どこだったのか、やはり集落が営まれたこの城野台地のどこかに居を構えていたとしか思えません。そこで気になる建物があります。方形周溝墓の南25mほどの所に一辺が8.5m×6.8mの長方形プランをもつ巨大な1号竪穴住居のことです。この住居はその大きさだけでなく、棟持ち柱の位置が通常とは異なる構造をもち、しかも柱穴の直径は90㎝以上、深さ80㎝をこえるものもあり、一般人の住む住居とは考えにくいものです【写真4、図2】。また、住居の短辺の両側に一段高いベッドを備えていました。後世の造成工事で上面がひどく削られていることや土の流失により、迫力はイマイチでしたが、私はこの竪穴住居を権力者の住まいではないかと考えているのです。【写真4、図2】大型の竪穴住居とその実測図(● は棟持ち柱)通常の住居は棟持ち柱が図の赤点線の位置にあるが、この1号住居は南西側に偏っており、非常に特異である。規模は8.5m×6.8mもあり、2DKマンションの広さ以上になる。時期は少し新しく4世紀の資料になりますが、奈良県佐味田宝塚古墳からは豪族が生活したと思われる4棟のすまいを描いた青銅製家屋文鏡が出土しており【写真5】、1号住居は【図3】で示すA棟の竪穴住居に当たるでしょう。これには高貴な人の住まいを示す蓋(きぬがさ)が差し掛けられており、同じく高殿にも同様な蓋が見られます【図3のC棟】。また同じ奈良県の東大寺山古墳からは鉄製大刀につけられた青銅製の柄(環頭)の先端にやはり竪穴住居が飾られており【写真6】、佐味田例と非常によく似た表現になっています。この大刀も4世紀初めごろのものと考えられていることから、権力者の住まいには高殿と呼ばれる高床式建物のみならず、大型の平地式家屋【図3のD棟】、穀物貯蔵に使用する高床式倉庫【図3のB棟】、そして縄文時代から伝統的に存在する、地面を掘り下げて築いた竪穴式家屋【図3のA棟】が併存していたのです。【写真5】奈良県佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡(4世紀後半)鈕を中心に4種類の建物が描かれている。上から高殿、殿舎、高屋、高倉で、いずれも権力者(首長)が住んでいたエリアの建物群と思われる。高殿と高屋には身分の高い人の家であることを示す蓋(きぬがさ)が差し掛けられている。↓ 上から高殿、殿舎、高屋、高倉【図3】家屋文鏡の4種の建物城野遺跡の1号竪穴住居は、きわめて大型で、A棟のような上屋構造をもっていたかもしれない。【写真6】奈良県東大寺山古墳出土の大刀装飾(4世紀後半)柄の先端(環頭)に飾られた竪穴式建物。いわゆる竪穴住居だが、屋根や壁に網代(あじろ)文様が描かれ、妻側(つまがわ)には蓋が差し掛けられている。権力者のすまいであろう。そう考えると100年ほど古い城野ムラの権力者の建物に竪穴住居が使用されていたとしても不思議ではありません。この1号住居の周りにはそれより少し規模の小さい竪穴住居が何軒も重なり合って見つかっており【写真7】、これらも権力者の使用する副次的家屋の可能性もあると思います。これらのすまいは広い敷地にも関わらず、何度も同じ場所に建て替えを繰り返していることから、なにか特別な理由があると考えます。【写真7】大型竪穴住居と周辺の中型住居1号住居の周囲で激しく切りあう住居群。同時存在は3軒ほどだろうが、このエリアに密集させる必要があったのだろうか。なお方形周溝墓の周りには住居が営まれておらず、当初より集落の中で墓域として守られてきたようだ。また、遺跡内にはやや離れていますが高床式建物跡もみつかっているのです【写真8、図4】。【写真8、図4】上は掘立柱建物跡とその他の柱穴群、下は掘立柱建物跡の実測図掘立柱建物跡は1間×4間で規模は3.7m×7.5mある。床が上がった高殿といわれる住居に属し、通常の竪穴住居よりも格式が高いものといえる。密集する柱穴群と少し離れて1間×4間の掘立柱建物跡が位置している。高床式の建物となり、権力者のすまいか儀式やまつりごとを行う神殿にもふさわしい。私たちが発掘時に目にする遺跡は、場所にもよりますが、数十センチ~1mちかくは後の時代に削平を受けているので、当時の姿は想像しにくいのですが、上屋構造含めて本来はさらに規模が大きく立派にみえたことでしょう。(次回の続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師。■城野遺跡の主な遺構の配置図弥生時代後期(1800年前)の集落が丸ごと発見され、邪馬台国時代のクニの中心集落とも言われています。しかし、現地が保存されたのは九州最大級の方形周溝墓付近だけで、広大な城野遺跡の東エリアはゆめマート城野店、西エリアはサンキュードラッグ城野店等が建ち、現在営業中です。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。↓ここをクリックしてください。 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0■日本考古学協会の要望書日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回) 城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか? ☛①2020/8/2 ②8/10 ③8/17第2章 発掘調査の内容(未定) 発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか? ☛①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8 ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6第3章 注目すべき事実(6回) 城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか? ☛①2021/8/30 ②9/30(今回)第4章 立ち退かされた弥生人(4回) ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?第5章 遺跡保存への道のり(3回) 発掘担当者の悩みと苦しみ第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回) 守ることと伝えること…第7章 立ちはだかる壁(4回) 行政判断の脆弱さを問う最終章 帰ってきた弥生人(3回) 新たな歴史の誕生※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑦“遺跡の保存・整備に疑問②”小倉南区城野遺跡の巨大な方形周溝墓がみつかってからの現場は非常にあわただしくなった。2基の箱式石棺は厳重に密閉されており、この蓋石を開けるのは実に1800年ぶりということになることに加え、もし中から貴重な副葬品が見つかったら…、人骨が腐らずに残っていたら…、と調査担当者は次々に生起するであろう新事実や課題に対応する備えをしていることが察せられた。私は、引き続き記録ビデオを回し続けたが、自分の業務があるため、撮影できる時間は限られていた。それでも約2か月半にわたる録画時間はゆうに3時間を超えていた。この間、埋蔵文化財調査室としては専門家に指導を得るための招聘依頼文書の作成や日程調整、謝金と交通費の手続き、また報道機関へのレクチャーや記者室への投げ込み資料の作成、現地説明会の開催準備、さらには新聞・テレビで紹介されたことから、発掘中の方形周溝墓と箱式石棺を一目見ようと毎日見学者が訪れ、その対応など現場サイドは多忙を極めていた。ここで、見つかった方形周溝墓内の2基の箱式石棺について整理をしておこう(写真1)。南側石棺(南棺)は内法で長さ107㎝、幅29~38.5㎝、深さ41㎝で、内部床面より頭骨右半分と数本の歯が出土したほか、副葬品として鉄製刀子が膝の位置の側壁側におかれ、頸部には碧玉製管玉6個、瑪瑙製棗玉(めのうせいなつめだま)1個が装着された状態でみつかった。また石棺内部を埋め尽くす赤色顔料はそれこそ真紅(しんく)の赤で、厚いところでは3㎝もあり(写真2)、頭部の枕部分には紫色を呈する別の顔料が撒かれていた(写真3)。■写真1 二つ並んだ箱式石棺は子供用■写真2 赤色顔料(水銀朱)は厚さ3㎝を超える■写真3 頭骨周辺は意識的に紫色の朱を撒いている一方、北側に位置する石棺(北棺)は人骨や副葬品はみられなかったが、蓋石を開ける際、目貼り粘土の中に鉄製の工具(ヤリガンナ)が埋め込まれ、内部はやはり赤色顔料で塗り込められていた。石棺の内法は長さ106㎝、幅34~37㎝、深さ31㎝をはかり、南棺よりわずかに小さい。つまり、両方とも大人の墓ではなく、子供の墓であることは明らかである。南棺に残存していた歯を九州大学で分析鑑定していただいたところ、4~5歳の幼児のものであること、それはまだ生えてなく、歯茎の中で準備されているものだった。こんな小さな子供たちのために巨大な墓域を確保して周りに溝をめぐらす……これはまがいもなくこの地域を治めるリーダーの嫡子(ちゃくし)の墓といえよう。しかし個人的には、この墓は本来この子らの親のために生前から城野ムラで用意されていたものだったと考えている。子供たちの予期せぬ相次ぐ死に、急遽この土地を彼らの墓域にせざるを得なかったのであろう。いずれにせよ、城野遺跡で見つかった方形周溝墓は弥生時代後期の葬送儀礼と集落との関連を考えるうえで、また他地域の有力者の墓と比較検討するうえでまたとない貴重な発見であることは、埋蔵文化財を糧として仕事をするものなら容易に理解できることである。私はこの遺跡を保存することが出来なければ、これをしのぐ他のどんな貴重な遺跡が保存の対象になるのだろうか?との思いが自分の中で日々大きくなっていくのを感じていた。箱式石棺の調査と記録にはそれなりの日数が必要で、これを保存するとなると調査の進め方も変わってくる。発掘担当者もそれを気にして組織の上司や、所管課である市文化財課にこの遺跡の重要性、保存の必要性を訴えていたと聞いているが、目に見える形での変化はなく、現地説明会を開催して市民に公開することで責任を果たそうという上層部のスタンスに見受けられた。つまり当初の計画どおり、調査が終了すればこの稀有な方形周溝墓も破壊される運命にあることに変わりはないと思われた。その間、私たち城野遺跡調査担当者は市文化財課と埋蔵文化財調査室の間で担当者を交えての方形周溝墓に関する意見交換の機会を設けてくれるよういくどか要請したが、それは叶わなかった。何に使用するのか明らかにもされずに上層部は関連資料の提出ばかりを求めてきた。水面下ではこの遺跡の取り扱いについて、福岡県教育委員会、文化庁、また原因者である福岡財務支局との協議を行っていたのかもしれない。そのための提示資料が必要だったのかもしれない。しかし決定的に私に不信感を抱かせたのは、調査担当者の意見を全く聞かなかった、ということに尽きる。誰よりもこの遺跡と向き合い、悩みながら調査を続けている人間が、この遺跡の学術的価値についてどう考えているのか、遺跡保存の必要性を感じているのかどうか、まずは現場の意見に耳を傾けるのが筋だと考える。北九州市所管課の旧態然とした埋蔵文化財に対する取り組み姿勢には、その後も痛いほど辛酸をなめることになるのである。(次号に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師。※なお、この連載は平和とくらしを守る北九州市民の会が発行している「くらしと福祉 北九州」2021年5月1日号に掲載された記事です。転載をご快諾いただきありがとうございます。
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章 注目すべき事実① “墓づくりの真相”これまで、城野遺跡の発掘調査開始の様子から、見つかった遺構や遺物について色々とご紹介してきました。弥生時代終わり頃、ちょうど邪馬台国の女王卑弥呼が生きた時代の城野ムラが、この地域でどのようにして発展してきたのか、ムラびとたちの暮らしぶりや死者に対する思いにも想像を交えて述べてきましたが、ここでは再度、注目すべき発掘成果とそれに対する私の考え方をまとめておきたいと思います。城野遺跡で何が一番すごい発見なのかは、もうすでに繰り返し述べてきたように、九州最大規模の方形周溝墓と朱塗りの石棺に葬られた幼児たちに対するムラびと達の行為そのものを追体験するかのように明らかにできたことだと考えます。それは、この巨大なお墓が1800年の時を超えて、私たちに語りかけてきた紛れもない歴史的事実であるからです。私たちはそこに現代を生きるヒントを授かり、遠い祖先である前に同じ人間として、彼らの様々な営みに共感を覚える時間をもらいました。今度は私たちが彼らに、その思いを届ける番だと思っています。さて、再び南棺に描かれた方相氏(ほうそうし)の絵画文様について、その描いた状況を発掘調査の成果をもとに考えてみました。まず、どの段階でそれを描いたのかを解明するため、再度木口石(こぐちいし)をじっくりと観察しました(写真1a、1b)。木口石の面はとても平坦で、絵を描くにはうってつけです。これは、弥生人が当初から絵を描くことを想定して整えた、いわば「石のキャンバス」といえるでしょう。【写真1a】木口石に描かれた方相氏の絵画文様よく見ると、木口石の表面には右上から左下に向かって、放射状の線が走っている。これは石を割った際にできるフィッシャーという痕跡で、扇のかなめになる部分が、叩いた箇所(打点)になる。かなめ部分は木口石に残されていないので、打点はもう少し右上数センチ先にあったと思われる。つまり、本来この木口石は一回り大きかったのだ。この平滑なキャンバスを得るのに、いかに彼らが手をかけているかがわかるのは、石の周囲に最終的に細かい敲打(こうだ/こつこつ叩くこと)で形を調整して仕上げていることだ。【写真1b】敲打(こうだ)による調整が行われた石の縁辺部彼らは、それを幼児の頭の上に据えることに決めたのです。人間の体で最も大切な頭ですから、彼らは子ども達に赤と紫の水銀朱で厚みのある枕までしつらえました(写真2)。首には母親譲りの玉のネックレス、足もとには生前さわらせたこともないような鋭い刃物=鉄の刀子を置いて魔除けとしました(写真3)。【写真2】南棺に残された頭部人骨と水銀朱の枕、および目張り粘土の状況南棺の頭部分は、まず土で数センチ盛り上げてその上に赤い朱を撒き、さらに紫色の朱を丸く重ねて、死者の頭を安定させている。木口石と左右側石との境には目貼り粘土を押しつけて埋め込んだため、角が丸みを帯びている。【写真3】石棺内の鉄製刀子出土状況→部分、側石に沿わせて長さ23.6㎝の刀子を添えている。丁度幼児のひざ元あたりになろう。これも魔除けの目的があったものと思われる。写真4や図1に見えるように、木口石には絵画が描かれた下方に、ゴンドラ船の底のような朱の赤いラインが見られますね。これは彼らが意識して描いたものではなく、箱式石棺内の床面に撒かれた水銀朱の輪郭を示しています。つまり、このゴンドラ船より下は土中にあったのです。そして左右の角の丸みは石棺を築き、朱を撒く順序を以下のように教えてくれています。【写真4、図1】方相氏の下のゴンドラ船の底に似たライン写真の赤いラインから下が土中に埋められていたことを示している。また、床にまかれた水銀朱の厚みがそのまま赤いラインとなっている。写真4の→で示す箇所が丸みを帯びているのは、石と石の角、石と床面の境を白色粘土で目貼りしていたためだ。したがってその上から水銀朱を撒いたことがわかる。図1(実測図)の→部分になる。木口石と側面の石の角部分、土の床面との間には厳重に目貼り用の粘土が埋め込まれていました。そのために石と石、石と床面の境が丸みを帯びているのです。つまり、木口石は側石とともに現地に据え置かれたあと、粘土で目貼りされ、そののちに朱が塗られ、同時に床面にも撒かれたのです。もうひとつ重要な事実は、木口石の絵画文様の線がこのゴンドラ船のラインの下までには達していないということです(写真5)。【写真5】木口石にみられるゴンドラ船の底に似たライン絵画文様の線がこれより下には達していないため、この木口石が据えられたあとに水銀朱を塗り、そのあと方相氏を描いたことになる。一部の研究者、見学者の中には絵画文様は木口石を据える前に別の場所で描いたのではないか、と言う人もいました。そもそも木口石は地中にある程度の深さまで埋めなければ、ぐらついたり倒れたりしてしまいます。それは現地で組み立ててみなければどの深さで止めればいいのかわかりません。よって、方相氏の絵画文様を描くまでの作業は次のような順番になると考えられるのです。1.方形周溝墓内に箱式石棺を築くための墓坑を掘る。(実際は二段掘りになっています)2.石棺の石を据える。(これにも順番があります)3.据えた石が内側、外側に倒れないように、床面と石の接点部分に土をつめたり、押さえつけたりして安定をはかる。同時に石棺外側は墓坑を掘った際に出た土で石棺の高さまで埋め戻す。4.石棺内部の石と石の接合部分、石と床面との境界部分を白色粘土で目貼りする。5.水銀朱を木口石や側石の内側全面に塗り、床面には大量に撒(ま)き敷く。6.頭部側には2色の水銀朱で枕を作る。さて、この後に方相氏の絵画文様を描いたのか、遺体を安置したのちにそれを描いたのか、が問題です。しかし、発掘調査ではその解答は出せませんでした。もし、遺体を安置する前に描いたとしたら、どうやって描いたのでしょうか。石で囲ってしまったら、木口石に絵を描くには非常に無理な姿勢となります。かといって、足もと側の木口石を設置する前に足もと側から描くとしても、床面には水銀朱が厚く敷かれているので、頭部側の木口石には近寄れないし、腹ばいになることもできません。石棺の上に板を渡してその上に乗れば可能かもしれませんが、据えたばかりの石棺が歪んでしまう可能性もあります。また南棺の幅は29.0〜38.5㎝しかなく、大人の肩幅(現代人の男女平均43.2㎝)もないので、到底石棺内に入り込めないのです。一方、遺体を安置した後に方相氏を描くのは可能だし、厳粛な葬送(そうそう)行為の一場面を演出するのに効果的だとは思いますが、遺体のすぐそばでの作業になるので、遺体もしくはそれをくるんだ装束(しょうぞく)を汚したり、傷つけたりする可能性もあります。ですから、この順序については結論が出ないのです。しかし、絵画文様の線をよく見ると、水平方向の線は概ね向かって左上から右下方向に少しだけ傾斜しているのです(図1,写真1)。ということは、方相氏を描いた人物は石棺の南側(向かって左側)に座るかひざまずき、断面が丸みのある工具(例えば細い植物の茎や竹など)を持ってやや窮屈な姿勢で手前方向(木口石の左方向)から奥方向(木口石の右方向)に工具を動かしたのです。体は石棺より上位にあるので、描く線はどうしても右下がりになってしまいます。そうです。ですからこの人物は右利きだったと考えられるのです。左利きの人が石棺の南側(向かって左側)に座って組まれた石棺の頭部側木口石に絵を書くのは非常に難しいのです。また、木口石の真上から見下ろす形で絵を描くことも可能ですが、わざわざ方相氏の姿を逆さまから描くでしょうか。その場合左右の傾斜角度がそろっているのも不自然だし、厳粛な行為に曲芸技は似合いません。ですから私が考える作業の続きは以下のようになります。7.頭部側木口石の横(石棺の南側、(向かって左側))に座って方相氏の絵を描く。8.遺体を収める。9.遺体の右膝元に、側石に沿わせて鉄製刀子(とうす)を置く(写真3)。10.あらかじめ内側に水銀朱を塗っておいた蓋をかぶせる。11.石棺の棺外に、水銀朱を撒くのに使った小壺を据え置く。12.石棺の上に土をかぶせて盛り上げ、墳丘を築く。ひとつ大切なことを言い忘れました。方相氏を描いた人物は、真っ赤な朱で覆われた木口石のキャンバスに、窮屈な姿勢で、しかも丸みのある工具で押さえつけるようにして線を引いているのですから、本人にとってもどんな仕上がりで方相氏が描かれているのか確認できません。なぜなら赤に赤の線を押し付けているのですから。描かれた線はあいまいな輪郭となって、何を描いているのか私たちにはきわめて判別が難しいのです。いえ、きっと本人もその出来栄えはわからなかったでしょう。ということは、この絵が決して人に見せるための絵ではなかった、つまり、「墓に侵入する悪霊を追い払う方相氏を描く」ということ自体が大切な儀式がこの場で行われたことを物語っているのです。上で述べた順番で10~12の作業のどこかでムラびとを集めての葬儀が執り行われたことでしょう。皆さんだったら何番目に葬儀の行為を入れますか? (次号に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師。■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。↓ここをクリックしてください。 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0■日本考古学協会の要望書日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回) 城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか? ☛①2020/8/2 ②8/10 ③8/17第2章 発掘調査の内容(未定) 発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか? ☛①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8 ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16⑳8/6第3章 注目すべき事実(6回) 城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか? ☛①2021/8/30(今回)第4章 立ち退かされた弥生人(4回) ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?第5章 遺跡保存への道のり(3回) 発掘担当者の悩みと苦しみ第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回 守ることと伝えること…第7章 立ちはだかる壁(4回) 行政判断の脆弱さを問う最終章 帰ってきた弥生人(3回) 新たな歴史の誕生※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑥“遺跡の保存・整備に疑問①”小倉南区にあるJR日豊本線、日田彦山線城野駅の南側一帯に広がる城野遺跡は、1800年前の九州最大規模の方形周溝墓や箱式石棺内に描かれた絵画文様が見つかったことなどで全国的にも有名になった遺跡であるが(写真1)、その保存と整備には数々の疑問と疑念、汚点が残されており、北九州市の埋蔵文化財行政を物語る上で格好の材料を提供してくれている。過去形になっていない表現からは、この問題が現在も進行中であるということに加え、そうした問題が今後さらに増幅される可能性が高いという危惧の表れでもあることをお察しいただければと思っている。■写真1 城野遺跡でみつかった巨大な方形周溝墓この問題に触れるには、城野遺跡の方形周溝墓発見の経緯とその重要性について述べておく必要がある。もう12年も前のことになるが、城野医療刑務所が立ち退いた土地に弥生時代の遺跡が残されていることが北九州市文化財課(現文化企画課)の試掘調査で明らかになっていたため、業務委託を受けた(財)北九州市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室が発掘調査を行うこととなった。遺跡の範囲は2万2000㎡にもおよび、その中央を城野駅に向かう都市計画道路(城野駅南口線)が敷設されるため、私はこの道路部分(約3500㎡)の調査を担当することとなった(図1)。ちなみにこの土地は刑務所が設置されていたためその所有者は財務省福岡財務支局であり、道路以外の部分は当面開発行為が行われない国有地であった。■図1 発掘調査区の全体図 カーブする中央部分が城野駅南口線で★が方形周溝墓の発見場所ここで一つ目の疑問点を提示しておくが、通常地方公共団体が行う行政発掘は開発行為により遺跡が破壊される場合、その事前措置として行うことになっているが、なぜ今回開発計画のない部分も同時に調査することになったのか定かではない。おそらく、遺跡が存在している土地は将来売却するのに支障がでると、財務支局が考えたからであろうが、北九州市の指導的立場にあった福岡県の埋蔵文化財担当者も疑問を投げかけていたところであった。問題の方形周溝墓はまさに、開発予定のない道路建設予定地西側調査区でみつかることになるのであるが、この調査は別の調査員が担当することになっていたため、調査開始当初は、私の担当外のことでもありさほど重要視はしなかったし、こんな遺構がみつかるとは予想だにしていなかったのである。しかし、コの字型の大きな溝(東西16.5m、南北23m)のほぼ中央付近に3.4m×2.5mの長方形の土坑がみつかった時点で、私は「ひょっとしたら重大な発見があるかもしれない」という何ともいえない高揚感に襲われた。その後、土坑内部で箱式石棺が2基並んでみつかり、この石棺の蓋石を開ける時点で、「これは記録に残さねば」と用意していたビデオカメラを回し始めたのだが、「今から世紀の大発見があるかもしれない」と大げさにうそぶいた私の声が記録されていた。そして、蓋石が開けられた後、次々に明らかになる新事実……、これは大変な発見であると実感し、この方形周溝墓の調査担当者との意見交換の中で、「今のうちに保存のための協議をすすめないと壊されてしまう」という危惧が先にたった。私は直接の担当ではなかったし、自分の調査区の発掘業務があるため実際に動くことができなかったが、上司には専門の先生を招聘して意見を聞くことと、調査指導委員会を早めに設置して早急にこの方形周溝墓の今後の調査方針や保存に向けての協議を開始するよう市文化財課に働きかけてほしいとお願いしたが、その反応は極めて鈍いものだった。北九州市には市域の文化財について指定物件の諮問や答申、審議をおこなう「北九州市文化財保護審議会」が組織されており、メンバーは市内外の有識者からなる。文化財や考古学専門の委員も加わっているが、その議題はほぼ市の文化財指定物件に関する事案に終始しており、あらかじめ文化財所管課が作成した議案に対して承認するシナリオになっていると聞く。いわばさほど緊急を要することではない議案を承認する場ともいえる。予算も調査期間もあらかじめ設定されたなかで、緊急発掘調査を行い城野遺跡のような極めて貴重な遺跡が発見された場合も、その学術的価値を議論し、保存の対象とすべきかどうかを判断する組織は、北九州市には存在しない。この審議会が「文化財保護」と銘打っているからには、こうした突発的な事案も協議し審議できる会にしなければ、文化財保護の観点から、また文化財を守り伝えていく職務を担う文化企画課の存在価値にも疑問符がつく。発掘調査は時々刻々遺跡の状況が変化し、それに伴って作業の種類や段取り、工程も的確かつ敏速に対応や変更しなければならない場合も多々あり、担当者の精神的負担は非常に大きい。研究目的の発掘ではなく、開発行為で消滅する遺跡を記録保存することが前提の行政発掘ならば、調査前、調査中にかかわらず、突発的な問題が起こったときに、迅速な埋蔵文化財の取り扱いができる体制を構築しておくべきではないか。身分は違っても同じ文化財専門職員でありながら、前記したように部下の意見や要望に対して反応が返ってこない上司に失望した思いがいまよみがえってくる。(次回に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師。※なお、この連載は平和とくらしを守る北九州市民の会が発行している「くらしと福祉 北九州」2021年4月1日号に掲載された記事です。転載をご快諾いただきありがとうございます。
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章 発掘調査の内容⑳ “方形周溝墓はこうして築かれた!”では、二人の幼子(おさなご)を埋葬した方形周溝墓はどのようにして作られたのでしょうか。先日ファイルを整理していたら、発掘調査時に描いたスケッチ図が出てきました(図1、2)。この図は、二つの石棺が同時に築かれたと仮定して描いているので、実際は書き改めないといけないわけですが、当時私が頭の中で整理した築造過程を順番に記しています。今回のブログで、説明不足分を活字で追加しました。私の汚い手書き文字と一緒にご覧ください。【図1、2】方形周溝墓の築造過程石棺は同時埋葬ではないが、弥生時代中期から後期の土層の関係、また墓坑を築くために掘削した手順などを示している。図の石棺は、左側が南棺、右側が北棺で、南棺が先に設置された。※数字は図1、2記載の番号です。①まずはお墓が作られる前ですが、この場所は弥生時代中期後半ごろから使用されていたようで、そのころの土器を含む土層が堆積していました。弥生時代中期の生活面です。しかし竪穴住居や貯蔵穴などの生活遺構は築かれていないため、早くから墓域に使用する土地として、集落の中で守られてきた場所だったようです。②そこにお墓を作るため、石棺を築く墓坑(ぼこう)が掘られます。これは側石や木口石を据えるための作業エリアも必要ですからかなり広めになっています。掘った土は周りに積み上げられたと思われます。③そのあとは、二つの石棺を据え置くため、あらかじめ石の形や幅、高さに合わせてある程度地面を掘りくぼめます。掘った土は、また埋め戻すのでやはり周囲に積んでおきます。よって上位の土層が一番下に、下位の土層が一番上に置かれることになります。④石棺を据え、水銀朱を撒き、方相氏(ほうそうし)を描き、遺体を据え、副葬品を入れて蓋(ふた)をしますが、南棺の棺外には小型壺が供(そな)えられたり、北棺の割れた蓋の隙間に鉄製のヤリガンナを差し込んだりして粘土で目貼りし土をかぶせます。土の順番は図のように、おおむね元通りになるかごちゃまぜになるかですが、非常に乱れた状態で積まれていくと考えられます。なお、ここでの修正点は墓標の位置(×)にありますが、このことについては後ほど述べます。⑤墓坑の埋め戻しが完了します。掘った土は少し余った状態で置かれていたと想像しました。次の作業でどうせ使うからです。⑥次に方形周溝を掘削しますが、この作業はどの段階になされたのでしょうか。23m×17m、幅2m、深さ数十㎝~1mほどの溝を短期間で掘るのは大変ですが、あるいはムラびと総出で掘削した可能性があります。ここでは石棺設置、埋め戻しの後に溝が掘削されたと仮定します。すると図のように、溝を掘った土でその内側に土を盛り上げていきます。いわゆる「墳丘墓(ふんきゅうぼ)」にするためです。城野遺跡より数十年のちの古墳時代最大の土盛り作業は古墳づくりでした。土盛りは墓をより壮大にみせ権力を誇示するために必要な作業です。城野遺跡ではこの溝の中から手のひら大~人頭大の礫(れき)が多数みつかっており(写真1)、おそらく土を盛ったあと、その壁面や周囲にこれらの石を貼り付けて区画を示したと考えます。風雨による盛り土崩壊を避けるのにも役立ったことでしょう。【写真1】方形周溝に落ち込んでいた多数の礫人頭大から手のひら大の礫は、盛り土の斜面や縁に貼り付けたり並べたりしていたものと考えている。⑦その後、城野では長い時間の経過により、次第にお墓を維持管理していくことがなくなり、墓は荒れてきたことでしょう。貼られた石が抜け落ちたり、盛り土が崩れたりして、それが周溝のなかに落ち込み溝が埋まっていきます。⑧さらに溝が埋まり、墓の存在すらわからない時代になった近現代に、この場所は医療刑務所関係の建物を築くために地面を削平します。いわゆる「造成工事」ですね。その結果、図に示すように盛り土も墓も溝も削られ真っ平らな地面になってしまったのです。しかし幸いなことにこの場所は刑務所の上級刑務官の戸建て住宅になったようで、大規模な破壊は免れ、今回の調査で城野方形周溝墓が発掘されたというわけです。④で言い忘れましたが、南棺の木口石の外には、小さな弥生土器の小壺が据えられた状態でみつかりました(写真2)。胴部が丸く膨らみ、底部はわずかに平底をとどめています。そして壺の中には真っ赤な水銀朱が付着していました(写真3、図3)。そうです。箱式石棺に赤い朱を撒くのに、彼らはこの小壺をヒシャク代わりに使ったのです。撒き終えた後、小壺はそっと幼子の頭部側棺外に供(そな)えられたと考えられます。【写真2】小壺の出土状態南棺の木口石の外側に置かれていた。丁度蓋石の先端部の陰になる位置だ。意識的にここに供えられたものと思われる。【写真3、図3】小壺内に付着した水銀朱南棺に撒かれた水銀朱は大量で、この小壺に何度も汲み上げて撒いたのだろう。よく見ると、棺外の地面にも水銀朱のしずくが落ちていた。図は小壺の出土状況図。赤いトーンがかかった部分に水銀朱が付着していた。この小壺の形態から、城野の方形周溝墓と箱式石棺の年代が弥生時代の終わりごろのものであることがわかりました。そういう意味でこの小壺の資料的価値は、方相氏の絵画模様の発見にも増して高いものなのです。以上、方形周溝墓が築かれる過程をお話ししましたが、二つの石棺は作られた時期が違うので、私が想定するように数年のタイムラグがあった場合、北棺を築くには南棺設置後に土盛りされた墳丘を上から掘りこんで南棺の位置を捜し出し、それに沿わせる必要があります。ここで、仮説を立ててみたいと思います。まずは写真4をご覧ください。北棺の手前に横たわる石は、本来南棺の位置を示す墓標だったのではないでしょうか。それが何らかの理由で見つからず、掘り進むなかで埋もれてしまっていた墓標の立石がみつかったため、北棺を築く際に横に埋め直したのではないでしょうか。【写真4】北棺の横に寝せ置かれた標石それが置かれた位置といい方向といい、北棺を意識して丁寧に横に寝せ置かれていることは確実です。私は、北棺の位置を示す標石は別途用意されており、北棺を埋めたあと、墳丘面まで土盛りしたあとにそれが最終的に立てられていたのではないかと考えています。それも長い年月の間に倒壊して埋もれ、後世の削平や造成工事で失われた、と考えてはどうでしょうか。(次回に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師。■日本考古学協会の要望書日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。↓ここをクリックしてください。 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回) 城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか? ☛①2020/8/2 ②8/10 ③8/17第2章 発掘調査の内容(未定) 発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか? ☛①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8 ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6(今回)第3章 注目すべき事実(6回) 城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか?第4章 立ち退かされた弥生人(4回) ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?第5章 遺跡保存への道のり(3回) 発掘担当者の悩みと苦しみ第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回 守ることと伝えること…第7章 立ちはだかる壁(4回) 行政判断の脆弱さを問う最終章 帰ってきた弥生人(3回) 新たな歴史の誕生※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑤“埋蔵文化財センター移転問題”今、喫緊の問題を今回は取り上げてみたい。埋蔵文化財の発掘調査と研究、収蔵と保存、史跡整備や保護・活用、教育普及など、その業務全般を担う施設を通常「埋蔵文化財センター」と呼んでおり、北九州市にも小倉北区金田一丁目1~3に所在する。今年で築38年目を迎え、かなり老朽化が進んでいるが、その間北九州市内遺跡の発掘調査と報告書発刊、発掘成果の情報発信、企画展示や歴史講座の開催、展示解説や施設開放、普及活動も行っており、北九州市域の歴史と文化を通じてそれなりに北九州市民とのつながりもでき、地域貢献もしてきた。その埋蔵文化財センターを移転する、という「寝耳に水」の施策が突然、北九州市長から正式発表された。2018年8月30日のことである。もっとも寝耳に水とは、私たち埋蔵文化財センターに勤務する職員にとってのことであり、どこまで事前にこの方針を把握している部署があったのかは定かではない。しかもその移転先が築60年の八幡市民会館だというから、二度驚いた。60歳の相手男性の元に36歳の女性がお嫁に行く、そのような情景が目に浮かんだのである。八幡市民会館は1958年、旧八幡市の戦後復興事業として、日本を代表する建築家村野藤吾が設計した現存する数少ない建造物で、当初北九州市は老朽化のため市立八幡図書館とともに解体撤去を決めていたが、住民や専門家からの保存・存続要請により、方針転換した経緯がある。その施設を保存し活用するために、わが埋蔵文化財センターに白羽の矢が当たったわけである。(私自身は黒羽の矢と思っているが…)。しかし、市民会館と埋蔵文化財センターとでは、全く機能がことなっており、八幡市民会館の歴史的建築史的価値は外観、内観一体のものであるはずである。新聞記事では建物存続を求めてきたまちづくり団体「八幡市民会館リボーン委員会」委員長の言として、『保存が決まり喜んでいる。市が一番いい活用策を考えてくれた』と歓迎している一方、近代建築の保存、記録に取り組む国際組織「ドコモモ」の日本支部代表は、『今後大事なのは、村野建築の良さを守りながら、耐震やリニューアル工事をすすめ、村野ファンの拠点的建物になってほしい』と提言している。ここで、八幡市民会館の存続・活用についてのべる紙幅はないが、埋蔵文化財センター側からすると、この移転は今センターが進むべき方向性とは逆行する決定と考えている。センターと名の付く施設なら、そこですべての関連業務が十分に遂行できることが必要条件だ。まずは遺物の保管問題を取り上げてみよう。前々回にも述べたが、市域で発掘された埋蔵文化財は北九州市文化企画課が発掘・保管している遺物がパンケースで約9,900箱、(公財)北九州市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室が発掘し保管している遺物が現在の埋蔵文化財センターに保管されている遺物4,700箱に加え、古城収蔵庫保管分80,000箱を合わせた計94,600箱からなる。しかし、これはあくまで北九州市の試算で、私の試算では100,000箱は優に越えている。その85%は門司港地区にある古城収蔵庫に保管されており、少なくとも活用できる状況にはない。それを市は移転すればあたかも今まで分散収蔵されていた遺物が一括保管出来る、と主張するが、その一方で古城収蔵庫の遺物量80,000箱が余りに膨大なため、「本事業における統合は困難」として切り捨てている始末だ。この件を移転問題の埒外に置いていること自体、今回の移転理由に正当性がないのは明らかである。市がこれまで説明を重ねてきた埋蔵文化財センター移転に関する公共事業評価で、市民、検討会議の委員、教育文化委員会の市議も文化企画課から詳しい説明を受けていないためであろうか、この80,000箱についてことさら質問が出なかったようだが、中身は市が収蔵している収蔵庫遺物の8倍の遺物が取り残されることになるのである。分散保管された遺物が「貴重」だという市文化企画課なら、財団でもそれと「同質」の遺物が古城収蔵庫に8倍保管されていることに思い至らないのであろうか。しかも財団の収蔵庫として使用している古城収蔵庫は、借り受けた当初から毎年の発掘調査で大量に出土する遺物を手間(片道45分、遺物コンテナの運び込みは4階まで階段による人海戦術)と金(一年に100万円ほどの運送費)をかけて20年間運び続けている苦労と徒労は文化企画課の職員にもわかるまい。大分県の埋蔵文化財センターが近年、大分県立芸術会館に移転したが、大分県は調査して出土した遺物のすべてをここで収納できる施設に仕上げている。同じ市民ホールの機能をもつ芸術会館と八幡市民会館であるから、観客席のスロープを大幅改装してすべての遺物を収納することを第一義に考えた大分県と、自分らの都合の良い遺物のみ集中管理できる体制に終始した北九州市の行政判断の格差は埋めがたい。今年1月現在、埋蔵文化財センター移転事業は基本設計を経て、公共事業評価の観点から市民に広く意見を求めるパブリックコメントの募集が終了した段階にあり、今後は実施設計を経て急ピッチで埋蔵文化財センター移転に向けた用途変更工事が進められる計画になっている。そして2024年度中の埋蔵文化財センターオープンをめざすとされているが、そもそもそこで働くセンター職員の意見も聞かずに、移転せよとはどういうことか。長年住み続けてきたアパートの住人に、突然出て行けと言われているに等しい仕打ちを今ひしひしと感じている。さらにその先にはセンターの跡地売却のシナリオが描かれており、我々が小倉の地で35年以上かけて築き上げてきた地域と市民との連携、学校や公民館とのつながりも断たれようとしている。八幡市民会館の2階、3階に設けるという「倉庫」に何を入れるのかも北九州市は明らかにしていないが、端的に言えば今回の移転事業で一番得をするのは北九州市文化企画課といのちのたび博物館の出土遺物である。見向きもされない80、000箱の出土遺物の悲痛な叫び声が聞こえる。【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師。※なお、この連載は平和とくらしを守る北九州市民の会が発行している「くらしと福祉 北九州」2021年3月1日号に掲載された記事です。転載をご快諾いただきありがとうございます。