連載31 城野遺跡/帰ってきた弥生人 第4章① “そして誰もいなくなった”
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第4章 立ち退かされた弥生人① “そして誰もいなくなった”人間がそれまで住んでいた場所を立ち退く理由はいくつか考えられると思います。さしずめ現代人なら、①家族が増えて住まいが手狭になった、②転勤を命ぜられた、③住んでいる環境を変えたくなった、④経済的に今の住まいが維持できなくなった、⑤人的トラブルで他所に移らざるを得なくなった、⑥生まれた故郷に帰ることになった、などでしょうか。では古代人はどうしていたのでしょうか。おそらく現代よりも親族や世帯間のきずなが強かった当時、そこを離れるには止むに止まれぬ事情が発生したにちがいありません。獲物を追って移動生活を送っていた旧石器時代(今から16,500年より前)は、キャンプサイト的な住処(すみか)しか築けなかったと考えられますが、縄文時代になるとしだいに竪穴住居が築かれ始め、定住生活が送れるようになったことは、青森県三内丸山(さんないまるやま)遺跡や佐賀県東名(ひがしみょう)遺跡のように大集落が縄文時代早期段階(今から約8000年前)にはすでに各地で成立し発展していることからもわかります。つまりそこで長期間安心して暮らすのに必要な食料の獲得が保証され、世帯間の結束やムラの規律が安定してきたということの証しなのです。気候など自然環境に左右されることももちろんありました。北九州市でいえば小倉南区下吉田遺跡では、縄文時代後期(今から約3,500年前)の集落が営まれ、竪穴住居も3軒みつかり、大量の土器や石器が出土しています。とくに周防灘という豊かな海が近いこの遺跡では、魚介類の宝庫だったようで、貝塚はみつかっていませんが、土器づくりには数多くの種類の巻貝や二枚貝の殻が使用されていることが土器表面に残された調整痕跡でわかるのです【図1】。【図1】土器の表面には貝殻でなでつけたり、押し付けたり、転がしたりした調整痕跡が残っている。貝殻自体は見つかっていないが、近くの海で獲れた貝殻を利用したものと思われる。<各種巻貝の殻による調整痕跡><二枚貝の殻による調整痕跡>誰もが安心して暮らせる終の棲家(ついのすみか)は理想とするところですが、ロシアのウクライナ侵攻のように、外部圧力がその願いを奪い去ることも私たちは経験してきました。つまり集落間のいくさが、その土地を立ち退かされる大きな要因にもなるのです。そもそも立ち退かされるということは、立ち退かせる勢力が存在するわけですから、城野遺跡でいえば、同時代に暮らす弥生人がそれにあたります。では、はたして城野遺跡でいくさがあったのでしょうか?シリーズ12回目でご紹介したように、城野遺跡では火災にあった竪穴住居が何軒かみつかっていますが【写真1】、戦争の痕跡はどこにも見当たりません。敵に火矢を撃ち込まれたなら、住居内から石や鉄・銅製の鏃(やじり)がみつかったり、投弾(とうだん)や礫石(つぶていし)などの飛び道具が出土したり、焼け死んだ人骨や武器で傷を負った痕跡のある人骨が出土するのですが、それも見あたりませんでした。もっとも、人骨は城野遺跡のような酸性土壌では溶けて残りませんので、その確認はできないのです【写真2】。【写真1】城野遺跡で火災にあった住居(弥生時代後期終末)黒く炭になっているのは、住居の桁材や垂木材で、よくみると放射状になって焼け落ちているのがわかる。【写真2】吉野ヶ里遺跡でみつかった首なし人骨(弥生時代中期前半)甕棺に丁寧に納められていたため、首を取られて戦死した兵士をムラに連れ帰って埋葬したのであろうか。一方、城野遺跡の場合は、発掘調査でみつかった遺構から出土した弥生土器の特徴をもとに年代を推定したところ、弥生時代中期の初めごろ(紀元前2世紀前半=今から約2,200年前)に人々が住み始め、穀物貯蔵用竪穴を設け【写真3】、小規模ですがお墓も築いていました【写真4】。そして弥生時代中期後半くらいになって城野遺跡はようやく集落の規模が拡大し始めますが、後期の初めから前半にはパタッと遺跡がなくなるのです。これはどういうことでしょうか。【写真3】もっとも古い貯蔵用竪穴(弥生時代中期初め)城野遺跡では数少ないが、長方形の貯蔵用竪穴が見つかっている。出土した土器の型式から中期初めごろのものと考えられ、このころから人々が住み始めたことがわかる。【写真4】土坑墓の掘り上げ状況長方形土坑の頭位寄り中央付近に磨製石剣がみつかった。剣先を下の向けているが、人骨は残っていなかった。出土位置から死者の胸元に置かれていたものと思われる。城野遺跡最古のお墓になろう。今回みつかった城野遺跡の方形周溝墓は弥生時代後期の終わりごろ、玉作り工房や多くの竪穴住居も同じ時代ですから、いったん集落が途絶えて、その200年後にまたムラが作られ繫栄したということになります。この現象にはふたつの考え方があります。ひとつはなんらかの政治的、社会的理由、またはパンデミックや自然災害が起き、いったん人々がそこに住めなくなったためという考え方、もう一つは年代決定に使用する弥生土器の型式変化の物差しが違っていて、本当は古く考えている土器がもっと後の時代まで残っていた、そして新しく考えている土器がもっと古くから使われ始めたという考え方です。新旧両側から歩み寄れば時代のギャップが解消されることになります。しかし、いまだその理由ははっきりしないのです。これは北九州地域だけの現象ではなく、西日本地域の弥生時代全体に言える現象ですので、『魏志倭人伝』に記述されている「倭国争乱」と結びつける考え方もあります。いずれにしても、城野遺跡では集落の最盛期を迎える弥生時代後期終末以前に、“誰もいなくなった”に近い現象が起きたことは間違いありません。(次号に続く)【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師、日本考古学協会会員■動画「城野遺跡実録80分 弥生墓制の真の姿」(2022年6月公開)この動画は、佐藤浩司氏が九州最大級の方形周溝墓で発見された幼児の箱式石棺2基の発掘調査を2ヵ月半、約3時間撮り続けたビデオ記録を約80分に編集したものです。佐藤氏のコメントとともに現場の声や音もはいっており、発掘調査の歴史的瞬間の感動がよみがえります。↓をクリックしてご覧ください。https://youtu.be/qafp00zCTzQ?t=10■動画「城野遺跡 朱塗り石棺の謎」(2017年1月公開)城野遺跡の重要性を多くの方々に知っていただくために、城野遺跡の全体像が分かるように、上記の発掘調査のビデオ記録を約14分に編集したものです。↓をクリックしてご覧ください。https://youtu.be/QxvY4FBnXq0■日本考古学協会の要望書日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回) 城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか? ☛①2020/8/2 ②8/10 ③8/17第2章 発掘調査の内容(20回) 発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか? ☛①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8 ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6第3章 注目すべき事実(7回) 城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか? ☛①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28 ⑤2022/1/8 ⑥2022/2/7 ⑦2022/6/25第4章 立ち退かされた弥生人(4回) ここで暮らした弥生人たちは、どこへ? ☛①2022/7/28(今回)第5章 遺跡保存への道のり(3回) 発掘担当者の悩みと苦しみ第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回 守ることと伝えること…第7章 立ちはだかる壁(4回) 行政判断の脆弱さを問う最終章 帰ってきた弥生人(3回) 新たな歴史の誕生※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。