城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-

第3章 注目すべき事実⑤ “水銀朱の入手先

 

前回のブログでは、城野遺跡の二つの石棺内に撒かれた水銀朱の量が、今まで日本でみつかっている墳墓の中でも群を抜いて大量であることを述べました。朱の採取と分析を行った九州国立博物館の志賀智史さんは、その後別の角度からさらに研究を進め、それらが中国産の水銀朱であることを突きとめました。

 

「硫黄(いおう)同位体分析」とよばれるこの分析方法は、朱に含まれる元素のひとつである硫黄の4つの同位体比を測定し、それを産出する鉱山資料の値と比較することによって産地推定をおこなうもので、これにより鉱山レベルまでの分析が可能となるわけです。

 

まずは図1をご覧下さい。水銀朱に含まれる硫黄の同位体比は中国産と日本原産では、プラスとマイナスで全く逆の数値を示し、これは同じ原産地(鉱床)の鉱脈なら地下深く採取した鉱石でも、地表近くのものでも値は変わらないということです。

 

■図1 硫黄同位体比分析結果(志賀智史「城野遺跡の方形周溝墓から出土した朱の産地について」『研究紀要』第31号 北九州市芸術文化振興財団 2017)

中央の0から右がプラス値、左がマイナス値。城野遺跡()は北部九州の墳墓のなかで最もプラス値が高く、最上段に示す中国鉱山のそれに近い。

 

 

そこで、北部九州地域の弥生時代墳墓で出土した水銀朱と城野遺跡の水銀朱、そして中国鉱山のそれを比較するとどうでしょう。城野遺跡の値は他のどの遺跡のものよりもプラス度が高く、中国貴州省産や陝西省産の値と似かよった値であることがわかったのです。

 

一方、三重県、奈良県、徳島県の鉱山で採取した水銀朱の硫黄同位体比はいずれもマイナス値を示しており、その差は歴然です。

 

城野遺跡では図1に示すように、南棺、北棺でピンク色(赤色)と紫色の水銀朱をそれぞれ採取し分析していますが、南棺が高い数値(+21.8と+22.6)、北棺がやや低い数値(+16.7と+16.5)を示しています。つまり南棺2点、北棺2点のそれぞれで近似した値を示すことから、この分析方法が有効であることがわかるとともに、ピンク、紫とも色は違っていても同じ鉱床から採取したものである可能性が高いといえるのです。

 

図1をさらに詳しくみると、弥生時代中期までは、硫黄同位体比がマイナスを示すものがほとんどであるのに対し、後期になると逆にプラスのものがほとんどを占めています。つまり後期段階で中国産水銀朱を手に入れる社会状況が生まれ、地域の権力者はこぞって中国産水銀朱を欲したといえるのではないでしょうか。

 

志賀さんは中期段階でプラスの値を示す比恵遺跡、安徳台遺跡がいずれも魏志倭人伝に登場する奴国の拠点集落であることから、対外交易を通じて中国鏡とともに、中国産水銀朱を入手できた可能性を考えておられます。

 

城野遺跡に関しては、極めて大量の中国産水銀朱を保有し、亡くなった二人の幼子に惜しげもなく施朱、使用していることに驚愕するとともに、この水銀朱は本来、自らの死に際して使用されることを前提にあらかじめ入手していたものと考えられないでしょうか。それだけ二人の幼児の死は、おそらく親の思い描く死生観を変えるほどの重大事だったことが改めて理解できるのです。

 

今回の分析結果に対し、わたしは新たな疑問点がわいてきました。中国産の水銀朱の値が、南棺、北棺それぞれで異なっていることです。北棺は二つの鉱山(貴州省、陝西省)の中間値を示し、別の研究グループによれば、湖南省の鉱山では+18前後の値を示すため(図2)、鉱山まで断定するにはまだ資料不足のようですし、城野遺跡北棺に近い数値は北部九州の他の遺跡(糸島市泊熊野甕棺墓、同市ヤリミゾ6号木棺墓、久留米市高三潴石棺墓ST20西)でも見られます。よって、二つの中国産水銀朱を混ぜ合わせればこうした数値が出てこないのだろうかという初歩的な疑問も持っています。

 

■図2 鉱山から採取した水銀朱の硫黄同位体比比較図(河野摩耶・南武志・今津節生「北部九州地方における朱の獲得とその利用-硫黄同位体比分析による産地推定-」『古代』第132号 2014)

中国産と日本産で全く異なっている。中国湖南省の値は城野遺跡北棺のそれに近い。

 

 

 

また志賀さんによれば、中国では例外的にマイナス値を示す吉林省の鉱山も存在するとのことであり、まだまだ中国鉱山での分析例を増やす必要があるようです。

 

その他、日本での三つの鉱山(三重県、奈良県、徳島県)周辺で見つかった弥生時代墳墓の硫黄同位体比分析例が示されていないこともあげられるでしょう。図3は徳島県の水銀朱を出土する遺跡の分布図ですが、若杉山がここでいう水井(すいい)鉱山の場所です。この地域でマイナス値がどうような範囲でみられるのか、その値は水井鉱山の-3.6と近似しているのかなど、数々の疑問がわいてきます。

 

■図3 徳島県内の水銀朱関連遺跡分布図(岡山真知子「弥生時代の水銀朱の生産と流通」『考古学ジャーナル』No.438 ニューサイエンス社 1998)

若杉山遺跡すぐ近くに水井鉱山がある。ここからは石臼や石杵など、多数の水銀朱生産に伴う石器が出土している。

 

 

でも、私の最大の疑問点は、先ほども述べたように、二人の親があらかじめ中国産水銀朱を手に入れていたとした場合、二人の墓に施した水銀朱の産地が異なることになり、後で亡くなった北棺に葬られる子どものために、新たに中国産水銀朱を調達したのか、最初から二つの鉱山産の水銀朱を厳密に分けて保管していたのか、あるいは時の経過のなかで手に入る水銀朱の産地が変化したのか、など派生する問題は限りなく広がってくるのです。しかし、いずれも解決出来るほどの材料が現時点ではありませんので、この問題はきっと永遠の宿題になるかもしれません。(次回に続く)

 

【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 

1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。

 

 

■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)

九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。ここをクリックしてください。

 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0

 

 

■日本考古学協会の要望書

日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。

<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ 

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm

 

<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm

 

<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後

 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf

 

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城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次

-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日

 

第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回)

     城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか?

      ☛ ①2020/8/2 ②8/10 ③8/17

第2章 発掘調査の内容(20回)

     発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか?

      ☛ ①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8

       ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫2021/1/25

       ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16

       ⑳8/6

第3章 注目すべき事実(6回)

     城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか?

      ☛ ①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28 ⑤2022/1/8(今回)

第4章 立ち退かされた弥生人(4回)

     ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?

第5章 遺跡保存への道のり(3回)

     発掘担当者の悩みと苦しみ

第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回

     守ることと伝えること…

第7章 立ちはだかる壁(4回)

     行政判断の脆弱さを問う

最終章 帰ってきた弥生人(3回)

     新たな歴史の誕生

 

※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。