城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-

第3章 注目すべき事実③ “権力者の眠る場所”

 

方形周溝墓に葬られた幼児二人の親の墓はいったいどこにあるのでしょうか?

当然、城野遺跡の集落内かそれに近い場所でしょうが、これほど広い周溝内ですから、この中に築かれていてもおかしくありません。

 

実は発掘調査にとりかかってまもなく、二つの箱式石棺を納めた墓坑の南側で意味ありげな四角い穴(3.1m×2.4m)が発見されました(写真1、写真2の→部分)図1で見れば黄色部分にあたります。赤色部分が二つの箱式石棺が納められた墓坑(3.4m×2.5m)です。正確にいうと、二つの長方形に近い土坑が至近距離でほぼ同時に見つかったのです。

 

【写真1】真上から見た城野遺跡方形周溝墓と攪乱土坑

攪乱土坑は方形周溝墓のすぐ南側に位置し、偶然にも周溝とほぼ主軸が合っている。また、床面の土の色が黄色いことから、かなり深くまで掘り下げられていることがわかる。

 

【写真2】北九州市から見た方形周溝墓と攪乱土坑

攪乱土坑は方形周溝墓のすぐ南側に位置し、この段階ではすでに掘削されていることがわかる。一方、方形周溝墓の主体部箱式石棺墓と、周囲の周溝はまだ発掘前で、黒い土が詰まっている。

 

【図1】方形周溝墓の実測図(約1/375)

攪乱土坑は大きさが東西3.1m、南北2.4mあり、深さも1m以上である。もし箱式石棺が築かれていたとしても不思議はないが、子ども二人の墓坑の大きさと比較すると、成人一人用の箱式石棺1基しか据えられないであろう。

 

 

一つは固く、しっかり締まった土が入っており、もう片方は締まりのない濁った土で埋まっていました。私たち調査担当者は、後者のような土坑を攪乱(かくらん)土坑と呼んで、ふつう調査の対象にはしません。それはつい最近に掘られたゴミ穴のようなもので、掘ってもコンクリート片やバラス、現代のお茶碗や針金、電線の碍子、ビニール袋などが含まれているからです。

 

ただ、調査の対象とはならなくても、その中に含まれているものから、その穴が掘られた目的や用途、時代などがある程度わかるので、ひとまず掘り上げてみるのです。ですから、順序でいえば先にこの攪乱土坑が掘り上がり、そのあともうひとつの墓坑(これが箱式石棺墓です)を掘り始め、二つの石棺が確認されたのです。残念ながら、攪乱土坑からは方形周溝墓や箱式石棺墓に関わりのある弥生時代の遺物は全く出土しませんでした。

 

もうひとつの土坑が箱式石棺墓だと判明したあと、私はそのそばでみつかったこの攪乱土坑について改めて思いを巡らせてみました。それは、最初に述べたように子供の親の墓が方形周溝内に築かれていても不思議はないと思ったからです。『しかし紛らわしい穴だなあ。大きさも深さもお墓に丁度良いくらいで、場所も方形周溝の中央に近いし………。』

 

しかしこのゴミ穴が本来親の墓だった………後世にそれが盗掘されて、内部の遺物や棺材がすべて持ち出された後、ゴミ穴に利用されたのだ、と考える根拠はどこにもないのです。考古学は科学的根拠を積み重ねて物事を実証していく学問ですから、想像でモノは言えないのです。では、いったい親の墓はどこに?

 

本ブログの1回目では城野遺跡の北130mのところでみつかった「猫塚古墳」についてお話しました。この距離については私の計測ミスで実際は約70mです。お詫びして訂正致します。

 

その猫塚古墳は昭和24年に城野医療刑務所の敷地内でみつかったもので、小倉高校により記録と石棺取り上げがなされていますが、その原位置がはっきりわからなくなっています。石棺の規模や構造から、この地域の首長(リーダー)の墓であることは間違いなく、すると城野遺跡の方形周溝墓に葬られた幼児ともつながりのある人物と考えても差し支えありません(写真3)

 

【写真3】小倉高校の中庭に移築復元された猫塚古墳の箱式石棺

両方の側石は、長さ1.88〜2.23m、厚さ35〜50㎝もあり、まさに巨石である。近年、運動場の一角に再度移築されている。

 

調査当時の記録では「小円墳」とされていることから、なんらかの盛り土の痕跡か、周溝の痕跡などがあったと思いますが、昭和10年代の古地図(図2)には3箇所ほどの丸や四角い土地区画があり、これらが古墳の名残と考えられます。

 

【図2】古地図に見える、小さな方形、円形の区画

この3箇所の区画は、古墳の可能性が高く、猫塚古墳の調査記録では、小円墳状を呈していたという。2号墳の位置が猫塚古墳とすれば、方形周溝墓を皮切りに、首長墓が北に向かって築かれていったと考えることができる。なお、方形周溝墓が見つかった場所は、この古地図が作成された時にはすでに城野医療刑務所が所在していたはずであるが、「官地」と記載されているだけで、方形周溝墓を示す区画も存在しない。当時ここには刑務所施設ではなく、上級刑務官の戸建て住居が建てられていたため、方形周溝墓はさほど破壊されずに済んだのである。

 

この部分に発掘調査のメスが入ったのは平成24年の夏でした。城野駅南口に建設される駅前広場改良工事に伴って埋蔵文化財調査室が行った調査で、方形周溝墓か方墳1基(2号墳)、円墳1基(1号墳)が検出されたのです(写真4a)

 

【写真4a】城野遺跡6区、7区で見つかった2基の古墳

2号墳は四角く周溝がめぐっており、これだけでは方形周溝墓か方墳か判別がつかない。しかし、古墳の変遷過程を踏まえれば方形周溝墓→方墳→円墳の順序で新しくなるとされており、城野遺跡では、南から北に向かって(写真の下から上に向かって)、順次首長墓が築かれていったと考えられる。

 

2号墳が一辺17m以上、1号墳が直径約27mと、いずれも大規模で有力者の墓であることは間違いありません。両者は7mほどの距離を置いて築かれており、被葬者(ひそうしゃ)は密接な関係があったと思われます。しかし残念なことにいずれも墓の主体部が納められた墓坑は見つからず、後世に削平を受けて消滅したもの、と担当者は判断しました。

 

ただ、2号墳には写真4bの黄色部分に示すように、城野遺跡方形周溝墓でみつかったのと同じような攪乱土坑が存在し、中から近現代の遺物が多数出土しました。私は現地を見学したあと、調査担当者や上司にこの土坑もきちんと掘り上げて内部を確認する必要があることを伝えましたが、次に現地に訪れたときは調査で排出される土の捨て場として利用され、きれいに埋められていたのです。

 

【写真4b】 2号墳でみつかった攪乱土坑

早々に埋めてしまったので、正確な位置がわからないが、黄色の範囲くらいになると思われる。周溝内に他に大きな攪乱土坑は存在せず、これが猫塚古墳の箱式石棺が見つかった場所と考えている。

 

前記したように猫塚古墳の位置がわからないという問題があるにもかかわらず、2号墳内に存在した攪乱土坑をきちんと精査せず埋めてしまうことは、永久にその手がかりを失うことなのです。ましてや、猫塚古墳の巨大な石棺材は掘り上げられて、小倉高校の敷地に移設されたわけですから、その墓坑はひどく損傷しているはずです。

 

再度、写真4bをご覧下さい。もしこの攪乱土坑が猫塚古墳なら、巨大な方形周溝の中でもやや片寄った位置にあったことになり、城野遺跡方形周溝墓とよく似た状況を示すことになるのです。

 

私は、この2号墳こそが猫塚古墳であり、この攪乱土坑が箱式石棺が納められていた

主体部と考えているのです。しかしまた別の埋蔵文化財調査室学芸員は、当時残されていた石棺掘り上げ状況写真(写真5)から、2号墳は猫塚古墳ではなく、図3に示すような位置にあったのではないかと主張しています。

 

【写真5】猫塚古墳の石棺取り外し作業風景(昭和24年)

こんな大きな石棺材を掘り上げるのは大変だったろう。当然墓坑は大きく壊されていると思われる。

 

【図3】調査室学芸員の一人が想定した猫塚古墳の位置図

猫塚古墳は、2号墳ではなく、里道(小道)の反対側(東側)に存在したと考え、下図のような位置に推定しているが、発掘調査範囲外であり、大きさも、方向も、深さも不明である。しかも、3号墳の位置も間違えている。

この図に示されている猫塚古墳は調査範囲外なのでその規模も、方向もまったくの推定でしかありません。この推定が許されるのなら、私の推定も許されていいのではないかと思うのですが………。(次回に続く)

 

 

【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 

1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。

 

 

■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)

九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。ここをクリックしてください。

 https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0

 

 

■日本考古学協会の要望書

日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。

 

<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm

 

<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm

 

<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財に指定後(広形銅矛では全国唯一の国重要文化財)

 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次

-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日

 

第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回)

     城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか?

      ☛ ①2020/8/2 ②8/10 ③8/17

第2章 発掘調査の内容(20回)

     発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか?

      ☛ ①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8

       ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 ⑫2021/1/25

       ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3 ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6

第3章 注目すべき事実(6回)

     城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか?

      ☛ ①2021/8/30 ②9/30 ③11/6(今回)

第4章 立ち退かされた弥生人(4回)

     ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?

第5章 遺跡保存への道のり(3回)

     発掘担当者の悩みと苦しみ

第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回

     守ることと伝えること…

第7章 立ちはだかる壁(4回)

     行政判断の脆弱さを問う

最終章 帰ってきた弥生人(3回)

     新たな歴史の誕生

 

※当面、20日に1回程度のペースで連載中です。内容や回数は変更することもあります。