北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑩

驚くほどに文化の砂漠

 

城野遺跡の調査中に生起した様々な問題点は、それを共有する場がないために、その解決策が示されないまま、また次の問題が起こった際の教訓にできないことが、北九州市の文化財行政が進化しない根本原因であると感じる。

 

城野遺跡の重要性は巨大な方形周溝墓の発見にとどまらず、当時貴重品であった真っ赤な水銀朱を惜しげもなく大量に二人の幼子のため塗り込めていること、謎の絵画文様が墓を悪霊から守る「方相氏」の姿と考えられること、さらには九州で2例目の玉作り工房の発見や、遺跡範囲がほぼ確定できる台地全域を調査できたため、弥生時代の集落の構造や変遷過程を考えるうえでのモデルケースにできること、また地層面でもAso4と呼ぶ今から7~9万年前に阿蘇山が噴火した際に降下した広域火山灰層が良好な状態で堆積していることなど、数え上げれば枚挙にいとまがない。

 

それなのに、北九州市所管課はその重要性も認識できないばかりか、調査を行っている埋蔵文化財調査室職員の調査所見を聞く場、述べる場、一緒に協議する場も設けず、ただ遺跡処理に終始する姿勢しか感じられなかった。

 

当初予定の調査期間、調査予算を超える事態になっても、いつも難色を示すため、調査室職員には無力感とストレスのみが滞留、沈殿していく感覚が積み重なって、それが不信感や調査室内部での上司と職員との意見衝突や協力体制の分断につながっていったと思っている。

 

北九州市はこれまで、埋蔵文化財の発掘調査を約50年間で800か所ほども行ってきたが、調査後に保存にこぎつけることのできた遺跡がいくつあっただろうか。

 

また保存できてもその現地ではなく、遺跡内の別の場所に移築する場合やそれすら叶わず遺跡とは関わりのない場所に移築する場合、遺跡のほんの一部分だけ保存の場合、さらには遺跡の中のたったひとつの遺構のみ保存の場合など、遺跡保存の規模もやり方もケースバイケースであるが、福岡県太宰府市の大宰府史跡や朝倉市の平塚川添遺跡、福岡市の板付遺跡や鴻臚館跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や東名遺跡など広大な範囲を史跡指定して整備・公開し、現地にガイダンス施設や展示施設を設けて誰でも訪れたり学習できる施設は北九州市には全く存在しない。上にあげた遺跡は大宰府史跡、板付遺跡を除いて、いずれも開発により壊される運命にあった遺跡を、自治体の所管課や関係機関の努力と協力でまるごと保存することができた事例である。

 

表1を見ていただきたい。同じ政令指定都市でありながら、福岡市には国指定を受けた埋蔵文化財関連の遺跡(史跡)が12か所もあるが、北九州市には皆無である。また国の重要文化財に指定された考古資料は、福岡市が10件あるのに対し、北九州市は唯一重留遺跡の広形銅矛1点があるのみである。県指定の考古資料は福岡市が16件に対し北九州市が3件、市指定の考古資料は福岡市が57件にものぼるが北九州市が14件となっている。市民が現地で歴史や文化に触れることができる遺跡公園施設もお寒い状況である。参考のため久留米市のデータも作成してみたが途中でむなしくなった。

 

■表1 県内三都市の文化度比較

 

 

この格差はいったい何に由来するのであろうか? 北九州市のほうが福岡市より古代遺跡が少ないからであろうか。それとも福岡市に比べて貧弱だから、つまり重要な遺跡が少ないということであろうか。北九州市には指定に値しない遺跡や考古資料ばかりそろっているのだろうか。

 

答えは簡単である。北九州市が遺跡を守り、後世に残す努力をしてこなかったからである。文化財に携わる職員を増やし、育て、遺跡保存のノウハウ(北九州方式)を構築し引き継いでいく体制を作らなかったからである。

 

よそに先駆けて作ったのは、いざとなればいつでも手放すことができる財団組織である。

 

時は約40年前の高度経済成長時代末期……北九州市では北九州直方道路建設、九州縦貫自動車道建設、都市モノレール小倉線建設、徳力土地区画整理事業など大規模開発行為が目白押しで、それらに伴う埋蔵文化財行政に対応させるためこの財団組織(当時の教育文化事業団)を作ってその一部門に埋蔵文化財調査室を設置し、ここに発掘調査を委託し、職員を採用してその賃金は開発行為を行う原因者に負担させる方式である。

 

この組織のメリットは経費の収支が行いやすい、自治体自身の手を下さずに(煩わさずに、汚さずに)文化財の緊急調査やその後の処理に対応できる、そして何よりも、雇用した財団直庸(ちょくよう)職員(プロパー職員)は身分的に市の職員ではないので、事業がなくなり財団が解散あるいは消滅しても、市が彼らの職を保障する義務は負わない、というシステムである。実際には人道的見地から首切りはできないので、財団内の他部署への配属や民間出向などの逃げ道も用意できる。

 

こうしたいわば不安定な、しかも市より低い地位と待遇の中に閉じ込め、市の意向や判断に沿わせることができるなど、自治体・市にとって都合の良い組織ともいえるのである。

 

その後の九州地区の埋蔵文化財行政で、北九州市の財団方式を導入した自治体が一つもないのは、その弊害に各自治体が気づいたからである。

 

もちろん私もことあるごとに、この組織の問題点を発信してきたため、当局にもにらまれていたにちがいない。(次号に続く)

 

 

【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 

1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師。

 

 

■動画 城野遺跡発掘調査記録 “朱塗り石棺の謎”(動画14分)

九州最大級の方形周溝墓で見つかった箱式石棺2基の発掘調査の記録です。ぜひご覧ください。ここをクリックしてください。

https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0

 

※なお、この連載は平和とくらしを守る北九州市民の会が発行している「くらしと福祉 北九州」2021年8月1日号に掲載された記事です。転載をご快諾いただきありがとうございます。