さて一夜明けて翌日。
観音山古墳 ではない観音山へと向かうべく高崎駅前からバスに乗り込むことに。
いわゆるコミュニティーバスの類いですかね、小ぶりのバスがやってきました。
その名を「ぐるりん」というようです。


ぐるりんバス@高崎駅西口


普段は(運転本数は非常に少ないながら)地域住民の足となっているからか、
運行ルートはどうも遠回りして乗客を拾い集めているような感じがしないでもない。


観音山へと続く道


とはいえ公共交通機関に頼る旅では、無くては困るものなのですけれど。
観音山はもそっと先に見える丘陵地でありますし。


とまれ、そんな「ぐるりん」に乗って、まず向かったのは高崎市染料植物園でありました。
この時季になってきますと植物園にはにぎにぎしい彩りは無く、
かさこそ言う寂しげな音ばかりになるようなところではありますが、
それでも訪ねる人はそれなりにいるようですなあ。


高崎市染料植物園染色工芸館


差し当たり入口すぐのところにある染色工芸館という建物を覗いてみました。
ここでは「殿の身なり-江戸の男子のファッション事情-」という企画展を開催中。
まあ、ファッションにはとかく疎い方ではあるものの、これも歴史理解の一助ということで。


「殿の身なり-江戸の男子のファッション事情-」展@高崎市染料植物園染色工芸館


着物文化に詳しい方には今さらのような展示なのやもしれませんですが、
展示解説のそこここに新しく知ることが出てきたものですから、
そこいらを掻い摘んで、いささかまとまりを欠きつつ記しておくことにします。


まずもって今日の「きもの」の原型とされるのが「小袖」というもの。
和服は袖がだらんと幅広になってますけれど、
その幅広の袖巾いっぱいに袖口が開いているものを「大袖」というのに対して、
袖口の開口部が小さいものが「小袖」なのだそうな。


古式床しいような服装はともかく、確かに着物と言えば袖の開口部は狭いですな。
と、これが一般化したのが江戸時代で基本形が定まるとその土台に対して
染色技法やら意匠にあれこれの試みがなされるようになる。


こうした服飾文化の進行は比較的落ち着いた江戸期ならではのものでもありましょうか。

友禅染や小紋染といったものが登場してくるのですなあ。
(この辺りが染料植物園染色工芸館とのつながりになりましょうか)


ところで、秋は深まりつつも時折の気温の乱高下に何を着たら良いのか迷う昨今ですが、
古来の「衣替え」はどのようなものであったという点。
元来「衣替え」は平安時代の宮中行事が起源だそうで、
時代が下るにつれて武家や庶民の間でも行われるようになっていったものだそうで。


ちなみに江戸時代の衣替えは年4回、もちろん旧暦ですので今のカレンダーとは異なるも
4月1日から5月4日まで着るのは「袷」(裏地あり)、
5月5日から8月31日までは「単衣」「帷子」(要するに裏無しのひとえ)、
9月1日から9月8日までは春先同様に「袷」を着て、
9月9日から3月31日までは「綿入れ」を着るという具合。


「袷」の着替え時が5月5日や9月9日であるのは
端午の節句や重陽の節句に合わせたからでしょうけれど、
今ならばウォームビズというべき「綿入れ」の季節がやたらに長いのは
「ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いた寒冷な期間」(Wikipediaより)とされる
小氷河期に江戸時代が当たっていたからでもあろうかと思うところです。


と、話はますます雑多になりますが、「直垂」という衣装がありますですね。
上のフライヤーで右下に写っているもので、今でも着用しているのは相撲の行司くらい。
なんとなく格式を感じる服装とも思えるものの、平安時代のそもそもは庶民用であったそうな。
これが室町期に武家が用いるようになり、格式化していったのでしょう。


また「裃」(この字は完全に国字でしょうなあ)と聞いて思い出すのは、
御白洲を仕切る御奉行様、大岡越前 やら遠山金四郎でもあろうかと。


遠山の金さんが「この桜吹雪が全てお見通しでぇ」と決め台詞を吐く際には
肩衣はずして片肌脱いで…となるわけですが、この「裃」の肩衣部分に
当時のファッション性が垣間見られるようですね。
展示解説にこんなふうに。

上半身に着用する肩衣は、江戸時代に入ると肩が左右に張り出し、元禄期(1688-1704)頃になるとさらに肩幅が広がり、糊を固くしたり、鯨の髭を入れ強く張らせるようになりました。

ファッションに絡んで、服装のことではなくしてヘアスタイルのお話。
明治維新以前の男性の髪型といえば「ちょんまげ」となりましょうけれど、
大きく月代を剃って頭の地肌を丸出しにするのは、本来的には合戦にあたって
兜を被ったときに逆上せるのを防ぐためであったというのですね。


西洋でも戦闘時にはあのごつい西洋甲冑に身を包んだとなれば
頭(のみならず体中)が蒸れてきそうですが、頭髪を剃ったりすることは無かったのでは。
これにはやっぱり湿度の高い日本の気候が関係しているのではと想像します。


また、月代をきちんと剃っておくを良しとしたのはいつでも臨戦態勢だったのかも。

とまれ、江戸中期、後期になってきますと、臨戦態勢の必要性が薄れたからか、
月代として剃る範囲が小さくなったりもしたそうで。これもファッション感覚なのでしょうね。


とまあ、そんなこんなの小ネタを仕入れて、
今度は染料植物園の園内をぐるりひと回りしたというお話となってまいります。


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