と、東海道 から中山道の話に戻りますけれど、
英泉描くところの奈良井宿 は鳥居峠 をフィーチャーしていたですが、
タイトルには「名産店之圖」とありましたですね。
一見したところ右側には峠の茶屋らしき店が描かれていて、
往時の鳥居峠には確かに茶屋が一軒あったらしいのですけれど、
よおく見てみれば看板には「名物 お六櫛」とあって、茶屋ならぬ櫛屋。
名所案内として、鳥居峠に名産品の店をもってきてしまったのが英泉の仕立てであったようで。
まあそんなふうにしてしまうくらいに「お六櫛」とは名産品であったということのようですが、
はて「お六櫛」の言われのほどは?と探求してみますれば、要するに言い伝えなのでしょうなあ、
どうも細かいところが異なる話があれこれ見つかって…。
とりあえず当たり障りなくまとめてみますと、
昔、頭痛持ち(頭の病いとも脳の病いとも言われますが)の村娘お六が御嶽山に
平癒の願掛けを続けていたところ、地元に多い「みねばり」の木から作った櫛で髪を梳れば治る
とのお告げを受け、実行したところ見事に病は治まったのだそうな。
お六は同病の者たちのために櫛を作って売り出したところ、
これが御嶽山の霊験あらたかであったのか、やがて名産品とされるようになっていった…
てなことでもあるようです。
と、そんな名物お六櫛との関係は詳らかではないものの、
奈良井宿には塩尻市の文化財となっている元櫛問屋中村邸がありまして、
一般に内部が公開されているのですなあ。
何でも天保八年(1837年)に奈良井宿で大火事があった直後に建て直されて、
江戸末期の姿がそのまま今に残る、奈良井宿でも貴重な建物であるそうな。
そして、そもそも奈良井の人たちが街並み保存に動きだしたのは、
この建物が川崎市の民家園へ移築されるという話が持ち上がったのがきっかけとか。
想像できることですが、町として近代的な姿を志向する人たちもいたでしょうから、
結果的に大きな決断が迫られたことでありましょう。
と、経緯はともかく、木曽の名産品である櫛の問屋であった中村邸は
奈良井宿の顔のひとつとして、大いに宿場町の雰囲気を湛えているわけですなあ。
正面右側から三列に並ぶ大きな蔀戸はすべて取り払って全開することができ、
あたかも英泉の描いた峠の櫛屋のように軒先で商売ができたようですね。
左手に見える「御櫛所」と書かれたくぐり戸から中へ入ってみますと、
間口が三間二尺(約6m)の割りに奥行きが九間半(約17m)とかなりの縦長。
さらに母屋の奥には裏庭を挟んで土蔵まで一直線に伸びていますので、
よほどの「うなぎの寝床」的な敷地なのですなあ。
材料の木材と同様に漆塗りもまた名産であったからでしょうか、
主に塗り櫛を主力商品として扱っていたという問屋であったそうですが、
展示もそれらしく櫛が並べられ、原木の真っ先に「お六櫛」に使われたみねばりが
挙がっておりました。
街道を行き来する旅びとたちにとって手軽な土産物ともなった塗り櫛。
皇女和宮が東下の際に通った中山道は「姫街道」とも呼ばれたとなれば、
女性が奈良井宿を通過するてなこともままあったろうかと。
そんな折には店に気付いた女性客が目を輝かせて塗り櫛を見やっていたかもしれませんですね。