タイトルに偽りありとも受け取られてしまいそうな、
一向に富士五湖が登場しない「富士五湖紀行」はもひとつだけ別の寄り道に。
訪ねる当日まで「ゆめソーラー館やまなし
」がどこにあるか知らなかったですが、
そこへ行くと聞いて地図を見れば、「お!」と思ったことがひとつ。
「すぐそばに甲斐風土記の丘があるではないか」と。
ということで、同行者の中でどれほど「風土記の丘」に寄りたい者がいたかはともかく、
近さを武器に立ち寄りを求めたのでありますよ。
結果、さほどの長居は叶わなかった点で関心のほどが窺えますが、
甲府の街なかからは結構離れたところなだけに寄れただけも良しということで。
たどり着いてみれば、結構広そうで博物館もある(が、寄れなかった)という甲斐風土記の丘。
差し当たり誰でも一応は関心を示しそうな、一番大きめの古墳
だけは押さえておこうと
園内に踏み入ったのでありました。
駐車場目の前、縄文時代
の竪穴式住居が復元された広場を通り過ぎると、
早速にこんもりした盛り土らしきものが芝に覆われているのが視界に現われたのですね。
手前側のこんもりは「さかづき塚」と呼ばれるも古墳ではなく、
出土品が十六世紀ころの鉄鏃などであることから、「中世の信仰にかかわる」と見られているとか。
奥側の扁平なのは「かんかん塚古墳」、直径26mの円墳
で5世紀後半のものだそうです。
で、これらをやり過ごした先に真打登場とも言うべき大きな古墳が現われます。
この丸山塚古墳も円墳で直径は72m。
直径26メートルのかんかん塚古墳が子供のようですね。
5世紀初めの権力者の墳墓として作られたものと考えられていますけれど、
5世紀の後半にはかんかん塚のように規模が小さくなってしまうのは、
どうやら甲府盆地内での群雄割拠と言いますか、
現在の風土記の丘あたりの地域勢力が相対的に弱まっていったことにもよるようで。
でもって高さ11mの墳丘の頂上に登ってみますと、この丸山塚古墳のさらに兄貴分、
かっちりした前方後円墳の形を示す銚子塚古墳が望める…んですが、
ちと高さが足りませんなあ。
本当はこのように見えるということを知った上で見れば、
平面的な盛り上がりでも想像することは何とかできるようで。
とまれ、この銚子塚古墳は後円部が直径92m、高さ15m、前方部が幅68m、高さ8.5mと
東日本では最大級の前方後円墳だそうでありますよ。
4世紀後半のものとされますので、時代的にも古いですよね。
前方後円墳という形とともに、副葬品として三角縁神獣鏡が出土していることから、
大和朝廷(最近は違う言い方になりつつあるようですが)との大きな関わりがあったやに
推測されるとか。いやあ、古代史ロマンの世界に入りこんでいくではありませんか。
ところで、高台になる丸山塚古墳の墳丘上は展望台のようでもあるわけでして、
見渡せば遠く八ヶ岳 が超弩級戦艦のような巨体を横たえ、
少々目を転ずると雪を頂いた北岳と思しき山頂も覗いている。
今でこそ近景には住宅の屋根が広がっていますけれど、
縄文時代には、また古墳時代であってもさぞかしここらの人たちは
雄大な眺望の中で暮らしていたのでしょうなあ。
…と、東日本最大級の前方後円墳に近づく間もなく、考古学博物館にも立ち寄れなかったのは
心残りとはなりましたですが、本来の趣旨貫徹に向けて出発したのでありました。