※ご注意※

 

本記事は、映画および舞台作品『十二人の怒れる男』のネタバレを含みます。

 

 

 

 

ここまで、名作『十二人の怒れる男』の解説をお話ししてきました。

本日は、その第3弾!!

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

 

前回記事の中で、『十二人の怒れる男』に登場するキャラクターたちが皆「名前がない理由」について、

「この陪審員たちは、観客の『あなた』自身だ」

という解釈に基づいている、とお伝えしました。

 

その証拠に。

名前だけでなく、一人一人の人生の物語も、ほとんど具体的に書かれておらず。

意図的に彼らのパーソナリティーをぼかすことで、やはり同じく「彼らの人生は、あなたの人生にもなり得るのだ」という遊び幅を持たせているんですね。

 

 

 

▲怒れる陪審員たち。

その人生。

それは、あなた。

 

 

 

それから、新たな謎も持ち上がりました。

 

 

「なぜ第8号は、被告の少年が有罪』だと思っていながら、無理やりにでも無罪』に挙手しなくてはならなかったのか??」

 

 

これこそが、本当の『十二人の怒れる男』を読み解く、最大の鍵となるのです。

 

 

  第9号の登場

 

そもそも有罪だと思っていながら、無罪に投票する」という矛盾したこと、あり得るのでしょうか??

 

 

まず、この疑問を解くために。

第8号の粘り強い説得に応じ、「有罪から無罪に “鞍替え”」する最初の一人の陪審員・第9号について検証してみましょう。

 

 

第二幕、序盤。

老人の陪審員・第9号は、こんなことを言います。

 

 

「私は、有罪から無罪に投票を変えます。

 

なぜなら、第8号は、たった一人で自分の意見を主張しました。

それは、この人の “権利” です。

 

でも。

たった一人でそれを主張することは、本当に勇気がいるものです。

 

私は、その勇気に応えたい。

だから、投票を変えます。

 

被告の少年は、きっと有罪なのだとは思いますが。

でも、第8号に応えて、議論を続けたいのです。」

 

 

 

……「被告の少年は、きっと有罪」

そう思いながらも、別の理由を優先し、投票を有罪から無罪に変えた陪審員・第9号。

 

彼のこの行動が、「被告の少年が有罪だと思いながらも、無罪に手を挙げる」という選択の可能性もあり得るのだ、ということの証拠です。

 

 

これに倣い、主人公・第8号も冒頭で同じように有罪だと思いながらも、“別の理由” で無罪に投票」したと考えるのならば。

 

その「別の理由」とは一体、いかなるものなのでしょうか……??

 

 

 

  「フィーリング」という、裁判ではあるまじき理由

 

主人公・第8号は。

いかなる理由で、たった一人、最初に「無罪」に挙手したのでしょうか??

 

 

ここには。

「無罪に投票せざるを得なかった」深〜いワケが隠されていると、僕は考えています。

 

 

それを探るために、もう一度、老人の陪審員・第9号に登場していただきましょう。

 

彼は投票を変えた後、「被告を有罪にすることへの『合理的疑問』は、どこにあるんだ?」という他の陪審員の質問に対し、こう答えています。

 

 

「……フィーリングだよ。」

 

 

この、拍子抜けするような、とんでもない理由。

 

 

しかし、第9号は。

劇の終盤、この「フィーリング」の才能を発揮させ、物語に大ドンデン返しの一撃を喰らわすのです!!

 

それが、「(犯行を目撃していたと証言した)隣のアパートの女性は、実は『メガネをかけていた!?』説」です。

 

 

メガネをかけた陪審員の一人が「鼻をこする」仕草をするのを見て、

 

「隣のアパートの女性は、裁判ではメガネはかけていなかった。

だが、証言の最中に、同じように鼻をこすっていた……。

 

ということは、彼女は普段、メガネをかけていたのではないか??

もしそうなら、犯人の顔を『目が悪くて、ちゃんと見えていなかった』可能性がある。」

 

 

この第9号の直感的な気づきで。

第3号を除く、すべての陪審員たちが、「合理的疑問アリ!!」と言って、無罪に投票することになるのです!!

 

 

 

▲ただし、この “推理” には何の確証もなく、あくまでも「…かもしれない」レベルの脆弱な憶測ですね。が、それもまた、作品を読み解くための重大なヒントになっています!! そのお話は、また次回……。

 

 

 

理屈ではなく、フィーリング

 

これが、第9号の行動原理となっており。

その結果、彼は、物語の中で最大の “発見” をするのです。

 

(この「理屈ではなく、フィーリング」というのが、第9号が他の陪審員よりも人生経験豊かな老人に設定されている理由だと推測されます。)

 

 

 

すなわち。

主人公・第8号もまた、なんらかの「直感」「フィーリング」を感じていたのではないか? と思うのです。

 

 

つまり、彼は。

この裁判は、理屈ではやっぱり「有罪」なのだけれど、心の中の直感、フィーリングが、「無罪」(あるいは、せめてもう少し話し合いをすること)へと「呼んでいる」と感じ。

 

その「心の呼び声」に従うことを、彼は選択したのではないでしょうか……??

 

 

  主人公・第8号の過去とは??

 

では。

第8号に去来した「フィーリング=心の呼び声」とは、具体的には一体なんだったのだろうか??

 

 

ここから、スタニスラフスキー・システムにおける「超目標」という理論をもとに、いよいよ俳優の “想像” の世界へとダイブしてゆきます!!

 

 

 

 

超目標とは、簡単に言ってしまえば……

 

「1本の作品」という時間軸における「役の行動」(例:宇宙人が地球に攻めてきて、子供が攫われた→「宇宙人と戦い、子供を奪還する」という、ストーリー全体の行動)を「貫通行動」というのに対し。

 

「役の人生」という、作品よりももっと長い時間軸における「役の行動」、つまり、役の「人生レベルのテーマ」が、「超目標」です。

 

 

 

と、いうことは……

 

「作品よりも長い時間軸」(物語が始まるよりも前からの時間軸)の話になるので。

超目標を見つけるには、「台本に書かれていない」ところまで、時間軸を遡る必要があるのです。

 

つまり。

俳優が、役の人生の「作家」となって、想像を働かせて作り上げるのです。

 

 

 

 

主人公・第8号は。

劇中で何度も「これは、人一人の生命の問題なのです!」と、繰り返し他の陪審員たちに語りかけます。

 

それをヒントに、想像を働かせてみましょう。

 

 

 

……例えば。

彼の職業は「高校の教師」だったとします。

 

(※Wikipediaには「建築士」と書いてありますが、舞台および映画版の台本には、その記述は一切登場しません。おそらく、最初の「テレビドラマ版」のみの設定なのではないかと思います。従って「建築士」というWikipediaの解説は無視します。)

 

 

ある日の放課後。

クラスでも一番の不良と名高い、ある生徒が、職員室にいる彼を訪ねてきます。

 

そして彼は、自分が「実はイジメに合っている」と告白します。

 

第8号は、一瞬だけ、その生徒の様子に胸騒ぎを覚えますが。

彼が不良少年であることは、服装や髪型からも明らかだし。

 

それに、職員室では「アイツは問題児だ」との話題が絶えず、一瞬胸に去来した “違和感” を無視して、第8号は彼にこう答えます。

 

 

「バカ言うな。イジメをやってるのは、お前の方だろ??

くだらん話はもういいから、さっさと帰れ。」

 

 

そう言って、その生徒には二度と目もくれず。

生徒は、黙って職員室を出てゆきました。

 

 

翌日。

けたたましい電話のベルで叩き起こされた第8号。

 

出ると、学校からの連絡でした。

 

「あの生徒が、今朝、亡くなった」

 

電話口から聞こえる、学校の職員の声は、第8号にそう告げたのです。

 

 

朝。

いつまでも起きてこないその生徒を心配し、母親が彼の部屋に入ったところ。

イジメを苦にした彼は、電気のコードを首に巻き付けて、宙にぶら下がっていたのです……。

 

 

 

 

 

 

……あの日、あの時。

一瞬の胸騒ぎという「心の呼び声」に従っていたら。

 

 

 

もし、第8号が。

例えば、過去にこんな出来事を経験していたら、『十二人の怒れる男』に書かれている彼のセリフや行動の意味が、読み解けると思いませんか……。

 

 

 

でもこれは、あくまでも “僕の想像” ですから。

「なるほど」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんし、ご納得いただけなかった方もいらっしゃるかもしれません。

 

 

くれぐれも。

これは、あくまでも「一例」に過ぎません。

 

 

あなたが大事にすべきは、僕の想像でも、僕の心の声でもなく。

あなた自身の想像であり、心の声です。

 

 

想像は、他人にしてもらうものではありません。

自分の心の呼び声は、自分にしか聞こえないのです。

 

 

超目標の想像は、俳優の一人一人(そして、観客も同じ)に委ねられています。

 

 

 

 

  従うべきは「事実」か?「感覚」か?

 

ここまで、便宜的に、第8号を「主人公」と呼んできましたが。

『十二人〜』は、そのタイトルの通り、「12人の男たちの物語」
 
つまり、全員が「主役」の、群像劇と言える作品なのです。
 
 
前項に書いたような「超目標」の方向で探っていけば、陪審員たちすべての役作りができてゆきます。
 
 
 
そして。
もしも、第8号がそんな過去を経験していたら。
 
彼はきっと、人の見た目や評判などではなく、自分自身の「心の呼び声」に従うことを「人生のテーマ(超目標)」にして、その後の人生を送っているのではないかと思うのです。
 
 
今回の裁判では、目の前の証言・証拠は明らかに、被告の少年の「有罪」を物語っている。
 
でも、どういうわけか、心の中に。
あの時のような「呼び声」を感じる……気がする。
 
 
あの日、生徒の見た目や評判ばかりに気を取られ、自分自身の「心の呼び声」を無視したが故に起きてしまった、悲劇。
 
自分の心に従えなかった自分に、地獄の業火のような「怒り」を感じながら生きてきた、ここまでの年月。
 
 
 
 
 
いま。
 
この裁判で感じている「フィーリング」は、どこにも確固たる証拠など存在しない。
あるのは、自分自身の「直感」だけ。
 
 
この、実体のない「直感」に従うべきか。
あるいは、裁判の証言・証拠という「事実」に従うべきか。
 
 
第8号は、この問いの狭間で葛藤し。
その結果、「誰がなんと言おうと、今回は『心の呼び声』に従おう」と決意した。
 
あの日の後悔と、自分自身に矛先を向け続けた「怒り」に、真正面から挑むために。
 
 
 
……これが、僕が考える「陪審員・第8号」という人物像。
あくまでも、一例に過ぎませんが。
 
 
これと同じように。
他の陪審員たちについても、想像を巡らせてみてください。
 
 
 
12人の男たちの、群像劇。
彼らは皆、自分自身の「心の呼び声」に従えなかった過去を持ち、今もなお、それに従うことを躊躇し続け。
そして、そんな自分に対しての、強烈な「怒り」を感じている。
 
そう。
劇のタイトルに記される「怒り」とは、他でもない、直感やフィーリング、自分の心の声を無視し続けて生きてしまっている「自分自身への怒り」のことなのです。
 
 
 
『十二人の怒れる男』解説。
まだまだ続きます!!👇
 
 
 
 
 
 
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