現在実施中の、春の特別クラス『十二人の怒れる男女、あつまれ!』では。
名作『十二人の怒れる男』を、フルメンバーの12人で稽古しています。
さて。
これより、数回に渡り、『十二人の怒れる男』という作品が語ろうとしている “重要なテーマ” について書いてみたいと思います。
現在、春の特別クラスをはじめ、僕の演技ワークショップ “EQ-LAB”を受講されているメンバーの方々(3ヶ月のベーシック クラスでも、この作品の抜粋シーンを扱っています)、ぜひ参考にされてみてください。
(クラスでもお伝えした内容なので、復習をかねて…)
また。
『十二人』好きの観劇ファン、映画ファンの方々。
そして、これからこの作品を上演しようと思っている俳優さんや演出家の方にも、ご参考にしていただける内容かと思います!!
▲春の特別クラス『十二人の怒れる男女、あつまれ!!』より、稽古風景。
あらすじ
裁判所の、とある一室。
今日、ここに集められた12人の陪審員たちが裁くのは「父親殺しの罪に問われた少年の裁判」である。
全員一致の評決が出るまで、この部屋に鍵をかけられ、閉じ込められた12人。
しかし、法廷に提出された証拠や証言はすべて、被告の少年に不利なものであり、彼らの大半は、少年の「有罪」を確信していた。
しかし。
全員一致で有罪になると思われたところ、たった一人、陪審員・第8号だけが、少年の「無罪」を主張する。
明らかなる「有罪」を物語る裁判であったにも関わらず、無罪に手を挙げるとはどういうことか!? と、詰め寄る、他の陪審員たち。
それに対し、当初は明確な反証もないまま「話し合いを続けたいんです!」と食い下がるだけの第8号であったが、裁判の内容を一つ一つ再検証していくうちに、徐々に疑わしい点が浮き彫りになってゆく。
やがて、彼の疑問の喚起と熱意によって、他の陪審員たちの心にも変化が訪れる……。
12人の俳優たち、いよいよ中盤戦へ!!
この作品。
有名なのは、ヘンリー・フォンダが主演した1957年の映画版かと思いますが。
その後も、世界中の舞台で何度も上演されるほどの人気作品なので、「映画は見たことないけど、舞台は知ってる」という方や、「知り合いの俳優さんが舞台に出演していた」という方も多いかもしれない。
▲1957年の映画版。
現在実施している「春の特別クラス」は、1ヶ月半の全13回。
うち、6回が終了し、稽古はいよいよ折り返し地点に突入しています。
(3ヶ月のベーシック クラスでも、抜粋を稽古しています)
スタニスラフスキー・システムにおいて。
舞台作りの中盤戦では、作品や役の “テーマ” とも言える「超目標」というものを見極める作業が始まります。
稽古の前半戦は、比較的 “表面的” に台本を読み進め、台本から得られる “与えられた状況” を拾い上げていく作業を丁寧に行っていくわけですが。
中盤戦からは、いよいよそれが深まり、もっと根底に流れている “テーマ” に向かってゆくことになるわけです。
(スタニスラフスキー・システムの「超目標」というのは、作品や役を創っていくために、特に重要な概念です。これについては、またいずれ、詳しくお話ししようと思います。)
▲作品創りの折り返し地点あたりからは、作品や役の「超目標」というのを見極めていく作業が始まります。
非常に重要なプロセスなのですが、このお話は、またいずれ……。
「社会派サスペンス」という、一般的な評価
脚本家レジナルド・ローズによって、この作品が書かれたのは、1950年代。
アメリカでは、公民権運動(黒人たちが、人種差別の撤廃と、憲法で保障された諸権利の適用を求めて展開した運動)の真っ只中です。
▲アメリカの公民権運動の指導者、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア氏。
まず、『十二人の怒れる男』を語る上で触れておきたいテーマは、この部分です。
人種差別の問題に端を発した “公民権運動” という時期に書かれた、という時代背景を踏まえて、作品のタイトルを見てみてください。
『十二人の怒れる男』。
もう一度、言います。
十二人の……
怒れる……
…男。
お分かりでしょうか??
つまり、この作品は。
タイトルの時点ですでに、「陪審員は『男』だけが参加できる」という、差別的な意味合いをはっきりと示唆しています。
もっと言えば。
1957年の映画版を見ればお分かりの通り、陪審員は全員「白人男性」がキャスティングされています。
▲ご覧の通り、揃いも揃って「白人男性」だけ。
そうやって意識してみると、ちょっと異様な光景に見えてきますね……。
このタイトルの「男」と、白人男性のみの陪審員。
まず、ここから考えても、この作品が「差別」「偏見」ということを一つのテーマに据えていることに気が付くでしょう。
それ以外にも。
貧民街や移民、あるいは個人的な怨恨といったキーワードの “差別・偏見” の描写が、劇中で繰り返し登場します。
そうした意味で。
『十二人の怒れる男』は、上質な法廷ドラマであると同時に、「社会派サスペンス」として紹介されるケースが多いと思いますし、それは確かに、この作品の最大のテーマの一つです。
…が。
僕のクラス……いえ、「カンパニー」では。
(舞台では、その作品を一緒に創っている仲間たちを「カンパニー」と呼びます)
この作品は、一般的な「社会派サスペンス」というレベルでは終わらせません!!
実は、もっともっと深いところに、この作品の “核心のテーマ” が眠っているのです!!
▲“核心のテーマ” とは、一体……??
その深淵なるメッセージの全貌が明らかになった時、きっと驚くはず。
そして、あなたの中の『十二人の怒れる男』は、これまでとはまったく違う表情を見せてくれることでしょう。
徐々に見えてくる “疑問” の数々……
さらに作品を掘り進めていくために。
この作品をご存知の方は、ちょっと思い出してみていただきたいことがあります。
まずは、物語の結末。
よくよく考えてみると、
「法廷ドラマ」としては、結末があまりにお粗末なんですね。
通常の「法廷サスペンス」なら。
殺人の容疑をかけられていた被告に無罪の判決が下される際、必ずと言っていいほど、代わりに「真犯人」の存在が明かされます。
そうでないと、観客が「納得いかないから」「釈然としないから」なんですね。
ところが、『十二人~』では。
ラスト、陪審員全員が「無罪」に投票するも、真犯人には一切言及されないんです。
真犯人が特定されないとなると、どこかドラマとしての結末の「甘さ」を感じませんか??
しかも。
被告の少年の「無罪を立証する強力な証拠」が見つかったわけでもなく。
強いて言えば、
「ここまでの裁判の内容、よくよく考えてみると、ちょっと詰めが甘いよね~」
という程度の内容しか出てこない。
それで全員が「無罪」の評決を下すなんて、あまりに無責任な気がしませんか??
「ここで『無罪』の評決を下して、後で実は『有罪』だったと分かったら、殺人犯が無罪放免で大手を振って街を歩くことになる。それは危険だ!」
劇中でも、何度か、こうした会話が交わされるのですが。
これ、僕もそう思います。
この作品で語られている「無罪」評決の理由は、よくよく見ていると、どう考えても「ヨワい」んですよね。
さらに。
劇中で「有罪」から「無罪」へと評決を変えていく陪審員たちの理由は、といえば。
みんな、揃いも揃って「合理的疑問があります!」という、謎のコトバ。
フツーなら、一人一人が、もっと納得のいく理由を述べて、「だから私は『無罪』にします!」と決断するはず。
ところが、みんなが揃いも揃って「……合理的疑問があります。だから、無罪に投票します。」と言うんですね。
観客が納得するような論理展開で「無罪」に挙手する人は、誰一人としておらず。
法廷サスペンスとしては、そこで語られる「無罪」の理由は驚くほどずさんなものに見えるのです。
…『合理的疑問』って、なんだよ!?
物語をあらためて冷静に見てみると、誰もがこの「謎のキーワード」にツッコミを入れたくなるはずです。
▲「ゴーリテキギモン」って、何やねん。
ちなみに、この「合理的疑問」という言葉。
これは、刑事訴訟における用語として、実際に存在しています。
ところが、この作品以外でこの言葉を見かけたことがある方は、(法律や裁判の専門家以外は)ほとんどいらっしゃらないんじゃないでしょうか??
例えば、訴訟で使われる有名な言葉としては「推定無罪」なんていうのがあります。
「被告は、有罪の判決が確定するまでは、『グレーな人』や『疑わしい人』ではなく『無罪の人』として扱われる」という意味の言葉です。
あるいは、これに似た考え方として「疑わしきは、罰せず」なんてことも聞いたことがあるでしょう。
ところが。
「合理的疑問」というのは、一般の人はほとんど耳馴染みのない言葉だと思うんですよね。
これ、劇中では、冒頭の裁判長の言葉(音声のみ)の中にも登場します。
前フリもあるところをみると、どうやらこの作品を語るには、とっても重要な意味のあるワードに思えるんですけども……一体、なんなのでしょうね??
▲「推定無罪」という用語は、ハリソン・フォード主演の映画のタイトルにもなっていましたね(『推定無罪』…1990年の作品)。
ちなみに、後ろに映っている、主人公の奥様役の方(ボニー・ベデリアさん)、『ダイ・ハード』ではブルース・ウィリスとご夫婦でしたね。
さらに言えば。
そもそも、第8号は、なぜ最初に「無罪」に手を挙げたのでしょう??
たった一人、勇気を持って「無罪」に手を挙げたからには、それ相応の “たいそうな理由” があったのかと思いきや……。
序盤、「君はなぜ『無罪』だと思うんだ?」という他の陪審員からの問いかけに、彼はなんと「わかりません」と答えるんです。
…わからんのかぃ!!
他の陪審員たちの、こうしたツッコミは、すごく当然のことだと思うんですよね。
だって、ここまでの裁判で提出された証言・証拠は、ことごとく、被告の少年に不利な内容……つまり、彼の「有罪」を明らかに物語っているものなんです。
誰がなんと言おうと、フツーに考えたら「有罪」の内容。
それに対し、明らかなる「無罪を立証できる証拠」を握っていたのならまだしも。
よりによって「わからないけど、とりあえず話し合いしましょう」という理由だけで、第8号は無謀にも「無罪」に手を挙げるんです。
しかもこれ、裁判の初日じゃないんですよ。
「最終日」なんです。
正直、僕でも、同じ状況にいたら、「お前、ここまで一体、裁判の何を聞いてたのよ??」と、彼を責めるでしょう……。
▲コラァ!! いい加減にせぃ!!
……いや、それよりももっと疑問なのは。
これだけの名作の “主人公” であるはずの陪審員・第8号という人物。
劇中で、まったくと言っていいほど素性が明かされないんですよね。
普通のドラマであれば、途中で主人公の過去が描かれたり、葛藤や悩みが明らかになったりと、フツーは必ず、「この人は何者なのか?」が語られますよね??
ところが。
他のキャラクター達は、職業や過去がもっと描かれているのに、第8号はどういうわけか、ホントに「謎」の人物のままなんです。
主人公がこれだけ「謎」って……。
一体、どういうことなのでしょう……??
▲もぅ、ワケ分かりましぇ~ん!!
……さぁ。
『十二人の怒れる男』。
こうやって一つ一つを紐解いていくと、実は、疑問点が次から次へと浮かび上がってくる、もはや「謎だらけ」な作品なんです。
真犯人が見つかるわけでもない、あの「中途半端な結末」は、作品としてOKなの??
一人一人が無罪へと投票を変えていく理由が「合理的疑問がある」から、って……そんなワケのわからない理由で決めちゃって、いいの??
……っつか、「合理的疑問」って、何だよ??
大体、被告の少年の「無罪を立証する証拠」は、何ひとつ出てこない。
結局、最後まで「有罪とは言い切れない……かもしれない」程度の、脆弱な疑問点だけしか登場しない。
そんなので、みんなが少年を「無罪」にしてしまうって、どうなの!?
第8号は、そもそも明確な理由もないのに、なんで最初に「無罪」に手を挙げたの??
というか、主人公の「第8号」さん、お前、一体何者!?
……ざっと、今回見てきただけでも、すでにこれだけの疑問が、『十二人』という作品から引っ張り出すことができます。
う~ん……
この作品、ただ有名なだけで、実はすっごい駄作なのか……??
……いいえ、安心してください。
これらの疑問こそが、この作品を「稀代の名作」たらしめん要素なんです!!
さぁ。
皆さんも、陪審員になったつもりで。
『十二人の怒れる男』という作品にかけられた数々の「疑問」と、「駄作」の容疑を、僕と一緒に解き明かしていきましょう!!
(つづく👇)
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