元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

Information(2024/04/10)

(出来れば)月に1本くらいは何か投稿したいと思っています。
電車やバスをお待ちの際、またはご乗車中、
死にたくなるほどおヒマな際にお読み戴き、
花形 満の声で「またつまらぬ物を読んでしまった」、
とのご感想を頂戴できれば幸いです。

今後とも宜しくお願い致します。

  
 

 相変わらず音楽の話ではなくて恐縮。表題は気になる日本語の用例として引用させて頂いている。THE ANIMALSが1964年に発表した「朝日のあたる家(:The House Of The RIsing Sun)」は無論、大好きな楽曲には違いないんだけど、この邦題を観たり訊いたりする度に何処か落ち着かなく、腑に落ちない気分に苛まされる。
 自らこの言葉を発することは、先ず絶対にないと云うか、出来ないと云うか、舌がそのように廻らない。
 幼稚なような気がして。
 
「朝日〝が〟あたる家、だろう?」
 
 亡父は長男の私には厳しい面もあった。「赤ちゃん言葉を使うな!」と張り倒されたことさえある。小学校の教員だったが、暴力教師であり、また、星 一徹的でもあった。
 2つ下の妹や6つ下の弟をそのように虐待していた記憶はない。彼等は常に兄や姉に追い付こうとする、ガッツ溢れる性分だからな。赤ちゃん言葉なんぞ元々使わない。
 
「朝日〝の〟あたる家」は何故〝誤り〟なのか? 無論、父には何度も確かめている。〝の〟は所有や形容を示すからだったか。用言の〝あたる〟の体言は〝朝日〟だからか。
 なるほど。「私の城下町」や「情熱の嵐」や「ピンクのモーツアルト」〟の〝の〟には、何の異存も違和感もない。
 
 それが正しい日本語だと信じて50を過ぎてから、そうだ!父が好きだった芥川 龍之介はどうだろう!?と読み返してみたら、何だよっ!? どの作品だったか忘れた・・、と云うよりも「朝日のあたる家」のような記述は、色々な作品のあちこちで通常的に用いられている。
 
 純粋な教育者であったことは間違いない。
 
 世界中に何億という元教育者なり現役の教員がいても、最強は父だ。芥川は元より、早くからありとあらゆる本を与えられ、勤務先の図書室の廃棄処分を持ち帰ったり、児童から借りたり、また、没収したマンガ本を一晩だけ〝また貸し〟してくれたこともある。石森 章太郎の『太陽伝』はその1冊。いや、上下2巻。横山 光輝の『水滸伝』全8巻も読破したな。

 

 
 
『文部省できまった 国語の早わかり』(毎日新聞社)は、新品をたぶん、衣笠仲通り商店街に在った早野書店で購入してきて、手渡された記憶がある。刊行は1970年。
 
 不在時に父の書斎に忍び込んで、無許可で読んだワケではない。その偉大なる教育者の父に母が唯一、疑問を提示していて、私自身も母に同感している方針に「その子にはその子の年齢に合った本がある」があったが、「その子にはその子の興味に合った本がある」じゃね?
 
 風邪をひいて休んだ際に、妹と一緒だった子供部屋の2段ベッドの下段で読み耽った記憶もあるので、読破は小学校4年。小学校5年から中3の2月だか3月まで、私は小中学校を1日も休んでいないからな。
 
 父から与えられた書籍の中では珍しい指南書の類いで、退屈極まり無い1冊だった。百科事典ならまだしも、辞典を読んでいるようなカンジ。
 余りにも退屈だったので、何年か経ってから父に返却して、2023年の10月までは実家の南側の書斎(※北側にも在る)の書棚に収まっていたが、何故かその後、1か月程度の間に消え失せてしまっている。
「朝日のあたる家」のような用例の是非を確かめたく、貸借した私自身が何処かで紛失してしまったのか、或いは現在は私の書斎の何処かに在るのかも知れない。
 
 黄色いソフトカバーで、当然、右開きの表紙を開いて、早速1ページ目に記されているのは、
 
>×父さん
>×母さん
>とは書かない。
 だ。無論、縦書きで。
>〝父〟は〝ちち〟、或いは〝フ〟と読み、〝とう〟とは読まない、とまで記されていたような。
 
 なるほど!
 
 梶原 一騎の名作中の名作『巨人の星』の星 飛雄馬は、父であり、もはや国民的英雄の星 一徹を「父ちゃん」ではなく「とうちゃん」と呼んでいる。気になって、同じ梶原作品の『愛と誠』を読み返してみたら、星 飛雄馬のような貧乏人の小倅ではなく、ブルジョワ令嬢で才色兼備の早乙女 愛でさえ、父親を「お父様」ではなく「おとうさま」と呼んでいる。知ってた?
 
 国民的英雄を監禁したり、国民的女優を日本刀で脅したり、結局、哀れな末路を辿ったものの、梶原は常に出版社にネーム(※マンガに於ける文字原稿)を一文字たりとも変えない要求をしていたらしい。それは自らが正しいと信じる日本語を読者である少年達に伝えたかったからではないだろうか?
『巨人の星』の週刊『少年マガジン』誌への掲載は1966年なので、文部省できまる以前から、彼は〝父さん〟とは書かないことに拘っていたんだな。
 作家は哀れでも、作品は永久に不滅。The Work Remains The Same也。
 
 父はその梶原 一騎が大嫌いだったが、案外、同類相哀れむ・・、否々、終生のライバルだったのかも知れんな。代表作の『巨人の星』、『あしたのジョー』、『愛と誠』、『ジャイアント台風』は元より、少年文庫小説作家時代の作品も読み返してみる価値がある。
 
 それもまた昭和史なんだからな。父が大好きな。
 
 
※文中敬称略 

(1987.5.8.:Detroit Joe Louis Arena)
 
 
 それでも約5年間(:1984年4月 - 1989年5月)続いた第5期の中盤、1987年5月8日。デトロイトのジョー・ルイス・アリーナに於ける公演を収録した〝DVD〟である。
 ジャケットの中央には、見上げた角度から撮影されているため、やや細めで、しかも〝内股の(!)〟イアン・ギラン。左側にロジャー・グローヴァー。右側にリッチーだから、てっきし第7期〜第9期のRAINBOWかと!
 収録曲は、
 
・01.Perfect Strangers☆
・02.Hard Lovin' Woman★
・03.Bad Attitude★
・04.Child In Time
・05.Difficult To Cure△
・06.Knockin' At Tour Back Door☆
・07.Lazy
・08.Space Truckin'
・09.Woman From Tokyo
・10.Black Night
・11.Smoke On The Water
 
 全11曲、1時間22分33秒。1公演の部分収録と思えるが、新譜『THE HOUSE OF BLUE LIGHT』(:1987)の宣伝は2曲(★印)。前作『PERFECT STRANGERS』(:1984)の宣伝も2曲(☆印)。RAINBOWと云うか、この当時のリッチーの鉄板が1曲(△印)・・なだけ。(笑)
 07.以降はガチなDEEP PURPLEの聴き慣れた演奏とは異なる、怒濤の演奏を楽しめることがウケアイだ。
 
 音は悪い。滅茶悪い。非っ常ぉぉぉに悪い。
 
 特にロジャーのベースは全編に渡って、殆どまったく聴こえない。アンコールの(?)09.以降は、監視員の眼が光っていたのか、時たま音声が途切れる。
 細君等は「もっと、ちゃんと聴けるのをYouTubeで聴けばいいじゃん!」と宣うが、この日の演奏を聴いてみたいんだけど、この音源でしか聴くことが出来ないとしたら、この音源で聴くしかないだろう? 当たり前のハナシだ。
 あちこちで同じことを何度も記してきたけど、いいか? 人間が奏でる演奏と云うのは、その時のその1回しか存在しないんだ。合奏となれば尚更、多様性に富む。
 
・リッチー・ブラックモア(g.)
・イアン・ギラン(vo.)
・ロジャー・グローヴァー(b.)
・ジョン・ロード(kb.)
・イアン・ペイス(ds.)
 
 5人のうち、ソング・ライティングに常に名前を連ねているリッチーとロジャーの2人の前職は云う迄もなくRAINBOW(第9期)だ。従って、至って個人的な主観に過ぎないが、ソング・ライティングにしても、アレンジにしても、アンサンブルにしても、そして何よりも演奏にしても、RAINBOW色が濃いような気がしている。無論、ロジャーが参加した、第5期以降のアメリカンRAINBOWね。(笑)
 ロードとペイスは何処へ行ってもそれなりの力量を発揮出来る人。唯、06.で聴ける、ロードのハッピーなピアノ・ソロは珍しいんじゃね?
 
 ギランはやはりDEEP PURPLEを決定付ける〝顔〟なので、RAINBOW色が濃い★印や☆印には無理があるような・・。って云うか、★印や☆印は、それこそジョー・リン・ターナーにでも唄わせておけばいいんじゃね?(大変失礼!!!笑)
 
 むしろ、往年の名曲の数々を、アメリカンRAINBOWやWHITESNAKEを経験した人達が、どう変化して対応しているのかが最大の聴き処だろう。
 肉体そのものが楽器のギランに、04.の超高音シャウトはやはり無理だが、07.〜11.で聴ける絶叫はまだまだ健在。また、07.のハーモニカは上手くなっているような。世界最大最古のロックン・ロール・バンド、THE ROLLING STONESと、DEEP PURPLEの共通点は、アルバムの録音に使用したことがあるモービル・ユニットの他に、ハーモニカの名手が居ることだ。
 
 尚、この音源は〝DVD〟だが、今やHuluだのYouTubeだので相当複雑化した我が家のAV機器を単独で扱えない私は、ムカシ通り、SONYのCD/DVDプレイヤーとスピーカー、BOSEのプリメイン・アンプで音声のみ確認。
 
 同時期、同ツアーの様子が遺されているYouTube動画として、下記を見付けたが、ギラン、案外スマートだな。髪も沢山有る。ジョー・リン・ターナーと観間違えても、無理はないだろ?
 断っておくが、ターナーも大好きなヴォーカリストの1人で、RAINBOWやDEEP PURPLEに参加したのがマチガイで、THE FACESやTHE ROLLING STONESのような楽曲が似合いそう。HR/HM専門誌では、その辺りが解らんのだろうな。(笑)
 
 https://www.youtube.com/watch?v=v74k3qiXets
 
 YouTube動画への不満は、コンテンツの掲出責任が余りにも希薄な処だ。現に上記動画には、撮影日時も楽曲名も何もない。動画に依っては、音と絵が一致していないツクリモノも珍しくないから、先ず、それをチェックするのに一手間。
 
 駄目だ。お歳暮の発注とか、ここ数年ではメズラシク喪中ではない今年は、年賀状の発注もしなきゃならないのに、聴き始めると、云わゆる〝ながら〟作業が不可能。

 まさにDifficult To Cure也。
 
 
※文中敬称略
 
 
 
 

 

 全盛期の同誌は常に300ページを軽く超えていた。
 
 同じ〝Play〟で始まる米国版月刊『PLAYBOY』誌を凌いで、世界一の中綴じ雑誌だったらしい。中綴じ雑誌は通常、馬鹿デカいホチキスの針の2点止めだが、当時の同誌は真ん中にもう1本、外側に向けた針で補強された3点止めだった。1冊全部、燃やしてみそ?ぶっ太い針が3本残るはずだから。
 
「でも、殆どが広告じゃねーかよう!」と〝不満〟を持たれる方は、既に素直や純粋を通り越して、かなりのバカ。少なくても同誌の読者ではないから逝ってよし。(笑)
 純粋だけではメシを喰っていけないことを教えてくれたのもこの会社であり、この雑誌であり、西新宿の母であり、兄弟姉妹達だった。
 
 同誌では毎年末に、古くは〝読者人気投票〟、私が在籍していた頃には〝Player Reader’s Poll〟という、読者アンケートの集計特集があった。その結果、もっとも興味が持たれていたページは実は広告ページで、2位は先述の〝Billboard〟。毎年、ね。
 
 そこにこの会社と雑誌の凄さがあった。
 
 誰が決めたのか知らないけど、日本の雑誌には、広告が総ページの5割を超えてはならない暗黒の掟があるらしい。全300ページだったら広告は150ページ未満。最少でも150ページの編集ページを制作しなければならない。
 一応、バカ共に教えといてやるが、広告ページというのは、出版社にお金が入ってくるページ。編集ページは出版社がお金を支払って作るページで、その差し引きが収益。
 え?何?収益は読者が支払う購入価格だろ!?って? バカ云ってんじゃねーよ。僅か500円で○○万冊実売したところで、それは製版、印刷、ホチキス3点留めの製本代くらいにしかならん。つまり経費。同時期、カラー・ページ数や使われていた用紙の重さ(:要するに厚さ)は比較にならなくても、月刊『PLAYBOY』誌は1,200円くらいしなかったか? 末期の同誌は平綴じになったけど、¥2,000を超えて、最終号は¥2,400!!!
 
 如何に低価格で、如何に沢山の情報を如何に沢山の読者に送り届けるか。それこそが社主の夢だったことは間違いない。
 
 そうそう!
私が入社した頃にはまだバブルの景気が続いていた。同年代の友人達が破格のボーナスを貰って、豪華な海外旅行や結婚式が頻繁だった一時期にも関わらず、堅実な同社では何もなし。だが、その堅実性が結果的に55年の歴史の半分以上を刻んだことになる。
 
 更に凄いのは・・。
 
 編集ページを120ページ作るのと150ページ作るのでは製作コストは当然、1.25倍異なる。判るよね? ところが同誌は120ページ分の制作費で150ページを作り続けてきた。何故か?
 メンバー募集のページ〝Billboard〟はアレ、広告ではなく編集ページなので、増やせば増やすほど、広告ページを増やすことが出来る。
 しかも、読者から返送されてきた綴じ込みハガキをそのまま印刷屋さん(※当時は版下屋さん)に入稿するだけなので、原稿料は¥0。用紙は冊子の印刷用紙として最も安価な電話帳用紙。
 強いて云えば、綴じ込みハガキの印刷と雑誌への綴じ込み費用だが、ンなもん、300ページもの月刊誌を毎月○○万部も発注していれば、タダ同然だったのでは?
 ハガキの推敲等の〝編集〟作業は、経理担当者が片手間に従事していたので、人件費もせいぜい0.5人分。
 
 しかもだぜ? 誰に迷惑を掛けている? 誰が損害を被っている?
 
 読者は僅か500円で、バンドのメンバーでも楽器でも、欲しい情報をがんがん探せる。しかも、50円切手1枚増資すれば、メンバーの募集でも加入希望でも、要らなくなった楽器の販売でも、自らが情報の発信者になれる。
 
 私なんぞは毎月、最新号が出来上がれば先ず楽器店の広告を全部観て、Music Man StingRayのウラ通し〝の左用〟を、眼を皿のようにして探したもんだった。在職10年で現物に出会えたのは僅か2本だけで、結局、買えなかったけどな。ポール・マッカートニーでさえ保有していない(と云われた)'70年代製のピック・アップが搭載されている#4001を運良く入手出来たのもまた、在籍していた役得。(笑)
 
 実売部数も伸びていた(らしい)から広告の出稿量・・、要するに情報量は更に増える。広告雑誌は広告雑誌でも世界一の広告雑誌で、楽器業界に於ける専門情報誌中の専門情報誌だった(と思われる)。
 在籍中、このカラクリ・・、うんにゃ、ビジネス・モデルを知った時には「凄え!」と驚嘆したもんだった。
 
 更に、だ。読者と広告出稿主、即ち、楽器製造会社、販売会社、練習スタジオ、音楽学校等々が連携して、バンド・ブームを巻き起こした。後発の『バンドやろうぜ』誌が興り、人気TV番組として『イカすバンド天国』、日本テレビの『24時間テレビ』では24時間、都心の数カ所の会場で、常にアマチュア・バンドが演奏している〝バンドにまかせろ〟なんちゅう企画まで出現した。まさに一大ムーヴメントだっただろ!?
 
 インターネットが普及して、個人情報の管理がうるさくなるまでは、だったけどな。


※文中敬称略
※画像:月刊『YMM Player MAGAZINE』1978年7月号:筆者が高校2年時に初めて購入した1冊(の現物)
 

 

 

 

 

 
 
 表題は2023年7月に〝廃刊〟になってしまった月刊→隔週刊→月刊→季刊『YMM Player MAGAZINE』誌を発行していた、(株)プレイヤー・コーポレーションが新入社員の採用面談の際に、履歴書の他に唯一、提出を課していた小論文のタイトルである。文字数は原稿用紙5枚程度だったか。少なくても私が在籍していた1986年から1996年の10年間に入社した社員は全員、この作文を記している(はずだ)。
 私が読者だった1978年から1986年の8年間もそう。全6名中、5代目の編集長だったN先輩は、面接当日、同社に最寄りの新宿駅の定期券売場の申込書を作成する台の上で、ヒモで括られたボールペンで急遽、用意されたと訊く。
 早いハナシが、同社は同じ募集告知(広告)の版下の締切日だけ貼り換えて、何10年も使い廻していたワケだな。(笑)
 
 刊行は1968年。
 
 18年後の10月、私は新宿警察署に近い青梅街道に架かる大きな歩道橋の上で、パロマのネオン・サインを観ながら途方に暮れていた。この小論文を書き上げて来なかったので。
 故に37年を経た今。(笑)

  
 都庁は丸の内に在った。その数年後にキングギドラが破壊した西新宿の高層ビル群(※正確には、キングギドラに跳ね飛ばされて後ろに転んだゴジラが壊した)は未だ、京王プラザホテル以外は、安田、野村、三井、住友の各ビルしかなく、「あの、往き方が判らないんですけど」と、同社にアポを入れた電話ボックスの周囲には、依然として淀橋浄水場の跡地が拡がっていた。
 因みに、青梅街道にかかる大きな歩道橋も、パロマのネオン・サインも、その後、後輩社員達と排骨麺を喰いに何度か出掛けた〝昌平〟もまだ在る。排骨麺よりも、つけ麺がウリになっているみたいだけど。(※2023年11月現在)
 
 それでも何故か採用して頂けた。後々、社主に理由を尋ねたら、「髪の毛が長くてロックっぽかったから」。
 おいおいおいおい。だが、今、思えば、この昭和17年生まれの女性社主の夢が、55年間の歴史を刻んだのだろう。
 
 人生は音楽雑誌と共に開かれた。
 
 例えば結婚とか。同誌と云えば、何と云ってもバンド・メンバー募集、または加入希望の情報交換ページ〝Billboard〟だろう。約35年前から今も居る細君がこの雑誌を買って、キーボーディストを募集しているバンドを探したのが発端。
 結婚式には社主、編集長、K先輩社員が列席してくれた。そのご恩を私は生涯、忘れることはないだろう。
 
 結婚祝いに社員全員で贈ってくれた姿鏡は、今も自宅の玄関に在る。その鏡に向かって先日、猫がげろを吐いて、鏡面と木製の枠の僅かな隙間にげろが詰まってしまったので、爪楊枝を使って丹念に掃除をした。猫には当然、「たわけぃ!」
 退職の記念品に贈られたセガ・サターンも在るぞ? 無論、完動品だ。
 
 現在でも時折、『出版健保基金だより』という小冊子が郵送されてくる。特に気に留めていなかったが、還暦を過ぎた或る日、調べてみたら、加入は1986年。「鈴木さん、入れておきますよ?いいですね?」程度の確認は当然、あったんだろうけど、社主が社員の老後まで考慮してくれていたんだね。お陰様で私は年金に加えて、この基金の給付も受けられるみたいだ。月額に換算したら160円くらいだけど。
 
 入社早々、年齢や学年は1つ下でも入社が1年早かったK先輩から、「○○さん(:社主)を母と思い、○○さん(:広告部長〜第4代編集長〜社長)を兄と思え」という訓示を頂戴した通り、如何にも家族的で暖かな会社だった。
 
 だっちゅーのに、折角、入社した翌年の初夏、編集社員6名全員が一斉に辞めてしまった。1980年代前半にLOUDNESS(:ESP)やBOOWY(:Fernandes)をいち早く取り上げた栄光の第3期編集部で、面々は退社早々『バンドやろうぜ』(宝島社:1988〜2004)を創刊している。辞めた会社や雑誌に対して、如何にも当てつけがましく。(笑)
 
 編集部6、広告部4、社主、社長、事務、デザイン2と、計15台しか机がない小さな会社で、一気に6人も辞めてしまえば、残りの社員は凄惨を極める。お風呂セットを常備して会社に常駐して、何処其処の銭湯は汚いとか、何処其処の銭湯はキレイだけど、ホモが多いとか、情報交換しながら約1年間、雑誌を作り続けた。今、思えば、壮絶に楽しかった青春時代! 翌1989年春、危機を乗り切った社員達に、社主は2泊3日の香港旅行をプレゼントしてくれた。無論、中共に返還される以前。
 
 別称ならともかく、蔑称としても〝広告雑誌〟と呼ばれていたのは、如何に素直で単純な時代だったか。(笑)
 
 新入社員が入社して初めて、毎月、最新号が出来上がる度に、社主、社長を含めて開催されていた全体会議に参加して、感想を問われると、先ず口走るのが、

「広告が多過ぎると思います」。
 今、本業なり副業なり趣味なりのYou Tubeやブログ等のアフィリエイトで四苦八苦されている皆様方は思うだろ・・。
「何を仰る?ウサギさんっ!!!」
 
 世間を知らないというか、純粋なばかりで真っ新な人間性を露呈していたというか、青臭いというか。
 だがな、よく憶えておけよ? その純粋さや青臭さがなければ、特に出版物のような購買者の心を掴んでなんぼの事業は成り立たん。
 
 
※文中敬称略
※画像:季刊『YMM Player MAGAZINE』2023Summer号

 


 自身の切実な〝老化〟を実感せざるを得ず。
 
 拙稿「40数年振りに『野菊・・」は、2023年9月27日に起稿して、同年10月18日にアップロード・・、ムカシの言葉で云えば、脱稿しているのだが、そのアップロードの最中でさえ、あちらこちらに修正を加えている。
 未練がましいというか、往生際が悪いというか、踏ん切りに欠けると云うか。
 
 記しておきたいことは無限に湧いてくる。文章量はどんどんどんどん増えていくから、取捨選択して、無駄を取り除かなければならない。何故か?
 読んで戴くためだ。手軽に。快適に。
 
 リズムも要る。川端某のような。谷崎 潤一郎のような几帳面が性に合う。この人は400字詰め原稿用紙の2行分が、実際に本になった時に1行になることを想定して書いていたな、たぶん。志賀某のような〝境遇〟は生憎、私には該当しないので、参考にならないな、まったく。
 幸い、旺文社文庫『日本の名作50選』には、そのお手本が全部

揃っている。
 
 ブログは1投稿あたり3,400字。一般的な文庫本にしたら5ページを想定している。それはこれまでに読んだ中で、もっとも読み易かった1冊が筒井 康隆のエッセイ集『狂気の沙汰も金次第』だったからだ。
 
 ところが、草稿段階ではいつもその4〜5倍。拙稿「40数年振りに『野菊・・」は、30ページ分以上書きまくった・・、否、打ちまくった挙げ句、削りに削って、ようやく15ページ程度で収められたものの、それでも2〜3日振りに読み返せば、早くも後悔。早くも「また全文、書き直さなきゃならんな」。
 特に、
 
・明治という時代背景
・明治以降の近代文学の流れ

 という2点を加えれば、どこかを削らなければならない。無限のスパイラル。堂々巡り。永遠に終わらない。サクラダ・ファミリアを恰好の云いワケに。(笑)
 
 それは、既に取り掛かっている自作「40数年振りに『吾輩は猫である』を読んでみたら・・」で、やはり旺文社文庫の『吾輩は猫である 他一遍』の巻末にある年譜を、下段にある文壇や社会の出来事も含めて全部、1文字残らず読んで気が付いた。伊藤 左千夫の時は子供の数ばかり数えて、下段は読み飛ばしていたが、漱石と3つしか違わないから、恐らく内容は同じだろう。
 
 先ず、明治という時代背景抜きで色恋沙汰を語っているのは説明不足だった。
 
 当時は新撰組や大政奉還の直後で、森 鴎外、伊藤 左千夫、夏目 漱石共に、生まれたのは江戸時代。旧体制から新しい時代への過度期に、色恋沙汰は自由や解放の象徴だったのだろう。書き手よりも当然、読み手にとって。「私を優しく愛して」とか「彼女は君を愛してる」は、第2次世界大戦の終戦後という地球規模の新しい時代の商品だ。
 まんざら解らなくもない。(笑)
 
 近代文学の流れもまた、明らかに私自身の認識欠如。
 
 鴎外を嚆矢とすれば、その発祥は1900年代と、中途半端に古い。その古さが吉川 英治や司馬 遼太郎の物語世界のような遥か遠い昔ならともかく、せいぜい曾祖父母の年代に過ぎない。
 40数年振りに『野菊の墓』を読んで、少しおもしろかったことに、「そう云えば、母方の祖母がこういう喋り方をしていたけど、最近ではめっきし訊かなくなったな」が少なからずあった。左千夫は13児持ち、漱石も7児の父であったように、母方の祖母もまた9児の母。私の母は五女で末っ子。子沢山(で、且つ伊藤 左千夫のように、基本的に貧乏)な明治の時代は、すぐ近くに存在していたが、それもやがて私達の世代が最後になろう。
 
 中学時代に折角、父に買い与えられたのだから、旺文社文庫『日本の名作 全50冊』は全50巻、常に本棚に並べて、中高浪人約7年間、背表紙だけは毎日のように眺めていた。このテの全集は、番号順に正しく並んでいないと気が済まない性質(たち)なので、ガキの時分には父の書斎、現在でも書店や古本屋で、殆ど無意識でボランティア活動をしてしまう。無論、自宅の書斎では、書籍のみならず雑誌、LPやCD、VHS、MOディスク等も同。
 
 旺文社文庫の作家番号1.は鴎外、2.は漱石、左千夫は3.なので、鴎外の『阿部一族』(1913)や『高瀬舟』(1915)は、『吾猫』(1905)や『野菊』(1906)よりも新しい作品にも関わらず、漱石や左千夫よりも前、左側に並ぶ。これにやられた。しかも、それに気が付いたのが昨日だなんて、不徳の致すところもいいところ。
 作家番号なんぞ、その出版社が出版することになった作家の順番に過ぎず、それは旺文社に限らず、他の出版社でも同じ。新潮文庫の作家番号〝あ〟の〝1〟は芥川 龍之介。阿刀田 高は〝あ〟の〝7〟。阿久 悠は〝あ〟の〝57〟。
 
 近代の夢物語はともかく(笑)、現代作家で推理作家の東野 圭吾のキー・タイプの速さには唯々々々驚くばかり。
 
 一体、どういうアタマと指の構造をしているのか? やってみそ?『白夜行』でも何でもいいから、全文コピーを。文字打ちを。数日かかるはずだが、彼はあの複雑なストーリーを構築しつつ、且つ当然、締切までに入稿・・、否、脱肛・・、は、漱石やその弟子の芥川で、彼は脱稿しているのだ。
 
 無駄がないのだろう。たぶん。某鈴木のように、15ページで纏める原稿に30ページも40ページも時間を費やさない。切ったり貼ったり修正したりを繰り返さない。
 その都度、踏ん切りを着けながら組み立てているに違いない。
 
 見習おう。〝見て〟はいないけど。(笑) 彼は1958年2月4日生まれだから4つ上。パイセンがやっていることには、比較的従順に感銘を受ける。
 
 
※本文敬称略
※画像:『狂気の沙汰も金次第』(1976:新潮文庫:つ-4-3)
 
 
 

(伊藤 左千夫:1906)★本稿は文庫本15ページ分の長編です!ネタバレ有り!!!
 
 
 発端は、某SNSで高校同期の友人から頂いた、
「一人娘が国際結婚すると言い出した時、『野菊の墓』を読み直して、云いたいことをグッと堪えた」というコメントに俄然、興味が湧いたからだ。
 
 グッと堪えた、か。
 
 彼はまた、
「こういった名作の多くには、戒めであったり、教訓、誠実さとは?みたいなのがサラッと刷り込んであるじゃない? そのあたりが大切な気がする」
 とも語っていて、それには至極同感。
 
 娘も息子もなく、子育てや子離れの経験もない私は、お定まりの中高〜浪人時代に1〜2回読んだきり。松田 聖子が主演した映画『野菊の墓』(1981:東宝)は当時、大流行していた〝聖子ちゃんカット〟のカノジョと観に行ったような・・。
 恵まれていて、云いたいことを云いたいだけ云いまくって、間もなく愛想を尽かされた。何も学んでいない。特に誠実さ、とか。(笑)
 
 今回の再読もまた、中学時代に父が一括購入してくれた〝旺文社文庫 日本の名作50選〟全50巻の1冊で、正確に記せば『野菊の墓 他三編』。
 収録内容は以下の通り。
 
・『野菊の墓』(:1906)
・『紅黃録』 (:1908)
・『奈々子』 (:1909)
・『去年』  (:1910)

・解説:山本 永吉
・『野菊の墓』の舞台:友納 武人
・なな子の死と父の思い出:伊藤 由伎
・代表作品解題
・参考文献
・年譜
 
 実は『野菊の墓』のような青春恋愛ものは好きじゃない。何か、キモヲタの妄想を読まされているような気がして。
 
『伊豆の踊子』なんぞ、その最たるものじゃない? 何不自由ない金持ちのボンボンが、伊豆を旅行しながら女旅芸人をストーカーしまくった挙げ句、ウマクいかなかったもんだから、帰途の船上で、


>涙を出任せにしていた・・
 よく書けるよなぁ? 恥ずかしくないのかぁ? 野坂 昭如の『文壇』に、そのお人柄がよく描かれているような。
 
 だが、そんな作品でも、特に初ッパナの、
>道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。
 は、まるで唄の歌詞のようにリズミカルで美しい。しかも、ありありと思い浮かぶ情景に引き込まれる。物語そのものよりも表現技法が名作なのかも知れないな。
 
『野菊の墓』のように、わざわざ千葉弁の口語体で書かれた文章は〝もの凄く〟読み難い。文語体で書かれている樋口 一葉の『たけくらべ』とくらべたら、ややマシな程度。
〝てにをは〟や句読点の使い方なんて、もういっぺん小学校からやり直したほうがいいレベルで、リズムもヘッタクレも在りゃしねー。小説を書く前は、正岡 子規の元で歌を学んでいて、その幾つかの作品が『野菊の墓 他三編』の解説でも引用されているけれども、どうなんだろ・・?
 
 しかも、だ。
 
 旺文社文庫全巻の巻末には、創業者で社長(〜1985)だった赤尾 芳夫の署名入りで、
>旺文社は、若き世代のための出版社としての使命感にたって・・
 を含む「刊行のことば」がある。
 
 それ故に(?)、先ず他社の文庫本よりも印刷されている文字が圧倒的に小さい。1ページに掲載可能な文字数を増やすことで印刷製本代を節約して、若き世代が購入し易い販売価格が設定されていたんだな。紙質も真っ白ではないから、若き世代どころか、還暦をとうに過ぎた世代には、ハズキルーペが必須かも。(笑)
 保有している1冊は昭和49年6月1日発行の重版で、価格は¥140。当時の週刊『少年ジャンプ』は¥120だったので、若き世代は元より、小学生でもお小遣いで購入出来ていたはずだ。
  
 
 
 では一体、どこに名作の価値があるのだろう? そして、そこにどんな戒めや、教訓や、誠実さがサラッと刷り込まれているのだろう?
 
 元来、へそ曲がりで且つ天の邪鬼な私は先ず、巻末の年譜から眼を通してみた。無論、事前情報として、作者と作品の背景を知っておきたくて。
 すると、そこには数多くの〝○○○○年(明治○○年)○○月、「○○○○(作品名)」を『○○○○(掲載誌名)』に発表した〟の合間を縫うように、以下がもれなく記載されていることに初めて気が付いた。
 
・1890:長男剛太郎が生まれた。(1892没)
・1893:長女妙が生まれた。
・1895:次女梅路が生まれた。
・1897:三女蒼生(たみ)が生まれた。
・1899:四女千種(あき)が生まれた。
・1901:二男次郎が生まれたが間もなく死亡。
・1904:五女由伎(ゆき)が生まれた。
・1906:六女由布(ゆふ)が生まれた。
・1907:七女七枝が生まれた。(1909没)
・1909:八女鈴が生まれた。
・1910:九女文が生まれた。
・1912:三男究一郎が生まれたが10日後に死亡。
・1913:四男幸四郎が生まれたがまもなく死亡。
 
(松田 優作風に)何じゃ、こりゃあ!?
 
 明治時代は子沢山で、乳児や幼児の死亡率が高かったのかも知れないが、それにしても1864年9月18日生まれの作家の1892年から1912年、即ち、28歳から脳溢血で早世してしまう48歳までの20年間は、まさにグッと堪えた20年間・・、否々、グッと堪え続けた半生ではなかったか?
 旺文社文庫『野菊の墓 他三編』には、その不運な作家の特に駆け出しの時代が具体的に網羅されている。
 
 表題作であり、代表作であり、デビュー作でもある『野菊の墓』は、他三編に較べて、フィクションの度合いが強く感じられてならないが、実はそれでこそ〝小説〟・・、創作なのだ。
 
 特に民子が死んでからの〝筆の走り〟はもの凄く読み易い。読み易いが、内容はすべて、主人公の都合がいいように登場人物達が喋りまくる。しかも、だらだらだらだらと矢鱈クドい。節操がない。まさか、入稿が間に合わず、月刊『ホトトギス』の編集部の人が代筆したんじゃないだろうな?(笑)
 更にそれは、如何にも現実を知らず、妄想のみで文章を創作しては悦に入るキモヲタ・パワーの炸裂だ。特に主人公の僕=作者自身の回想とするなら、最後の3行には絶句。
 
 どうしようもないド貧乏(※『去年』に記述)という実状から、得意ではないフィクションで売れセンを狙った、とまでは思いたくないが、この作品が月刊『ホトトギス』に掲載された1906年、同誌は夏目 漱石の『吾輩は猫である』の絶賛連載中で、現在まで1世紀以上に及ぶ出版社史上、唯一の隆盛期を迎えている。ご存知の通り、『吾猫』は色恋沙汰で読者を呼べる作品ではない。
 
 伊藤 左千夫を知るには、他三編の収録が有り難い。
 
 思い切って記しちゃうと、この作家は物語を創作する(でっち上げる)ことが出来ない。自身の回顧録しか書けない。まあ、何やら鈴木の回想録みたいなもんだけど(?笑)、事実を在りのままに、素直に、自然に描写する、真摯な作家であることは確かだ。巻末の解説に依れば、それこそ正岡 子規の元で学んだ写生文というらしい。
 
 また、テーマを選ばず、自らの悲惨な実状だろうが何だろうが、何でもかんでも馬鹿正直に描く。それが痛い程、露骨に表れているのが、七女を失った『奈々子』と、その悲惨というか凄惨を極めていた日常生活(の愚痴)を、友人への手紙形式で綴っている『去年』かと。
 
『去年』には、本業(?)の牛乳搾取業がうまくいかなかったり、友人に借りた金を踏み倒す屁理屈を延々と続けたり、疫病を患った牛の撲殺を検分しなければならない羽目に遭ったり(※ここでも母子の牛が取り上げられている)、半年間に7回も葬式に出掛けたり、まあロクなもんじゃない。子供好きで子煩悩ではあるものの、流石に8人目の懐妊には夫婦揃って困惑する様子まである。
 とどのつまりは『野菊の墓』にも登場している(?)嫂(あによめ)の死で、事切れていく過程がまざまざと描かれていて、もの凄く恐い。それはやがて誰にでも間違いなく訪れる現実だけに。
 
『奈々子』で作家の暖かさが感じられてならないのは、後半部の愛娘を失った悲しみよりも、愛娘と過越した1日を克明に描いている前半部だ。それはたぶん意図的ではない(ンな器用な作家ではナイ。笑)だろうが、この構成は『野菊の墓』と同じ。
 既に6人もの娘がありながら、7人目の末娘が可愛くて可愛くて仕方がない心情を、結末を知って読むには余りにもヘヴィーな1作。
 巻末の五女本人の寄稿で作家と作品が裏付けられているのは、旺文社の〝出版社としての使命感〟なのだろう。第6代から第8代まで3期(:1963〜1975年)、千葉県知事を務めた友納 武人の寄稿「『野菊の墓』の舞台」もある。
 
 要するに不器用で馬鹿正直。失恋なんぞとは比較にならない苦しみや悲しみを、ぎこちないながらもリアリスティックな文体で懸命に描く。真摯に描く。それしか出来ナイ。

 だが、そこにこそ強烈な個性と誠実さが窺えないか?
 
 グッと堪え続けた束の間の代償か。ご褒美か。『紅黄録』は各々紅と黄のリボンを着けて、開け放された九十九里の大自然を無邪気に楽しむ四女と五女がカラフルに描かれている。無論、ロリータ趣味のような下劣さは微塵もないが、この作品でもまた、お光という、どーだっていい登場人物が物語に無理矢理、色恋沙汰を持ち込ませてしまう。
 
 そんなにおもしろいのかね?色恋沙汰なんぞ。
 
 待てよ? 作家の主張(の1つ)が、色恋なんてもんは〝読む〟もんじゃなくて〝する〟もんだとしたら、辻褄が合うような・・。『野菊の墓』の茄子畑や綿畑の描写は、川端 康成には届かなくても、それはそれはのどかで平和で且つ美しいもんな。憧れるよな。誘われる(いざなわれる)よな。流石、13児の父!
 川端 康成は伊藤 左千夫より20年も後世の作家だ。
 
 
 
 ところで、文頭の友人は『野菊の墓』のどんなところを読んで、
>言いたいことをグッと堪えた
 のだろうか?
 
 確かに、主人公の母に依る「こらえてくれ、政夫」という台詞があり、主人公の政夫は終始一貫して堪え続けている。
 
 物語の中で、グッと堪えた登場人物は主人公の政夫だけ。内気でおとなしい民子は堪えているのではなく、云えないだけ。
 その他の登場人物達は、特に主人公の母を筆頭に皆、グッと堪えきれなかった自身を後悔する羽目に合っている。ほんのチョイ役で登場する常吉でさえ、グッと堪えられないどころか、云いたいことを本能に任せてぺらぺら喋って、想いを寄せる民子の反感を買う。そんなディテールにまで凝っているのが前半部だ。
 

 終盤になって、娘を持つ男親として、民子の父親がいきなり登場して、この人もまた、ぺらぺらぺらぺらとまたよく喋り、3日前に実の娘を亡くしたばかりの父親の心境が窺い難く、非常に非現実的。大体、嫁に行ったはずの娘の墓が何で実家のすぐウラに在るのか?出戻りの記述は見当たらないが。

 この辺りの甘さがまた〝他筆〟、またはこの作家らしくなさを感じてしまう所以だ。
 
 この手法は、音楽でも絵画でも映像でもよく使われる〝対比〟だろう。無論、主人公を一際格好良く見せる・・、というか、主張を明確にしていく目的で。案外、やるな。13児の父。徳川 家斉の約1/5。
 
 唯、娘を失った男親の心情として、民子の父はそのだらだらとした長い台詞の中に「どう考えてもちと親が無慈悲であったようで・・」という、親としての教訓を含めている。友人はこの辺りも読み返していたのかな。
 
 それが事実であれ、フィクションであれ、作家が描きたかったのは、まさしくグッと堪える〝美学〟であり、生活や人生に於ける選択肢の1つの提案だろう。それは作家自身の悲惨な人生体験に基づく圧倒的なリアリティーを伴う。
『紅黃録』、『奈々子』、『去年』は何れも記録に等しく、際だった主張は特に感じられない。だが『野菊の墓』には明確な主張があり、それを伝えるために作者なりに凝った技法も見受けられる。だから〝名作〟。やったね!13児の父。
 
 人生には、グッと堪えなければならない場面や、グッと堪えておいたほうがいい場合が多々在る・・、否々、その連続だ。友人は、
「娘は私の顔を見て何を言いたいのか察したみたいで、しばらく断絶の期間があったんだよ。でも、口に出さなくてよかったと思う」
 と結んでいた。
 
 一人娘の結婚のような大事ばかりではない。例えば、定期試験が近付いているけど観たいTV番組があるとか、思わず罵声や暴言を発したくなった時とか。

 
 云いたいことを云ったり、やりたいことをやるのは、さほど難しいことではないが、いざ行動を起こしてしまえば、取り返しが効かなくなってしまうケースもままある。それは予知であり、グッと堪えられるか?否かは、制動とか制御という叡智なのだろう。通っていた高校は矢鱈滅鱈偏差値が高く、グッと堪えられる・・、政夫と同じ15歳にして、自らを制御できる同窓が何人も居た。バカは私だけ。
 美大やロックの世界は自らの解放が基本で、まさに私向きで居心地が良かったが、雑念をグッと堪えて自らを制御できなければ、ロクなもんが創れやしねー。だから、ロックン・ロールという。(笑)
 
 更に、
 
 グッと堪えるのは自分だけではない。自分のためにグッと堪えてくれている周囲の存在を認識しよう。感謝しよう。友人はいい娘さんを持った!
 娘さんは民さんのような人だ。(笑)
 
 読んで良かった。イイ歳をしながら、いい経験をした。
 THANKS !!! for all.
 
 
※文中敬称略
※拝読:2023年9月26日〜
 
 
 
 

(METALLICA:1988)


 つい最近まで、気が付いていなかった。

 1988年は音楽雑誌社に勤めていたから、たぶんリリース以前から、以降、殆ど間断なく、ワリと頻繁に聴き続けて早35年!

 冒頭で『地獄の黙示録』宜しく、ヘリコプターのローター音が響き渡る。『ジョニーは戦場へ行った』の映像そのものが使われているPVでは大きめに、この楽曲が収録されているアルバム『...And Justice For All』でも、やや控え目ながら。

『ジョニーは戦場へ行った』の主人公が行った戦場は、『地獄の黙示録』のベトナムではなく、第一次世界大戦の異国の戦場。第一次世界大戦で世界的に実戦配備された新兵器は戦車と飛行機。ヘリコプターの軍用化はナチス・ドイツ。即ち、第二次世界大戦。従って『ジョニーは戦場へ行った』の背景にヘリコプターのローター音は、どうか?と。

「だから、日本人は!」と蔑まれるんだろうな。あのクソ生意気なラーズに。(笑)

 エドワード・ヴァン・ヘイレンやマイケル・シェンカーと実際にお会いできた1990年のWINTER NUMM SHOW(※毎年、カリフォルニア州のアナハイムで開催される世界規模の楽器見本市。)の晩だった。腹が減ったので、ホテルからディズニー・ランドの広大な駐車場を隔てた先のコンビニに、編集者兼通訳君と一緒に食料を調達しに出掛けた。

 あの辺りはラテン訛りが蔓延っていて、私の流暢なクイーンズ・イングリッシュが通じ難く、レジでもたついていると、すぐ後ろで500mlの牛乳パックを唯1つだけ手に持って並んでいた、カーリー・ヘアで長髪のチビが「何やってんだよぉ・・。早くしろよぉ・・。」みたいな感じでイラついている。チラッと振り返って睨み付けてやったら、METALLICAの黒いTシャツを着ていた。

 ホテルに戻る途中、通訳君にブータレた。
「何なんだ?あの、おれの後ろでイラついてたカーク・ハメットみたいなやつ! 生意気にMETALLICAのTシャツまで着てやがって!」
「カーク本人でしょうが!」
「へっ?」

 エドワード・ヴァン・ヘイレンやマイケル・シェンカーが、その辺りをうろちょろしている楽器見本市の開催期間中なのだ。深夜に牛乳を飲みたくなったカークがコンビニのレジに並んでいても、特に不自然ではない。
 だったら、ウルトラマンの話とかすれば良かった!

 この楽曲をコピーしたことがある。多少、真面目に。

 当時、組んでいたアマチュア・バンドは、MOTORHEADスタイルのスリー・ピースだった。私はB.&Vo.。ドラマーは同じ音楽雑誌社に勤めていた後輩だった。
 普段は「Jumpin' Jack Flash」とか「Honky Tonk Woman」とか「Stand By Me」辺りをいい加減に演っていたが、たまには〝もう少し難しい〟楽曲に取り組んでみようと、この楽曲を選択した。丁度、発行していた音楽雑誌で毎月1曲、掲載されるバンド・スコアで取り上げられていたし、タダで使いたい放題のコピー機も身近に在ったし。(笑)

 ドラマー君とは、会社の昼休みに会社の近所に在って、当時は2名までは個人練習と同じ料金(※たぶん1時間500円)だった音楽練習スタジオに出掛けて、あの〝もう少し難しい〟どころじゃないリズムから取り組んだ。何?あれ・・、6連?
 ドラマー君は私が弾くベースに、
「鈴木さんっ!それ、4連! 4連じゃなくて6連!」

 当時の私が何とか弾けて、もっとも難易度が高かったベースは、マイケル・シェンカーの「Into The Arena」だったけど、アレは3連。6連はその倍?
 だが「Into The Arena」の3連は音階が動くが「One」は殆ど動かない。殆どルート音だけ。唯ひたすら1小節で24回(※平唄は3/4だけど、6連時は4/4拍子)、必死で指を動かせば良い。流石、プロ・テニス・プレイヤーの息子、ラーズ! そのスポ根ミュージックはX JAPANを遥かに凌駕?(笑)

 何とかソレっぽく聴こえるようになって、ギタリストを含めて3人で合わせてみることになった。その直前になって、ギタリスト君は「イントロのアルペジオを弾くとソロが弾けないから、お前が弾け」と云う。仕方なくベース・ギターの12フレット辺りで、それを弾いて、唄も唄って、問題の6連だか何だかになだれ込む。普段だったら、ドラムなんぞ聴いているヒマはないんだけど(笑)、その時ばかりはドラム・セットのほうを向いて、聴くだけじゃなくて、眼でもバスドラの揺れを確かめながら、6連!6連!6連!6連! 出来てるか?6連!6連!6連!6連!
 6連!6連!4連!4連!なんかも複雑に混じっていたような・・。よくもまあ、あんなもんを思い付いたものだ。流石、性格が素直じゃないラーズ!他3名。(笑)

 6連!6連!6連!6連!6連!6連!4連!4連!と、思い切り緊張感が昇り詰めたところで、本来なら煌びやかに入ってくる筈の牛乳カークの高速ソロの部分で、ギタリスト君は、ほわほわほわほわ〜っ♪・・と、まるでクラプトン。ドラマー共々ずっこけて、「何?それ」と尋ねたところ、
「ギター・ソロ。」
「カークはそんなの弾いてねーだろ?」
「お前な。ギター・ソロってのは、ギタリストが自由に弾いていいんだ。」

 だからぁ! 今までそれでずうーっと演ってきて、マンネリ化してきたから、たまには毛色が違った楽曲を完コピしてみようってハナシでしょ!?
 以降、この曲を演ることは2度となく、結局、いい加減な「Jumpin' Jack Flash」とか「Honky Tonk Woman」とか「Stand By Me」のまま現在に至る。進歩なし。最近では退化ばっかし。(笑)

 けど、続けていたら、おもしろかったかもな。

 MOTORHEADにクラプトンが参加したMETALLICAの「One」。それって多分、本家本元のMETALLICAでさえ不可能な「One」。しかも、世界にたった1つしかないOne of「One」だったのにな。


※文中敬称略
※画像:勤めていた音楽雑誌社で発行していた音楽雑誌に掲載されていた、この楽曲のバンド・スコアそのもの。全部で17ページもある。流石、ラーズ!
 


 
 発端はコレ↓だっ!
①「ジョンとヨーコのバラード」THE BEATLES(:1969)
 https://xn--youtube-hd4ftzwoie.com/watch?v=v-1OgNqBkVE
 

 この何処かゆったりと、のんびりと、あっけらかんとしていて、何処となく南国情緒を想わせるような軽快なロックン・ロールに何故か、ガキの時分の自分がNHKの『みんなのうた』か何かで聴かされていたコレ↓が想い起こされた。

②「とんでったバナナ」作曲;桜井 順(:1962)
 https://www.youtube.com/watch?v=Ae1kT5Tqx2I

 未就学児童の頃だ。好きで聴いていたワケではない。当時は未だ〝男は黙って読売巨人軍!〟ではなかったものの、唄なんぞ女の子が唄うもん!の時代で、番組で流れる度に、2つ下の妹に至近距離で絶唱されると、ハタ迷惑で仕方がなかった。

 このテの音楽に、私は無意識に〝カリプソ〟という言葉をイメージしていた。

 Wikipediaに依る本来の〝カリプソ〟は、カリブ海のトリニダード・トバゴ共和国から西インド諸島全体に広がったアフロ・カリビアン音楽の1つで、リズムは4分の2拍子。音符も掲載されているが、ンなもん見せられたところで何だか解らず、何か知っている楽曲名でもあればと、スクロールしてみたら・・、

>最もよく知られているカリプソの曲は、伝統的なジャマイカのメント・ソング「バナナ・ボート」である。この曲は1956年のジャマイカ系アメリカ人のハリー・ベラフォンテの歌で知られる。カリプソ風にアレンジされ・・
 知っている!

 知っているが、ハリー・ベラフォンテなんぞよりもむしろ、こっち↓だ。
③「バナナ・ボート」ゴールデン・ハーフ(:1971)
 https://www.youtube.com/watch?v=qXgnYmSPL0A

 聴いたのは小学校4〜5年生の頃だから、順序は②→③→①。

 ②と③はバナナ繋がりだけではなく、同じようなラテン・パーカッションが似合いそう。何だろ?コンガのムースコール? それこそ、故ブライアン・ジョーンズの興味を惹きそうな。

 ①でポール・マッカートニーが弾いているベースのリフは、②にも③にも当て嵌まる。特に①はキーがEなので、開放弦を使えば、それこそコンガのムースコール(?)のような効果も期待出来そうな・・。
 つまり、②も③もロックン・ロール・アレンジが可能。同じ仲間。比較的近い親戚。そりゃそうだろう。アフロ・カリビアンもビル・ヘイリーと彼のコメッツも祖先は黒人音楽なんだから。

 ともあれ、①と②を〝カリプソ〟という言葉で勝手にひとまとめにしていた私の感覚は、あながち的外れではなかったようで一安心。YouTubeで約半世紀振りにゴールデン・ハーフを聴いてみるまでは、単なるデタラメかと思っていた。(笑)

 だが、その〝カリプソ〟という言葉は一体、何処から来たのか?

 再度、Wikipediaの検索窓に入力してみたら、その何行目かに〝カリプソ号〟!
 ああ、これか!これだったのか。

 カリプソ号は海洋冒険家、ジャック=イヴ・クストー、〝=イヴ〟は初耳と云うか初眼だが、ジャック・クストー、若しくは唯のクストー船長の船の名前だ。
 
 Wikipediaで、更にそのクストー船長のページに飛べば、確かに見覚えがある、白人のジーサンの顔写真が視野に飛び込んでくる。極々僅かな記述に眼を通せば、
>日本では1970年代から1980年代にかけて、テレビ・ドキュメンタリー番組『驚異の世界・ノンフィクションアワー』(NTV)で放送された、自身も出演する『クストーの海底世界』シリーズで知られる。(※部分修正)
 観ていた!

 時期はゴールデン・ハーフよりも後で、THE BEATLESよりも前! スクロールなんぞしなくても一眼で全文を読める、その極々僅かな記述に依ると、クストーは単なる海洋冒険家ではなく、元フランス海軍大佐で、ダイビング器材のレギュレータの発明者であり、水中考古学の先駆者でもあるらしい。
 更に〝カリプソ〟の語源は、ギリシャ神話に登場する海の女神カリュプソーをフランス語風に発音した言葉だとか。
 クストー船長は自分の船に海の女神様の名前をお借りしていたワケだね。

 何れにしても、海!

 発端となった①の歌詞にはサザンプトンやジブラルタル、②のアニメーションの背景には、何故か昔から必ず海! ③は元々海に浮いている乗り物。全部、海!

 1990年と1991年に出掛けたバハマ国は西インド諸島に在り、タクシーの運転手は運転しながら後部座席を振り返り、「じゃあ、これ知ってる?BON JOVI」等と、助手席に散らかったカセット・テープをがちゃがちゃイジってるようなお国柄だった。

 その呑気で気儘な気風こそ、まさにカリプソ!

 ①に戻れば、「奴らは俺を磔にしようとしている」という物騒な歌詞とは裏腹に、ノロケまくっていた当時のジョンの心境を、自らのベース・ギターとリード・ギターで、明るいカリプソ・ロックン・ロールに仕上げたポールはやっぱし凄い!


※文中敬称略

※画像:コーラルサンズ・ホテル(バハマ・エルーセラ島)
 

 

 

 

(THE BEATLES:1969)
 
 
 永チャンの『成りあがり』の文庫本初版の発売は1980年11月20日。ということは、最速でもその日まで、私はこの楽曲を知らなかったことになる。何故なら『成りあがり』を読んで、この〝楽曲名〟を知ったからだ。

 聴いてはいた。高校を卒業した1980年3月の時点で、THE BEATLESの殆どのLPと、FM放送をエア・チェックしたカセット・テープで、当時はシングル「Let It Be」のB面にしか収録されていなかった「You Know My Name」を含めて全曲、完全に制覇していたんだからな。

 それ等を繰り返し繰り返し何度も聴いていた。唯、楽曲名と楽曲が一致していなかっただけだ。それは後期にあまり興味が湧いていなかったことと、俗称〝赤盤〟と〝青盤〟は、収録曲の重複がおもしろくない理由から保有していなかったからだ。この2枚組×2作は現在でも保有していない。

 更に、この楽曲名だ。バラードだぜ?バラード! 当時までに知っていた〝バラード〟と云えば・・、

・「みなしごのバラード」タイガーマスクのエンディング・テーマ(1969)
・「虹と雪のバラード」トワ・エ・モア(1971)
・「やつらの足音のバラード」かまやつ ひろし他(1974)

・「母に捧げるバラード」海援隊(1975)
・「あんたのバラード」世良 公則とツイスト(1977)

 どれもスロー・テンポで、どちらかと云えばマイナー調だべ?「ジョンとヨーコの〝バラード〟」という楽曲名から、誰があんな脳天気なロックン・ロールを想い浮かべる?
 ジョンにはまた「やられ」ちゃったね。(笑)

 よっぽど気に入っていたのだろう。永チャンは『成りあがり』で、1972年6月のCAROL結成までの苦闘期に、この楽曲名を度々取り上げている。元々はヴォーカル1本だったのに、ベース・ギターを兼任するようになって間もなく、「弾きながら唄えるようになった」とも。

 凄くね?

 この楽曲のベースは長らく、ジョンがFenderのBass Ⅵで弾いて、ポールが叩くドラムに合わせて一発撮り・・、が通説だったような気がするけど、実際にはドラムもベースもポールで、無論、別トラックらしい。少なくても、ジョンがベースを弾きながら唄って録音した記録や、そうしなければならなかった理由も窺えない。

 永チャン自身も「口と合わないし、苦労した」と記しているけど、そりゃそうだべ? ご本家でさえ演っていないんだから。
 だが、永チャンだからこそ「苦労した」程度で演れたのは、すぐ後のCAROL時代のベース & ヴォーカルから充分に窺えよう。「ファンキー・モンキー・ベイビー」なんて、この楽曲より難しいぜ。ソロになって、ベース・ギターを弾かなくなってしまったのが非常に惜しい。ポールやスティングは今でも弾いているのに。

 THE BEATLES・・、特に中期以降のポールは、ジョンやジョージが唄う楽曲では、唄メロとは異なるリズムのベースで目立ちまくるけど(笑)、自分が唄う楽曲のベースは「Get Back」にしても、WINGS時代の「Jet」にしてもさほど難しくない。だが、初期のロックン・ロールは、まさしく永チャンがベースを手にしたきっかけとなる「ポール・マッカートニーもカッコいいやつだし」で、それがそのまま永ちゃんのTHE BEATLESのような・・。

 知っているロック・バンドが7つくらいしかない私が選ぶのもナンだが、世界3大ベース & ヴォーカリストたぁ、THIN LIZZYのフィル・ライノットと、永チャンと、ジャック・ブルースで決まり! 順位同。3番目の人(と、ジィン・シモンズ)はズルの天才!(笑)

 ともあれ、THE BEATLESのファンは元より、メンバーであるジョージやリンゴにまで呆れられたというこの楽曲を、永チャンの他に好んだミュージシャンとして、元THE ROLLING STONESの故ブライアン・ジョーンズがいる。
 丁度、THE ROLLING STONESから解雇されて寂しかった折に、ジョンから直接、リリースされたばかりのシングル盤を贈られて、涙を流して喜んだ、と何かで読んだような気もするが、・・だけじゃないでしょ。

 この楽曲、私には「とんでったバナナ」の印象がある。何て云うの?ああいう軽快で明るい南国系の音楽ジャンル。「とんでったバナナ」のベースのリフが合わないこともなく、また、ポールのベースは何の変哲もない唯のロックン・ロールだけど、リード・ギターで「とんでったバナナ」みたいなオブリガードを入れて情緒を加えている。

 それがインド音楽を始め、ワールド・ミュージックにいち早く傾向していたブライアンの琴線に触れたかどうかまでは知る由もないけど、ワールド・ミュージックをそのままレコーディングする段階でしかなかったブライアンが、ポップ・ミュージックにワールド・ミュージックの要素を取り入れたジョンとポールの工夫に刺激を受けたのでは?と、勝手に推測・・。如何?
「ジョンとヨーコのバラード」の英国発売は1969年5月30日。ブライアンが亡くなったのは同年7月3日。この楽曲を僅か1ヶ月ちょっとしか聴けなかったのは余りにも可哀想。 
 彼(と、Lemmy)だけは是非一度、墓参しておきたい所存。

 それにしても「ジョンとヨーコのバラード」から『成りあがり』まで僅か11年! 『成りあがり』からジョンの死まで僅か19日!「1969年以降、そのスピリッツは失われた」と謳われる以前の時代に憧れはあっても実感には乏しい。

 自らもっとも多感だった時期と合致していた、その11年と19日のほうが、私には圧倒的に大切だし、また興味深い。


※文中敬称略
※参考:『成りあがり』矢沢 永吉:1980
※写真:「ジョンとヨーコのバラード」THE BEATLES:1969
 
 
 
 

(2022:NTV/Hulu)
 
 
 折しも1年でもっとも寒い時期。自宅の玄関を出てバス停に着いて、スマホをイジくる指先の準備運動として、一旦開いた左手の指をいっぺんに全部、くねくねくねくねと動かすと、たちまち若きダンス芸術家、P→★(ぴー)のダンス・パフォーマンスと、Da-iCEという5人組のボーイズ・ダンス&ヴォーカル・グループが唄って踊る「DREAMIN' ON」(2020)が脳内リフレインして、元気な1日が始まる・・。
 
 P→★を観たのは『YOSHIKI SUPERSTAR PROJECT X』(NTV/Hulu)という、X JAPANのYOSHIKIが主催しているオーディションTV番組だった。往く往くは世界に通用する、日本のボーイズ・ダンス&ヴォーカル・グループ&バンドをプロデュースしていくという、壮大な企画らしい。

 そこに急遽(?)参加してきた彼は、他の参加者達とはまったくの別枠で、そのためにYOSHIKIは現在の居住地のロサンゼルスから、わざわざ自家用ジェット機で来日したらしい。(ホントかよ?笑)
 普段は3〜4人居る審査員も、かつてMADONNAのバック・ダンサーを務めていたことがある、TAKAHIROというダンサー兼ダンス評論家1人だけだった。このTAKAHIROの批評が、ダンスなんぞ、とてもとても門外漢の私なんぞにも判り易く、それもこのTV番組を楽しめる魅力の1つになっている。

 P→★単独の審査は約1ヶ月の間合いが置かれて2回開催された。その1回目の課題曲が「DREAMIN' ON」で、人気TVアニメ『ONE PIECE』の主題歌だったこともあるらしい。


 生憎、Da-iCEにも『ONE PIECE』にもまったく縁がないが、同アニメ作品が子供向けの冒険活劇であることくらいは知っている。P→★は、その主題歌を自らのダンス・パフォーマンスで表現した。唄モノなので、当然、歌詞も含めて。
 ハッシュ・タグを掲げれば、元気!勇気!仲間!冒険!辺りか。まさしく週刊『ジャンプ』! 50年前から、ちっとも変わっていないな。(笑)

 約1ヶ月後に収録されていた2曲目は、自身で用意した和風の楽曲というかBGMで、〝忍者〟をイメージしたようなダンス・パフォーマンスを披露。

 TAKAHIROは思わず、顔を綻ばせていた。演技ではない。講評も「短い映画を観せて頂いたような」で始まり「ダンスは・・、グッドです!」と大絶賛!
 そこまで彼を喜ばせた参加者は、他に1人の半分もいない。

 更に彼の「自己流だけではなく、普通のダンスは出来ますか?」という注文に応えて、短いダンスを披露したところ、やっぱしP→★はP→★でしかない強烈な個性を発揮。
 YOSHIKI曰く「僕もそうなんです。何を叩いても結局、X-JAPANのYOSHIKIになっちゃう」。
 だろうな! よく知ってるよ!(笑)

 YOSHIKIが求めている才能はよく解ったが、彼もまた、そのパフォーマンスに巡り逢えた驚きや喜びを、どんな言葉で表現すればいいのか判らず、「・・・・・・・・。」で数秒間、画面を止めた挙げ句、「合格です」の唯一言のみ。そうだろう、そうだろう。まさに絶句の域。(笑)

 恐っそろしく撫で肩で、クビが異様に長い独特の体型は、まるで歌舞伎の女形。その中性的な風貌は、如何にも視聴者の大半を占める婦女子が喜びそう。本人もまた「日に依って性別が入れ替わったり・・」と語っていたが、ンな単純なキャラクターではない。むしろ、そのダイナミックなダンスには、男性的な力強さが溢れていた。
 そりゃそうだろ? 女形が女形らしく女形を演るのはアタリマエ。P→★は、女形が演っている勧進帳・・、は、褒め過ぎか。

 まあ、ダンスなんぞ至って門外漢の私が、観慣れないものをたまたま観て、必要以上に喜んでいるだけなのかも知れないが、他の参加者と較べて、その動きが恐ろしく速い。また、冒頭の指くねくねや表情の作り方等、盛り込まれている芸がやたら細かい。
 試しにDa-iCEの「DREAMIN' ON」のオリジナルPVを観てみたら、「何、こいつ等、ちんたら演ってんだ?」って感じ。もっとも、就職(:合格)を懸けて命がけで演ってるヤツと、既に仕事が保障されている連中が、その仕事の一環で演っているパフォーマンスでは、伝わってくる意気込みも気迫も違っていて当然なんだけどな。

『YOSHIKI SUPERSTAR PROJECT X』は昨年中に#12(:第12回)まで放映されていて、その配信特性から、現在もHuluで何度でも繰り返して視聴することが可能だ。
 唯、残念ながら、NTVとHuluが鉄壁の守りを堅めているため、現時点でP→★のパフォーマンスをご視聴戴くには、Huluに正式にご加入戴くか、2時間のお試し無料で#5をご選択戴くか。

 もの凄く長尺の#5では、彼もまたちょっとおもしろい、歌舞伎町のホスト上がりのカルマ(Vo.)や、ズバ抜けた才能を観せつけてくれたのも束の間、番組出演から数ヶ月後に単車事故で早世してしまったYOSHI(Vo.)が出揃う。P→★の出演は終盤15分辺りで、YOSHIの後。

※#5の部分。そのダンス・パフォーマンスがちょっとだけ観られる。

 

 ボーイズ・ダンス・グループなんぞ、門外漢以前にまったく興味がなくても、観続けていれば多少なりとも興味が湧いてくる。何しろ、それだって〝創作〟には違いないんだからな。参加者1人1人のパフォーマンスに「こいつは上手いんじゃね?」とか「こいつは落ちるんじゃね?」と、観る眼が肥えていくのも楽しかったりして。(笑)

 そうそう。この番組を何度も観ているのは、主催者でメイン審査員のYOSHIKIが比較的近い世代であることにも起因している。あんな奇抜な恰好(なり)をしていても、彼だって57歳の初老のオッサンには違いないのだ。番組中、それでも言葉を選んで丁寧に講評する度に「うん!おれもそう思う!」や「YOSHIKIならそう思うだろうな。」、或いは「YOSHIKIならそれを云っていい。」が頻繁だった。
 何だかんだ云ってもファン。ああいうヘンなやつこそ、おもしろい。

 15〜28歳の参加者達は、その実力からAチーム・・、あ、ごめん、間違えた。team A(ティーム・エーと読む。)と、team Bに分けられて合宿に入る。励まし合い助け合い、ダンスが得意な者は苦手な者に手ほどきしていく渦中、P→★の突然の合流は、それまでは指導的な立場にあった参加者の1人を大泣きさせるほど衝撃的だった。
 要するに、YOSHIKIプロデュースだけあって、同じ梶原 一騎世代を感じるスポ根ストーリー。まさに週刊『少年マガジン』! こちらもまた、60年前から変わっていなかったりして。(笑)
 
 他の出演者達同様、P→★にも楽屋に於ける短いインタビューがあった。パフォーマンス終了直後の収録だったのか、その恐っそろしい撫で肩を激しく上下させながら、息をはぁはぁぜぃぜぃさせていた。
 それだけ一生懸命に演ったのだろう。演れたのだろう。演り抜いたのだろう。その満足感なのだろう。その飛びっきりの笑顔に飛びっきり感動した。
 
 心底、世界に羽ばたいていってほしいと願う。
 
「今時の若え者(もん)は・・」と嘆く爺イは哀れなだけだが、どうやら私は若者の汗に素直に感動出来る、幸福な爺イのようで助かった。

 才能があり、工夫があり、努力家であり、人柄もいい。また何と云っても、その振付のセンスには、日本が世界に問いたい日本の美を盛り込める可能性が非常に高い。要するに視野が広い。顔もタレ目の和顔だし。(笑)
 
 唯、子供の頃にサッカーをやっていた割には肺活量が少ないようなので、世界を目指すなら、それこそミック・ジャガーやMADONNAのような厳しい基礎トレーニングが必須だろう。彼等のライヴを1公演分、踊りも含めて全部、完コピしてみろ。たぶん10,000m走るほうが圧倒的にラクな筈だ。
 ダンスはスポーツなのだ。だって小学校時代、ダンスは音楽ではなく、体育だっただろ?


※文中敬称略