2〜3日振りに拙稿「40数年振りに『野菊の墓』を読んでみたら・・」を読んでみたら・・ | 元祖!ジェイク鈴木回想録

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 自身の切実な〝老化〟を実感せざるを得ず。
 
 拙稿「40数年振りに『野菊・・」は、2023年9月27日に起稿して、同年10月18日にアップロード・・、ムカシの言葉で云えば、脱稿しているのだが、そのアップロードの最中でさえ、あちらこちらに修正を加えている。
 未練がましいというか、往生際が悪いというか、踏ん切りに欠けると云うか。
 
 記しておきたいことは無限に湧いてくる。文章量はどんどんどんどん増えていくから、取捨選択して、無駄を取り除かなければならない。何故か?
 読んで戴くためだ。手軽に。快適に。
 
 リズムも要る。川端某のような。谷崎 潤一郎のような几帳面が性に合う。この人は400字詰め原稿用紙の2行分が、実際に本になった時に1行になることを想定して書いていたな、たぶん。志賀某のような〝境遇〟は生憎、私には該当しないので、参考にならないな、まったく。
 幸い、旺文社文庫『日本の名作50選』には、そのお手本が全部

揃っている。
 
 ブログは1投稿あたり3,400字。一般的な文庫本にしたら5ページを想定している。それはこれまでに読んだ中で、もっとも読み易かった1冊が筒井 康隆のエッセイ集『狂気の沙汰も金次第』だったからだ。
 
 ところが、草稿段階ではいつもその4〜5倍。拙稿「40数年振りに『野菊・・」は、30ページ分以上書きまくった・・、否、打ちまくった挙げ句、削りに削って、ようやく15ページ程度で収められたものの、それでも2〜3日振りに読み返せば、早くも後悔。早くも「また全文、書き直さなきゃならんな」。
 特に、
 
・明治という時代背景
・明治以降の近代文学の流れ

 という2点を加えれば、どこかを削らなければならない。無限のスパイラル。堂々巡り。永遠に終わらない。サクラダ・ファミリアを恰好の云いワケに。(笑)
 
 それは、既に取り掛かっている自作「40数年振りに『吾輩は猫である』を読んでみたら・・」で、やはり旺文社文庫の『吾輩は猫である 他一遍』の巻末にある年譜を、下段にある文壇や社会の出来事も含めて全部、1文字残らず読んで気が付いた。伊藤 左千夫の時は子供の数ばかり数えて、下段は読み飛ばしていたが、漱石と3つしか違わないから、恐らく内容は同じだろう。
 
 先ず、明治という時代背景抜きで色恋沙汰を語っているのは説明不足だった。
 
 当時は新撰組や大政奉還の直後で、森 鴎外、伊藤 左千夫、夏目 漱石共に、生まれたのは江戸時代。旧体制から新しい時代への過度期に、色恋沙汰は自由や解放の象徴だったのだろう。書き手よりも当然、読み手にとって。「私を優しく愛して」とか「彼女は君を愛してる」は、第2次世界大戦の終戦後という地球規模の新しい時代の商品だ。
 まんざら解らなくもない。(笑)
 
 近代文学の流れもまた、明らかに私自身の認識欠如。
 
 鴎外を嚆矢とすれば、その発祥は1900年代と、中途半端に古い。その古さが吉川 英治や司馬 遼太郎の物語世界のような遥か遠い昔ならともかく、せいぜい曾祖父母の年代に過ぎない。
 40数年振りに『野菊の墓』を読んで、少しおもしろかったことに、「そう云えば、母方の祖母がこういう喋り方をしていたけど、最近ではめっきし訊かなくなったな」が少なからずあった。左千夫は13児持ち、漱石も7児の父であったように、母方の祖母もまた9児の母。私の母は五女で末っ子。子沢山(で、且つ伊藤 左千夫のように、基本的に貧乏)な明治の時代は、すぐ近くに存在していたが、それもやがて私達の世代が最後になろう。
 
 中学時代に折角、父に買い与えられたのだから、旺文社文庫『日本の名作 全50冊』は全50巻、常に本棚に並べて、中高浪人約7年間、背表紙だけは毎日のように眺めていた。このテの全集は、番号順に正しく並んでいないと気が済まない性質(たち)なので、ガキの時分には父の書斎、現在でも書店や古本屋で、殆ど無意識でボランティア活動をしてしまう。無論、自宅の書斎では、書籍のみならず雑誌、LPやCD、VHS、MOディスク等も同。
 
 旺文社文庫の作家番号1.は鴎外、2.は漱石、左千夫は3.なので、鴎外の『阿部一族』(1913)や『高瀬舟』(1915)は、『吾猫』(1905)や『野菊』(1906)よりも新しい作品にも関わらず、漱石や左千夫よりも前、左側に並ぶ。これにやられた。しかも、それに気が付いたのが昨日だなんて、不徳の致すところもいいところ。
 作家番号なんぞ、その出版社が出版することになった作家の順番に過ぎず、それは旺文社に限らず、他の出版社でも同じ。新潮文庫の作家番号〝あ〟の〝1〟は芥川 龍之介。阿刀田 高は〝あ〟の〝7〟。阿久 悠は〝あ〟の〝57〟。
 
 近代の夢物語はともかく(笑)、現代作家で推理作家の東野 圭吾のキー・タイプの速さには唯々々々驚くばかり。
 
 一体、どういうアタマと指の構造をしているのか? やってみそ?『白夜行』でも何でもいいから、全文コピーを。文字打ちを。数日かかるはずだが、彼はあの複雑なストーリーを構築しつつ、且つ当然、締切までに入稿・・、否、脱肛・・、は、漱石やその弟子の芥川で、彼は脱稿しているのだ。
 
 無駄がないのだろう。たぶん。某鈴木のように、15ページで纏める原稿に30ページも40ページも時間を費やさない。切ったり貼ったり修正したりを繰り返さない。
 その都度、踏ん切りを着けながら組み立てているに違いない。
 
 見習おう。〝見て〟はいないけど。(笑) 彼は1958年2月4日生まれだから4つ上。パイセンがやっていることには、比較的従順に感銘を受ける。
 
 
※本文敬称略
※画像:『狂気の沙汰も金次第』(1976:新潮文庫:つ-4-3)