元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

Information(2026/01/01)

(出来れば)月に1本くらいは何か投稿したいと思っています。
電車やバスをお待ちの際、またはご乗車中、
死にたくなるほどおヒマな際にお読み戴き、
花形 満の声で「またつまらぬ物を読んでしまった」、
とのご感想を頂戴できれば幸いです。

今後とも宜しくお願い致します。

 

※画像と本文は何の関係もございません。悪しからず。
 

 

「そんなに食べていて、よく太らないね?」と、生涯に渡って人様から云われ続けてきたが、私だけではない。
 
 亡母は上をいく。
 
 身長150cm未満、体重40kg未満の小柄ながら、そりゃあもうよく喰っていたもんだった。〝喰う時は〟だけどな。
 喰わない時は喰わない。
「あたしはいいの。」とか何とか云って、5人家族の夕食が4人分しか並んでいないことがよくあった。
 私もまた、喰いたくなければ朝食や昼食は頻繁に省く。時間のムダだからな。
 
 小学校の教員だった父が、中学生になった教え子の修学旅行のお土産で、箱入りのドラ焼きを頂いてきたことがあった。全部で15コ。
 午後7時の夕食後に家族5人で1コずつ頂戴して、残りは10コ。
 ところが翌朝7時頃、箱の中には4コしかない。
 母に尋ねてみると、
「あんまり美味しかったので、あたしが食べた。」
 はあ!?
 約12時間で計7コ!?
 その日の朝食はやっぱし4人分。(笑)
 
 こんな云いワケをしてた。
「あんたには分からないだろうけどね、女にはそういう時もあるのっ!」
 分かった。
 んじゃあ、ジェンダー平等だの何だの云うなよな?
 云わなかった。生涯。
 
 父が没して母も没するまでの3年間、生まれて初めて独居となった母には毎週、長電話をかけて、月に一度は横須賀くんだりまで出向して、時には宿泊して、その殆どをどーだっていい話(と爆喰い。笑)に費やした。
 ある日、何の話をしていたのか、ビオフェルミンという整腸薬の商品名が出てきた。
「ビオフェルミンねぇ。横高に通っていた頃・・、あんた、長浦トンネル、知ってる?国道16号の。」
 と、また何か、たぶんどーだっていい話に持っていかれる。
 
 今、思えば、先々の話をもっと詰めておくべきだったのかも知れないけど、生憎、母も私も「あたしが死んだらさー」とか「母が亡くなったらさー」なんて話は切り出し難いセンシティブな根性なしだった。
 
 むしろ、また何か面白い話を期待して、
「長浦トンネルって、上りと下りで2本あるじゃん、」
 と、話に乗る。
 
「何、云ってんのよ?上りなんか通るわけないじゃん。家が下りのトンネルの真上にあったんだから。」
 そりゃそうだ。
 母の高校への通学経路は、以前、ベイスターズの合宿所が在った、通称、田の浦から国道16号の下りトンネルを一旦、横浜方面に徒歩で抜けて国鉄田浦駅へ出て、横須賀線の下り電車で2駅先の衣笠駅からまた徒歩。
 帰路はその真逆なので、確かに上りのトンネルは通らない。
 
「で、その下りのトンネルがどうしたの?」と、問い返すと、
「トンネルの歩道に、こんくらい(※両手で20cm位の幅を示しながら)のドブがあって、そこにビオフェルミンの空き瓶をこっそり捨てたことがある。」
「なんでまた? 家に帰ってから普通に捨てればいいじゃん。」
「そういうわけにはいかなかったのよ。お腹が痛くて飲んでたわけじゃないから。」
「じゃあ、何で?」
「体型の維持。」
 
 はあっ!?
 
 母と云えば、先ず教育熱心で倹約家で、真面目一筋のカタブツで、フランクな嫁ぎ先では煙たがられていたような存在だったが、そういう馬鹿げた青春もあったことが面白かった。
 オノ•ヨーコよりも3つ上じゃなくて3つ下。高校3年間は1952年4月から1955年3月。

 その時代に既に〝ダイエット〟に取り組んでいたわけだ。
 
 生涯、自転車に乗れず、泳げず、子供の頃から脚だけは速かったらしいけど、スポーツとはまるで無縁。ジルバは母から手取り足取り教わったが「ジルバは男次第。女はぶら下がっているだけ」が当人の弁。
 80を超えても、何れも通常なら路線バスを利用する京急の汐入駅や横須賀中央駅、国鉄の衣笠駅へも徒歩で往復。

「バス代がもったいない!」もまた母らしかったが、「体型の維持」もあったのかも知れん。
 流石、没落士族の末裔。武士は喰わねど爪楊枝。(笑)
 
 しかも、実家は37段の石段を登り降りする崖の上。
 敷地は広く、部屋数は8DK。2階にも2部屋ある。その身長150cm未満には広大過ぎる生活空間を、常に早足でしゅっしゅ!しゅっしゅ!とまあ忙しなくすっ飛ばしていたもんだった。
「山の高いところに住んでいて、毎日、何10段もの石段を登り降りしている年寄りは皆んな元気!」を拠り所にしていたが、それは間違いなく真理だ。


  
 この度、私も腰椎の圧迫骨折で約4か月間、ずっとデスクに凝り固まってじっとしていながら、喰いたいものを喰いたいだけ、毎日3食、完璧に喰っていたら、10kg近くデブ化した。 
 せめて歩けば、そこそこ減ることを大学時代のボクシングの減量で経験しているが、身体が重たくて立つことさえ億劫。デブが生成されていく負のスパイラルを実感した。


 母の実子であることは間違いないので、私もまた没落士族の末裔のはずだが、腹が痛いわけでもないのにビオフェルミンを服用する度胸はない。
 
 そこで、しゅっしゅ!しゅっしゅ!を想い出した。
 
 唯、歩いているだけでは大した運動にはならないと訊く。
 運動している意識が要るらしい。
 それだ。
 しゅっ!と立ち上がって、しゅっしゅ!しゅっしゅ!と歩いて、しゅっしゅ!しゅっしゅ!と行動する意識改革だ。
 電車やバスを利用しまくっていながら1か月で5kg減。
 
 どうやら、武士は喰わねど爪楊枝。没落士族の母方の先祖から受け継いでいるのは、太り難い体質や腹式呼吸のみならず、しょーもない危機感かと。
 見栄を張るための。(笑)
 
 
※文中敬称略
※画像:大島 弓子『ダイエット』(1986)


 
 ふと幽体離脱してみると、東武線の陸橋が極端なカーブを描く東武浅草駅の辺りに居た。東京の街は確かにそのまま残っているようだが、人はぽつりぽつりとしか居ない。クルマもまったく走っていない。
 外国人もいなくて、至って静かだ。
 
 間もなく、低空からゆっくりとヘリコプターが落ちてきた。
 ヘリコプターなんぞ、ローターの回転が停まれば、そのまま真下に落ちるものかと思いきや、それはまるで『風の谷のナウシカ』の序盤で、ペジテの難民をスシ詰めにしていた大型旅客機のように、15°くらいの角度でゆっくりと東武の陸橋のムコウ側に消えていった。
 幾つかの窓から、搭乗者達の絶望が手に取るように窺えた。
 
「何なんだ?」
 
 細君共々、iPhoneをイジくってみるものの、何処にも繋がらない。駅の近辺だからだろうか。Wi-Fiマークはしっかりと表示されている。
少なくても地震や水害のような自然災害ではなく、戦乱のようでもない。空は晴れて風もない。
 
 幸い、細君もおれも無傷で、普段と変わらないものの、おれは何故か白地に赤い糸で〝角海老〟と刺繍された、ぺにゃぺにゃのスリッパしか履いていなかった。
 それでは歩き辛いので、取り敢えず靴屋に細君を促す。
 
 浅草のあの辺りには靴屋が密集していて、中でも首都高6号向島線からもよく観える〝靴のタニヘイ〟は、子供ばんどのギタリスト、谷平 こういち氏のご実家かと思いきや、同氏はタニヘイではなく、タニヒラだったような。
 
 タニヘイとは異なる店舗の暖簾をくぐると、そこに居た中年のおばさんは、おれ達の姿を観るなり奥へ引っ込んでしまった。まるで「クツなら好きなだけ持って行け!」みたいな感じで。
 普段履き慣れているサンダー商事のウエスタン・ブーツを見渡してみたものの、取り扱っていないようなので、サラリーマンが履いている、丈夫そうな黒い革靴を1足頂戴して、白いぺにゃぺにゃのスリッパから履き替えておく。
 
「次は水だ。」
 
 コンビニを探していると、2ℓのペットボトルを10本、地べたに並べている男が居た。

「1本1万円で譲って戴けませんか?」と思い切り奮発すると、男はニヤニヤしながら「1本10万だ。」と吹っ掛けてきやがる。
 何故か、財布の中に福沢 諭吉の1万円札を10枚持っていたのが不思議だった。キャッシュ・レス時代とはまったく関係がなく、常にキャッシュ・レス人生だったが故に。
 
 だが、その虎の子の10万円を一気に全部、遣ってしまうと一文無しになってしまい、先行きが大いに不安になる。

「そこを何とか!」と譲歩を重ねても、「いや駄目だ。10万だ。」と、頑として突っ跳ねられる。
 
 そうこうしている間に、そいつの背後に右手に赤いノック・バットを持った男が近付いてきた。ペットボトル男はこちらを向いたままなので、まったく気が付いていない。
 間もなく、赤いバットが一旋して、ペットボトル男が居なくなった。死んだのかどうか、とにかく消滅した。ノック・バット男は、おれ達に2ℓのペットボトルを1本だけ放り投げると、残りの9本を全部せしめて去っていった。
 
 なるほど!
 タニヘイとは異なる靴屋のおばさんが、人を見るなりそそくさと姿を隠した理由が解った。
 
 人生が一変した。
 
 非常時にスマホなんぞ、何の役にも立たん。備蓄なんぞ、すればするほど生命が危ぶまれる。1万円札なんぞ、何枚持っていても、まったく意味がない。
 
 それらに意味があるのは、警察や機動隊が正常に機能していて、暴力が強制的に制御されている平和に限定されている現実に、皆様はお気付きだろうか? タガが外れた時の地獄を想像したことがお有りだろうか?
 人間1人、消去するなんて、さほど難しいことではない。

 
 自らと自らの家族を護るために、常日頃から準備しておかなければならないことは、簡単に殺されない身体造りと、いざとなれば殺せる意思だ。
 運動靴とノック・バットは緊急避難袋に入らないから、折りたたみ式の警棒やヌンチャク、ブラスナックルも装備。違法だろうが何だろうが、拳銃を1丁、手に入れて、撃ち方くらいはマスターしておくべきなんだろうな。
 
「なあ?皆んな! 今ここにある水を、少しずつでもいいから1人でも多くの皆んなで分け合おうじゃないか!?」なんて宣う『われら青春!』野郎は、真っ先に消去されるだろう。面倒臭いだけだから。
 今そこにある水は、今そこにいる中で最強の者が得る。
 
 強ければ それでいいんだ
 力さえあれば いいんだ♪
 
『タイガーマスク』のエンディング・テーマ「みなしごのバラード」は、1969年にこの世の真実が謳われていた。


  
 時は戦国 嵐の時代
 でっかい心で 生き・・♪たいものだが、歩きスマホや自転車、公共交通機関内に於けるリュック・サックのような自分勝手が罷り通っている昨今、夢は失われつつある。
 
 ひと災害起きれば、この世はカンタンに地獄。
 この程度の常識は覚えておいたほうがいい。

 

 

※文中敬称略
※画像:ご存知『風の谷のナウシカ』に登場する、
「わが夫となる者は
 さらにおぞましき
 ものを見るだろう」のクシャナ姫。
 何度観ても、この女の悲しいツッパリに同感する。
 


(1975〜)
 
 
 NFL(:National Football League)のチームのロゴが入ったノートやバインダーが、横須賀市の山間部にある田舎の中学の机上に到達したのは1975年の4月だ。
 NFLについて教えてくれたS君の出席番号は10番、私は11番で机が前後していたのは、中学2年になったばっかしの頃だからな。
 
 白地に緑がきれいなNEW YORK JETSを気に入っていた。
 ノートやレポート用紙は元より、26穴のルーズリーフ・バインダーやブック・ストラップも持っていた。学習塾通いにブック・ストラップを使用していたのは無論、大賀 誠を真似て。
 エンピツ1本、消しゴム1コで四苦八苦していた父の時代とは隔世の感が甚だしいな。
 
 マディソン・バッグが流行っていたのもその頃だ。
 職員室は元より近隣の中学にまでその名を馳せていた、モノホンの不良と同級だったのは、中学2年と3年の2年間で、彼は通常の紺色ではなく、ド派手なオレンジ色のやつを持っていた。
「そーいうところがお前、オレをナメてんの」と、ナメてるのナメてねーのを教わったのが彼なら、「ズボンは腰で履くんだ!腰で!」と手取り足取り教わって、現在もその履き方でないと落ち着かん。
 おもしれーもんだよな。今の種が結構、蒔かれてる。(笑)
 
「まだ、そんなもん持ってんのかよ?」と、NFLのチームのロゴが入ったグッズがダサくなるのはいち早く、ほんの一時期のブームに過ぎなかった。
 パテント料だって発生していただろうに、発売元のmarumanはとっくのムカシに倒産してしまったのだろう、と思って、この度、敢えてWikiってみたら・・、
 
 ええーーーっ!?!?!?
 
 マジ知らなかった!
 同社は元々、スケッチブック等の画材メーカーで、大変お世話になってきたどころか、先ず淡い草色の大判の〝DRAWING BLOCK〟は高校3年間の美術科で2冊。
〝図〟という漢字から考案されたという、黒と黄色の〝Sketch BOOK〟は、判型の大小に関わらず数冊。
〝CROQUIS〟の白クロッキー帳も数え切れないどころか、現在もLサイズとMサイズの新品を、常に最低1冊ずつは切らさないようにしている。
 表紙が黒で10mmの方眼罫が入った〝Section 10〟もつい最近まで常備品だった。
 超〜お得意様じゃないの!私。(笑)
 
〝CROQUIS〟には想い出がある。
 
 横浜スタジアムのスコアボードの裏にあった美術予備校に通い始めた頃、先輩たちは、IZUMIYAという画材屋のオリジナルの黒いクロッキー帳を携えていた。
 田舎の横浜でさえ、片道1時間のド田舎、横須賀市の山間部からの初心者にしてみれば、その黒いクロッキー帳に都会や熟練を勝手に想い描いていた。高3だったな。
 その商品は横浜駅西口の相鉄JOINUSに在ったIZUMIYAでしか買えず、予備校は夜間部だったので、通学時に途中下車なんぞしていられん。
 
 それでも、ようやく購入して使ってみたら、何だ?コレ。
 クロッキー帳で重要な部分は当然、中身の紙だけど、それを取り巻く表紙、裏表紙、スパイラルリング(※ページを束ねている螺旋状の針金)すべてにおいてチャっちい。
 
 クロッキーの半分以上は体力を伴うスポーツだ。
 真夏の野毛山動物園で1日中、動物のクロッキーなんぞしてみろよ。クロッキー帳の造りなんぞ云々しているヒマなんぞ一切ねーんで。
 NFLのグッズもそうだったけど、marumanの製品はとにかく造りがいい。必要以上に頑丈だ。
 
 故に幾分、重量が嵩むものの、半世紀以上のツキアイで、今のところ不満を感じた記憶がまったくない。
 そりゃあ、美大の購買店などで、もっと優れた舶来品に出会うことは度々あったが、同じ製品の新調に青山辺りまで出張って入手できればまだいいほうで、多くは再度、入手困難。クロッキー帳なんぞ、トイレット・ペーパーみたいなもん。なくなったらすぐに補充できないと困るもん。
 今は1冊で数年でも、当時は1日で数冊なんぞザラだった。
 
 価格だってIZUMIYAの倍とかじゃない。

 せいぜい¥100とか¥150の違いで、使い勝手と、何よりも安心を手にできれば安いもん。
 わざわざ横浜なんぞで途中下車して雑踏を泳がされなくても、予備校の近所のユーリン・ファボリや、横須賀の川島文具店、今、現在は某C県某U市の住宅地にひっそりと佇む、趣味の画材屋でも常備されている流通の充実さ!
 
 画材をケチったら、ロクなことはない。
 ツィーザーという先がL字型に曲がったピンセットを自宅に忘れて、新宿靖国通りのアドホックで急遽¥1,500くらいのを買って間に合わせようとしたら、それもまた何だ?コレ。左利きを眼中に入れてない。
 それもまた予備校時代から使っている1本¥8,000くらいの黒いドイツ製は、今現在も机上のペン差しにテキトーに突っ込んだまま、唯の一度も研いだことは無論、磨いたことでさえ一度もがないのに、毎年毎年、ヤマザキ春のパンまつりのシールをきれいに貼るのに重宝している。
 
 THE BEATLESのように(?笑)、marumanの〝CROQUIS〟にも赤バンと青バンがある。THE BEATLESの赤盤と青盤の中身は異なるが、〝CROQUIS〟の赤と青の中身はたぶんまったく同じ。
 唯、青のほうが出荷数が少ないのか、人気が高いのか、赤はどこの画材屋でもどのサイズでも入手し易いが、青はやや困難。
 今現在もLは赤でガマンしている。
 こんなもんでもね、青持ってないと落ち着かないわけ。(笑)
 
 それもまた予備校時代にありがちな、他の高校から通ってきていた女子辺りが発端だったりするものの、そいつはズバ抜けてデッサンが上手かった。マジ、やってるやつは青!初心者は赤!みたいな?
 彼女からは後々「いらないからあげる」とDEEP PURPLEのLP『24 CARAT』を頂戴して、初めて聴いた「Woman From Tokyo」にぶっ跳んだオマケ付き。
 青春なんぞ、そんなもん!(笑)
 
 
※文中敬称略
※画像:現在でも使用しているNEW YORK JETSの26穴式ルーズリーフ・バインダー。バンドで使う歌詞やコードを記したノートを収めている。下に敷かれているのが〝CROQUIS〟Mの青バン(手前)とLの赤バン(奥)。

(Phoeve Snow:1981)
 
 フィーヴィー・スノウ。
 名前は訊いたことがある。確か、アメリカの女性シンガーだ。
 そこまで。
 
 一体、何を聴いてきたのだろう?私は。
 
>THE BEATLESと、THE ROLLING STONESと、LED ZEPPELINと、DEEP PURPLEと、KISSと、AEROSMITHと、VAN HALENだったら少し知ってるかも
 は、謙遜ではなく単なる事実だ。
 このままでも別に構わないんだけど、それで生涯を閉じるのは、根っからの貧乏性から、ちと、もったいないよーな。
 で、聴いてみた。たぶん初めて。
 
・①Cheap Thrills FO
★②Baby Please FO
・③Gasoline Alley FO
☆④Rock Away 
★⑤Mercy, Mercy, Mercy FO
★⑥Games FO
☆⑦Down in the Basement
・⑧Shoo-Rah Shoo-Rah FO
☆⑨Something Good FO
・⑩I Believe in You FO
 
 いきなしジャニス・ジョプリンか!?と思いきや、『CHEAP THRILLS』だったら、ジャニスではなくBIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANYのアルバム・タイトルで楽曲名ではない。
 多少なりとも知っているミュージシャンで、近い雰囲気はTHE ROLLING STONESだな。スライド・ギターがある。ピアノもある。ブルースがある。アメリカがある。
 取り敢えずゴキゲンだ。
 
 ③こそ同名異曲かと思いきや、本当にロッド・スチュワート(& ロン・ウッド)のテンポ・アップされたカヴァーで、滅茶滅茶格好いい!!! 蒸気機関車みたいな疾走感は、全英屈指のモデラー(:鉄道模型趣味)のロッドへのオマージュか。(笑)
 ⑩もボブ・ディランのカヴァーらしいんだけど、こんなふうに唄える彼を想像し難いので、③同様、昇華タイプのトリビュートなのだろう。
 
 4オクターブと云われる超高音域のフェイクは確かに超絶だ。
 
 アップ・テンポの楽曲の随所で聴けるが、特に鳥肌が立つのは⑤だな。ロバート・プラントにこれがあったら、と思うものの、声量や線の太さを要するハードロックには、ややもの足りないかも知れないな。
 
 むしろ、低〜中音域をしっかりとしっとりと聴かせてくれる、稀有な女性シンガーだろう。
 THE ROLLING STONESの「Get Off Of My Cloud」や、TVアニメ『うる星やつら』のエンディング・テーマみたいなパターンの⑧では、強烈なリズムの狭間で伸び伸びと唄われている。
 
 彼女自身のオリジナル楽曲は④、⑦、⑨だが、④と⑦はこのアルバムのために書き下ろしたのか、他8曲と較べて歌唱が熟れていない。唄メロを模索しているような感さえ窺える。
 とは云え、一聴して耳に残るフレーズを持つ⑨は、ポップに近付いた傑作なのに、シングル・カットは②、⑤、⑥。
 誰が決めたんだ?
 ②、⑤、⑥は、それこそ豪勢なスタジオ・ミュージシャンを大量に注ぎ込んだ作品だ。
 更に、何でまた10曲中8曲がフェイド・アウトなんだ?当時の流行りなのか?
 不幸なシンガーだな。
 
 そう云えば、今更ながら気が付いたんだけど、私なんぞでも多少は知っているかも知れないTHE BEATLESや、THE ROLLING STONESや、LED ZEPPELINや、DEEP PURPLEや、KISSや、AEROSMITHや、VAN HALENは全部、バンドだ。
 合奏者が固定されている音楽ばっかし聴いてきた耳には、全体を通したアンサンブルの変化が忙しいけど、それを様々な背景と捉えれば、至れり尽くせりなのだろう。
 ②や⑧のテナー〜ソプラノ・サックスは滅茶滅茶ゴージャス。
 リンダ・ロンシュタッドの『SIMPLE DREAMS』(1977)を思い出した。国分寺の中古レコード屋で¥500くらいで買ってきて、1〜2度聴いて以来、LPの棚に並べたまま半世紀。(笑)
 
 映画『Michael』を観に行って、終盤近くなって、無意識に動かしていた両脚をたまたま眼にして気が付いた。ある意味、ショックだった。
 だぁーって、マイケル・シェンカーならともかく、マイケル・ジャクソンだぜ?マイケル・ジャクソン。ポップ・シンガーの。
 だが、彼はアメリカ人で、アメリカの唄を唄っている。
 そこだ。
『ROCK AWAY』からそのまま、YouTubeを放ったらかしていたら流れた「Teach Me Tonight」〜「No Regrets」のライヴ映像は、まさにブルーノートだった。.
 
 ベン•E•キングのオリジナルと、ジョン•レノンがカヴァーした「Stand By Me」で、前者に落ち着かれる皆様方にオススメ。
 YESの歴代メンバーの中で、スティーヴ・ハウが一番好きな方にもオススメ。
 私のようなアメリカン・バカには特にオススメ。
 
 
※文中敬称略

(鈴木 恒生:1995)
 
 
 亡父がこの著作を自費出版した年齢に私も達したので、改めて読み返してみた。客観的に校閲や校正に携わるような心持ちで。
 大学を卒業した私が、マンションの片隅でやっていた小さな編集プロダクションに就職した時に、もの凄く喜んでくれたのは、父だったからな。
 
 小学校教諭として長年、携わった教科書の感触なのか、装丁はA5判の上製本で、各章の扉と、あとがき以外の本文は2段組。
 小学校高学年以上、高齢者の読者も同時に忖度したのだろう。
 文字の大きさ、字間、字詰めとも無理がなく、非常に読み易く、眼も疲れない。
 
 1ページあたり、1行23文字×19行×2段だから計874文字。
 全部で384ページともなれば30万7,200文字! 400字詰めの原稿用紙で768枚!
 執筆期間は1995年3月から6月4日までの僅か2か月強。
 
 よく書いたな。
 パソコンどころか、スマホやワープロでさえ拒否し続けて、全部エンピツで手書き。
 さぞや楽しく、また悔しくもあったのかも知れないな。前期高齢者の視力に依っては。
>視力検査で2.0以外判定されたことがない
 という記述がある。
 私もまた、パソコンに没頭する30代前半まではそうだった。視力は父親譲りだったのか。
 
 2005年9月6日にこのブログに揚げた私の拙稿には、
>父親のその著述はその抜群の記憶力に依る
 と、大雑把に記してしまったが、その事細かな記述は記憶力だけではない。
 父には執拗な記録癖と収集癖と整理癖があった。
 著書は大まかに分けて、物心ついた幼き日々、小学生時代、中学時代、海軍特別少年兵時代、中学復学、横浜専門学校時代、そして教員試験合格までの15〜6年間で、特に昭和20年8月15日前後の激動の数日間は、日時の記録を留めようとしている苦心まで記されている。
 誕生日は8月11日。お盆休みに実家を訪ねる度に、
「だから、俺は自分の誕生日が来る度にフクザツなんだ」。
 だろうな。
 
 記述は昭和25年3月31日午過ぎ、三崎(たぶん東岡)に向かう京急バスの車中で〝昭和の子ども〟の最終点としている。
 弱冠19歳7か月。
 
 更に私の拙稿で、
>父自身の感慨や考え、主張がそれほど色濃く表現されていない
 と評した手前、本人に伝えたところ、やはり、
「そんなもん、後で何とでも云えるじゃねーかよ」。
 つまり、後で何とでも云える程度のことは省いているわけだ。徹底的に。
 
 30万7,200文字でも書き足りていない心中があとがきに記されている。
 
 SNSの隆盛で、今は皆、好き勝手に宣いまくれている時代だが、一体、皆、読む人のことを考えているのだろうか? タダだと思って、或いは閲覧時間を稼ぐために、ムタな文章で水増ししてはいないだろうか?
 
 父の著書は何たって自費出版だ。
 タダどころか、16ページ若しくは32ページ単位で自費を支払って書いている。1文字だってムダにはできない。
 執筆前に大蔵大臣の母から電話があった。
「今まで一生懸命働いてきてくれたんだから、1つくらいはやりたいことをやらせてあげたいの」。
 当然でしょう。2つでも!3つでも!
 酒もタバコ(は、37歳6か月まで吸っていたが)もギャンブルもゴルフもやらず、普通運転免許さえ生涯持たず、唯々ひたすら人のために生きてきた朴念仁故に。
 無論、版元を探す提案はしたが断られた。
 たぶん、1,000%自分が好きなように創りたかったんだろう。
 まさに渾身の一冊!
 
 だからムダがない。
 
 384ページ、30万7,200文字、一気に読める。
 トーシロの文章にありがちな重複やクドさがまるでない。莫大な記録の大整理は執筆以前に済ませていたのだろう。でなきゃ書けないぞ?こんな大長編。
 元〝昭和の子ども〟が〝昭和の子ども〟に戻って記しているのだから、そのワクワク感や不安も切々と伝わってくる。
 特に小学生時代のクライマックスや海軍特別少年兵時代の臨場感には思い切り引き込まれてしまう。
 
 少し気になるのは、元小学校教諭でありながら、教育漢字は元より常用漢字でもない漢字が頻繁に使われているのは、何か意図があったのだろうか?
 まさか、そんな漢字の使い方があったことまで遺したかった?
 傍らに漢和辞典、若しくは写メを撮って調べられるスマホが必要だ。1文字読めないだけで、文や文章がまったく解らない箇所が少なからずあるからな。
 それと、終戦直後の東海道線や横須賀線では蒸気機関車牽引の旅客列車が運行されていたのか? 最新鋭の電気機関車、と云ってもEF58以前の茶色い機関車に興味を持っていた隠れ鉄の父(笑)が、蒸気機関車と電車や電気機関車牽引の旅客列車を間違えるのは想像し難い。
 
 自費出版なので一般的な流通はなく、国立国会図書館と横須賀市内の図書館、公民館、小中学校に寄贈したと訊く。

 ご機会があれば是非!


※文中敬称略
※初稿:2005年09月06日
※改訂:2026年07月12日
※画像:著述の中で父達を襲ったと記されているグラマンF6F-3 Hellcat。小学校低学年時にたまたまプラモデルを造っていたら、塗装しなくても元々群青色のキットで、父曰く「それだ!それ! アメ公の顔まで観た!」
著述には〝目と耳を手指で押さえ〟とあるが?>父(笑)

 

「生まれは 昭和二十九年 九月九日!」(※JC第9巻p.115)
 
 ってこたぁ、1973(昭和48)年、アストロ球団と対戦した3月12日は、まだ18歳。ハワイ州の学制だったとしてもハイ・スクール在学中か。
 それにしては、アストロ超人達は元より、タメ歳で誕生日も同じ無七志や知念と較べても唯1人だけ、ダントツでフケている。
 観方を変えれば、弱冠18歳にして既に達観していたと観てとれなくもないけど。
 
 アストロ球団対ロッテ戦の2回表、9番木樽の指名代打者として右打席に入りながらも、たまスジを観ただけで三振に終わった坂本が気になった球一は、タイムをかけてアストロ球場の地下何階だかにある監督室に赴いて、〝アストロ超人 リストアップ ㊙〟資料に眼を通す。(※JC第5巻p.140)
 その辺りもまた、貧乏でボールとグローブとバットの他には努力と根性しかない『巨人の星』からは隔世の感が溢れる野球マンガだよな!
 
 リストの該当ページには先ず、ンなもん、何処で誰が撮影したのか、或いは既に前科でもあるのか、まるで犯罪者のようなリョウ・坂本(※この表記が正式なのは〝さいとう・たかを〟みたいな?笑)の頭部正面、及び側面の写真とともに、先ず、
>本名=リョウ・坂本(年齢不詳)
>出身地=ハワイ・オアフ島
>日系ハワイ三世
 とある。何か、仮面ライダーのカードのウラ面みたいな?(笑)
 続いて、
 
>本名・・・・・・ リョウ・ 坂本・・・・・・
>日系ハワイ三世 年齢不詳 父親に日本武道の すべてを伝授される・・・
>中でも・・・・・・ 神道無念流を 野球に生かし・・・ その打法を 封じた 投手はまだいない・・・
>アストロ超人の 可能性 きわめて大・・・
>なお・・・得意な打法に 消える打球あり! 謡曲・敦盛をこのむ・・・(※JC第5巻p.141)
 
〝・・・〟の多用は当時、やたら時間がかかっていた、コンピューターの出力速度を示している。今で云えば、交通違反のキップを切られる際に、警察官が持っている携帯出力機みたいな?
 球一が手にしているのは、既にA4サイズ(たぶん)にプリントされた紙媒体資料なんだけどな。(笑)
 
 また、資料にある〝謡曲・敦盛〟は、1973(昭和48)年のNHKの大河ドラマ『国盗り物語』で、後半部主役の高橋 英樹が扮する織田 信長が、桶狭間(※番組では〝田楽狭間〟)の出陣の際に唄ったのが最初だったと思われるが、同番組の前半は平 幹二朗の斎藤 道三なので、1973年でも7月以降。
 
 観逃せないのはここだ!
>父親に日本武道の すべてを伝授される・・・
 
 簡単に記されているけど、弱冠18歳にして〝日本武道のすべてを伝授される〟素養だけでも既に文字通り〝超人〟だろ!?
 後輩の武道の大家に尋ねてみたところ、〝すべてを伝授される〟には「そーッスねえ。900年くらいじゃないッスかねえ」。
 それを18年という短期間で成し遂げているのは、常人の50倍の速さで人生を送ってきたわけで、そりゃあフケるのも早かろう。背中に妙な毛も生えてくるのだろう。
 伝授した父親の素養も含めれば、生まれながらにして超人の血スジでもある。
 
 この時点で集まっていたアストロ超人、球一、球二、球三郎、球五、球七、球八のうち、球三郎と球五に多少、落ち着きや冷静はあっても、年齢不相応とまでには届かず、残りの連中は、一言で云う迄もなく唯々ひたすら幼稚。特に球一と球七。
 致し方あるまい。
 掲載誌は隔週刊『プレジデント』ではなく、何と云っても週刊『少年ジャンプ』なんだから。(笑) 
 超人なのは肉体面だけで、それだったら幾らでも描ける。
 
 知能はせいぜい一般の高校生。
 第6巻で登場する、灘高首席卒業の球四郎にさんざコケにされても致し方あるまい。その球四郎とて、ビクトリー戦ではものの見事に負けて、あろうことか幼稚な軍門に降ることになる。
 
 謡曲・敦盛で登場して、〝消える打球〟や〝ハリケーン・キック〟で勝ったり負けたりしながらも、結局、ブレずに己を通し切って去って行った、年齢不詳ではなく、年齢不相応の超人、即ち〝一歩も二歩も大人〟はリョウ・坂本だけだった。
 
 作品には本編JC20巻の他に、知る限り月刊『少年ジャンプ』に掲載された1編の別稿がある。
 立ち読みした限りなので、よく憶えていないその小作品に於けるアストロ球団の対戦相手は、ビクトリー球団なんぞ比ではない悪辣手段に徹しまくる極悪球団で、そのカントクだか首謀者だかがリョウ・坂本だった。
 ムリもなかろう。
 常人の50倍もの速さで生きてきた証しとして、何処かで壊れちゃったのだろう。
 
 私が週刊『少年ジャンプ』を定期購読していて、正月三が日でさえ駄菓子屋を一瞬だけ開けてもらって、球一の〝スカイラブ投法〟対リョウ・坂本の〝消える打球〟を読んだ1974年の正月は、小学校から中学への進学期に当たり、2月からは放課後に電車に乗って通う進学塾に通い始めている。
 週刊『少年ジャンプ』も『アストロ球団』も(他に『サーキットの娘』なども)一旦は保留して、進学塾の机の下で、それこそ司馬 遼太郎の『国盗り物語』を読み耽っていた。
 
 大人の世界もおもしろそうだったから。
 
 
※文中敬称略
※画像:JC第6巻p.29、〝消える打球〟を披露する寸前のリョウ・坂本

 

(タイムボカンふうに)説明しよう!
 
 1973年3月12日。東京都新宿区西新宿に完成したばかりのアストロ球場に於ける、アストロ球団対ロッテ・オリオンズは、15対15の同点のまま延長戦に入った10回表、ロッテは4番、アルトマンのソロ・ホームランで1点を勝ち越す。
 自力で地上2〜30mまでジャンプして捕球を試みた球七は力及ばず、そのまま強化プラスティック製の観客席に落下して、とんでもない重症を負う。
 
 そのウラ、アストロ球団は1番、その球七からの好打順ながら、レフト・ゴロで1アウト。2番、球二はロッテのセンターを守る、武芸百般に通じた勝負師、リョウ坂本の好守備に阻まれて、ファースト・フライで2アウトだが、3番、球五が意表を突いたセーフティー•バントで何とか出塁して、何とか負けを逃れる。
 
 同点のランナーが出たものの、続く4番の宇野 球一は、9回表のリョウ坂本との〝スカイラブ投法〟対〝消える打球〟の大勝負で左の鎖骨を骨折していて、とてもじゃないけどバットなんぞ振れる状態ではない。そこで、
 土下座した。
 
 当初は球三郎の独断だったが、やがて球一まで観客席に向かってコウベを垂れて、
>おねがいです どなたか 代打を!!
 逆転勝利の運を きりひらいて ください!(※JC第9巻41p.左下)
 
 ホントに合ってるの?コレ。>編集部
 修正が間に合わなかったんじゃないの? 球三郎ならともかく、普段の球一とはまったく異なる云い廻しみたいだけど。
 この1コマで『アストロ球団』を見切った読者は全国で数万人規模に上ったと思う。
 
 ノコノコ出てきたのは、背中にボール形のアザがある、元ブラック球団のカミソリの竜、後の高尾 球六だ。何ともまあ、仲間に土下座までさせなきゃ出て来られなかったのかね?冷たいやつ。
 彼は打球が真っ赤に燃える〝コホーテクすい星打法〟で、リョウ坂本の左手を焼き潰して、1塁から球五が長駆ホームインして同点。球六自身も3塁打。
 
 ハナシは前後するけど、リョウ坂本もまた、9回表の球一との大勝負で、右腕はそのすべての筋肉に肉ばなれをおこし、打者としての再起はむずかしいとのこと(※JC第8巻p.73上)だが、
>右がなくても 左で じゅうぶん 守備はやれる!(※JC第8巻p.85下)
 と、金田監督の制止を振り切って、試合に出場し続けていた。
 
 で!(故地井 武男ふうに)ここからだっ!
 
 2アウト、ランナー3塁で、バッターは3回ウラにロッテの巨漢、モンスター•ジョーを、その打球で電光掲示板に叩き付けて廃人にした球三郎だが、彼は迷う。
 何故なら、リョウ坂本もまたアストロ超人の1人かも知れないからだ。
 
 センターを守る坂本を避けて、レフト線やライト線を狙うものの、どうもウマクいかない。やがて、勝負が避けられていることを察知した坂本は、
>なめるな 球三郎!
>しんみょうに 勝負せーい よけいな情けは 最大のぶじょくぞ〜っ!!
 と煽り、更に、
>わたしには モンスター・ジョーと 決定的にちがう キリフダがある〜っ!!
 
 すると、球三郎も単純で、
>なにーっ キリフダ!?(※以上、JC第9巻p.97)
>みせて もらいますよ 坂本さん!(※JC第9巻p.98)
〝チャッ〟という擬音とともにバットを大上段に構えると、
>その キリフダ を〜っ!!
 と、とんでもないアッパー・スイングでセンターへ飛球を打ち上げる。
 
 リョウ坂本の周囲にはズゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴというワケが解らない烈風が巻き起こり、グオオオオオと真上にジャンプするが、全身の後ろ姿がついでのように描かれている有藤の身長が186cmなので、その約5倍、9m30cmは飛んでいるのだが、9m30cm程度なら飛球じゃなくてライナーじゃね? まあいいけど。(笑)
 
「うおおおおおおーっ」と身体全体を左に捻ったリョウ坂本は〝グワアアーン〟という擬音とともに、
>ハリケーン・・・・
 と、スパイクを履いた左足の甲に打球をピタリと乗せる(※JC第9巻p.103)と、
〝ドグーム〟と手描きのもの凄い太字の擬音を中心にした見開き(※JC第9巻p.104〜5)ページの断ち落としで、
>キーック!!
 と、打球を本塁に蹴り返す。
 これが武芸百般に通じた勝負師、リョウ坂本のキリフダ、〝ハリケーン・キック〟だ。
 
 云う迄もなく、この送球ならぬ蹴球(?笑)をキャッチャーの村上がノー・バウンドで捕球すれば、記録的には単なるキャッチャー・フライで、3アウト・チェンジなんだけど、村上は3塁から突入した球六のスパイクにミットを蹴られて捕逸。
 球六のホームインが認められて、アストロ球団の延長10回サヨナラ勝ちが決まる。
 
 守備妨害云々はさておき、このミットやグローブを蹴る走塁技は、『アストロ球団』のこの部分が掲載されていた1974年のセ・リーグの覇者、中日ドラゴンズの監督、与那嶺 要。もといウォーリー与那嶺が米国から日本に持ち込んだんだよね、確か。
 更に、同年の日本シリーズの覇者は、この春先のアストロ戦で鍛えられた(?笑)金田監督率いるロッテ・オリオンズ。
 それはまた、私ら昭和30年代中盤に生まれた世代が初めて観た〝我が〟読売巨人軍以外の日本一だった。
 
 常勝読売巨人軍の10連覇を阻止したのは、アストロ球団ではなく、中日ドラゴンズであり、ロッテ・オリオンズだった、という昭和時代のお話。
 
 
※文中敬称略
※初稿:2005年8月「ハリケーン・キック」
※画像:JC(:ジャンプ・コミックス)『アストロ球団』第9巻(集英社:1975年5月31日発行3版)。球一の背景にリョウ坂本の〝ハリケーン・キック〟が描かれているが、球六の〝コホーテクすい星打法〟で負傷した際に、金田監督が自らのアンダー・シャツの左袖を引き割いて巻いた止血処置の結び目が異なる他、本編の見開きで描かれているダイナミックな絵とは恐らく別物。

 
 1970年(昭和45年)8月、第52回全国高校野球選手権大会の優勝は地元(※当時)、神奈川県代表の東海大学付属相模高校、通称、東海大相模だった。もの凄く嬉しかった。
 監督は元読売巨人軍の監督、原 辰徳氏のご尊父、原 貢氏で、辰徳君ご本人はまだ小6。
 小3だった私は、父の傍らでNHKのTV中継を観戦した。
 
 TVは完全許可制だった。
 恐らく、昭和5年生まれで、TVが未だ普及していなかった時代から教壇に立ち、「インターネットって何だ?」まで、激動の時代を生きた父の教育方針だったのだろう。
 お陰様で私には情報を鵜呑みにしないヘンクツが身に付いた。
 
 決勝戦まで何試合だったか、長時間に渡ってTVを「観させてもらった」のが初めてなら、応援も初めて。
 何の他意も脈絡もなく、唯々「東海大相模が優勝するといいな!」と切実に願っていたのは、ひょっとしたら、父の郷土贔屓の伝承かも知れず、父にしてみれば、そういうセガレの発育を考慮した上での〝視聴可〟だったのかも知れん。
 
 その甲斐があってか、現在は千葉県在住でありながら、春、夏の甲子園大会が始まれば、周囲の都県民の誰それ見境なく神奈川県の代表校とその勝ちっぷりを確認。
「東海大相模だよっ!(くそっ!)」なら「よっしゃあ!」(笑)
 父を始め、神奈川県民税を納税して育ててくれた神奈川県民の恩を忘れたら人間じゃねえ。
 
 神奈川県の代表が負ければ、勝手にライバル視している大阪府の代表の健闘を祈る。それもまたやはり第52回大会の決勝戦で観たPL学園のトラウマかも知れん。桑田-清原のドトウの5大会連続出場も衝撃的だったし。
 何べんも聴いているせいか、東海大相模とPL学園の校歌だったらソラで唄える。
 特に東海大相模のワルツは最高!
 
 14歳で海軍航空隊に志願して九州の築城特攻基地に駐屯。僅か20cm脇にいた同年齢の戦友をグラマンの機銃掃射で亡くし、他にも内臓がはみ出た遺体を幾多も眺めてきた父にとって、戦後の野球の隆盛は平和の象徴そのものだった(と思われる)。
 2021年没。
 L.A.エンジェルスで活躍していた大谷 翔平を観て、さぞや溜飲を下げていたことだろう。
 
 市区町村合併で町名は変わっても、父が棲息していた場所は生涯、一貫して変わらなかった。

 甲子園大会では当然、地元の神奈川県代表を応援するが、敗退してしまうと他の都道府県の初出場校や公立校、地理的に不利な高校を応援する判官贔屓だった。
 神奈川県の地区予選大会でも同様で、東海大相模や横浜高のような強豪校を〝専門学校〟と揶揄していた。
 
 翌1971年(昭和46年)は私の野球元年になった。
 地元の子供会のソフトボール・チームに入団・・、否々!父から強制的に入団〝させられた〟が、それがそれからの私の人生を大きく変えて現在に至る。
 8月3日には川崎球場で燃える長嶋 茂雄を観た。第53回全国高校野球選手権大会は、またまた神奈川県代表の桐蔭学園が優勝! 秋には〝我が〟読売巨人軍(※当時)が7連覇を達成!
 もー、朝から晩まで毎日毎日、野球!野球!野球!野球!
 野球ばっかし!
 
 それまでは家に籠もって絵を描いたり、本を読んだりしていたが、多くの先輩や友人、後輩達と毎日毎日、同じ目標に向かうソフトボールは社会への第一歩だったのかも知れん。
 小4から自作していたマンガも、小5になると『アストロ球団』や『侍!ジャイアンツ』を模した野球ものになって、クラスで廻し読みされて、いー気になる味を占める。

 PublishingやSNSのキッカケだな。
 
 1974年(昭和49年)4月、中学に進学。
 1学年の男子約120名中1/3、40名が軟式野球部に入部して、下手くそな私も例外ではなかったが、脚だけは速くて、毎日毎日、砂場でスライディングの練習ばかりさせられていたら、陸上部の顧問に誘われて、1年の秋に転部。自らの適性を認めた。
 
 とは云え、特に小学校高学年辺りからは、実際に野球場に野球を観に行く機会も増えていた。ソフトボールの友人のお陰。
 メインはプロ野球のメッカ、後楽園球場だったが、神奈川球児のメッカ、保土ヶ谷球場にも何度か脚を運んでいる。
 すべて東海大相模の試合で、サードは原 辰徳!
 その後も含めて、最もリアルタイムで観てきた野球人だ。
 
 けど、その辺りまでだったかな。〝観ていた〟のは。
 
 ドカデブ香川や、その6年後にPL学園の清原が甲子園でがんがんホームランを打ちまくったり、星陵高校の松井が敬遠攻めにあったり、横浜高校の松坂が優勝したんだか何だかになると、もう全部、後付けの情報で知った程度。
 
 興味が失せたのではなく、受け身でなくなってきただけだ。

 観ているよりも自分でやっているほうが楽しい。ソフトボールだったとしても。
 観るとしても自分のためなので〝応援〟ではない。
 父が判官贔屓なら私は自分贔屓。(笑)
 
 父はまた「学生の本分は勉強!」などと、思ってもいないことを宣っていたけど、違うでしょ。
 1人1人、どんな高校を選択するのかも自由なら、どんな勉強をするのか、どんな時間の遣い方をするのか、そして、どんな人生を歩むのかも自由。
 自由とは〝人様に迷惑をかけず、自分で責任をとること〟は、その教師生活40年の父から教わった唯一の教えだ。
 
 高校2年の春先、約2週間程観てきたパリ・ロンドン・オクスフォードから、一般的な受験に疑問が生じて美術に舵を切る。
「よぉーし!やってみろ!」

 と、父はとても喜んでくれた(ような)。
 
 
※文中敬称略
※初稿:2005年8月16日「全国高校野球選手権大会」
※改訂:2026年6月11日
※画像:東海大相模時代の原 辰徳(:神奈川新聞社)
※参考:Wikipedia

 
 

 腰椎圧迫骨折で身動きがとれない2026年6月。

 過去に晒した恥を多少なりとも拭っておきたくて、日々ブログの是正に努めている。読み難いデザイン、レイアウトは修正で済むけど、本文に事実誤認があれば訂正、若しくは改訂だ。 

 

 それにしても凄い!!! ChatGPT。やられた!

 

 表題はてっきし『アストロ球団』からの引用と認識していて、文頭に掲出するジャンプ・コミックスの掲載巻を検索したら、

 ズバリ!!!
>『アストロ球団』ではなく少年サンデー・コミックスの『男どアホウ甲子園』の第11巻で、丹波 左文字監督が・・

 

 何で!? 何でそこまで知っている!?

 何で、私がその巻を保有していることまでバレている!?

 

 確かに『男どアホウ甲子園』(週刊『少年サンデー』:1970〜1975)は拙稿「水島 新司」で、第15巻の極々一部を取り上げて、AmebaBlogで20年以上、ワールド・ワイドに晒け出しているが、初ッパナから誤認となれば、全部、書き直さなきゃならないじゃないか!(笑)

 

〝心頭滅却すれば火もまた涼し〟

 三省堂提供『大辞林 第二版』出典のgoo辞書に依れば、
>無念無想の境地にあれば、どんな苦痛も苦痛と感じない。1582年、甲斐の恵林寺が織田 信長に焼き打ちされた際、住僧快川(かいせん)がこの偈(げ)を発して焼死した話が伝えられる。
 

 なるほどな。

 その昔、『TVジョッキー』(NTV:1971〜1982)の〝熱湯CM〟というコーナーで、際限なく50℃のお湯に浸かり続けていたものの、その後、宗教法人の乗っ取りだか何だかで逮捕されたタレント坊主の織田 信長、じゃなくて織田 無道然り。
 

 一昨年の12月29日まで、今や無人となっている実家に置き去りにしてきた『男どアホウ甲子園』は、自宅に運び込んだ段ボール箱に詰め込まれたまま、今もベッドの下に埋もれている。

 もはやストーリーも忘却の彼方だが、ChatGPTに依れば、真夏の炎天下の試合でヘタり込む南波高校ナインに檄を入れるため、丹波 左文字監督がこの言葉を引用したとある。

 あー、あー、あー、あー、憶えてる。

 右翼手で、生まれつき脚が悪くて、常に松葉杖を突いている、その名も松葉が真っ先にヘタって、ベンチに置いてある薬缶に手を伸ばした鼻先に、左文字監督は抜き身の日本刀の切っ先を突き付けて、先ず「飲むな」。その後にこの言葉だったような。

 

 如何にも'70年代のスポ根が殊更大袈裟に描かれているが、冷房の恩恵が市井の銀行くらいにしかなかった時代。身体の構造そのものが先ず現代人と異なる。誰もが皆、毎晩、ぐっしょり汗をかきながら寝ていた。
 高校球児、男どアホウ藤村 甲子園のみならず、中学陸上児だった私でさえ、練習中に水を飲むとその先のタイムが伸びなかった。何となく気が抜けて。陸上競技、特に短距離はコンマ何秒単位で、すぐに結果が出る。

 

 今は異なる。

 夏場の気温が高くなっていることは間違いなく、昼夜問わず四六時中、冷房の恩恵に与っている現代人が水分補給を怠れば、所ジョージのように死にかける。

 たまたまだけど、その所ジョージと男藤村 甲子園は同学年。

 

 で、私だ。

 それまでは「ンなもん、ジジイがなるもんだ」と高を括っていた〝肩凝り〟なるものを40過ぎて初めて経験した。。
 早くも高校時代に「肩凝りだあ~」と嘆いていた級友も何人かいたものの、私はそれがどんな症状なのかさえ知らずに生きてきた果報者だった。
 身体は至って健康で、野球やソフトボールで云われる肩も悪くなかった。無論、既に過去形だけど。


 小学校高学年から大学卒業まで、バカのように運動していたものの、それでも自宅、学校問わず描いたり書いたりで、社会人になると、運動なんぞまったくせず、相変わらず書いたりキーボードを叩いたりで、完全机上業務に従事。
 恐らく、人生の半分近くを机の前で過ごしている。

 それでも、それまでは経験がなかった肩凝りの原因として、やっていたのに止めたこと、やっていなかったのに始めたことを考えてみたら、あった!
 半身浴だ。
 
 ガキの時分、我が家のガキどもの入浴の分担は、湧かしたばかりのくそ熱い湯に浸かる母が私。冷めたと云うか、殆ど通常の温度の湯に浸かる父が妹で、弟は未だ生まれていなかったか、薬缶の湯を満たしたタライだった。
「ぬるいお湯なんか入った気がしないっ!」と宣っていた母は、夏でも42~3℃。それもアゴまで浸かる全身浴。
 それが私にも適用されていた。
 
 母はキビシく、浴槽に浸かっている私が頭(アゴの骨から上)以外の部分を湯から出していると、先ずは「肩まで浸かるっ!」と口頭注意。それでも熱ちぃもんだから、また腕なり何なりを出していると、「何度、云ったら解るのっ!」と、はみ出してる腕や肩を、ぐいっ!と湯の中に沈められたものだった。

 虎の子はともかく、虎の母。(笑)
 

 お陰様で今でも夏は41℃以上、冬は43℃。

 肩どころか、息をする鼻の穴ぎりぎり、唇までがっぽり浸かる。「身体に悪い」と云われると云うか、殆どの方々から云われるが、それ未満だと浴槽から出た途端に寒気がしてしまう。
 
 母は長嶋と同イ歳なのに生涯、五体満足。野際 陽子とも同イ歳だが、6年も長く生きられた。
 遺伝的な体質なのだ。たぶん。

「39℃以下が適温です」等とマクロ的、且つ無責任に発信されている情報をハナっから信じないほうがいい。

 人ぞれぞれの肉体を保有しているんだから。

 温度はずっとそのままだったが、「半身浴が良い」と何かで読んで、また自身も高温の湯に数分間、耐えられる体力が落ちてきたように思われて、数年間、半身浴に切り替えていた。

 このAmebaBlogを始める少し前。
 
 それを全身浴に戻してみたら、何てこたぁない。肩凝りたぁ、一体、どんな症状だったのか、すぐに忘れた。(笑)

 

 浴槽に浸かるのは10分、5分、5分の計20分が最大で、間の5分は、ひげ剃りなどで寒くなった時だけで、通常は省略。

 最初の10分は4分+6分の2段階に分けて、4分と6分の間に軽微な水中ストレッチ。前半4分はひょっとすると小学生の頃からやってきた水中手首こきこき。後半6分は歯を磨くので、右腕のみ湯から出さざるを得ず。

 湯温は自身の体温でどんどん下がるので、浸かっている最中は追い焚きを繰り返す。冬場は特にガスを贅沢に使う。

 ここ数年は何故か、冬でも43℃を超えることはなくなり、夏でも41℃は下廻らない。

 血圧は多少上がって、高い方の最新記録は124。

 

 キツくなければ入った気がしない。

 特にラストの5分は、自身の身体も相当暖まり、また飽きも生じてい、かなりキツい!かなり熱い!かなりツライ!
 相変わらず前置きが長くなって誠に恐縮だが、その際に脳裏に浮かぶのが、快川和尚の〝心頭滅却すれば火もまた涼し〟なり。

 
 風呂は気合いで入るもの。
 無念無想の境地を求めなくても、
 無念無想の境地にならざるを得ん。(笑)

 

 って、ことぉー。

 

 

※文中敬称略

※初稿:2005年8月12日
※画像:『男どアホウ甲子園』第11巻 私物は目下、簡単には取り出せないため、amazon.から転用。この小汚なさで¥759もするなら、私物は・・

 

「梶原 一騎のどこがいい?」
 
 改築する前の実家の狭い玄関の辺りだったので、1975年以前。中学2年以前。
 現役の小学校教諭だった父にしてみれば、もっとも多感で吸収力も旺盛な時期に、マンガばっかし読んでいた私を危惧して・・、とばっかし思っていた。
 戦前生まれ故に、マンガ家といったら田河 水泡しか知らず、『のらくろ』以外のマンガはすべて梶原 一騎で一括り、とも。
 
 その時期に熱中していた梶原 一騎は『愛と誠』だ。
 初めて買った単行本は第6巻で、発行日は昭和49(1974)年9月1日で第1刷。以降は未読だった第1巻から、第7巻以降は新刊が出る度に揃えて全16巻。現在も書斎の本棚に並べてある。
 第1巻の発行日は昭和49(1974)年10月19日で、流石に後追いだけあって第11刷だが、奥付のウラの何も印刷がされていないページには、父の蔵書を真似て自分の住所と名前、更に〝S49.11.5.汐入書房〟と手書きしている。
 つまり、同作を蒐集し始めたのは昭和49年。即ち1974年。中学1年の秋から、ほぼリアルタイムでストーリーを追って、私としては比較的真面目に蒐集。更に蔵書としては稀有な全巻とも自分で買った新刊。
 
 それが問題だったのか?
 
 確かにセンチな時期ではあった。
 同性の沢田 研二や西城 秀樹はどーだっていいとして、1974年12月10日には、異性の山口 百恵の「冬の色」がリリース。

 今でも冬が来る度に想い出す、大のお気に入り。
 中学はその山口 百恵が通っていた横須賀市立不入斗(いりやまず)中学校と隣り併せで、彼女も通った木造校舎が毎日、目と鼻の先に見渡せていた。
 
 森田 童子のデビュー・シングル「さよならぼくのともだち」は、翌1975年10月21日。

 何だ!?この唄!とエラク感銘を受けて、AM放送をカセット・テープにエア・チェックした音源を2つ下の妹に聴かせてみたところ、「お兄ちゃんは最近、そんなのばっかし聴いて、ちっとも勉強しなくなったって、お母さんが云ってたよ。」
 
 なるほどな。
 要するに、思春期を迎えたセガレを一体、どー取り扱うべきなのか? 一家総出で思案した挙げ句、父にお鉢が廻ったという流れか。お気の毒に。(笑)
 
 やはりその梶原 一騎原作の『巨人の星』の第12巻に、余命短い日高 美奈と恋に落ちて、野球が疎かになっていたセガレ、飛雄馬から相談の手紙を受け取った一徹が、長押に掲げた亡き妻の遺影に向かって、「かあさん・・・・」「なんと 答えてやったら いい・・・・ この命がけの 問いに なんと?」(※原文ママ)とまた相変わらず、涙を出委せにしているシーンがある。
 私の場合は、そこまで具体的に切羽詰まっていたわけではなかったけど、同年の春先の留守中に交換日記が発覚して、母が先方宅に押し掛けたことがあった。
 相手は日高 美奈というよりも、お京さん。(笑)
 
 家はその母が仕切る偏差値、学歴一辺倒主義、が主流。
 当然「(恋愛なんぞどっちでも)いいから勉強しなさい!」なんだけど、自分で云わないで父に云わせるところが、また母。
 
「どこがいいんだ?云ってみろ。」
「どうなんだ?早く云ってみろ。」
 
 と、その時ばかりは(母の厳命がよっぽどだったのか)矢鱈クドく、当方としては唯々単純に「おもしろいから」読んでいたに過ぎず、それでは到底、太刀打ちできるはずもなく、咄嗟に思い付くまま「梶原 一騎じゃないんだけどね・・」と前置きをしてから、水島 新司の『ドカベン』を挙げたら、
 
「佐藤 紅緑の『あゝ玉杯に花うけて』は読んだのか?」
 
 昔も今も読んでいない。未だ。
 そこだ!
 本稿は2005年6月22日に出稿した拙稿「梶原 一騎」のリメイクだが、どうも父の質問にまともに応えられていないような気がして書き直している。何たって、この『元祖!ジェイク鈴木回想録』は全人類の遺産として編纂しているので、まともでなかったとしても、正直でなければ意味がない。
 
 たまたまながら、大学時代に国分寺の古本屋で『のらくろ漫画集①』という文庫本を見付けて、¥100だったので買って、改めて読んでみた。
 月刊『少年倶楽部』誌(講談社)に連載されていた復刻版で、『のらくろ』は同誌の昭和6年1月号から昭和16年10月号まで、10年以上に渡って長期連載されていた戦前の超大作だ。主人公がだんだんエラクなって、その度にタイトルも変わるのは昨今の駄作『○長島耕作』とまったく同じ。アタマ硬いぜ、講談社。(笑)
 
 ガキの時分から、父がどこからか借りてきた上製本を読ませて貰ったり、TVアニメも放映されていた。
 のらくろの声は『ドラえもん』と同じ大山 のぶ代。日本を代表する犬と猫の2大アニメの主役の声優が同じ。また、日本を代表する犬と猫の2大映画『ハチ公物語』と『吾輩は猫である』の主役もまた同じ仲代 達矢。・・って知ってた?
 
 軍国主義下の作品について、ここで多くは触れない。
 超〜露骨な軍事教育作品で、猛犬連隊と対峙するサルやブタやゾウは軍刀でバッサバッサと斬り捨てられ、斬り口まで描かれている。爆弾で一気に全員、木っ端微塵にされたりもする。勧善懲悪でも何でもなく、唯々単純に味方で無ければ皆殺シ。殺すべき!殺せばえらい!戦争の肯定!戦争賛成!(笑)
 こんなもんが児童向けの雑誌に掲載されていたんですな。
『サザエさん』同様、昭和の国内記録としてならともかく、現代に於いて世界に羽ばたく日本のマンガの先駆けとしては、直接、繋がらないような。
 世界に羽ばたく先駆けとやらは、上昇志向の講談社や小学館ではなく、幼児退行志向の週刊『少年ジャンプ』でしょ。
 
 ンなことよりも『のらくろ漫画集①』の巻末に掲載されている〝少年倶楽部文庫〟の発行目録には、江戸川 乱歩の『怪人二十面相』や『少年探偵団』と並んで、佐藤 紅緑の『あゝ玉杯に花うけて』もある。
 
 何だよ。
 
 要するに『のらくろ』も『怪人二十面相』も『あゝ玉杯に花うけて』も『巨人の星』も『あしたのジョー』も『ドカベン』も『愛と誠』も、時代こそ違えど、すべてその時代の少年達に向けられた夢であり、娯楽に過ぎなかったワケで、父はその娯楽を全否定していたワケではなかったワケだ。
 となると、疑問が生じていたのは、やはり梶原 一騎原作の『愛と誠』という作品そのものだったのかも知れん。
 
 梶原 一騎もまた少年娯楽小説の出身で、Wikipediaには、
>その時、『週刊少年マガジン』の当時の編集長・内田勝と副編集長・宮原照夫が梶原の元を訪れ「梶原さん、マガジンの佐藤 紅緑(少年小説の第一人者)になって欲しいんです」と口説かれ、それまで悩んでいた梶原の気持ちに火がつき、1966年、野球漫画『巨人の星』(画:川崎のぼる)の連載を開始。
 とある。
 
 私の『ドカベン』から父の『あゝ玉杯〜』は、てっきし野球繋がりかと思いきや、父は最初から梶原 一騎に佐藤 紅緑が見受けられなかったのかも知れん。密かに私の蔵書、『愛と誠』の第6巻を確認した上での関心や疑問だったら、至って正攻法だよな。

 第6巻だけだったら、愛もなければ誠もまったくないんで。

 誠を読むならやっぱし新撰組、近藤 勇だろ!

 
 んー・・・・・・。やはり偉大だったのかも知れん。
 私が『あゝ玉杯〜』を読んでいなければ、話はそこでおしまい。既読なら徹底的な議論を展開していたことだろう。
 私は父との議論が好きだったから。
 
 とは云え、その議題については些か分が悪い。
『巨人の星』や『あしたのジョー』だったらまだいいけど、『愛と誠』を実家に長く置き残してきたのは、少なくても常に手許に置いておきたい作品ではなかったのだろう。(『あしたのジョー』は現在、箱入りだが、『巨人の星』は常に確認できる。)
〝純愛山河〟を謳っていても、『愛と誠』は唯々暴力の連続で、読者は主人公、大賀 誠の暴れっぷりで溜飲を下げるだけ。先述の星 一徹のような涙なんぞ、これっぱかしもない。
 正直云って、ピークを過ぎた作家の風前の灯。救われているのは、ながやす 巧の常軌を逸して緻密な描写くらい。
 
 父は元々偏差値、学歴一辺倒主義どころか、自由放任主義。
 その晩もたぶん「梶原 一騎が好きなら好きで好きにしろ。だが、お母さんに心配をかけるな」辺りで締られたと思われる。

 主旨は無論「だが」以降。
 
 よし!明日、早速、本屋に行って、『あゝ玉杯に花うけて』を買ってこよう。
 話はまたそれからです!>(今は亡き)父
 
 
※タイトル、文中敬称略
※初稿:2005年06月22日
※改訂:2021年10月13日/2026年05月28日
※画像:1969年から1971年にかけて発覚した、日本のプロ野球界に於ける黒い霧事件に〝涙する〟花形 満(の姿を借りて主張する梶原 一騎)。子供だった私には、花形が何故、泣いているのか理解出来なかったが、彼の力強い表情と黙り込む報道陣の対比が印象に残った。