『私と音楽雑誌』その2/3 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 

 全盛期の同誌は常に300ページを軽く超えていた。
 
 同じ〝Play〟で始まる米国版月刊『PLAYBOY』誌を凌いで、世界一の中綴じ雑誌だったらしい。中綴じ雑誌は通常、馬鹿デカいホチキスの針の2点止めだが、当時の同誌は真ん中にもう1本、外側に向けた針で補強された3点止めだった。1冊全部、燃やしてみそ?ぶっ太い針が3本残るはずだから。
 
「でも、殆どが広告じゃねーかよう!」と〝不満〟を持たれる方は、既に素直や純粋を通り越して、かなりのバカ。少なくても同誌の読者ではないから逝ってよし。(笑)
 純粋だけではメシを喰っていけないことを教えてくれたのもこの会社であり、この雑誌であり、西新宿の母であり、兄弟姉妹達だった。
 
 同誌では毎年末に、古くは〝読者人気投票〟、私が在籍していた頃には〝Player Reader’s Poll〟という、読者アンケートの集計特集があった。その結果、もっとも興味が持たれていたページは実は広告ページで、2位は先述の〝Billboard〟。毎年、ね。
 
 そこにこの会社と雑誌の凄さがあった。
 
 誰が決めたのか知らないけど、日本の雑誌には、広告が総ページの5割を超えてはならない暗黒の掟があるらしい。全300ページだったら広告は150ページ未満。最少でも150ページの編集ページを制作しなければならない。
 一応、バカ共に教えといてやるが、広告ページというのは、出版社にお金が入ってくるページ。編集ページは出版社がお金を支払って作るページで、その差し引きが収益。
 え?何?収益は読者が支払う購入価格だろ!?って? バカ云ってんじゃねーよ。僅か500円で○○万冊実売したところで、それは製版、印刷、ホチキス3点留めの製本代くらいにしかならん。つまり経費。同時期、カラー・ページ数や使われていた用紙の重さ(:要するに厚さ)は比較にならなくても、月刊『PLAYBOY』誌は1,200円くらいしなかったか? 末期の同誌は平綴じになったけど、¥2,000を超えて、最終号は¥2,400!!!
 
 如何に低価格で、如何に沢山の情報を如何に沢山の読者に送り届けるか。それこそが社主の夢だったことは間違いない。
 
 そうそう!
私が入社した頃にはまだバブルの景気が続いていた。同年代の友人達が破格のボーナスを貰って、豪華な海外旅行や結婚式が頻繁だった一時期にも関わらず、堅実な同社では何もなし。だが、その堅実性が結果的に55年の歴史の半分以上を刻んだことになる。
 
 更に凄いのは・・。
 
 編集ページを120ページ作るのと150ページ作るのでは製作コストは当然、1.25倍異なる。判るよね? ところが同誌は120ページ分の制作費で150ページを作り続けてきた。何故か?
 メンバー募集のページ〝Billboard〟はアレ、広告ではなく編集ページなので、増やせば増やすほど、広告ページを増やすことが出来る。
 しかも、読者から返送されてきた綴じ込みハガキをそのまま印刷屋さん(※当時は版下屋さん)に入稿するだけなので、原稿料は¥0。用紙は冊子の印刷用紙として最も安価な電話帳用紙。
 強いて云えば、綴じ込みハガキの印刷と雑誌への綴じ込み費用だが、ンなもん、300ページもの月刊誌を毎月○○万部も発注していれば、タダ同然だったのでは?
 ハガキの推敲等の〝編集〟作業は、経理担当者が片手間に従事していたので、人件費もせいぜい0.5人分。
 
 しかもだぜ? 誰に迷惑を掛けている? 誰が損害を被っている?
 
 読者は僅か500円で、バンドのメンバーでも楽器でも、欲しい情報をがんがん探せる。しかも、50円切手1枚増資すれば、メンバーの募集でも加入希望でも、要らなくなった楽器の販売でも、自らが情報の発信者になれる。
 
 私なんぞは毎月、最新号が出来上がれば先ず楽器店の広告を全部観て、Music Man StingRayのウラ通し〝の左用〟を、眼を皿のようにして探したもんだった。在職10年で現物に出会えたのは僅か2本だけで、結局、買えなかったけどな。ポール・マッカートニーでさえ保有していない(と云われた)'70年代製のピック・アップが搭載されている#4001を運良く入手出来たのもまた、在籍していた役得。(笑)
 
 実売部数も伸びていた(らしい)から広告の出稿量・・、要するに情報量は更に増える。広告雑誌は広告雑誌でも世界一の広告雑誌で、楽器業界に於ける専門情報誌中の専門情報誌だった(と思われる)。
 在籍中、このカラクリ・・、うんにゃ、ビジネス・モデルを知った時には「凄え!」と驚嘆したもんだった。
 
 更に、だ。読者と広告出稿主、即ち、楽器製造会社、販売会社、練習スタジオ、音楽学校等々が連携して、バンド・ブームを巻き起こした。後発の『バンドやろうぜ』誌が興り、人気TV番組として『イカすバンド天国』、日本テレビの『24時間テレビ』では24時間、都心の数カ所の会場で、常にアマチュア・バンドが演奏している〝バンドにまかせろ〟なんちゅう企画まで出現した。まさに一大ムーヴメントだっただろ!?
 
 インターネットが普及して、個人情報の管理がうるさくなるまでは、だったけどな。


※文中敬称略
※画像:月刊『YMM Player MAGAZINE』1978年7月号:筆者が高校2年時に初めて購入した1冊(の現物)