先ずは金津園の沿革をみてみましょう。以下ウィキより転載。
1888年(明治21年)、厚見郡上加納村字金津に開かれた、金津遊郭が始まりである。後に柳ヶ瀬の西柳ヶ瀬に移転する(当時58軒あったという)。太平洋戦争時、この地に軍需工場を建設するため岐阜市東中島付近に強制移転される。整然とした地割上に急造されたが、バラック造りの風情がないものだったという。戦後ここは、手力特殊喫茶街と呼ばれるようになる。
1950年(昭和25年)10月15日、当時の国鉄岐阜駅南口の紡績工場跡地に一斉移転。この時業者は60軒あり、場所取りはくじ引きの上決められたという。この時1軒あたりの広さは63坪にきっちりとわけられた(現在も各店の敷地面積がほぼ同じなのはこの名残)。その後赤線地帯を経て、ソープ街になったものである(東京の吉原などと同様)。一方で周囲は、普通の住宅地になっている。
・・・・・・今記事を書くにあたってテーマを「遊里跡地」と設定するか「現役の色街」とするかで悩んだものであります。上記、ウィキ情報並びに幾つかの資料に因れば遊郭時代、赤線時代を経ている故に遊里跡地の扱いと致しました。
そして金津園には軒数は少ないものの、私好みのカフェー建築もしっかりと残っております。鼻息荒くしながら変態的に撮影したカフェー建築を後日じっくりと掲載致しますので、赤線建築ファンの読者の皆様、どうぞご期待下さい。
岐阜駅を下車後、迷わずに南口へと向かいます。

岐阜駅は出口が南北に分かれているのであります。良いですか?金津園へ向かうのは、南口ですよ?

岐阜駅南口を出ると直様眼前にそれらしき建物群が飛び込んでまいります。駅から僅か徒歩三分で現役の色街金津園に到着。写真向かって右に聳える建物群は全てソープとその関連物件。

その関連物件とは、お店へと誘う無料案内所、簡単言えば情報喫茶的なもの。

こちらのお店の看板猫さんをパシャリ。何処となく人の心を見透かしているような達観した表情をされておりますな。

原色の看板群にちょっと歩いただけで目がクラクラしてきますよ。

この街で言うところの「観光」とは・・・・・もちろん口に出さずとも決まっています。

一つ一つユーモアが効いていますよね。

それではゆっくりと金津園の内部へと誘われていきましょうか・・・・。
