創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。 -2ページ目

ありがたいありがたい。


コムギ(春まき)は8月末には枯れてきていたので、9月上旬に刈り取って干していた。やがてイナキビが熟し、さらにヒエが熟していたので、9月半ばに順に刈り取って干し、追熟させていた。



創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-こむぎ   創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-いなきび
    コムギさん。         イナキビさん。


創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-ひえ
    ヒエさん。


ほとんど放置されながらもちゃんと実りをつけていた彼ら。…えらい!






創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-小麦☆


      収穫したコムギはこの程度。





と、いうわけで、昨日脱穀。



雑穀栽培の師匠・田中さんに唐箕と足踏み脱穀機をお借りし、手伝ってもらいながら作業する。




        
       創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-小麦脱穀

    コムギは脚立にたたきつけて脱穀。

(原始的かつかなり荒っぽいが、これが一番確実)






          創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-足踏み脱穀機
   イナキビとヒエは足踏み脱穀機で。     






                  創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-tomi
    「唐箕ってなんてハイテクな機械なんだろう!」

    …って毎回感動するんだよなあ。

   ちゃんと粒の重さでより分けてくれるのだ。スグレモノ!







こうして・・・・

創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-できた

無事に20kgくらいのヒエと5kgくらいのイナキビと一つかみ(…)のコムギを手にする。












それにしても、穀物の収穫・調整ってのは、なんとも言えないありがたい気持ちになるもんだな。

まあ自給率で言えば話にならないけれど、ほんの何食分とはいえ、こうして主食になる穀物を自分で作り食することができるのは嬉しいものだ。










国の食料自給率」なんてのがほとんど無意味な数字だってことは、しばらく前から確信できている。


39%が45%になったら、50%、60%なったら、何かが変わったといえるか?

何も変わらないだろう。ほんの一握りの農家が、今よりもっと大規模化した農地で、輸入した石油をガバガバ使って機械を動かし、極力安い国から輸入した化学肥料をドカドカ入れて農薬をじゃんじゃん撒いて、半ば砂漠化した土地から奪うように作物を得るだけだ。

(そもそもアメリカ西海岸で収穫した食べ物をニューヨークのオフィスで食べて「自給!」だなんて、どう考えたって「そんなバカな!」って話だろ)




「北海道は食料自給率200%」だって・・・?

「北海道は日本の食糧基地」だって・・・?

言い方を変えれば、「北海道は今でも植民地」ってことじゃないか。





低開発国のプランテーション、高開発国によってモノカルチャー化させられた農業を否定し、グローバリズムに反対し、自給的農やフェアトレードの必要性を訴える善良な?人たちもわかってない現実。

「消費者」はもちろん気づかないし、農業関係者は尚のこと公に決して口にしないけれど、どう考えたって北海道の生産者=農民は、都市生活を送る「消費者」の奴隷的存在じゃないか。







中島正さんの『みのむし革命』(農民は都市生活者に作物を売るのをやめよ!と訴える革命的な書)は、今じゃ「それなら安い国から輸入するまでだよ」と一笑されるだろう。

けど、“安い原料を使い、やすい労働力で安いものを大量に作って売って消費させ続ける”グローバリズムの先が行き止まりだってことくらい、よく考えればわかることだろうと思う。そもそも「搾取」を前提とした構造なんだから。

100年先まで、そんなやり方でやっていけるはずがない。








数字で表される「自給率」なんて、どう考えてもあまり意味はない。


国の自給率はもちろんのことだ。しばらく前までは自己自給率向上が目標だったけど、それも今はどうでもいい。

自分一人でできることなんてたかが知れてる。自給自足なんてつまらない。何%自給できてるかなんて数字にこだわると、本質を見失う。


大事なのは、物質・エネルギーの循環を理解し、イキモノである自分を感じることだろう。それが、「自己家畜化」を脱し、「自給力」を身につけることだって気がする。

つまり、喰うことの由来を体感できていればいい。









この冬には、採れたヒエで是非ヒエ酒を作りたい。アイヌの人々も作っていたものだ。


もう少しでタカキビやハト麦も採れるだろう。ほとんどダメだと思った陸稲も、茶わん2杯くらいは採れるだろうか。ダイズはかなり採れそうだ。




うん、良い粒を種にして、来年もまた播こう。



「ありがてぇ」と「ワクワクする」気持ち、まずは、それがあるから十分だ。


  創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-いなきびxxx
   なかなかキレイなイナキビ。



私の本棚。

 ちょっと大きな本屋に行ったもので、嬉しくってついたくさん本を買ってしまった。

一応、テーマはあった。



自分がカフェを開くとしたら置きたい本」。


って基準で購入したのが、このラインナップ。 



まずは、『庭で飼うはじめてのみつばち』和田依子・著

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やっぱり蜂は飼いたいでしょ。蜂蜜好きだし。自分の蜂蜜ならそのまま野生酵母でミードも作れそうだし。蜂蜜と甘酒(米+麹)があったら相当糖分も自給できるし。面白いと思うんだな、養蜂。





お次は、『エコ罪びとの告白』フレッド・ピアス・著

       創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-ほん1


 自分が持っているモノが、“どこでどのように作られ、どうやってここにきたのか”をたどった本。今の世界の「当たり前」で「ヤバい」現実が(たぶん)書かれてる(まだ読んでないけど)。







それから、『スローフード大全』スローフードインターナショナル監修


      創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-hon5  


スローフードとかECOとかオーガニックとか、基本的に僕は信用しない。大概が中身のないオカネモウケの為の冠だったり、自分がイイコトしてる気分で実は何かをふんづけてる狭視野なものばかりだから(フードコーディネーターなんて、世界で2番目くらいに破廉恥な仕事でしょ)。

この本も「はいはい、スローフードねぇ」と期待せずに手に取ったら、案外骨太でびっくり。3500円もするのについ買ってしまった。表紙の(たぶん)グゥアテマラあたりの市場の写真が懐かしくて嬉しい。








それから、『考えるキノコ』佐久間大輔・監修


     創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-honn  


キノコの写真集。アヤシくてカワイくて、美しい。でも、それだけじゃない。キノコがいったい何モノなのか、僕は全然わかっていなかった!菌、黴、キノコを知れば、世界は本当に違って見えてくる。僕もキノコについて、もっと“考え”たい。













そして『畑がついてるエコアパートをつくろう』平田裕之/山田貴宏・著 
         創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-ほん2

タイトル通り、というか、むしろ「賃貸住宅つき畑」のモデルを専門的知識と技術を駆使して作るまでの過程をつづった本。「都市部で農的生活」ってところがいい。「あこがれの田舎暮らし」とか言って退職金で贅沢三昧の浪費生活するよか、ずっと現実的で前向きな感じがする。










で、この夏最大のヒットがこれ、『くう・ねる・のぐそ』井沢正名・著


                 創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-hon


僕が開くカフェには、一番目立つとこに置いておきたい、ランキング現在1位の名著。噂には知っていたが、初めて手に取り即買いを決定した。糞土師を名乗っている伊沢さんは、野糞歴35年のベテラン(ほぼ毎回野糞らしい)で、世界中の大地に自らのウンコを埋め込んできた人だ。

アレコレ言うより本文抜粋。

「…ヒトは動物として、栄養を他の生き物に依存して生きるしかない。いわば寄生虫的な生物だと卑下していた(←伊藤注・ここはちょっと寄生虫を誤解してるけどね)。だからせめてもの罪滅ぼしに、食べた命の残りであるウンコを全部土に返そうと野糞に励んできたのだ。ところが、この野糞跡の調査では、多くの動植物や菌類が私のウンコに群がり、大変な饗宴を繰り広げている現場を目撃した。ウンコは分解してもらうお荷物などではなく、とんでもない御馳走だった。ウンコをきちんと土に還しさえすれば、もうそれだけで生きている責任を果たせそうな気がしてきた・・・」

う~ん、伊沢さんはエライ。けど、「のぐそ」って打ってもパソコンで漢字変換できないのは何でだー!?・・・許せん。









その他、以下の本を購入。飽きたので紹介はしないけど、面白い本ばかり…と思う(でもちょっと買いすぎたな)。


『食品の裏側~みんな大好きな食品添加物』安部司

『とことんおいしい自家製生活』永井良史

『人間はどこまで耐えられるか』F・アッシュクロフト

『<健康な土><病んだ土>』岩田進午

『101の画家』視覚デザイン研究所

『からだは星からできている』佐治晴夫

『にっぽんたねとりハンドブック』たねとりものがたりプロジェクト編

『農家が教える加工・保存・貯蔵の知恵』農文協

『我利馬の船出』灰谷健次郎

『ずっとずっと空の彼方までも行っている気分なのです』小渕もも


排除する理由(後編)

そもそも農地は、人間の傲慢さの原点だ。

本来は複雑化・多様化に向かう生態系に逆らい、無理やり反自然的に単純化させている。だから、栽培に不利益なものを排除するのは当然だと思う(それが栽培だ。農は決して“自然にヤサシイ”行為なんかじゃない)。


だけど、理由なき排除をする必要もない。安易に排除など、したくない。





そこに生まれてきて、そこにある。

生態系の一部として、そこに存在する。

僕も、名も知らぬ雑草も、同じだ。

つながりの中に理がある。

安易に排除などできるはずがない。









「人を殺してはいけない理由」?



・・・そんなのに、理由がいるかよ。

生きてるものを殺すこと、そこに存するものを排除することに理由があるだけだろ。





 「そうは言っても、不安になる」

「自分が生きてる理由が欲しくなる」

「生きてることを確かめたい」

「理由をちょうだい!」




 まあ、わかるよ。

いや、よくわかる。僕もそうだった。

自分が生きていること、生きていくことに、ちゃんと理由が欲しかった。





けど、今は、そんな理由なんていらないんだ。

飯を作って(もしくはだいだらぼっちの仲間たちに作ってもらって)、喰うだけだ。


最近感じるのは、「もう、それでいい」ってこと。











食べ物を探して森に入り、鮮やかな木の実を見つけたときの高揚感。

色や形を見分ける視覚、判断力。

鳥や獣の鳴き声、風の音に反応する自分の鼓動。

匂いを嗅ぎ、触感を働かせ、口に放り込む時の探究心や不安。

ひどく苦かった時の悔しさ。甘かった時の安堵。

獲物を追う時のスリルや興奮。

逃げられた時の虚しさや徒労感。

しとめた時の達成感。

したたる血の温かさや生臭さと喜び、興奮。

獲物が事切れる時の快感。

空腹の体に他の生命が入っていく満足感。






知も芸術も感動も、もともと全部、食の前段行為に含まれていたものなんじゃないかって、思う。

絵だって楽器だって歌だって、食と切り離れたものじゃなかった。




喰う為にする行為」に、すべてが含まれ、つながってた。

 それを全~部人まかせにしちゃってんだから、そりゃ不満も不安も募るよな。

 食の前段行為を手放してしまうことは、実は致命的な欠落だったんじゃないだろうか。


 忙しいってコンビニ弁当食べて、暇だからってDVD観ながらポテチ喰って、誰でもよかったって誰かを殺して、ウイルスが怖くて除菌する。

 …手放したものの隙間を代替行為で埋めなきゃ、不安でしょうがない。









 まあ、たまにはどぶろくでも作って、「酵母菌がんばってんな~」ってつぶやいてみよう。
 たまにはぬか床をかき混ぜて、「乳酸菌さんお疲れさんです」って声かけてみよう。
 たまには鶏をツブして内臓えぐって、「ごめんよう!…でも旨いよ!」って自分の不条理を見つめてみよう。

たまには雑草をほったらかしにして、「さすがに強いねえ」って感嘆しよう

 たまには手づかみで飯食って、生々しく体で味わってみよう。


 ・・・んでもって、「ごちそうさん!」って手を合わせるんだ。






話がバラバラになったけど、つまり“生態系の中の自分”を感じてりゃ、そう間違いはない気がするんだな。

だいだらぼっち(仮名)の一員として、飯作って喰って出してりゃ、自分が「満足」してることをちゃんと実感できるんだな。



怖がってやたらと排除する必要もないでしょ。


       創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-ほろこと
    といいつつ、凶器(ホー)でジェノサイド。

                ・・・・すまんね。また生えてきてね。





神はイラナイ。

排除する理由(前編)。

農業は雑草や害虫とのたたかいであると言われてきた。除草はホントに骨が折れるし、害虫の大発生は深刻な問題だ。農薬(含除草剤)が「救いの神」として大歓迎されたことは、だから、頭から批判できるはずがない。




有機、慣行、いろんなタイプの農場で手伝いをする機会が多い。人の畑で除草を頼まれる機会も多く、その度に僕は尋ねずにいられない。

「何故草を取るのか?」

「草は抜くのか刈るのか?その草はどこかに持っていくのかそのままそこに置くのか?それは何故か?」

丁寧に合理的理由を説明してくれる方もいれば、結局よくわからない曖昧で風説に拠る答えを返してくれる方もいる(そっちの方が実は多い。「草ボウボウなんてみっともない!」ってのが第1の理由だったりね)。



   


       創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-くさだらけ

             小麦が実って嬉しい!

 …と喜ぶ前に「草刈れよ!」って言われるか?さすがにこれは。












トラクターで耕し、石だの草だのを取り除いて整地したまっさらな「畑」。

作物の種をまく前の畑、そこには何もない?



とんでもない!無数の虫や微生物や植物の種が、たゆまぬ生命活動を続けてたり一息ついてたり発芽のチャンスをうかがっていたりしてる。

で、ここぞって時に「雑草」の種は発芽して、微生物が分解してできた無機栄養素を吸い太陽の光を浴びて、成長を始める。その土壌に合った植物が繁栄し、土が豊かになるにつれ、さらに動植物相は複雑になる・・・・複雑化こそ、“豊かな生態系”の姿。


つまり、雑草が生えることが当り前なわけで、それはその土地の生態系が豊かさを取り戻す過程なわけで、それを「排除」するからには何らかの理由があるべき・・・でしょ。




「作物に日が当たらなくなる」、「病害虫が出やすい」ってのが、一般的な理由なんだろうけど、それも時と場合に拠るはずじゃないかと思う。



作物の丈が伸びてて雑草よりも高ければ、とりあえず日光は問題ない。病害虫にやられるのは作物の生命力が低いからだろうし(それは栽培作物の性だけどね)、雑草を除くことは天敵の住処を奪うことにもなる。まぁ、そうは言っても確かに病害虫がやっかいなのはわかるから、株元の草を取るくらいは必要なこともあるだろうけど、それなら病害虫対策の必要な時期に取ればいいわけで、常に除草する必要なんかない。むしろ、草の耕起作用や保湿効果は馬鹿に出来ない。なにより草(植物相)は、その土地の現状を教えてくれる。









近代思考の恐ろしい点は、「単純化」と「排除」にある。

栽培における除草や病害虫駆除は、その典型のように感じる。

特に、近現代の化学薬品による「排除」は。


とりあえず排除する。

邪魔なものは排除する。

邪魔じゃないかもしれないけど、よくわからないから排除する。

必要なもの以外は、とにかく排除しておこう。

じゃないと不安でたまらん。

一応排除しておこう、簡単だし。

・・・ってね。



除草しながら、考える。

「この草は何故ここに生えてきたんだろう?」

「何故あの草はここに生えないんだろう?」

「この草を今、取るべき理由があるだろうか?」

「根は残して刈った方がいい?それとも抜いた方がいい?」

「取った草はもったいないから、せめてこの場に残そうか(だって土の栄養を吸って大きくなったんだから、土に戻さなきゃ。それに保湿もしてくれる)」


別に、無殺生の戒律に沿おうとしてるわけじゃない。

「自然に優しく」なんて思っていない。

そこにあるものは、在るのが当たり前なんだろうから、排除するにははっきりとした「理由」が欲しいってだけだ。



                (つづく。1回で4000字しか送れないのね。少ないよ!)




「健康」と「自然食」。



自然食品店さんがやってる農園で、たびたび農業研修させていただいている。経営されている方も働いている方もとても信頼できる方々で、ありがたい学びの時間となっている。


なので、なかなか一概には言えないのだけれど・・・基本的に僕はもともと、「自然食」とか「健康志向」といったものが苦手だ。




以前からけっこう抵抗感があった。

最近すっかり外食が減り、コンビニに入ることがなくなり、食べ物を買う時に必ず表示を見、プラスチックで袋詰めされた食べ物をほとんど買わなくなり、自給的栽培や飼育・食品加工に精を出し、食にかんする勉強やそれを伝えることに熱を入れる現在の僕は、相当「自然食」好きの人たちや「マクロビ」の人たちと近い思考・生活習慣を持っているのだろう。

まさに、今の僕の生活はLOHASっぽい。


けど、やっぱり違うのだ。

むしろ、「食」にかんする知識が増え、そこから見えてくる世界の構造を知れば知るほど、“そういう人たち”とのズレは大きくなってくるようだ(先日、マクロビの先生をされている方とお会いした時にも、強く感じた)。



こんなに「食」について学び考えてはいるが、そもそも僕は“健康でなきゃならない”とは思っていない。

はっきり言えば、そんなことはどうだっていい。




食べ物にかんする知識は本当に面白いし、そこからいろいろなものが見えてくる。食品の意外な効能を聞けば、「へえ~」とうなったりもする。イイカゲンな食の在り方には腹が立ったりもする。


 でも、どうしても、“自分の体を健康に保たなければ!”とか“もっと健康に!”とは思わない。まして、そのために食生活をどうこうしようという気にはならない。それを理由に農薬や添加物を吊るしあげる気になんてならない。



「健康」はあくまで相対的な「状態」だし、思うように動けるための条件でしかない。

「健康」自体は、決して目的じゃない。





僕の思考の基本は、“自分で食べるものくらいは極力自分で作った方がいいんじゃない?”ということだ。



“体に良いから”と遠くから運んでくるんじゃなく、できるだけ身の周りの「物質循環」の中で生きたい。


 できるだけ「生態系」のバランスを壊さないようにしながら、できるだけエネルギーの「浪費」を少なくして生きたい。

工場で大量の石油を使って作られたものじゃなく、先人の知恵を引き継ぎながらできるだけ自分の手と脳を使って(微生物の力を存分に借りたりしながら)作り、食いつなぎたい(あくまでも“できるだけ”だ。人間として現代社会を生きる以上、どうしたってキレイな「環」の中にはいられない)。





肉をあまり食べないのは、「主義」ではなく、殺すことがとても不快でストレスの溜まる行為だからだ。


一羽の鶏の首をはね、羽をむしって内臓を取り出す作業は、僕にとって喜びに満ちた行為とは言い難い。まして気持ちをこめて育てた鶏なら、相当に深い悲しみに包まれもするだろう(もしかしたら殺せないかも・・・)。そして、まだ経験はないけれど、一頭の牛や豚を殺すのが、気軽にできる行為ではないことは、想像に難くない。



“喰うため”とはいえ、「殺す」ことは本当に「痛い」行為だ(自分がね)。

だから、そうそうやれない。だからって、人に殺させればいいとは思えない。だから、そうそう食べられなくていい。

自分が殺せる分だけ食べる。それが当り前の“生き物の在り方”だって感じる(もちろんこれも、“できるだけ”だけれど。今の生活の中で、厳格にすべてを屠畜することはもちろん不可能だ。けど、“殺す痛み”を知ることは重要だと思う)。






ネパールに行ったとき、ちょうどセレモニー直前だった。

カトマンズの肉屋さんの前には、屠畜してもらうために飼っている(もしくは買ってきた)ヤギを連れてきた人が列をなしていた。

ヤギは、粛々と肉になっていった。

子どもたちが、ちょっと怖そうに、でも旅行者の僕に向かって「すげーだろ!」って自慢するような目を向けながら、見ていた。

僕は、自分で撮影したこの映像を見るたび、(わかっているのに)ドキン!とする。

…「殺す」ってのは、本当に、痛い。










季節に採れるモノを食べる

工夫して保存しておいたモノを食べる。

その土地で採れるモノを食べる。

自分で作れるモノを食べる(今の僕にはまだ、「自足」するだけの力はないけど)。




そうやって得る「食」は、時に当然「ばっかり食 」にもなるだろう。栄養にも偏りが出るかもしれない。




でも、それでいいのだ。
 それで栄養素に何らかの過不足があって「不健康」になったとしても、僕はそのままでいいと思う。だってそれは、本来、受け入れるしかないことだから(当然、野生の動植物は受け入れて生きている)。


それが真の「自然食」だと僕は思う。


あっちこっちから“自分の体にイイモノ”をかき集めて(もしかすると他の人、他の生き物の分まで奪って)得る「健康」に、いったい何の価値があるだろう。






食に関する知識は、確かに必要だ。


けれどそれは、僕にとっては、“当たり前を知る”ためであり、“「構造」の中で「奪う側」から脱する”ためであり、“身に余ることをしない”ためだ。





“生きる”ってことは、とどのつまり“その土地の生態系に属する”ことじゃないだろうか。


本当はもう、ウンコすらも流したくない。

だって、もったいないじゃないか!




実らない冬に備えて・・・

冬に備えて、たくさん取れてる夏野菜を保存しよう。



創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-tomato  創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-びんづめ
定番の「トマトピューレ」。じっくり煮込んで、ビンに詰める。常温保存。



 創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-picles
インゲンやキュウリ、ナスのピクルス。


漬物や乾物、どんどん作らなきゃ。


バジルソースも作ろう。


すっごい茂ってるシソは、どうやって保存するのが一番いいのかなあ。

実りの秋を前に・・・。

全然手をかけていないのに、雑穀たちの成長が見事。

「エライもんだなぁ」って思っていたら・・・、ある朝ヒエやトウモロコシが倒伏していた!



     創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-とうふく

あわててテープで立て直しながら、倒伏防止対策。

徒長しすぎたヒエが倒れ、となりのイナキビまで巻き込んで倒れていたので、一苦労だった。


でも、努力の甲斐あって、持ち直した感じ。



     創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-とうふくぼうし

さらに、鳥害対策も兼ねて、雑穀の周りをテープでぐるぐるぐるぐる・・・・・・・



    創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-srani
  


トウモロコシもぐるぐるぐるぐる・・・・・


    創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-とうふくとうきび



      創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-toumorokoshi

八行トウモロコシ、ちゃんと大きくなってきてる。

          もうひといきだ。

  





実りの秋を前に、残念な状態のものたちもいる。



  創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-tamanegi
 タマネギの茎が折れてしまった・・・!

  これ以上、玉が膨らまないか?



          創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-ninjin
コンパニオンプランツとして、ダイズの条間に播いてたニンジン。

   ダイズが繁茂しすぎて、ひょろひょろになってた。

ダイズを1列移植したけど、それでもあんまり元気がない。

  (実はタマネギの茎折れも、たぶんダイズの移植が原因)

とにかく、間引き不足で採植密度が高すぎるんだな。反省。



     創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-なす切り返し
 調子の良いナスは、半分だけ試しに切り戻し。

疲れ始めた枝葉を落として、根を切って、ちょっと追肥。

      これで秋ナスが採れれば嬉しいなあ。





  創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-めーくいん

 ジャガイモは、一足早く収穫終了。


  創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-白菜定植
  …で、その場所に秋どり野菜を播種&定植。

     (ちなみにこれは苗立てしてた白菜。

水分管理のため、泊まりで出かける時なんかは車に積んで移動してた。

  今もまだ、小さいキャベツとレタスの苗が車内にある。

          苗と旅する男なのだ)


雨のち晴れ。

         

創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-久々の青空

             久々の青空。雑草も作物も、一気に伸びる。


おっ、キャベツの出来がいい!


創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-きゃべつ



創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-キャベツ株

収穫後の株を放っておくと・・・・



創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-芽キャベツ

芽キャベツが出ていた。もちろん二次収穫。




創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-tougarasi  創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-okura
   トウガラシとオクラ。天に向かって実がつく。なんか不思議。


 創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-きゅうり
キュウリの地這いはあんまりよくない。

   見つけんのが大変なんだ。



創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-ざつな1   創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-ざつな2
雑菜の種をばらまいたところ・・・・間引きをサボってるうちに、花畑。

                                (まあいいや)



創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-収穫

        ある日の収穫。

(カブ、キャベツ、ナス、インゲン、さやえんどう、

 オクラ、小松菜、きゅうり、トマト、レタス、ニラ、

 春菊、はつか大根、チンゲンサイ)




もうピヨコじゃないの!


創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-ぴよじゃないの


生後約3か月。

ますます元気なピヨコたち。


小屋に近づけば大騒ぎ、小屋に入れば何羽も肩や背中や頭にまで乗ってくる。

エサもホントによく食べる。


体も当然、ずいぶん大きくなった。

(そりゃそうだ。スーパーで売ってる「若鳥」は30~45日。もうとっくにお肉にされちゃってるお年頃。でも、30日の頃なんて・・・この子たちちっちゃかったよなあ。いったいあの「若鳥」は何食べて“作られ”てんだか・・・)



          創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-とりかい
              いよいよもって、悩ましさが募る。

         「僕はこの子たちの首をハネてツブせるのか?!」




ちょっとのっぴきならない用で、3日ほど留守にした。

エサも水も、一応5日分くらい置いていったけど、すっかり無くなっていた(日頃から足りてないってことか?)。

で、エサ箱も水入れも空っぽで、カスれたような声でピヨピヨ寄ってきた。

ホントにカスれたような声。


「ごめんよ!だいじょうぶか?!」


ところが・・・・う~ん、それから数日しても、声は変わらない。

っていうか、ますますひどい。


「夏風邪か?」


いや、ちがう。

・・・声変わりだ!


どうやら、もうピヨではないらしい。

コッコッコ、って鳴き始めてる。

ちゃんと大人になってきたんだな。

来月末には卵、産んでくれるかな~。


本の山・・・


3つの図書館から10冊ずつ本を借りた。

そのほかに、人から借りてるのと最近自分で買ったのを数えたら、なんと40冊近くになった。

大変だ・・・。

必死で読もう。







とりあえず1冊、読み終えた。


人間は農業の原罪である』 コリン・タッジ著




動物学ダーウィニズムの視点から農業を捉えなおした本で、なかなか面白かった。脳が発達し、クロマニョン人から現在の人間になっていく過程で、食料の蓄積や野生動物や植物の囲い込みなどを経ながら緩やかに、しかし必然的に「農的」な技術を身に付けていった過程を(滅んだネアンデルタール人と対比しながら)冷静に分析した良書だと思う。


タイトルの過激さは実は原題とはちょっとかけ離れていて、訳者である生物学者・竹内久美子さんのセンスによるものだけれど、これも的確ではないだろうか。「飼育」を含めた「農」は、やはり「自然」の一部として存在する「狩猟採取」の生活に比べ、明らかな暴力性がその根底にある。貯蓄や飼育・栽培が、食料の安定化をもたらし、それゆえ人口は増加の一途をたどることとなったのだ。人口増加は善悪の問題ではないが、“間違った選択”ではあると思う。人口が増えれば、また更なる生産量の拡大が求められる。富の偏りが大きくなり、階級や格差が生まれてくる。そして、より広大な領土が必要になり、より多くの資源が必要になる。



「近代農業」がことさら大きな問題を抱えていることはもはや自明だが(残念ながらそれすら認められないのがこの国の農業関係者のほとんどだろうけれど)、それは農が始まったときからのむしろ自然な流れなんじゃないか、とも著者は言う。時に爆発的に時にやや緩やかに、しかし常に右肩上がりに食料も人口も増加してきた。食料不足だから増産するのではないのだ。増産しつづける農があるから、人口が増えるのだ。


キリスト教的感覚は僕にはわからない点も多いが、「原罪」とは、初めから背負っている罪だろうか。つまり、人間が人間となった時には既に「農」があり(それは採取に近い原始的なものだったろけれど)、その罪を抱えながら(膨らましながら?)人間はここまで来たのだ、とタッジは言う。




 本文中では、そのことは強い肯定も否定もしていない。それが正直なところだと僕も思う。良い悪いではなく(いや基本的には「罪」なのかもしれないけど)、どーしようもなかった、ってトコなんだろうと思う。





 一歩間違うと、農業は「イイコト」の部類に入れられる。広大なジャガイモ畑を見て「自然がいっぱい♡」なんて感じさせたりもする(あんなに不自然で人工的な景色はないのに・・!)。「自然がつくったおいしさです!」なんてカ○ビーに言われたら、つっこむ気もうせて、吹き出しそうになる。


 それはあまりにヒドイ例としても、有機農業や自然農に携わる人は、もうちょっと自信たっぷりに「自然とともに」「いのちの中で」「自然の一部として」・・・など、美しい言葉でその行為を語ったりもする。


でも、どんな方法にせよ、「農」は「不・自然」な行為だ。

「原罪」かどうかはともかく、決して「自然」な行為ではない(だから「自然農」って言葉は矛盾をはらんだとってもビミョーな言葉な気がする)。


「農業は反自然的行為」。そこをまず認めたい。それを認めたうえで、それをスタートとすることで、どうすればちょっとでも負荷が少なく、循環に戻りやすく、「自然」に今よりも寄り添えるのか、を考えることができるんじゃないかと思う。









 ・・・・・ああっ!

 ちょこっと感想を書こうと思ったら、こんな長くなってしまった。こうやって貴重な時間がなくなっていく。





 さて、読みかけの本や実用書も数冊あるけど、以下の本を今後、読破していくのだ!(目標1カ月で!)










『現代有機農業心得』 藤本敏夫

『現代の食とアグリビジネス』 大塚茂・松原豊彦

『アレロパシー』 藤井義晴

『原点からの農薬論~生物たちの視点から』 平野千里

『アース・デモクラシー』 ヴァンダナ・シヴァ

『国民のための百姓学』 宇根豊

『有機農業みんなの疑問』 舘野廣幸

『有機農業の事典』 天野慶之

『食糧植民地ニッポン』 青沼陽一郎

『クリーン農業時代』 相馬暁

『戦後化学肥料産業の展開と日本農業』 綱島不二雄

『世界の国ぐに』 板倉聖宣

『エミシ・エゾからアイヌへ』 児島恭子

『自家製天然酵母のパンづくり』 吉田佳江

『生田悦子のやさしいゆび編み』 生田悦子

『安ければそれでいいのか』 山下惣一

『料理の科学』 佐藤雅美

『上手な食品の保存術』 佐藤順子

『死ぬための食事生きるための食事』 笹岡さつき

『不耕起でよみがえる』 岩澤信夫

『有機農業運動と提携のネットワーク』 桝潟俊子

『食品の裏側』 安部司

『高いわけ、安いわけ』 NACS東日本食部会

『世界から貧しさをなくす30の方法』田中優・他

『食品添加物は敵?味方?』 西島基弘

『農から環境を考える』 原剛

『家庭菜園ビックリ教室』 井原豊

『プロに教わる家庭菜園の裏ワザ』 木嶋利男

『自給再考』 西川潤・他

『共生共貧・21世紀を生きる道』 槌田劭

『水木サンの幸福論』 水木しげる

『地球持続の技術』 小宮山宏

『被差別の食卓』 上原善広

『人間の土地』 サン・テグジュペリ

『みのむし革命』 中島正

『食品の向こう側<2><7><10>』 西日本新聞ブックレット

『スローなカフェのつくりかた』 吉岡淳






創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。-本の山
 

 ざっと、こんな感じ。