排除する理由(後編)
そもそも農地は、人間の傲慢さの原点だ。
本来は複雑化・多様化に向かう生態系に逆らい、無理やり反自然的に単純化させている。だから、栽培に不利益なものを排除するのは当然だと思う(それが栽培だ。農は決して“自然にヤサシイ”行為なんかじゃない)。
だけど、理由なき排除をする必要もない。安易に排除など、したくない。
そこに生まれてきて、そこにある。
生態系の一部として、そこに存在する。
僕も、名も知らぬ雑草も、同じだ。
つながりの中に理がある。
安易に排除などできるはずがない。
「人を殺してはいけない理由」?
・・・そんなのに、理由がいるかよ。
生きてるものを殺すこと、そこに存するものを排除することに理由があるだけだろ。
「そうは言っても、不安になる」
「自分が生きてる理由が欲しくなる」
「生きてることを確かめたい」
「理由をちょうだい!」
まあ、わかるよ。
いや、よくわかる。僕もそうだった。
自分が生きていること、生きていくことに、ちゃんと理由が欲しかった。
けど、今は、そんな理由なんていらないんだ。
飯を作って(もしくはだいだらぼっちの仲間たちに作ってもらって)、喰うだけだ。
最近感じるのは、「もう、それでいい」ってこと。
食べ物を探して森に入り、鮮やかな木の実を見つけたときの高揚感。
色や形を見分ける視覚、判断力。
鳥や獣の鳴き声、風の音に反応する自分の鼓動。
匂いを嗅ぎ、触感を働かせ、口に放り込む時の探究心や不安。
ひどく苦かった時の悔しさ。甘かった時の安堵。
獲物を追う時のスリルや興奮。
逃げられた時の虚しさや徒労感。
しとめた時の達成感。
したたる血の温かさや生臭さと喜び、興奮。
獲物が事切れる時の快感。
空腹の体に他の生命が入っていく満足感。
知も芸術も感動も、もともと全部、食の前段行為に含まれていたものなんじゃないかって、思う。
絵だって楽器だって歌だって、食と切り離れたものじゃなかった。
「喰う為にする行為」に、すべてが含まれ、つながってた。
それを全~部人まかせにしちゃってんだから、そりゃ不満も不安も募るよな。
食の前段行為を手放してしまうことは、実は致命的な欠落だったんじゃないだろうか。
忙しいってコンビニ弁当食べて、暇だからってDVD観ながらポテチ喰って、誰でもよかったって誰かを殺して、ウイルスが怖くて除菌する。
…手放したものの隙間を代替行為で埋めなきゃ、不安でしょうがない。
まあ、たまにはどぶろくでも作って、「酵母菌がんばってんな~」ってつぶやいてみよう。
たまにはぬか床をかき混ぜて、「乳酸菌さんお疲れさんです」って声かけてみよう。
たまには鶏をツブして内臓えぐって、「ごめんよう!…でも旨いよ!」って自分の不条理を見つめてみよう。
たまには雑草をほったらかしにして、「さすがに強いねえ」って感嘆しよう。
たまには手づかみで飯食って、生々しく体で味わってみよう。
・・・んでもって、「ごちそうさん!」って手を合わせるんだ。
話がバラバラになったけど、つまり“生態系の中の自分”を感じてりゃ、そう間違いはない気がするんだな。
だいだらぼっち(仮名)の一員として、飯作って喰って出してりゃ、自分が「満足」してることをちゃんと実感できるんだな。
怖がってやたらと排除する必要もないでしょ。
・・・・すまんね。また生えてきてね。
神はイラナイ。