「健康」と「自然食」。 | 創作団だいだらぼっちの越境型もののけ思考とその動向。

「健康」と「自然食」。



自然食品店さんがやってる農園で、たびたび農業研修させていただいている。経営されている方も働いている方もとても信頼できる方々で、ありがたい学びの時間となっている。


なので、なかなか一概には言えないのだけれど・・・基本的に僕はもともと、「自然食」とか「健康志向」といったものが苦手だ。




以前からけっこう抵抗感があった。

最近すっかり外食が減り、コンビニに入ることがなくなり、食べ物を買う時に必ず表示を見、プラスチックで袋詰めされた食べ物をほとんど買わなくなり、自給的栽培や飼育・食品加工に精を出し、食にかんする勉強やそれを伝えることに熱を入れる現在の僕は、相当「自然食」好きの人たちや「マクロビ」の人たちと近い思考・生活習慣を持っているのだろう。

まさに、今の僕の生活はLOHASっぽい。


けど、やっぱり違うのだ。

むしろ、「食」にかんする知識が増え、そこから見えてくる世界の構造を知れば知るほど、“そういう人たち”とのズレは大きくなってくるようだ(先日、マクロビの先生をされている方とお会いした時にも、強く感じた)。



こんなに「食」について学び考えてはいるが、そもそも僕は“健康でなきゃならない”とは思っていない。

はっきり言えば、そんなことはどうだっていい。




食べ物にかんする知識は本当に面白いし、そこからいろいろなものが見えてくる。食品の意外な効能を聞けば、「へえ~」とうなったりもする。イイカゲンな食の在り方には腹が立ったりもする。


 でも、どうしても、“自分の体を健康に保たなければ!”とか“もっと健康に!”とは思わない。まして、そのために食生活をどうこうしようという気にはならない。それを理由に農薬や添加物を吊るしあげる気になんてならない。



「健康」はあくまで相対的な「状態」だし、思うように動けるための条件でしかない。

「健康」自体は、決して目的じゃない。





僕の思考の基本は、“自分で食べるものくらいは極力自分で作った方がいいんじゃない?”ということだ。



“体に良いから”と遠くから運んでくるんじゃなく、できるだけ身の周りの「物質循環」の中で生きたい。


 できるだけ「生態系」のバランスを壊さないようにしながら、できるだけエネルギーの「浪費」を少なくして生きたい。

工場で大量の石油を使って作られたものじゃなく、先人の知恵を引き継ぎながらできるだけ自分の手と脳を使って(微生物の力を存分に借りたりしながら)作り、食いつなぎたい(あくまでも“できるだけ”だ。人間として現代社会を生きる以上、どうしたってキレイな「環」の中にはいられない)。





肉をあまり食べないのは、「主義」ではなく、殺すことがとても不快でストレスの溜まる行為だからだ。


一羽の鶏の首をはね、羽をむしって内臓を取り出す作業は、僕にとって喜びに満ちた行為とは言い難い。まして気持ちをこめて育てた鶏なら、相当に深い悲しみに包まれもするだろう(もしかしたら殺せないかも・・・)。そして、まだ経験はないけれど、一頭の牛や豚を殺すのが、気軽にできる行為ではないことは、想像に難くない。



“喰うため”とはいえ、「殺す」ことは本当に「痛い」行為だ(自分がね)。

だから、そうそうやれない。だからって、人に殺させればいいとは思えない。だから、そうそう食べられなくていい。

自分が殺せる分だけ食べる。それが当り前の“生き物の在り方”だって感じる(もちろんこれも、“できるだけ”だけれど。今の生活の中で、厳格にすべてを屠畜することはもちろん不可能だ。けど、“殺す痛み”を知ることは重要だと思う)。






ネパールに行ったとき、ちょうどセレモニー直前だった。

カトマンズの肉屋さんの前には、屠畜してもらうために飼っている(もしくは買ってきた)ヤギを連れてきた人が列をなしていた。

ヤギは、粛々と肉になっていった。

子どもたちが、ちょっと怖そうに、でも旅行者の僕に向かって「すげーだろ!」って自慢するような目を向けながら、見ていた。

僕は、自分で撮影したこの映像を見るたび、(わかっているのに)ドキン!とする。

…「殺す」ってのは、本当に、痛い。










季節に採れるモノを食べる

工夫して保存しておいたモノを食べる。

その土地で採れるモノを食べる。

自分で作れるモノを食べる(今の僕にはまだ、「自足」するだけの力はないけど)。




そうやって得る「食」は、時に当然「ばっかり食 」にもなるだろう。栄養にも偏りが出るかもしれない。




でも、それでいいのだ。
 それで栄養素に何らかの過不足があって「不健康」になったとしても、僕はそのままでいいと思う。だってそれは、本来、受け入れるしかないことだから(当然、野生の動植物は受け入れて生きている)。


それが真の「自然食」だと僕は思う。


あっちこっちから“自分の体にイイモノ”をかき集めて(もしかすると他の人、他の生き物の分まで奪って)得る「健康」に、いったい何の価値があるだろう。






食に関する知識は、確かに必要だ。


けれどそれは、僕にとっては、“当たり前を知る”ためであり、“「構造」の中で「奪う側」から脱する”ためであり、“身に余ることをしない”ためだ。





“生きる”ってことは、とどのつまり“その土地の生態系に属する”ことじゃないだろうか。


本当はもう、ウンコすらも流したくない。

だって、もったいないじゃないか!