排除する理由(前編)。
農業は雑草や害虫とのたたかいであると言われてきた。除草はホントに骨が折れるし、害虫の大発生は深刻な問題だ。農薬(含除草剤)が「救いの神」として大歓迎されたことは、だから、頭から批判できるはずがない。
有機、慣行、いろんなタイプの農場で手伝いをする機会が多い。人の畑で除草を頼まれる機会も多く、その度に僕は尋ねずにいられない。
「何故草を取るのか?」
「草は抜くのか刈るのか?その草はどこかに持っていくのかそのままそこに置くのか?それは何故か?」
丁寧に合理的理由を説明してくれる方もいれば、結局よくわからない曖昧で風説に拠る答えを返してくれる方もいる(そっちの方が実は多い。「草ボウボウなんてみっともない!」ってのが第1の理由だったりね)。
小麦が実って嬉しい!
…と喜ぶ前に「草刈れよ!」って言われるか?さすがにこれは。
トラクターで耕し、石だの草だのを取り除いて整地したまっさらな「畑」。
作物の種をまく前の畑、そこには何もない?
とんでもない!無数の虫や微生物や植物の種が、たゆまぬ生命活動を続けてたり一息ついてたり発芽のチャンスをうかがっていたりしてる。
で、ここぞって時に「雑草」の種は発芽して、微生物が分解してできた無機栄養素を吸い太陽の光を浴びて、成長を始める。その土壌に合った植物が繁栄し、土が豊かになるにつれ、さらに動植物相は複雑になる・・・・複雑化こそ、“豊かな生態系”の姿。
つまり、雑草が生えることが当り前なわけで、それはその土地の生態系が豊かさを取り戻す過程なわけで、それを「排除」するからには何らかの理由があるべき・・・でしょ。
「作物に日が当たらなくなる」、「病害虫が出やすい」ってのが、一般的な理由なんだろうけど、それも時と場合に拠るはずじゃないかと思う。
作物の丈が伸びてて雑草よりも高ければ、とりあえず日光は問題ない。病害虫にやられるのは作物の生命力が低いからだろうし(それは栽培作物の性だけどね)、雑草を除くことは天敵の住処を奪うことにもなる。まぁ、そうは言っても確かに病害虫がやっかいなのはわかるから、株元の草を取るくらいは必要なこともあるだろうけど、それなら病害虫対策の必要な時期に取ればいいわけで、常に除草する必要なんかない。むしろ、草の耕起作用や保湿効果は馬鹿に出来ない。なにより草(植物相)は、その土地の現状を教えてくれる。
近代思考の恐ろしい点は、「単純化」と「排除」にある。
栽培における除草や病害虫駆除は、その典型のように感じる。
特に、近現代の化学薬品による「排除」は。
とりあえず排除する。
邪魔なものは排除する。
邪魔じゃないかもしれないけど、よくわからないから排除する。
必要なもの以外は、とにかく排除しておこう。
じゃないと不安でたまらん。
一応排除しておこう、簡単だし。
・・・ってね。
除草しながら、考える。
「この草は何故ここに生えてきたんだろう?」
「何故あの草はここに生えないんだろう?」
「この草を今、取るべき理由があるだろうか?」
「根は残して刈った方がいい?それとも抜いた方がいい?」
「取った草はもったいないから、せめてこの場に残そうか(だって土の栄養を吸って大きくなったんだから、土に戻さなきゃ。それに保湿もしてくれる)」
別に、無殺生の戒律に沿おうとしてるわけじゃない。
「自然に優しく」なんて思っていない。
そこにあるものは、在るのが当たり前なんだろうから、排除するにははっきりとした「理由」が欲しいってだけだ。
(つづく。1回で4000字しか送れないのね。少ないよ!)