隠者の庵 -7ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

前に表現に問題のある本を取り上げた。もうすぐ出版された物が店頭に並ぶはずである。

一番の問題点は著者が特に診断をする資格保持者でもないのに人を勝手に診断した気になっていること、

その勝手な判断によって書かれたステレオタイプ的な障害者の風評被害が更に広まらないかということである。


私は診断でASDに該当しているが、特に異臭なんて放たないんですけど?毎日風呂かシャワーに入ってないとメンタルが死にかけるんですけど?

風呂キャンセルしたら肌が酷い抵抗をするのでとても入らないでは済まされない。

風呂は私のルーチンワークである。それも長風呂で一回入ったらなかなか出てこない。

石鹸、シャンプーの合う合わないは敏感な方なので刺激の少ないものを探して優先的に使っているが、まったく使わない、ということはない。

だが障害をもつ人の個人差によって水の触れる感覚が苦手だから風呂に入りたくないという人もいるのは理解している。

ASDというものは特に個人差が激しく、正反対の症状や感覚過敏、あるいは刺激を感じないという差が極端になり得る。

私など音楽会以外の大音量で流される公共施設の大音響なんてうるさくて出来れば避けたい。

かと言って同じASDでも何ともない人がいるし、そういう人でも特定のそんなに大きくない音でも耳を塞いだりする。

キチンとした医学書を読めというのはあまりにもページが多いし専門用語も多いから薦めにくいので、

専門の医者の書いた保護者向けの本や冊子や、成人向けの障害の入門書や障害を説明した新書などを軽くでもあたった方がいい。

特にこの本を見なくても大量に並んでいるから自分に気の合いそうなのを探すことは出来ると思う。本にも相性があるから。

百人居れば十人弱単純計算で何らかの障害あるいはグレーゾーンをもった人が居る計算になるから、

どうやっても全く目にも触れないで生活するなんて今ならとても難しいことだろう。

だからこそある程度知っておかねばならない。全く知らないから差別したり蹴りだすでは済まされない世の中である。

それがよいかどうかは全く別の話である。それとも知り合いが事故で障害を負ったらその人も遠慮なく蹴りだすのか。

それはそれでアグレッシヴ、攻撃的すぎてまた別の精神的な何かを疑われてしまうだろう。

ちゃんとした形式の本はお高いから、手軽に触れられる精神科医監修の本からでも充分理解は始められ、進められる。

少なくとも診断できない、権利もないカウンセラーの言うことよりは信じられるだろう。

間違っていることを人の判定基準に使えば、ラベリングだったりいじめや差別を助長しかねない。

少なくとも「合理的配慮」ではないだろう。

あと例の本の目次にはASDを「すぐにキレる!」とか書いてますがそこでもう人権侵害、でなくても誤った知見が差し挟まれている。

自分の場合何でもかんでもキレる訳ではなく、譲れないものを無思慮に譲らせようとしたり、

前例があるのに無視して踏襲しない人がいたら小言の一つは言いたくなる、

そしてそれはあまりにも細かい故に人が勝手に触らない限り実にどうでもいい。

ただ、それは私の話であって他の障害当事者の話ではない。

重い症状はどこか、軽い症状はどこか、何を素早く進められるのか、特性は人によって大きく異なる。

一概にしてしまうなんて本当に危険である。ASDの「スペクトラム」というのが「連続体」という意味なので、

固定された三つ組みの症状の強さも個体差も人によりバラバラであり、万人に適応できる基準などないと思うのである。

個体差も考慮せず過激な例だけを見てセンセーショナルな書き方をすれば、

差別を助長するものだとしても何ら疑いのないものだろう。

前にも書いたがちゃんとした資格を持った人の本を読んだ方が私はためになると思います。

人を勝手な基準でラベリングしたり先入観を煽ったりパワハラまがいのことが書いてあったらちゃんと声は上げないといけない。

無視とは黙認である。

誠に遺憾である。

天気が荒れると気分がよくない。長い間太陽を見ないとどこかしら不安になる。暴力的に暑くてもとにかく不安になる。

そろそろ寒冷地でもご家庭にエアコンを、と毎年言っているが今年も言う。

いくら寒冷地でも夏が暑ければ暑いのはどこでも変わりはない。

ないけれど地元で障害者の収入で間に合うレベル、相応の家賃で落ち着くアパートの居場所を探したらまずエアコンがなくなる。

東京とかどんな家賃でも部屋にエアコンがあるじゃないですか。

地球温暖化の一環で、たまにだけれど猛暑日にもなる寒冷地でもエアコンをつけない訳にもいかない。

つけないと倒れそうになるからである。睡眠時間なんて、夏は毎年エアコンがなければ二、三時間程度になる。

暑くて眠れないから。窓を全開にしようが扇風機をガンガン回そうが首元やあちこちに保冷剤を設置しようが気温が下がらないから一向に眠れない。

睡眠導入剤をいくら強くしようが眠れないものは眠れない。

そして薬を強くした分の反動は確実に次の日の朝にやってくる。

眠れないし、眠れないから薬は多めにするけれどやっぱり眠れないし、朝はグダグダだし、

エアコンのない家に住んでいたころは夏だけビジネスホテルに逃亡できないかなどと割と真剣に考えていたものである。

エアコンがあるのは自分の車の中だけだから、プライバシーもくそもない状況で、身バレ覚悟で涼まなければならない状況を正常と言えるのか。

そしてそれをアパートの管理会社に訴えても即却下されたものである。いや本当に辛いんですけど。

収入がないからエアコンがあるのにつけないと言う人の話を聞くたびに遺憾に思ったものである。そのエアコンくれ、と。

いくら収入がなくても、エアコンがないと暑さで健康が脅かされている人間には、

暑いときに金のことなどいちいち気にしないでエアコンを全力で回していないと落ち着かない。

暑くなるたびに実際に死にそうな気分と体調になる人間の気持ちなど分かってもらえないだろう。

身体も精神も健康的にしたいが、それはエアコンがないとできない。

エアコンは人権である。

誠に遺憾である。

別に一人にはなりたいが、気になったことを誰かに話したいときもある。

しかし話題が噛み合わない。

趣味や特技が特殊すぎて普通の作業所で話が噛み合わない。

とりあえずロックバンド系の話なら通じるが周りはポップスの話しばかりする。一通り楽器も弾くがそれが役に立った試しはない。

人がいればたまたま偶然に会話がとんとん拍子に進んでバンド結成!とかもありうるし、実際あったがそういうのは都市部限定である。

田舎の人数でいったい何ができるか。


しかもそれでまだいい方と来たもんだ。

普段研究?している仏教とか話をしたくてもセンシティブな場所では宗教は話題に持ち出すことも厳禁だし、哲学なんて誰も触れもしないし、

今はやりの生成AIについても誰もそういう技術も興味関心も持っていないから会話の広げようがない。

本来の趣味なんてマニアックなものだから、ことごとく人と話すのに不向き、と言えばそれまでだが、

全く話が通じる気配がないと虚無感ばかりが募る。別に友人がいないことをそんなに気に病んだりはしないが、

誰も話題についていけないような場所にいることは果たして正常なのかと思うのである。

噛みあいそうなゲームまで好みが何もかすらないとか、そういう意味で田舎って悲惨ですね、と、

いつも通り土を耕して、植物と向き合い勝手に人の代わりをしてもらって一日が過ぎる。

田舎と言えば田舎らしいが、人との接点がないからこうなっている、という我が侭、

妥協するにもどこに妥協点があるのか、みたいな趣味のラインナップをしていると、着地点すら見当たらないから困る。

誠に遺憾である。

アメリカのものを使えと某大統領が仰っておりますが、私の使っているギターは正真正銘GibsonUSA、アメリカ製のギターでございます。

逆に言うとほとんどそれしかない。あとは手の込んだアメリカ製のギターエフェクターが数個あるくらいである。

車なんて燃費と大きさを考えたら国産車一択にしかなりません。

つまりアメリカ製というのは一種のブランド品である、と。

ギターエフェクターも中国のメーカーが作り始めてから価格だったり中身だったりがいろいろおかしなことになりつつある気がしますが、

逆に言えば機械でも気合いの入った職人芸だったり手の込んだ中身だったりするのは中国にやらせると不安になるのはまだ変わらない。

とは言えお金のかかった何かをする、特にモータースポーツに関してはアメリカ内のカーレース、

インディカーとかナスカーを(中継は日本語だが)定期的に濃密に摂取しているので、

あの言葉にしにくいアメリカナイズされた車の独自の競技性、というのは大国で車に関する基礎基本の製造技術があるからであり、

同じ事を金があるからといって中国にやらせるとたぶんそんなに面白くない、モータースポーツらしい何か、になってしまうだろう。

車にもちゃんとお金はかけるが、それ以外のショー的な部分のお金のかけ方の面白さはまだアメリカの味なのだろうと私は思うのである。

昔から見てきたF1も色々な組織の都合でなんか企業やコンストラクターごとのエゴを見ているようであって今なんてレースを見ている気にならない。

シューマッハとかもはや懐かしい存在である。まことあの頃はよかった。なのでその頃は別にインディカーを見るまでもなかった。

でも今はインディカーを録画しておかなければ変な禁断症状が出る。

ほぼ単一の国で開催するレース(ドライバーはあちこちの国からやって来ますが)というのはその国のことを考えればいいから、

逆に言えば独自性がウリになるので面白いのである。お前らなんでこんな公道走れる命知らず揃いなのかとか、あと生々しい喧嘩とか。

日本はレースになると何でも安全性とか不具合のなさをとことん追い詰めるからよくない。詰め過ぎて生々しさ、レースらしさがなくなる。

まあそれでも事故は起きるんですが、誰がぶつけたとかお前がやった、とか、

インタビューでアナウンサーに事故の怒りをぶちまけるとか、マシンから降りてそのまま殴り合いにならないのもかえってどうかと思う。

アメリカならといえば何だが、オーバルコースをグルグルずっと数百周回っているだけでうまく言えないが面白いのである。

何か野生味があるから。金をかけた野生味なんてアメリカならではである(個人の感想です)

あとはアメリカからマーチやジャズ等々のアメリカらしい音楽を取り除いたらただの国である。

もの、というか文化で濃く味をつけたもの、を理解していなければどこで何を作ろうとも単に高いだけの物に過ぎない。

それを何故作ったのか、そこまでに至った道理と理由が正しく伝わらなければ何も売れるはずがない。

文化を浸透、伝達しようとしないで、ものだけ売ろうとしても、いったい何が売れるだろうか。

誠に遺憾である。


※囲いは画像を保存したときには既についてたので自分がつけたものではありません。


最近この本が「困った人」側の方で表紙が無思慮だという話になっている。

私もその「はびこる困った人」なんですけどね。否定する気もさらさら無い。否定したところで障害はなくならない。愛でどうにかなるものでもない。

まあ正確に言えば「困った」よりも現在進行形で自分からはよく分からない人の気分に「困っている」ということになる。

「困った人」を「うまく動かす」なんて支配というか上下関係を解らせてやれみたいな感じであまり良い表現には思えない。

我々は普通の人の都合でうまく動かされなければならないのか。誰かが理不尽なことをいっても、疑うこともなく動かされなければならないのか。

確かに頑張りにも限界があって、どうしても人を頼らなければいけなくなったり、

不適応を起こして周囲に面倒をかけて本当に申し訳ないと思うばかりだが、

尻拭いって何や(ガチ切れ)そんなに人間はいつでも普通にならなければいけないものなんですか、それが出来ないから苦しんでいるのに、

と当事者の一人は言いたくもなってしまうのです。

言っていることが正しいとしても書いている態度が高圧的で気にくわない、とか別に健常者同士でもあるだろうに、と思う。

遺憾に思うあまりフリック入力の速度まで上がっている。

それでもって、中で扱われる様々な精神障害については動物の挿絵が入っていて、

私たちは人間でもないのですか、「人」の尊厳何処行ったんですかと問い糾したくなる。人間扱いされていない、ということでもある。

せめて困った「人」ではなく「状況」とか「うまく動かす」を「問題を共有し解決する」とか(ちょっと回りくどいか)

角の立たない表現はもっとあっただろうに、それだけで起こりうる問題が過度に大きくなることも防げたのにもったいないことをする。

内容がまともなものであっても表紙や帯の言葉遣いで損をする、というのはこういうことなのであろう。

実際自分など配慮も山ほどいただいて、何も返せなくて気の毒に思い、何かと一人になりたくなる衝動に駆られるタイプの人間である。

感謝、というか理解した上で施設内に一人で放っておいてもらえることに感謝しかない。

そこを問題視されたり、他の人にとって迷惑、困った事態だからと言い張って、状況を読まずに、勝手に人と交わらせようとする、

何かをしてあげる、という上から目線で見られると特に己が障害者だということがわかっていても聞いていていい気分にはなれない。

完全に対等、というのもきっと違うが、高圧的な話しぶり、俺が導いてやるという自意識過剰、言い換えればパワハラ、

そういう態度を助長する記述の多い本なら、むしろ存在しない方がいいだろう。

この文を書いている時点(4月17日)でまだ出版されてないから、公表されている部分でしか判断できませんが。

自分は学生時代から何故か「心理学」が好きではなかった。心理学を学んで人と接しているから自分は正しいという意識が垣間見えるからかもしれない。

空気が読めなくても調査するときのちょっと上から目線な感じ、明らかに調査のための対象にしかなってないと、

意図的に変な回答でもしてやる、と思ったものである。何の意味もないが。

病識がなかった時点でそれなのだから、病識がある時点で心理学カウンセラーというのがイマイチ信用ならない。

それなら医者とか現場で障害者にかかわる福祉の専門家に指導を仰ぎに行くわ。実際行ったし。

福祉センターに面談を申し込みに行ったり、有資格者の職員とカウンセリングしたり、当事者間でコミュニケーションをとったり、色々やったわ。

障害があるからこの人は常に下、という意識は持ちたくないものである。まあ作業所とか行けば障害で困った人にも更に上下があることがわかる。

きりがなくなるが別に障害者同士でも同じように「困った人」はいるし、何ならこちら側でも「うまく動かしてしまいたい」などと思う時もある。

でも障害はなりたくてなったものでもない。だからあらゆる無理強いはできない。大体人を思うとおりに動かしたいなんて単なる驕りである。

障害も性格も千差万別である。人による症状の差が著しく大きいので、ひとつの型に嵌めきった指導なんてあるはずもない。

障害にも先天的なものもあれば、事故や疾病などで背負うことになる後天的なものもある。うつ病なんてその最たるものではないだろうか。

ちなみに私は発達障害者だから産まれた瞬間に、既に障害者になっていたのである。否定する、拒否する権利も何もなしに。

そこに積年の人間関係のしがらみで、精神にダメージを余計に食らってうつが加算されて、人なんて最低限いればいい、みたいな気分になっている。

人の立場を理解せずに一方的に教え導くのが正解であるのなら、まずパワハラまがいの言動をぶつけたり、

飲み会を強制したり理不尽な仕事を振ったり、プライベートを人間関係で縛り付けたり、

職場で残業しなければならない空気を作ることから何とかしなければならないのではないか。

仕事だけをする、というのはそんなに難しいのか。仕事だけにコミュニケーションを絞って、プライベートには全く触れないくらいのことがあってもいいだろう。

最近の「普通の人」に求められるものはあまりにも多過ぎて高度すぎる。

出来ないものは出来ないと割り切ることも許されないならば大半の人は不適応になるだろう。普通でも普通でないことにされてしまう。

誠に遺憾である。


追記

読むなら大学の福祉専門の教授や医師等国家資格保持者、あとは当事者の書いた本を読みましょう。私はそうしてます。

少し家から離れれば、田んぼや畑、それから林や森ばかりの田舎に住んでいるが、別にお米は安くはない。

農協が「米はあります」とは言っているがけして安くはない。米どころなのでアメリカ米やアジアの米は見たことはないが。

都会に行けば国産米より安い外国産米が並べられているのでしょう。

こちらは地元の米があるから特に外国産米が入ってくる気配はないが、一回くらいなら試してみたくはある。

タイ米とか輸入していた頃が懐かしい。

タイ米なんてそもそも米の種類が違うから日本の炊飯器で調理するものではないが、

他に方法も行き届いていない時代だったので従来どおりタイ米を炊いて馴染みのない香りと堅さにもがき苦しんだものである。

今ならちゃんとジャポニカ米の炊飯の方法もインターネットに転がっているので、タイ米もきっと美味しく食べられるのでしょうが。

そんなこんなで農家に直接買い付けに行きたいところだが、

今はやりのふるさと納税の返礼品で米が入っているから、肝心なときに米がないところもある。

たまたま米が入っているから偶然なのだと思うが、ひどい偶然もあるものだと思う。

まだそこまで致命的ではないから米を食わないという選択肢はまだないが、

米がないならトルコかエジプト産のパスタを茹でて食べればいいのよ。

誠に遺憾である。

世の中もっと静かになりませんか(バンドマン談)


楽器とかの練習や演奏会など本当に音を出さなければならない時を除いて、本当に静かに過ごしたいものだと思う。

自分の精神が荒れるから。

歳をとると易刺激性というか、高齢者でよくある癇癪みたいなものを、自分の中でどう抑えるかが問題になってくる。

虚空に向かってどうでもいいことを叫びたくなるときもあるが、必ず近所迷惑になるのでうかつに叫べもしない。

静かに暮らすためにはどうしてもある程度の静音性を求めなければならないのである。

うるさいものにはうるさいと叫びたくなるがそうすればもれなく自分もうるさい。

叫ばないように周りの環境を粛々と静謐なものにしていかねばならない。

加齢による精神のもろさはどうしても生じてくるから。

音に関しては衝動的に通り過ぎるものもあって完璧に防御することは出来ないが、

なるべく自分と自然音程度に減らしてみたいものである。到底無理なのは前提として分かっているがどうしても求めたくなるときがある。

店とか、特にレストランや居酒屋など、どうしてそんなに口を開かないと生きていけないんですか、と思うわけである。

誠に遺憾である。

障害者と呼ばれるような存在になってから、家族に対しては申し訳ない気持ちばかりである。

それ故に会わせる顔もないと思い、定期的に一人になりたいと思う。

接近すれば精神的なストレスをかけてしまうから、一人暮らしをすれば金の切れ目が縁の切れ目だと思って過ごせる。

何かを、どんなことでも何かを人と共にやる、金銭的なつながりなら金を払っただけのことをすればいいが、

お金のかからないつながりは互いに負荷をかけて何かをすることになるから、

何も返せるものもなく、負担ばかりかける人間の肩身なんて狭くなる一方である。

一人になれば誰にも気にされることもなく、趣味や家事を何時やっても咎められない。

金さえあればどこか遠くの場所で庭のついた小さい家でも借りて、畑を耕して植物を見つめながら生きていける。

特に誰も必要ない。いれば何をした、しなかったで一々気に揉めるし、それがストレスになって家庭生活が一層辛くなる。

人にケアをしてもらう、とか障害者だからこそ意識しなければならないことなんて可能な限り少なくした方がいい。

障害者の側だから何でもやってもらって当然なんて思いたくないし、それこそ本当に嫌がられて差別の対象になる、

「障害者のステレオタイプ」に近い存在になっていくことだろう。

そんなものにはなりたくないから私は極力一人で人に迷惑をかけずに過ごしたい。

誠に遺憾である。

国が新しく離島に学校を作るというのでそれに申し込んだ。

そして検査に合格したので新天地に向かい、車に乗って学校に出向いた。

何でも新しい国際教育というものを推し進めているらしい、周辺諸国の言語を含めた教育も一緒にやるというのだ。

しかしいざ学校に着いてみると授業内容がハイテクで何でもネット上で手続きをするために、

ドンドンついて行けず没落し、しまいには自分の受けたテストの点数も調べられなくなり、

どうしようもないと思って退学手続きをして荷物をまとめて故郷に戻ってきた。

その後その島の話がニュースで出ると無意識に避けるようになったり、学校で配布された物を処分したり、

完全に黒歴史扱いにされて、学校のパンフレットを見る度にフラッシュバックに似た感覚に陥るようになった。

もはやトラウマである。

ハイセイコーの「怪物チャンスマイル」を今まで「怪物チャンス・マイル」だと思っていて、

ああ、ハイセイコーもその内「おはマイルー」とか言い出し始めるのかと思っていた今日この頃、

皆様方におかれましては日々御健勝のこととお慶び申し上げます。


今日やっとUCに到達しました。いやーキツかった。

流れ作業で友情トレーニングのボタンは押す物ではないですね。

あと毎度何故か完凸の友人サポカを手配してあるフォロワーの皆様方に感謝申し上げます。

友人カードを頑張っても引けないことに定評がありすぎるので、

UCに到達してシナリオレコードを更新したときのSSRガチャ券が完凸したサポカにもろにかぶって旨味ではありませんでした。

誠に遺憾である。