隠者の庵 -7ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。


※囲いは画像を保存したときには既についてたので自分がつけたものではありません。


最近この本が「困った人」側の方で表紙が無思慮だという話になっている。

私もその「はびこる困った人」なんですけどね。否定する気もさらさら無い。否定したところで障害はなくならない。愛でどうにかなるものでもない。

まあ正確に言えば「困った」よりも現在進行形で自分からはよく分からない人の気分に「困っている」ということになる。

「困った人」を「うまく動かす」なんて支配というか上下関係を解らせてやれみたいな感じであまり良い表現には思えない。

我々は普通の人の都合でうまく動かされなければならないのか。誰かが理不尽なことをいっても、疑うこともなく動かされなければならないのか。

確かに頑張りにも限界があって、どうしても人を頼らなければいけなくなったり、

不適応を起こして周囲に面倒をかけて本当に申し訳ないと思うばかりだが、

尻拭いって何や(ガチ切れ)そんなに人間はいつでも普通にならなければいけないものなんですか、それが出来ないから苦しんでいるのに、

と当事者の一人は言いたくもなってしまうのです。

言っていることが正しいとしても書いている態度が高圧的で気にくわない、とか別に健常者同士でもあるだろうに、と思う。

遺憾に思うあまりフリック入力の速度まで上がっている。

それでもって、中で扱われる様々な精神障害については動物の挿絵が入っていて、

私たちは人間でもないのですか、「人」の尊厳何処行ったんですかと問い糾したくなる。人間扱いされていない、ということでもある。

せめて困った「人」ではなく「状況」とか「うまく動かす」を「問題を共有し解決する」とか(ちょっと回りくどいか)

角の立たない表現はもっとあっただろうに、それだけで起こりうる問題が過度に大きくなることも防げたのにもったいないことをする。

内容がまともなものであっても表紙や帯の言葉遣いで損をする、というのはこういうことなのであろう。

実際自分など配慮も山ほどいただいて、何も返せなくて気の毒に思い、何かと一人になりたくなる衝動に駆られるタイプの人間である。

感謝、というか理解した上で施設内に一人で放っておいてもらえることに感謝しかない。

そこを問題視されたり、他の人にとって迷惑、困った事態だからと言い張って、状況を読まずに、勝手に人と交わらせようとする、

何かをしてあげる、という上から目線で見られると特に己が障害者だということがわかっていても聞いていていい気分にはなれない。

完全に対等、というのもきっと違うが、高圧的な話しぶり、俺が導いてやるという自意識過剰、言い換えればパワハラ、

そういう態度を助長する記述の多い本なら、むしろ存在しない方がいいだろう。

この文を書いている時点(4月17日)でまだ出版されてないから、公表されている部分でしか判断できませんが。

自分は学生時代から何故か「心理学」が好きではなかった。心理学を学んで人と接しているから自分は正しいという意識が垣間見えるからかもしれない。

空気が読めなくても調査するときのちょっと上から目線な感じ、明らかに調査のための対象にしかなってないと、

意図的に変な回答でもしてやる、と思ったものである。何の意味もないが。

病識がなかった時点でそれなのだから、病識がある時点で心理学カウンセラーというのがイマイチ信用ならない。

それなら医者とか現場で障害者にかかわる福祉の専門家に指導を仰ぎに行くわ。実際行ったし。

福祉センターに面談を申し込みに行ったり、有資格者の職員とカウンセリングしたり、当事者間でコミュニケーションをとったり、色々やったわ。

障害があるからこの人は常に下、という意識は持ちたくないものである。まあ作業所とか行けば障害で困った人にも更に上下があることがわかる。

きりがなくなるが別に障害者同士でも同じように「困った人」はいるし、何ならこちら側でも「うまく動かしてしまいたい」などと思う時もある。

でも障害はなりたくてなったものでもない。だからあらゆる無理強いはできない。大体人を思うとおりに動かしたいなんて単なる驕りである。

障害も性格も千差万別である。人による症状の差が著しく大きいので、ひとつの型に嵌めきった指導なんてあるはずもない。

障害にも先天的なものもあれば、事故や疾病などで背負うことになる後天的なものもある。うつ病なんてその最たるものではないだろうか。

ちなみに私は発達障害者だから産まれた瞬間に、既に障害者になっていたのである。否定する、拒否する権利も何もなしに。

そこに積年の人間関係のしがらみで、精神にダメージを余計に食らってうつが加算されて、人なんて最低限いればいい、みたいな気分になっている。

人の立場を理解せずに一方的に教え導くのが正解であるのなら、まずパワハラまがいの言動をぶつけたり、

飲み会を強制したり理不尽な仕事を振ったり、プライベートを人間関係で縛り付けたり、

職場で残業しなければならない空気を作ることから何とかしなければならないのではないか。

仕事だけをする、というのはそんなに難しいのか。仕事だけにコミュニケーションを絞って、プライベートには全く触れないくらいのことがあってもいいだろう。

最近の「普通の人」に求められるものはあまりにも多過ぎて高度すぎる。

出来ないものは出来ないと割り切ることも許されないならば大半の人は不適応になるだろう。普通でも普通でないことにされてしまう。

誠に遺憾である。


追記

読むなら大学の福祉専門の教授や医師等国家資格保持者、あとは当事者の書いた本を読みましょう。私はそうしてます。

少し家から離れれば、田んぼや畑、それから林や森ばかりの田舎に住んでいるが、別にお米は安くはない。

農協が「米はあります」とは言っているがけして安くはない。米どころなのでアメリカ米やアジアの米は見たことはないが。

都会に行けば国産米より安い外国産米が並べられているのでしょう。

こちらは地元の米があるから特に外国産米が入ってくる気配はないが、一回くらいなら試してみたくはある。

タイ米とか輸入していた頃が懐かしい。

タイ米なんてそもそも米の種類が違うから日本の炊飯器で調理するものではないが、

他に方法も行き届いていない時代だったので従来どおりタイ米を炊いて馴染みのない香りと堅さにもがき苦しんだものである。

今ならちゃんとジャポニカ米の炊飯の方法もインターネットに転がっているので、タイ米もきっと美味しく食べられるのでしょうが。

そんなこんなで農家に直接買い付けに行きたいところだが、

今はやりのふるさと納税の返礼品で米が入っているから、肝心なときに米がないところもある。

たまたま米が入っているから偶然なのだと思うが、ひどい偶然もあるものだと思う。

まだそこまで致命的ではないから米を食わないという選択肢はまだないが、

米がないならトルコかエジプト産のパスタを茹でて食べればいいのよ。

誠に遺憾である。

世の中もっと静かになりませんか(バンドマン談)


楽器とかの練習や演奏会など本当に音を出さなければならない時を除いて、本当に静かに過ごしたいものだと思う。

自分の精神が荒れるから。

歳をとると易刺激性というか、高齢者でよくある癇癪みたいなものを、自分の中でどう抑えるかが問題になってくる。

虚空に向かってどうでもいいことを叫びたくなるときもあるが、必ず近所迷惑になるのでうかつに叫べもしない。

静かに暮らすためにはどうしてもある程度の静音性を求めなければならないのである。

うるさいものにはうるさいと叫びたくなるがそうすればもれなく自分もうるさい。

叫ばないように周りの環境を粛々と静謐なものにしていかねばならない。

加齢による精神のもろさはどうしても生じてくるから。

音に関しては衝動的に通り過ぎるものもあって完璧に防御することは出来ないが、

なるべく自分と自然音程度に減らしてみたいものである。到底無理なのは前提として分かっているがどうしても求めたくなるときがある。

店とか、特にレストランや居酒屋など、どうしてそんなに口を開かないと生きていけないんですか、と思うわけである。

誠に遺憾である。

障害者と呼ばれるような存在になってから、家族に対しては申し訳ない気持ちばかりである。

それ故に会わせる顔もないと思い、定期的に一人になりたいと思う。

接近すれば精神的なストレスをかけてしまうから、一人暮らしをすれば金の切れ目が縁の切れ目だと思って過ごせる。

何かを、どんなことでも何かを人と共にやる、金銭的なつながりなら金を払っただけのことをすればいいが、

お金のかからないつながりは互いに負荷をかけて何かをすることになるから、

何も返せるものもなく、負担ばかりかける人間の肩身なんて狭くなる一方である。

一人になれば誰にも気にされることもなく、趣味や家事を何時やっても咎められない。

金さえあればどこか遠くの場所で庭のついた小さい家でも借りて、畑を耕して植物を見つめながら生きていける。

特に誰も必要ない。いれば何をした、しなかったで一々気に揉めるし、それがストレスになって家庭生活が一層辛くなる。

人にケアをしてもらう、とか障害者だからこそ意識しなければならないことなんて可能な限り少なくした方がいい。

障害者の側だから何でもやってもらって当然なんて思いたくないし、それこそ本当に嫌がられて差別の対象になる、

「障害者のステレオタイプ」に近い存在になっていくことだろう。

そんなものにはなりたくないから私は極力一人で人に迷惑をかけずに過ごしたい。

誠に遺憾である。

国が新しく離島に学校を作るというのでそれに申し込んだ。

そして検査に合格したので新天地に向かい、車に乗って学校に出向いた。

何でも新しい国際教育というものを推し進めているらしい、周辺諸国の言語を含めた教育も一緒にやるというのだ。

しかしいざ学校に着いてみると授業内容がハイテクで何でもネット上で手続きをするために、

ドンドンついて行けず没落し、しまいには自分の受けたテストの点数も調べられなくなり、

どうしようもないと思って退学手続きをして荷物をまとめて故郷に戻ってきた。

その後その島の話がニュースで出ると無意識に避けるようになったり、学校で配布された物を処分したり、

完全に黒歴史扱いにされて、学校のパンフレットを見る度にフラッシュバックに似た感覚に陥るようになった。

もはやトラウマである。

ハイセイコーの「怪物チャンスマイル」を今まで「怪物チャンス・マイル」だと思っていて、

ああ、ハイセイコーもその内「おはマイルー」とか言い出し始めるのかと思っていた今日この頃、

皆様方におかれましては日々御健勝のこととお慶び申し上げます。


今日やっとUCに到達しました。いやーキツかった。

流れ作業で友情トレーニングのボタンは押す物ではないですね。

あと毎度何故か完凸の友人サポカを手配してあるフォロワーの皆様方に感謝申し上げます。

友人カードを頑張っても引けないことに定評がありすぎるので、

UCに到達してシナリオレコードを更新したときのSSRガチャ券が完凸したサポカにもろにかぶって旨味ではありませんでした。

誠に遺憾である。

障害者手帳を交付された時点でお金に関することはだいたい見放しておかねばならない。

庇護を受ける代わりに栄達を投げ棄てるのだ。所謂世間一般的な名声や金銭的なことに関して。

だがそれ以外のことは殊に求めてはならないということもなかろう。

金がないからといって幸せになってはいけないということではない。

社会的良識を守る限りにおいて、平穏に生きられるのは健常者障害者に関わらず平等である。

静かに生きられるならそれを最大限活用しない方法はない。

人と会うと面倒ごとが起きるなら人と会わなければいい。コミュニケーションの障害なら何とかコミュニケーションの量を減らせるようにする。

普通の仕事をすれば人とはぶつかるし衝突もするし過去の経験上メンタルに余計な負荷がかかる。

なら人とは会わないでする趣味を追求すればいいじゃない、何のために手帳を申請したのか、なんて、

出来ないことが明らかに出来ないからそこを免除してもらうことであって、手帳を印籠のようにかざして普通の道を突き進むことではない。

せっかく負担を減らしたのだからそのように進まないといけない、敢えて人に立ち向かう必要などありはしないだろう。

というわけでストレスを可能な限り減らしたライフスタイルを構築して、何とか生ききらないといけない。

予想以上に出来ないことがあるから。出来ることを見つけてこなして何とか苦痛にならない人生にしていかないと自分が苦しくなる。

園芸に手を出したり、このように文を書き殴るのもその一環である。

人には迷惑をかけない限りにおいて何でも一人で出来ることを追求していかないとならない。それくらいのことをやらないでどうする。

それに人と意図的に会わなければストレスにならない、のならそれを妨害される方が人権の侵害、といえば言い過ぎだが、

ストレスやパニック状態になって何かに危害を加えたりするよりは遥かにマシである。

犯罪なんて別にやりたくもない。ところが感情のもつれがあると何が起きるかわからないから怖い。

ならばもつれないように一人を極めるしかない、それしか出来ないならそれをやるしかない。

制約、とはいっても外すと何が起きるかわからない制約は外してはならないのである。内的にも外的にも。

それが分からず外に外にと引っ張り出そうとするなんて人の心がわからない奴だ、と言わざるを得ないのである。

誠に遺憾である。

最近は晩節?を穢す芸能人が本当に多くて困る。フジテレビの話もようやく下火になって芸能の話題もしばらく落ち着くかなと思ったらこれだよ。

ことあるごとに有名税って本当に高いねぇ、などと思いながら過ごしております。

こんなぐだぐたなら有名になりたくもない。もうその界隈の人だけにそれとなくいるかいないか程度の扱いをされればいいや、と思いました。

しかし自称広末涼子って何だよ、どう見ても広末涼子じゃないのに広末涼子って言い張っている、

意味不明な供述をする人間の類か、と思ったら本人とかもうどうしようもない。

ニュースで聞く限りでも挙動不審が過ぎて自称で本人は何もしないところで食事でもしながら自分の名を騙る人が出たな、

くらいに思ってくれた方が何かと平和で済むのに、よりによって本人とかもう笑えもしない。


そんなことより私にとっては芸術的なホームランをボコスコ打ったブランコ氏が亡くなった事の方が遥かにショックである。

誠に遺憾である。

人とせわしなく付き合うなんてご勘弁願いたい。

孤独になるとボケるよ、とはよく言われますが、人が居ることのストレスとボケとどちらを天秤にかけて比べて、よい、と思えるか。

仕事(作業所)や趣味で外出しているときは普通のことをなるべく普通にこなすようにしておきたいが、

反動でプライベートなときは人なんて近くに居ることがつらい、というか私生活はほぼ全部極力人には見られたくないので、

特別な許可でも無い限り玄関で追い返したい。家庭菜園が趣味で毎日のように畑に出ているが、だからといって声をかけないでいただきたい。

お金の支払いは可能な限り口座から直接引き落としで極力誰とも顔を合わせなくても済むようにしておきたい。

アパートで一人暮らしの時はそうできたから、今できないという道理はない。

許されるのは通っている施設の職員か福祉の担当者かあとは定期的にくる薬屋くらいにしておきたい。

交友関係を自分の許容範囲を超えて拡げるともれなく私のメンタルが滅ぶので人間関係は限られたものにしておきたい。

問題は自分の人間関係のキャパシティが本当に狭いことですが。

話し相手、というか毎日顔を合わせる野菜の苗さえあれば人間とか時折迷惑に感じる。

チェーンメールとか最近ならお金を払わないと電話が止まりますとかいう迷惑電話位に迷惑である。

しかし人間などちょっとした弾みで孤独に死ななければならないのに孤独死は忌み嫌われるのか。

それは人の道に背いていないか。

誠に遺憾である。

最近のアメリカのやっていることがトップダウン過ぎて政治には関心がないけれどあそこまで悪い意味で人を動かす政治とは何かと思う。

この国ではデモとか何かと忌避され、ストライキもやっても大した意味の無いように見てる。

そういうノリだからヨーロッパの国の政治の方向転換があるときに何らかのデモ行進をしたり、集会を開いたりすることが、

目的はともあれ何かのために動けるのは正当な権利だと思いました。

それで今アメリカの大統領が関税をあれこれかけようとして権限を発動して、

株や為替の相場がガタガタになりかけているところにさらに追い打ちをかけようとしている。

ちょっと前までNISAとか余剰の預金を外国株などの投資になんて言っていたのが信じられなくなる。

一人が独断で動く度に煽りを受ける側の人間はたまったものではない。

そりゃデモもやるわ。

突然国の首脳部が何か変なことを言い出したら止められる何らかの機構は必要だと思いました。

ちゃんと危機的な状況では民衆も動かないとならないと思いました。

そういう暴走を監視する国際的な機関がないと、と言って作った国連もどこまで機能できているのか。

個人の独断と偏見で政治を何でもやるなんて言ってしまえば独裁者、である。

いい政治をやるならいいが、突然気が変わって今までの方針を急に反対に変えられたら、黙るものも黙ってはいられないだろう。

いい政治とは何も起きてないことである、何も起きてないから円満なのである、

などと意味不明なことを言いたくもなる。誠に遺憾である。