隠者の庵 -6ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

人付き合いで大事なのは自分の好みを明かさないことである。そこから人は話しのきっかけを見いだそうとするから。

基本どのような場所でも一人で行動し、一人で全部やることを念頭において行動する人間には、他人に触られるのは想定外である。

身内でも親戚でもあらゆる人からもできれば声かけをしてほしくない。

何なら「あいつ何考えてるかわからん」と思われて疎外されるくらいがちょうどいい。


何か聞かれても最低限の返答はするが、人間関係なんて興味ないから近所の誰かのうわさ話なんて振られても返答のしようがないし、

論点のわからない世間話が最も苦手なので、あまり会話を勝手に広げないでほしい。

自分は何なら哲学とか宗教学の話でもしますか、という、ツボに入った話なら演説気味に話す面倒な人間なので、

他の人からすれば口を開かせればうんざりするだろうから、そういうことのないよう、人に話しかけられるきっかけがないように行動する。

何も明かさなければ不気味な人と思われるだろうが、些細なものの好みや言動から、

人の気持ちも知らずに寄ってくる人に絡まれるよりははるかにいいだろう。襲ってくる人でなくても逃げ出したくなる。

店で買い物をするときは大体喋ることが決まっているから、テンプレから外れなければなんとかなる。

海外で買い物をするときの値引き、値段交渉とか恐ろしくて、店で品物に貼ってある価格で買うなんて日常茶飯事である。

当然ながら争い事や倒れている人でもいなければ声かけなどこちら側からはしない。

AEDは使うし救命処置はするが、それ以外の日常会話はしない。

いざという時だけ正義感だけで現れて終わったらまた霧や霞のようになる人間になりたい。

あれこれの感情を天秤にかけながら傾きすぎないように、なんて社会性のない自分にはできない。

できないから人には関わらない。不穏分子なんていない方がいいからである。

誠に遺憾である。

この間の天竜川水門にぶつけた事故の情報を仕入れて「生き急ぐとはこのようなことであるか」と私は思いました。

私の車?排気量もあって加速も速度維持も何もかもトロいですよ。

私はたとえお金があっても運転は下手くそだから速く走ることの出来る車には乗ってはならないのである。

自動車学校を出るのに規定の路上訓練では足りなくて、補講を受けてようやく実技試験が終わるような人間に何を期待しますか。

そのような人間だからスピードも出さないし大抵後に車がつまる。

だからといってスピードを出したら事故を起こす。

そもそも制限速度ピッタリに走って後からパッシングされたりとか、

それ速度違反する方が間違ってないですか、と何度心の中で突っ込みながら走行しただろうか。

確かに車道を走行するときは周囲の流れに合わせてといわれる。

しかし制限速度を十キロ以上オーバーして心安らかに走れますか。私は走れない。

それで「空気が読めない奴だ」と言われても一体何すればいいんですか。速度超過した暴徒になれとでも言うのですか。

それやったらまず間違いなく天竜川水門の事故プラス周囲を巻き込むことになりますよ。

運転が下手なのを自覚しているから、免許の重さを自覚しているから、

私は道を走り急いで生き急ぐ人の気持ちがわからない。

誠に遺憾である。

最近不倫して炎上する芸能人が頓に多いですね、なんて恋愛すらしたことのない人間は羨む方法すら見当たらないで暮らしている。

他の国ならともかくこの国の制度として一夫一妻制ですから、と言ってもフェミニストには何を言われるかわからないから怖い。

諦めるというか精神に何かあったんじゃ今の世の中ではまず恋愛には進めないし、進まない方がいいだろう。

結構自分が怖くなるときってあるんですよ。人が怖くなるのと同じように。

自分がやることに対して恐ろしくなるのである、言動ともに。行動は明らかに昔ながらの頑固職人(職人要素除く)だし、

何を言っているかわからない譫言のような感覚で人と対話するし、文章を書くときだけ一見まともに見えるかもしれないが、

実際とても意味不明なことを書きたがるので暴走すれば毒電波が流れる。

そんなやつが人と仲良う仲良うするなんて無謀ではありませんか。自覚しているし病識もあるから、極力人を遠ざけて静かにしたい。

人に迷惑をかけたくないし、人の手を煩わせたくないし、そういう自分に自己嫌悪するので、人にはこちらからアクションはとらないし、

意図しない人が来ればパニックになりかねないような精神状態を保って暮らしている。

人が多ければ多いほど何をしていいかわからなくなり、一人で冷静に何でもできないのかと愚痴をこぼす。

人間関係って単純にできないんですか。

基本的な生活が人離れしているから、人とくっつきたがる人の気持ちはわからないし、

今ある関係をこじらせるような浮気とか不倫とか二股以上をかける人の気持ちは更に理解できない。

ましてや私のように世間離れして名声もくそもないならともかく、

世間に名も売れて人前に積極的に出て自分そのもので商売をする人々が人間関係を積極的にこじらせにいくのが理解できない。

誠に遺憾である。

別にキリスト教ではないけれど『聖書』は読むし、『聖書』で一番好きなのはと万が一聞かれてしまったら『コヘレトの言葉』と即答する。

何故かは知らないがあそこにはユダヤ教、キリスト教的なところの無常がある気がするのである。

今手持ちの『聖書』のしおりが挟まっているところを確認したら『コヘレトの言葉』の冒頭に挟まっていた。

余程私は気に入っているのだろう。

『なんという空しさ。

なんという空しさ、すべては空しい。(1.2)』で始まるコヘレトの言葉が空しくなければいったい何が空しいのであろうか。

だいたい旧約聖書においては神のもとにただ従う民族の歴史や伝承が語られるが、

私の中ではこの章だけはどこか異質な空気を漂わせていると感じる。

コヘレトの言葉から全部飛ばしてヨハネの黙示録に繋げばもはや世界は終末である。アルマゲドンである。なんと空しいことか。

『すべては塵から成った。すべては塵に返る。(3.20)』途中の格言を挟みたたみかけられる無常を浴びればすべてが空しくなるだろう。

今キリスト教圏の大国がいろいろ騒ぎを起こして世界が乱れている気がしてならない。

そういうときこそ外面的な終末を語る『ヨハネの黙示録』を読みたくもなるが、

内面的にひっそりとするならば『コヘレトの言葉』よりしっくりくるものはない。

そして一通り読み終わったらThe ByrdsのTurn! Turn! Turn!(歌詞が『コヘレトの言葉』の3章の一部分)を聴いて一層無常を感じると覿面である。

間違っておっちゃんの風呂とか聞こえたり思ったりしたら台無しであるが、空耳でそう聞こえるからどうしようもない。

まあ多分自分がこの章を気に入っているのは血生臭さを感じないからでしょうか。

他の章を読めば神こそ人間を抹殺しにかかっているのではないかと動的な意味で憂鬱になる。

そりゃニーチェも色々な意味で「神は死んだ」と言いたくなりますわ。

誠に遺憾である。

団塊の世代とかバブル世代とか氷河期世代とかゆとり世代とかさとり世代とかZ世代とかいう対立軸も、

だいたい「自分が発達障害当事者だから」という理由で無効になります。

どういう世代でもまともなコミュニケーションをとれなければ社会には適応できないから。

誠に遺憾である。

私は礼儀作法はどこでも守れるようにする、ということは理論的に知っているし、最低限守れるようにはするが、

何か突発的なアクシデントが起きたときの礼儀作法を知らない。とにかく形の上の礼儀だけ強迫的に叩き込んでそれ以外のことをすることを怖れる。

礼儀作法もルールに外れないか、と不安に恐れおののきながらやっているものである。

つまり根っこは自分のことしか視界に入っていない傲慢不遜な人間である。

なので酒が入ると吐くか地がでて不躾な行為をやらかしてそのままご退場、となる。

だから宴席で酒は飲んではならない。自分を守るために。

酔ったらガチガチにした礼儀のアーマーが吹っ飛ぶし、意味不明な演説はするし、

やってくる酒の入った人の上手な躱し方も知らないのでだいたい悲惨な結果になる。

フォーマルな場で規則を杓子定規に守るのはそうしないと守っている気になれないからであり、

何ならマナーのなっていない人を風紀委員のごとく警告したりフロアスタッフに密告でもするだろう。

みっちりと外見や教養、服装や儀礼的な挨拶などを頭の中で綿密に組み立てても、本当の内面、

さりげない所作、予定変更時や緊急時のことは身に付いていないからそのまま傲慢不遜な人間になる。

私にはルールを杓子定規に厳守するよりも柔軟に動く方がつらい。ルールとかマナーって何かで守られている気がするじゃないですか。

ルールとマナーがなければ武器と鎧を外して危険な場所を歩いているようなものである。

ただ自分の武装ってどこかに一瞬で全部吹っ飛ぶスイッチが仕込まれているんですよね。

俗に「空気が読めない」とか「臨機応変に対応できない」とか「何考えてるか分からない」とか呼ばれる一押しで起動するスイッチが。

そんなもの果たして武装なんて大それた名前をつけられる代物なのか。

ええ、何かの集まりの時には頭の中には集まりの正しい手順と順番と挨拶のテンプレートしか入っていません。

それ以外のことを突かれると頭の中に詰め込んだものも含めて全部台無しになります。

なので冠婚葬祭にはめったに出ないが、出てもやって来て世間話もろくにしないままそのまま帰ることもあります。

もうモブキャラ扱いでただ居るだけの存在になって早くこの集まり終わらないかしら、とだいたい思っている。

誰がいるとか人付き合いを増やすとか人と何を話すとかは頭にない。ただ儀礼をすんなり流すことしか考えてない。

そうしてもまずボロが出るが、そうしていないときの惨状の比ではない。

何かのきっかけで間違って弾けると、招かれざる客とか身内の恥とか呼ばれるようになるのです。

誠に遺憾である。

前に表現に問題のある本を取り上げた。もうすぐ出版された物が店頭に並ぶはずである。

一番の問題点は著者が特に診断をする資格保持者でもないのに人を勝手に診断した気になっていること、

その勝手な判断によって書かれたステレオタイプ的な障害者の風評被害が更に広まらないかということである。


私は診断でASDに該当しているが、特に異臭なんて放たないんですけど?毎日風呂かシャワーに入ってないとメンタルが死にかけるんですけど?

風呂キャンセルしたら肌が酷い抵抗をするのでとても入らないでは済まされない。

風呂は私のルーチンワークである。それも長風呂で一回入ったらなかなか出てこない。

石鹸、シャンプーの合う合わないは敏感な方なので刺激の少ないものを探して優先的に使っているが、まったく使わない、ということはない。

だが障害をもつ人の個人差によって水の触れる感覚が苦手だから風呂に入りたくないという人もいるのは理解している。

ASDというものは特に個人差が激しく、正反対の症状や感覚過敏、あるいは刺激を感じないという差が極端になり得る。

私など音楽会以外の大音量で流される公共施設の大音響なんてうるさくて出来れば避けたい。

かと言って同じASDでも何ともない人がいるし、そういう人でも特定のそんなに大きくない音でも耳を塞いだりする。

キチンとした医学書を読めというのはあまりにもページが多いし専門用語も多いから薦めにくいので、

専門の医者の書いた保護者向けの本や冊子や、成人向けの障害の入門書や障害を説明した新書などを軽くでもあたった方がいい。

特にこの本を見なくても大量に並んでいるから自分に気の合いそうなのを探すことは出来ると思う。本にも相性があるから。

百人居れば十人弱単純計算で何らかの障害あるいはグレーゾーンをもった人が居る計算になるから、

どうやっても全く目にも触れないで生活するなんて今ならとても難しいことだろう。

だからこそある程度知っておかねばならない。全く知らないから差別したり蹴りだすでは済まされない世の中である。

それがよいかどうかは全く別の話である。それとも知り合いが事故で障害を負ったらその人も遠慮なく蹴りだすのか。

それはそれでアグレッシヴ、攻撃的すぎてまた別の精神的な何かを疑われてしまうだろう。

ちゃんとした形式の本はお高いから、手軽に触れられる精神科医監修の本からでも充分理解は始められ、進められる。

少なくとも診断できない、権利もないカウンセラーの言うことよりは信じられるだろう。

間違っていることを人の判定基準に使えば、ラベリングだったりいじめや差別を助長しかねない。

少なくとも「合理的配慮」ではないだろう。

あと例の本の目次にはASDを「すぐにキレる!」とか書いてますがそこでもう人権侵害、でなくても誤った知見が差し挟まれている。

自分の場合何でもかんでもキレる訳ではなく、譲れないものを無思慮に譲らせようとしたり、

前例があるのに無視して踏襲しない人がいたら小言の一つは言いたくなる、

そしてそれはあまりにも細かい故に人が勝手に触らない限り実にどうでもいい。

ただ、それは私の話であって他の障害当事者の話ではない。

重い症状はどこか、軽い症状はどこか、何を素早く進められるのか、特性は人によって大きく異なる。

一概にしてしまうなんて本当に危険である。ASDの「スペクトラム」というのが「連続体」という意味なので、

固定された三つ組みの症状の強さも個体差も人によりバラバラであり、万人に適応できる基準などないと思うのである。

個体差も考慮せず過激な例だけを見てセンセーショナルな書き方をすれば、

差別を助長するものだとしても何ら疑いのないものだろう。

前にも書いたがちゃんとした資格を持った人の本を読んだ方が私はためになると思います。

人を勝手な基準でラベリングしたり先入観を煽ったりパワハラまがいのことが書いてあったらちゃんと声は上げないといけない。

無視とは黙認である。

誠に遺憾である。

天気が荒れると気分がよくない。長い間太陽を見ないとどこかしら不安になる。暴力的に暑くてもとにかく不安になる。

そろそろ寒冷地でもご家庭にエアコンを、と毎年言っているが今年も言う。

いくら寒冷地でも夏が暑ければ暑いのはどこでも変わりはない。

ないけれど地元で障害者の収入で間に合うレベル、相応の家賃で落ち着くアパートの居場所を探したらまずエアコンがなくなる。

東京とかどんな家賃でも部屋にエアコンがあるじゃないですか。

地球温暖化の一環で、たまにだけれど猛暑日にもなる寒冷地でもエアコンをつけない訳にもいかない。

つけないと倒れそうになるからである。睡眠時間なんて、夏は毎年エアコンがなければ二、三時間程度になる。

暑くて眠れないから。窓を全開にしようが扇風機をガンガン回そうが首元やあちこちに保冷剤を設置しようが気温が下がらないから一向に眠れない。

睡眠導入剤をいくら強くしようが眠れないものは眠れない。

そして薬を強くした分の反動は確実に次の日の朝にやってくる。

眠れないし、眠れないから薬は多めにするけれどやっぱり眠れないし、朝はグダグダだし、

エアコンのない家に住んでいたころは夏だけビジネスホテルに逃亡できないかなどと割と真剣に考えていたものである。

エアコンがあるのは自分の車の中だけだから、プライバシーもくそもない状況で、身バレ覚悟で涼まなければならない状況を正常と言えるのか。

そしてそれをアパートの管理会社に訴えても即却下されたものである。いや本当に辛いんですけど。

収入がないからエアコンがあるのにつけないと言う人の話を聞くたびに遺憾に思ったものである。そのエアコンくれ、と。

いくら収入がなくても、エアコンがないと暑さで健康が脅かされている人間には、

暑いときに金のことなどいちいち気にしないでエアコンを全力で回していないと落ち着かない。

暑くなるたびに実際に死にそうな気分と体調になる人間の気持ちなど分かってもらえないだろう。

身体も精神も健康的にしたいが、それはエアコンがないとできない。

エアコンは人権である。

誠に遺憾である。

別に一人にはなりたいが、気になったことを誰かに話したいときもある。

しかし話題が噛み合わない。

趣味や特技が特殊すぎて普通の作業所で話が噛み合わない。

とりあえずロックバンド系の話なら通じるが周りはポップスの話しばかりする。一通り楽器も弾くがそれが役に立った試しはない。

人がいればたまたま偶然に会話がとんとん拍子に進んでバンド結成!とかもありうるし、実際あったがそういうのは都市部限定である。

田舎の人数でいったい何ができるか。


しかもそれでまだいい方と来たもんだ。

普段研究?している仏教とか話をしたくてもセンシティブな場所では宗教は話題に持ち出すことも厳禁だし、哲学なんて誰も触れもしないし、

今はやりの生成AIについても誰もそういう技術も興味関心も持っていないから会話の広げようがない。

本来の趣味なんてマニアックなものだから、ことごとく人と話すのに不向き、と言えばそれまでだが、

全く話が通じる気配がないと虚無感ばかりが募る。別に友人がいないことをそんなに気に病んだりはしないが、

誰も話題についていけないような場所にいることは果たして正常なのかと思うのである。

噛みあいそうなゲームまで好みが何もかすらないとか、そういう意味で田舎って悲惨ですね、と、

いつも通り土を耕して、植物と向き合い勝手に人の代わりをしてもらって一日が過ぎる。

田舎と言えば田舎らしいが、人との接点がないからこうなっている、という我が侭、

妥協するにもどこに妥協点があるのか、みたいな趣味のラインナップをしていると、着地点すら見当たらないから困る。

誠に遺憾である。

アメリカのものを使えと某大統領が仰っておりますが、私の使っているギターは正真正銘GibsonUSA、アメリカ製のギターでございます。

逆に言うとほとんどそれしかない。あとは手の込んだアメリカ製のギターエフェクターが数個あるくらいである。

車なんて燃費と大きさを考えたら国産車一択にしかなりません。

つまりアメリカ製というのは一種のブランド品である、と。

ギターエフェクターも中国のメーカーが作り始めてから価格だったり中身だったりがいろいろおかしなことになりつつある気がしますが、

逆に言えば機械でも気合いの入った職人芸だったり手の込んだ中身だったりするのは中国にやらせると不安になるのはまだ変わらない。

とは言えお金のかかった何かをする、特にモータースポーツに関してはアメリカ内のカーレース、

インディカーとかナスカーを(中継は日本語だが)定期的に濃密に摂取しているので、

あの言葉にしにくいアメリカナイズされた車の独自の競技性、というのは大国で車に関する基礎基本の製造技術があるからであり、

同じ事を金があるからといって中国にやらせるとたぶんそんなに面白くない、モータースポーツらしい何か、になってしまうだろう。

車にもちゃんとお金はかけるが、それ以外のショー的な部分のお金のかけ方の面白さはまだアメリカの味なのだろうと私は思うのである。

昔から見てきたF1も色々な組織の都合でなんか企業やコンストラクターごとのエゴを見ているようであって今なんてレースを見ている気にならない。

シューマッハとかもはや懐かしい存在である。まことあの頃はよかった。なのでその頃は別にインディカーを見るまでもなかった。

でも今はインディカーを録画しておかなければ変な禁断症状が出る。

ほぼ単一の国で開催するレース(ドライバーはあちこちの国からやって来ますが)というのはその国のことを考えればいいから、

逆に言えば独自性がウリになるので面白いのである。お前らなんでこんな公道走れる命知らず揃いなのかとか、あと生々しい喧嘩とか。

日本はレースになると何でも安全性とか不具合のなさをとことん追い詰めるからよくない。詰め過ぎて生々しさ、レースらしさがなくなる。

まあそれでも事故は起きるんですが、誰がぶつけたとかお前がやった、とか、

インタビューでアナウンサーに事故の怒りをぶちまけるとか、マシンから降りてそのまま殴り合いにならないのもかえってどうかと思う。

アメリカならといえば何だが、オーバルコースをグルグルずっと数百周回っているだけでうまく言えないが面白いのである。

何か野生味があるから。金をかけた野生味なんてアメリカならではである(個人の感想です)

あとはアメリカからマーチやジャズ等々のアメリカらしい音楽を取り除いたらただの国である。

もの、というか文化で濃く味をつけたもの、を理解していなければどこで何を作ろうとも単に高いだけの物に過ぎない。

それを何故作ったのか、そこまでに至った道理と理由が正しく伝わらなければ何も売れるはずがない。

文化を浸透、伝達しようとしないで、ものだけ売ろうとしても、いったい何が売れるだろうか。

誠に遺憾である。