隠者の庵 -6ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

連休何もしなかったのは、連休で行楽地に人間全員を押し込んでとにかく混むことと、

価格が何でも高くて外に行く気にすらなれないことのダブルパンチである。

誠に遺憾である。

最悪パスタを毎日食べればいいよね(意味不明)

住んでいるのがそもそも田舎だとまず街に出てくるまでに時間と手間がかかるし、

そこから空港に走って飛行機に乗るとかもっと手間と時間がかかるので、

わざわざ人が多い時期にそんなことしなければならないのかと首を傾げたらもう家で畑でも耕していた方がいい。

畑を耕すのは自分の身体を動かしてお金をかけない娯楽だと私の頭の中には書かれてあります。

わざわざ行楽地に行って人混みをかき分けて乗り物に乗って乗る前からくたくたになり、

幾つか乗り終わったら、肉体も精神も全体的にクタクタになってベンチで虚空を見つめるようなのが娯楽だと思いますか。

人に潰されることが果たして成果になり得るのでしょうか。私は思わない。

それなら人の入る隙間のない、自分のやりたいことにもっと時間と手間をかけたい。その結論がひたすら畑に携わることである。

遊園地に行きたいとか思う人には目の敵みたいな存在だが、ぶっちゃけ畑の作物の育ち具合を見ているだけで数時間はつぶせる。

つぶせる、というよりは観察や監修にひたすら時間をかけて変化や異常を見逃さないようにする、と言った方が正しいかもしれませんが。

一日畑を見ていなければ一日分の変化を見過ごすことになる。そんなことは今の自分にはとても耐えられるものではない。

半日家を空けるくらいならいいが、ホテルに数日間泊まっていると次第に畑が気になってドンドン不安になる。

なので旅行するなら断然冬である。気にかける植物が雪に埋もれて一切なくなるから。

数日間雨が降らないで晴れ、しかも高温とか、ずっと曇りあるいは雨みたいな天気予報だと家を長期に空けることに苛立ちか不安を覚える。

猫の額みたいな狭い畑しかないのに何を御大層なことを、とは思っているが、それでも植えているものは見つめていなければ気が気でない。

それを忘れたふりをして行楽に出かけても気分は晴れないどころか曇天か荒天である。

最早畑に引きこもった方がいいのかもしれない。でも部屋にこもらず畑にはほぼ毎日出てきて何かしているので引きこもりではない(意味不明)

誠に遺憾である。

もう歳もとって子どもとかも居なければ、連休に人の居るところにわざわざ出かけていく人の気が知れなくなる。

そして別に行楽に出かけることもなく普通の休日と同じように過ごし、ああもう連休も終わるなどと独りごちる。

むしろ仕事というか作業所に行く方がボケなくていいのではないかなどと思ったりする。

それか家庭菜園に出向いて草を引っこ抜いたり苗の手入れをするか。

とは言え雪が溶けてまだそんなに経っていないので苗は貧弱極まりない。要は勝手に生えてきた草を引っこ抜くしかすることがない。

雪があるときは畑が全面雪で埋もれて何もできないし出たら雪に埋まって自分も死にかねないし、

雪があるときはあるように、ないときはないようにするしか内容がないのでわずかな植物の成長ではしゃぎ回るのが現状である。

こんなに(数ミリ)植物は育っているのにみんな外に出かけて何をしようというのか、などと真剣に言いかねない。

誠に遺憾である。

最近Xを見ているとセンセーショナルな単語結構な確率で並んでいて辟易する。

「日本の敵」とか「増税」が何たらとかとにかく人を煽りかねない言葉ばかりがあふれている。

Xとはそのような存在、と言われたら返す言葉もなくなってしまうが、

言葉をぶつけ合う人々のライフサイクルにだけは巻き込まれたくないと思うわけである。

要するに言葉で喧嘩を売っているわけでしょう。肉体でないだけの話である。

流行語もなんか作為的なものが感じられて追いかける気もなくなったが、

あまり言葉を追い求めると余計に疲れそうな気がしてならない。

毎回同じことを言うがインフルエンサーはインフルエンザでもかかってしばらく全員居なくなったらどれだけSNSは静かになるのか。

誠に遺憾である。

最近何が厳格化されたのかわからないが、とにかく障害年金の審査に蹴られて不支給になった人が前の二倍になっているという。

障害基礎年金、厚生年金だけで生きるには心許ないし、だいたい障害者就労か作業所の工賃を加算して何とか乗り切るレベルの話になる。

年金をもらったら生活が楽になってウハウハなどは一切ありません。もっと泥臭い生きるための一部分です。

生活保護の方がまだ安定してるじゃん、と言いたくなるレベルである。そっちは現状だと役場に行けば即蹴りだされますが。


自分が年金を申請書類を揃えて申し込んだころはこんなことにはなっていなかったので、

自分で書いた書類と医師の診断書で何とかなった。士業の人々や福祉のスタッフなど専門家に書類の書き方を相談するとかもしなかった。

主治医とは診断書と書類の記述にズレがないよう打ち合わせしたが、おかげ様で一回で素直に通った。

ただそれは十年以上前の話であって、今の状況であればその程度でどうにかなっていないのかもしれないと思うと寒気がする。

この現実では自分のような知的障害のない発達障害に二次障害のうつをこじらせた程度ではどうなるかわからない。

そもそも主症状の自閉症スペクトラムで障害者手帳すら申請できないという体たらくである。

いくらうつが寛解しても基礎基本のところで発達障害が根本にあるのなら、症状として対人関係が上手くいかないから、すぐにうつが再発しかねないが、

発達障害で申請しても知的障害を併発していたり病識が無く暴れまわるくらいの重度レベルでないと、

申請しても何もなく却下扱いで蹴られて帰ってくるだけである。医者や福祉スタッフが言っていたのだから間違いない。

でも軽度発達障害は決して軽度ではありません。

結果私の障害者手帳申請も年金申請の書類にもうつとしか書いてない。

発達障害が主症状なのにご飯(うつ)に対するごま塩程度の扱いである。

それでも申請は何とかなったからあらゆる関係者に感謝を申し上げるしかない。

多分今申請するなら廻し蹴りでも喰らって門前払いで追い出される扱いになっているのだろうか。

既得権益、ではないけれど周りにろくな仕事のない田舎に住んでいれば何とか年金を守りきらざるを得ない。

仕事も本当に何もないから。

この辺である求人のスーパーや何処かの店員をやろうにも、足がズタボロで、

遠目でも歩き方で足に不具合があるようにはっきりと見える人間が長時間品物を運んだり並べたりする仕事なんてできると思いますか。

しかしそんな事を言っている場合ではない、本当に重い、普通に生活できない、

出来ても日常的なケアを時間をかけてでも必要とする人々の申請が蹴られるのであれば、年金とは一体何のためにあるのか。

それなら昔芸能人の年金未納が社会問題になったように、わざと納めない扱いをされても仕方ないのではないか。

本当に困った時に蹴られて何にもならないなら、一体何のための年金か。

誠に遺憾である。

人付き合いで大事なのは自分の好みを明かさないことである。そこから人は話しのきっかけを見いだそうとするから。

基本どのような場所でも一人で行動し、一人で全部やることを念頭において行動する人間には、他人に触られるのは想定外である。

身内でも親戚でもあらゆる人からもできれば声かけをしてほしくない。

何なら「あいつ何考えてるかわからん」と思われて疎外されるくらいがちょうどいい。


何か聞かれても最低限の返答はするが、人間関係なんて興味ないから近所の誰かのうわさ話なんて振られても返答のしようがないし、

論点のわからない世間話が最も苦手なので、あまり会話を勝手に広げないでほしい。

自分は何なら哲学とか宗教学の話でもしますか、という、ツボに入った話なら演説気味に話す面倒な人間なので、

他の人からすれば口を開かせればうんざりするだろうから、そういうことのないよう、人に話しかけられるきっかけがないように行動する。

何も明かさなければ不気味な人と思われるだろうが、些細なものの好みや言動から、

人の気持ちも知らずに寄ってくる人に絡まれるよりははるかにいいだろう。襲ってくる人でなくても逃げ出したくなる。

店で買い物をするときは大体喋ることが決まっているから、テンプレから外れなければなんとかなる。

海外で買い物をするときの値引き、値段交渉とか恐ろしくて、店で品物に貼ってある価格で買うなんて日常茶飯事である。

当然ながら争い事や倒れている人でもいなければ声かけなどこちら側からはしない。

AEDは使うし救命処置はするが、それ以外の日常会話はしない。

いざという時だけ正義感だけで現れて終わったらまた霧や霞のようになる人間になりたい。

あれこれの感情を天秤にかけながら傾きすぎないように、なんて社会性のない自分にはできない。

できないから人には関わらない。不穏分子なんていない方がいいからである。

誠に遺憾である。

この間の天竜川水門にぶつけた事故の情報を仕入れて「生き急ぐとはこのようなことであるか」と私は思いました。

私の車?排気量もあって加速も速度維持も何もかもトロいですよ。

私はたとえお金があっても運転は下手くそだから速く走ることの出来る車には乗ってはならないのである。

自動車学校を出るのに規定の路上訓練では足りなくて、補講を受けてようやく実技試験が終わるような人間に何を期待しますか。

そのような人間だからスピードも出さないし大抵後に車がつまる。

だからといってスピードを出したら事故を起こす。

そもそも制限速度ピッタリに走って後からパッシングされたりとか、

それ速度違反する方が間違ってないですか、と何度心の中で突っ込みながら走行しただろうか。

確かに車道を走行するときは周囲の流れに合わせてといわれる。

しかし制限速度を十キロ以上オーバーして心安らかに走れますか。私は走れない。

それで「空気が読めない奴だ」と言われても一体何すればいいんですか。速度超過した暴徒になれとでも言うのですか。

それやったらまず間違いなく天竜川水門の事故プラス周囲を巻き込むことになりますよ。

運転が下手なのを自覚しているから、免許の重さを自覚しているから、

私は道を走り急いで生き急ぐ人の気持ちがわからない。

誠に遺憾である。

最近不倫して炎上する芸能人が頓に多いですね、なんて恋愛すらしたことのない人間は羨む方法すら見当たらないで暮らしている。

他の国ならともかくこの国の制度として一夫一妻制ですから、と言ってもフェミニストには何を言われるかわからないから怖い。

諦めるというか精神に何かあったんじゃ今の世の中ではまず恋愛には進めないし、進まない方がいいだろう。

結構自分が怖くなるときってあるんですよ。人が怖くなるのと同じように。

自分がやることに対して恐ろしくなるのである、言動ともに。行動は明らかに昔ながらの頑固職人(職人要素除く)だし、

何を言っているかわからない譫言のような感覚で人と対話するし、文章を書くときだけ一見まともに見えるかもしれないが、

実際とても意味不明なことを書きたがるので暴走すれば毒電波が流れる。

そんなやつが人と仲良う仲良うするなんて無謀ではありませんか。自覚しているし病識もあるから、極力人を遠ざけて静かにしたい。

人に迷惑をかけたくないし、人の手を煩わせたくないし、そういう自分に自己嫌悪するので、人にはこちらからアクションはとらないし、

意図しない人が来ればパニックになりかねないような精神状態を保って暮らしている。

人が多ければ多いほど何をしていいかわからなくなり、一人で冷静に何でもできないのかと愚痴をこぼす。

人間関係って単純にできないんですか。

基本的な生活が人離れしているから、人とくっつきたがる人の気持ちはわからないし、

今ある関係をこじらせるような浮気とか不倫とか二股以上をかける人の気持ちは更に理解できない。

ましてや私のように世間離れして名声もくそもないならともかく、

世間に名も売れて人前に積極的に出て自分そのもので商売をする人々が人間関係を積極的にこじらせにいくのが理解できない。

誠に遺憾である。

別にキリスト教ではないけれど『聖書』は読むし、『聖書』で一番好きなのはと万が一聞かれてしまったら『コヘレトの言葉』と即答する。

何故かは知らないがあそこにはユダヤ教、キリスト教的なところの無常がある気がするのである。

今手持ちの『聖書』のしおりが挟まっているところを確認したら『コヘレトの言葉』の冒頭に挟まっていた。

余程私は気に入っているのだろう。

『なんという空しさ。

なんという空しさ、すべては空しい。(1.2)』で始まるコヘレトの言葉が空しくなければいったい何が空しいのであろうか。

だいたい旧約聖書においては神のもとにただ従う民族の歴史や伝承が語られるが、

私の中ではこの章だけはどこか異質な空気を漂わせていると感じる。

コヘレトの言葉から全部飛ばしてヨハネの黙示録に繋げばもはや世界は終末である。アルマゲドンである。なんと空しいことか。

『すべては塵から成った。すべては塵に返る。(3.20)』途中の格言を挟みたたみかけられる無常を浴びればすべてが空しくなるだろう。

今キリスト教圏の大国がいろいろ騒ぎを起こして世界が乱れている気がしてならない。

そういうときこそ外面的な終末を語る『ヨハネの黙示録』を読みたくもなるが、

内面的にひっそりとするならば『コヘレトの言葉』よりしっくりくるものはない。

そして一通り読み終わったらThe ByrdsのTurn! Turn! Turn!(歌詞が『コヘレトの言葉』の3章の一部分)を聴いて一層無常を感じると覿面である。

間違っておっちゃんの風呂とか聞こえたり思ったりしたら台無しであるが、空耳でそう聞こえるからどうしようもない。

まあ多分自分がこの章を気に入っているのは血生臭さを感じないからでしょうか。

他の章を読めば神こそ人間を抹殺しにかかっているのではないかと動的な意味で憂鬱になる。

そりゃニーチェも色々な意味で「神は死んだ」と言いたくなりますわ。

誠に遺憾である。

団塊の世代とかバブル世代とか氷河期世代とかゆとり世代とかさとり世代とかZ世代とかいう対立軸も、

だいたい「自分が発達障害当事者だから」という理由で無効になります。

どういう世代でもまともなコミュニケーションをとれなければ社会には適応できないから。

誠に遺憾である。

私は礼儀作法はどこでも守れるようにする、ということは理論的に知っているし、最低限守れるようにはするが、

何か突発的なアクシデントが起きたときの礼儀作法を知らない。とにかく形の上の礼儀だけ強迫的に叩き込んでそれ以外のことをすることを怖れる。

礼儀作法もルールに外れないか、と不安に恐れおののきながらやっているものである。

つまり根っこは自分のことしか視界に入っていない傲慢不遜な人間である。

なので酒が入ると吐くか地がでて不躾な行為をやらかしてそのままご退場、となる。

だから宴席で酒は飲んではならない。自分を守るために。

酔ったらガチガチにした礼儀のアーマーが吹っ飛ぶし、意味不明な演説はするし、

やってくる酒の入った人の上手な躱し方も知らないのでだいたい悲惨な結果になる。

フォーマルな場で規則を杓子定規に守るのはそうしないと守っている気になれないからであり、

何ならマナーのなっていない人を風紀委員のごとく警告したりフロアスタッフに密告でもするだろう。

みっちりと外見や教養、服装や儀礼的な挨拶などを頭の中で綿密に組み立てても、本当の内面、

さりげない所作、予定変更時や緊急時のことは身に付いていないからそのまま傲慢不遜な人間になる。

私にはルールを杓子定規に厳守するよりも柔軟に動く方がつらい。ルールとかマナーって何かで守られている気がするじゃないですか。

ルールとマナーがなければ武器と鎧を外して危険な場所を歩いているようなものである。

ただ自分の武装ってどこかに一瞬で全部吹っ飛ぶスイッチが仕込まれているんですよね。

俗に「空気が読めない」とか「臨機応変に対応できない」とか「何考えてるか分からない」とか呼ばれる一押しで起動するスイッチが。

そんなもの果たして武装なんて大それた名前をつけられる代物なのか。

ええ、何かの集まりの時には頭の中には集まりの正しい手順と順番と挨拶のテンプレートしか入っていません。

それ以外のことを突かれると頭の中に詰め込んだものも含めて全部台無しになります。

なので冠婚葬祭にはめったに出ないが、出てもやって来て世間話もろくにしないままそのまま帰ることもあります。

もうモブキャラ扱いでただ居るだけの存在になって早くこの集まり終わらないかしら、とだいたい思っている。

誰がいるとか人付き合いを増やすとか人と何を話すとかは頭にない。ただ儀礼をすんなり流すことしか考えてない。

そうしてもまずボロが出るが、そうしていないときの惨状の比ではない。

何かのきっかけで間違って弾けると、招かれざる客とか身内の恥とか呼ばれるようになるのです。

誠に遺憾である。