隠者の庵

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

人のところに行けば期待される行動とか気遣いとかなんか感情的な行動をしなければならないのだとは思うが、

そのどれもが不得意というか気の利かない不器用を通り越したレベルに設定されているので、

植物をじっと眺めていた方が遥かに気楽であるという事は言うまでもない。

だからわたしは家庭菜園に本腰を入れ始めたのである。植物と向き合っていれば人と向き合わないで済むから。

なんかもう一日中、朝から晩まで身体に無理のない程度で畑を耕せる仕事とかでもないですか、と思うようになる。

足とかもうガタガタだし、車を使える免許も普通と小型特殊と原付位なのででかい耕運機は使えないから、大規模なのはできない。

機械の入れないような場所で植物を眺めながら、日光湿疹がよっぽど酷くならない程度に何かゆっくりと緑を眺めていたい。

別に植物に向かって何かを話すわけでもなく、何かを求めるわけでもなく、育ったり枯れたり何なりするのを見るだけでいい。

それが心の救いになればいい。人間と関わるよりよっぽど救いになる。人間は気まぐれだから落ち着かない。

手を加えたら加えただけの、手を加えないなら加えないだけの報いというか変化はあるので、何かあったら大体わかってくるようになる。

そのかわり苗の周りに生えてくる草は大抵酷い目に遭ってそのままお陀仏ですが。人間のエゴって怖いものですね。

誠に遺憾である。

基本的に刺激は何もない方がいい。

特に人間の刺激と嗅覚の刺激などは特にない方がいい。

食事の話は他人に食わせる訳ではないからどんな話をしても一向に問題にはしないが、

人間関係とにおいというのはとことん人を巻き込まないと終わらない問題だからである。

他の感覚過敏についてもあくまでも個人的な問題に過ぎないところはあるが、

においの問題についてだけは黙っていられない。

私自身風呂には毎日入っておかないと自分の肌触りと悪臭に耐えられなくなるので、嫌でも毎日入らないといけないし何なら長風呂派である。

人に対してあまり印象を残したくないので装飾品も必要最小限を下回る時がほとんどであり、必要な服と眼鏡をつければ大体終わる。

本当に人の目につきたくないからである。そんな人間が間違ってもにおいなんていう印象を残そうと思うだろうか。

昔はなんか香水のイメージというのは最悪だったし外に出て香水瓶のブランドが集まっている場所などは香りで近寄りたくなくなるが、

最近は部屋のディフューザーぐらいは設置するようになってきた。

他人ににおいを知られたくないが自分の好きなにおいくらいは持っていてもいいだろうと思う。来客があれば慌てて箱にしまいますが。

若干慣れたとはいえ、本当にえげつない香水とか、あとは小さい頃から忌み嫌っているタバコとか、なんでそんなことをするのか未だにわからない。

それだったらまだ臭い料理の本当にえげつないものの方がいい。まだ料理は食えば減るだけ救いはある。納豆なんてなければ落ち着かない。

しかしそれを上回る勢いで何か別なにおいがするならば冗談抜きで殴りたくなる気分にはなる。

人に印象なんて残したくない奴がわざわざ人を殴りに行かないと気が済まない気分になるのだから完全にハラスメントである。

特に分煙がすすんだ今の世でも、なんか休憩でタバコを吸いに行くヤツとか、その時間だけ労働時間を延長してくれなどと思う。

ちょっとした待ち時間に時間が空いたからといって安易にタバコを吸う人とはそもそも人間関係を構築するかどうかから考えなければならない。

そんなわけで、外で意識の低い人がタバコのにおいを撒き散らす度に嫌悪感を覚えながら家に帰ってくるのだが、タバコは絶滅した方がいい。

余計ににおいを撒き散らしたり、頻繁にタバコを吸いに行く人に限って、電子タバコとかせめてにおいのしない方に進まないことが不思議でならない。

誠に遺憾である。

昔福祉の講座か何かで、重度重複障害者の話を聞いたことがあるが、

率直に思えば、私がつべこべ言う前に、何故人間は生きなければならないのか、ということに尽きる。

呪われよ

苦しみを選ぶ

注意

何故あなたは死ぬか

みたいな救いようのない選択肢ばかり並べられるとそもそも生きる意味を失う。

知的障害とか簡単に言うが、IQが計測不能だったり、身体の変形がひどく自力での移動が不可だったり、

意思表示以前に生命維持を優先されるから、食事は全部胃ろうだったり、定期的に吸引をしなければ呼吸困難に陥り生命の危機に陥ったり、

そういうのを複合的に抱えているのが重度重複障害者の世界である。

人間として生きるとは一体何なのか、発達障害くらいであれこれ言っているような場合ではないと思いました。

意思表示をその人がするとしても非常に微弱で、顔の筋肉の少しの動きでその人の表情と感情を判断しなければいけない、

発達障害傾向でも軽い知的障害で済むならまだ自分の言葉で意思表示することも出来るが、

そもそも言葉をもたない場合、人は一体何を思うのか。何を何で判断すればいいのか。

重度重複障害者の施設ではないが、昔(ということにしたい)知的障害者の施設で暴れ回った奴がいて、今も裁判の真っ最中だが、

人権を重んじなければならないのは前提として、本当に人間として出来ることは何か。

介護や看護をする人間は人間としてどうしなければならないのか、答えが見つかりそうで見つからない問いを永遠にぶつけられる。

まだ言葉に出来るだけ、言葉に出来るが、障害によって守られるものとは何か。守らないものとは何か。考えないふりはできない。

自分の世界に障害(者)という概念を入れたことがない人は幸せですね(皮肉)とはたまに言いたくなる。

自分自身が障害者であるから、より一層なおさらのことである。

2級ってもう上は1級しかないんですよ、とは言うがその1級との間には暗澹たる溝が開きっぱなしになって何かどす黒いものが流れている。

さて2級ごときが何が出来るのか。幽☆遊☆白書で戸愚呂弟を何とか倒したらB級で、その上にAとSがいるという絶望感みたいなものである。

おそらく私は重く見積もったとしてもB級程度であり、計り知れない何か、言葉にしたくても出来ない何かがそこに横たわっている。

誠に遺憾である。

田舎の田舎度が段々進行すると、人がいないからサービスがますます悪化していく。

内科はたぶん大丈夫?とは思うがすでに脳外科とか高度な専門科はないので、これから今の後期高齢者がいなくなれば、

何が残るかなんて予測もつかない。なんならここにいない方がよくなるかもしれない。

少なくとも障害者福祉に関しては発達障害傾向の人々に対するアプローチとか、施設によるケアとかがますます難しくなるのは想像に難くない。

施設の規模は人口に比例するのでこのまま過疎化が進めばそもそも障害者なんて抱えきれないだろう。そして高齢者介護に回される。

認知症とか後天的に負った障害ならともかく、先天的な発達障害(知的障害という意味も含めて)などは特別支援学校から地域の受け皿がなければ、

仕事というか作業所も含めて、きちんと面倒の見きれる大きさの施設、宿舎、グループホームに行かなければそもそもが不幸になる。

障害者であるからこそ地元には住めない、というか本当に仕事がなくて都市部に引っ越すかそういうグループホームに移った人々もいるわけである。

仕事もなければ通院も遠距離、なんならメンタルケアのために人間関係も一新しなければならない、そもそも地域にトラウマがある、とか、

田舎ならではの近い人間関係が障害者には弊害になり得る時もある。

特にこだわりが強いけれども自分以外その事について興味関心がないから、何も話が進まないとか、人が多ければまだ何とかなりそうなものも、

話しても聞き流されるとか、なんなら迫害されるとか、地域だから、田舎だからこそどうしても通じないこともある。

そういう事態になったときにケアが必要になるが、田舎故に誰もかも顔見知りなら何故トラブルになったかもご存知な訳で、

そうなると何処か遠くの場所に行ったまま帰りたくないような心境にもなり得るわけである。

なんなら近所の、隣の人すら誰なのか素性も知らないわからない場所にいた方がまだ平和でいられるかもしれない。

家族が味方であったとしても、それ以外の地域、近所づきあいにいい思い出がなければ家から一歩外に出ただけで地獄である。

少なくともメンタルにいい作用をもたらしはしないだろう。常に敵に怯えるような生活が平和なんて言えるものか。

その内逆に「駆逐してやる」とか思い始めたらある意味お終いである。

そういう意味では障害者というのはいずれ同じ場所に住めなくなる運命を背負っているのかもしれない。

或いは逃げた先の施設の頑丈さに頼ってひたすら守られなければ身も心もとても不安にさらされ、恐怖に怯えるようになるだろうと思う。

長く付き合えば付き合うほど、その障害者の嫌なところや欠点が嫌でも目についてきて見過ごせなくなるように。

田舎は人と人の距離感が近いので、ヘタに関わってきてお互いに気まずくなる。そして地域としてその人をいい意味でも悪い意味でも見過ごせなくなる。

そうなれば人間関係そのものを負担に思う人間にはとても住みにくい場所だと言えるだろう。

何故なら人間として、一個人としての人間として時に一人になりたいという願いも叶わなくなるから。

見張られているというのは良くも悪くも監視ということに他ならない。気にされたくないのに気にされるとき、人間は不幸になる。

都会なら人が多すぎて構っている暇もないからある意味本当に孤独になれる。

同じマンションに住んでいても、この建物に住んでいる人が誰が誰だか問題や事件でも起きなければ知らないように。

確かに障害者は弱者であり、ケアやある程度の監視も必要になるだろう。しかしいつもそういう風にされるのは、健常者と同じように疲れる。

少しは一人であることの自由を噛みしめたいが、人がいなければいないで人の目は厳しくなる。

誠に遺憾である。

何か富士樹海みたいな場所に「祝ってやる」(多分「呪ってやる」と書きたかったのだろう)と書かれたものがVOWに投稿されてましたが、

個人的には人を呪うのも面倒である。それってつまり人との繋がりに未だに未練があるということじゃないですか。

もう限られた人間を除いて接点とか交点とか可能な限り減らす事を私は望んでいるので、

昔のことなんて大抵思い出したくないし、何かのトラブルがあった場合の原因がほぼ自分なので恨まれるとすれば自分の方である。

発達障害なんて言い訳にも使いたくない。使ったところで自分が劣っていることが白日に曝されるだけのことである。

人を呪う権利もない者が不用意に人など呪ってはならない。心当たりがあれば特に、である。

何の根拠もなしに自分が悪くないと思って、あまつさえ人を呪うことまで始めるとするならば、私なら生きていても仕方があるまい、と思う。

完全に関係を絶ちたいというか、接点がないようにしたい、と思ったとき、後腐れとか後悔とか、何かを残すべきであろうか。

相手が不幸になることすら面倒である。大体人を公開して呪うような事をすると、このSNS全盛の世の中、何が原因で嗅ぎつけられるかわからない。

世の中にはそういう個人を特定するためだけに動く人がネット上に待機していると聞いているので、変な動きは慎まなければならないと思いました。

感情が交わることに疲れると、人間関係が極論どうでもよくなり、従って世間一般のことなど更に極めてどうでもよくなる。

政治とか芸能界の話とか、政治はまだしも芸能界なんてただの他人にしか見えないじゃないですか。一体何を話題にすればいいのか。

とはいえ流石に完全に孤立するのはまずいし、今の世の中戸籍とか色々な紐があるので浮くにも浮けないから、福祉関係の人間関係は維持するが、

逆に言えば、私が個人の努力で何とかできる人間関係はそれくらいしかない、とも言う。

それ以外の自由気ままな人間関係というのは、自由であり、気ままで不規則であるからこそ、私にはあったら困るし不用意に押しつけられたくない。

親族が増えるような事態も減ったが、増えれば増えるだけ釣り合いが取れなくなってしまうのが私の精神である。

派閥とか出来てしまえば一刻も早く帰りたい。外して欲しい。一匹狼的なポジションでいいからとにかく孤立したい。

人の不幸を願うのも面倒くさい。何もかもなくていいから静かで落ち着いた空間さえあれば他人には何も望んだりはしない。

誠に遺憾である。

医者や福祉関係者のホームページや本などのデータを色々調べていると、

発達障害者というのは大人になっても顔が若々しく見えることが多い、という話になっている。

うまく表現出来ないが、生きてきた苦労を皺とか顔の各パーツに染みこませていない、

要するに子供っぽさというか、年齢相応の苦労とか苦痛を体験していない、とかついでに書かれることもある。

けれど別に発達障害者とて苦労をしていないという訳ではない。むしろ人間関係がわからん、という苦労は人一倍している。

顔のパーツが云々というのは複雑な、多様な人間関係の釣り合いを取らなければならない所謂中間管理職みたいな折衝を常に求められる立場、

あるいは毎日職人技を会得するために同じ鍛錬をずっと続けているとか、そういう肉体的、精神的な疲労的な経験という物があって、

発達障害者にはそれが根本的に足りないから顔に味が出ない、とか言われているのかもしれない。

しかし発達障害者は別に人間関係に苦労をしていない訳ではない。苦労はしているが苦労の方向性が違うから結果が顔に出てくるのである。

発達障害者、特に自閉症スペクトラムの人々は人間の感情、人間関係の機微を読み取ることに困難がある。

人の苦労も知らないのに、とはよく言われたものだが、人と人の間を調節調整する能力がないのにやっても疲れるだけである。

出来ないから疲れるのであって、何とか乗り越えて疲れるのとは方向性がかなり違うので、

人の間に立って問題を処理するのに奔走して密な連絡を取り合い苦労する、というのと、

そもそも何故相手が怒ったり問題を提起している理由が人間関係の動きの中にあることがわからないから、動けなくて苦労する、というのは、

私の場合は無論後者であり、人とのトラブルを持ち込まれてもちょっとしたことで簡単にフリーズするので、仕事を任せてられない、

もうやってられん、他の人に回すわ、となり、最終的に簡単な仕事をこなすだけの日々に必然的になっていく。

そうすると苦労もできないので顔は歳をとらない。取りたくても問題の難しさが違うからどうにもならない。

結果的にわからないところはわからないまま終わる。何が問題だったのでしょう、とは一切理解できないままで。

そして発達障害傾向の行動が理解できないという方向の苦労も、普通の人の顔の皺に刻み込まれることでしょう。

そして当事者側は(人間関係が出来ないとわかるまでゴリゴリに脳を活用して押し通すために)普通の人が顔の皺に刻み込まれることが精神に刻み込まれる。

それが発達障害者によく見られる二次障害、うつや適応障害だったり不安障害だったり、

行動障害、強迫症だったり、それらの混合体だったりするのであろうと私は思っている。

だから発達障害者は苦労をしていない訳ではない、苦労が違うところにダメージとして入ってメンタルが耐えきれなくなるのである。

少なくとも顔には入ってないから、顔つきが若い、年をとっていないと言われるのかもしれない。

訓練しようにも相手の気持ちがわからない、空気が読めない、場と時期に応じた柔軟な行動ができない、つまり一切臨機応変さがない。

その状態で人間関係の何を学んだらわかったつもりになるのでしょうか。

人の苦労を察したり、人間関係を調整する能力もないのに、皺に苦労が刻み込まれるようなことはないだろう。苦痛は別な場所に刻まれます。

人間がわからないという苦労は顔の皺に刻み込まれるようなことはないらしい。

誠に遺憾である。

飲むビールならラガービール、キリンラガーだと私の相場は決まっている。

ドライビールとかなんなの(美味しんぼの読みすぎ)年に数回しか飲まないし、飲んでも一缶か二缶くらいなので、

本当にそんな少しのものをケチって貧乏性丸出しにしなくてもいいと思う。どうせスーパーの半額弁当を狙うなんて決まり切ったことだし。

何というかエグくないビールは私の中ではビールではない。蓼食う虫も好き好きとは言いますが、クラシックとかでも何か足りんな、などと思うので、

ドライビールとか第三のビールとか出されて水みたいでそこまでして安く飲みたいのか、と私が思ってしまうのは、

きっと毎日飲んだりもしないし、質よりも量を求めるようにお酒について考えていないのだろう。

少ししか飲めないならその一杯の質を高めることを怠らないようにしたい。

そうして凝りはじめた梅酒などを昔は漬けていたが(スーパーにも梅酒ゾーンが作られてガラス瓶や青梅が並ぶ頃になりました)

今はそもそも実家に置き場所、保管場所がなくなったし、実際量を飲まないのでなかなか減らないから何かが折れて諦めた。

自分で飲む酒は自分でフレーバーをブレンドしたり何なりして、基本ビール以外缶や瓶の中身がそのまま出てくることは少ない。

でも酎ハイは飲み物じゃない(意味不明)甘い飲み物が、というか甘党だからこそ酎ハイが受け入れられない。

甘い物なら酒だという意識をしないで飲める味にしてくださいよ。カルーアミルクとかあんな感じで。

酒の味のする甘いものってモロに毒みたいな、毒ではないけど毒みたいな味がするのである。

誠に遺憾である。

何か用事があって、又は誰かに呼ばれて都会に行くと飲み屋とか軒を連ねるような繁華街に行かされるじゃないですか。

一人ならほぼ絶対に足を踏み入れることのない場所であるから、得体の知れないエンカウントとかあったら困るので、

多分私は田舎の狭い風景から外にあまり出ない方がいい人間なのだろう。

田舎の繁華街って繁華してない寂れた雰囲気を一日中漂わせているから、名前は繁華街だけれども繁華街としてカウントされないことになる。

でかい街で飲み会をするとなれば当然田舎のレベルではなくなるので、

都会で飲み会や何かの会合が開かれると、普段しないことをしなければならなくなるから、

普段の生活の数倍から数十倍は疲れて外出先から家やホテルに戻ってくるころにはもうクタクタのヨレヨレになっている。

酒が入るので周囲は騒がしくなるし、別に自分は酒を飲まないし、話をしようにもかみ合う合う話題が見つからないし、

関節は朝から悲鳴をあげているので聞かなかったことにしている、これらの事を総合的に勘案しても何もかも自分には都合が悪い。

夜はさすがに限界なので流石にじっくり休みたい。

何というかは知らないけれど夜にこそゆっくりしたい。

日付が変わるまで遊び倒す、とか飲み歩いてはしゃぎ倒すとか、それはしたい人がすればいいのです。

自分には不適格なだけのことである。

もともと酒を飲むことを習慣にしている訳ではないし、晩に誰かと過ごす時間を確保している訳でもないし、本当に一人にしてくれと思う。

普通の人が夜の時間に飲み歩くことをストレス発散というならば、私は部屋で自分ひとりと向き合っていることがストレス発散である。

ストレス発散の方向性も指向性も違う人間を一緒くたにまとめて無事で済まされるはずがない。

世捨て人とか仙人とかそういう類の精神性の人間と社交的で人と触れあいたいという人間は根本的に住んでいる世界が違う。

たまには羽目を外したくなる時もありますが、あくまでもたまに、である。年に二回か三回あればいいし、頻繁にやられるともうこりごりだと思う。

あんまり飲み会とかに誘われすぎたりするととても精神の容量が足りなくなり、誘われたとき専用の頭のプログラムでも組まなければならなくなる。

誘われるとき専用に組んでいるので他の場面での応用はたぶん効かない。効いた試しがない。

あまりにも頭の容量を使うので本当に何回もやられると酒を飲んでないのに胃が痛くなる。しかしプログラムを動かしておかなければより痛くなる。

何かを静かに書いたり表現したりすることがストレス発散であれば、他人の声など騒音に近く迷惑であり、即ち仕事の邪魔である。

私の頭は大体フル稼働しているが、それはあくまでも内向的な、個人的な、人を巻き込めないタイプのものである。

飲み会が始まってしばらくすれば、自分は疎外感を抱いたり集団の場が面倒になったり、早く帰れるなら帰りたいとか大抵思うようになる。

何もすることがなくなるからである。何なら食事も酒を飲まないで自分で頼んだ分だけ速攻で食べてしまうから本当に何もなくなる。

食う以外にすることがないし、酒を飲むと胃腸がやられるし、食事とは静かに向き合いたいし、静かでなければ食事もなんだかおいしくなくなる。

酒の入ったグラスを乾杯と称してぶつけまくり、周囲に絡まる人とは一緒の時間を過ごしたくない。

飲み会でなくても、ファミレスで何かやけに騒がしい家族連れとかの子供ややんちゃな若者たちがはしゃぎ回ると、

美味しいはずの食事が砂を噛むような感じがして、何だかおいしく感じられなくなるのである。

生活の大半がクラシックの演奏会のように、演奏するときだけ楽譜の範囲内で音が鳴っていて、演奏していない時は静粛に、動かず、

とにかくドレスコードもあって微動だにしない、目の前でおきている演奏にだけ心躍る、

静けさがない生活なんて常にストレッサーに曝されるようなもので常に落ち着けない。

そういう人間が繁華街に好き好んで行くはずもなく、大体連れられて来るが、静けさが空に染み入る時間を見計らって早く帰りたい。

誠に遺憾である。

新しいことをすると期待と不安を胸に、とか普通書きますが、私の場合胸ではなく脳に直接行きます。

「期待と不安を脳に」というのは、確かVOWの誤植か何かのコーナーでネタにされていたと思いますが、

私はその誤植通りに脳天直撃セガサターン(世代バレバレ)になります。もっと言えば頭はグルグルして胸はハラハラします。

最悪腹を痛めてトイレから出られなくなります。

何処をどう考えても長期的な外出には不向きです。一週間旅行に行くとか言われたら拒否して部屋にこもりたくなります。

電化製品とか放置出来ないから、通電している以上いつショートするか、とか不安になると、家から出られなくなります。

旅に出るたびに毎回定番のように不安や期待が入り交じった憂鬱さとは違う不安そのものを頭にぶつけられてしまいます。

かといって前日とかに急遽キャンセルすればその分代金は嵩むし、なんで旅行に行きたいとか思ったのかとか言われるのでおとなしく外に出ますが、

一泊二日でも強迫観念そのものの窓は閉めたか、電気は切ったか、ガスの元栓は閉めたか、水道は閉めたか、鍵をかけたか、

とまあテンプレ通りの強迫症の不安に襲われて、動くたびに強迫観念が存分に発揮されおちおち外に出ていられません。

その内旅に出られなくなるかもしれない、とは旅に出る直前毎回思っている。今回が今度こそ最後ではないかと。いや最期なのかもしれない、と。

旅に出る前、前日と直前さえ乗り切れば何とかなりますが、玄関を脱出するまでが本当に酷い。

不安が募りすぎて旅行に積み込むバッグも強迫症で何度もチェックする割には必須なものを忘れます。期待と不安が脳に達しているからです。

何か生きている気がしない、と言えば過言だとは思いますが、実際不安が、本当に必要な行動にまで影響するので、何とかしたいがどうにもならない。

誠に遺憾である。

雑に保管して膨らんでたリチウムイオン電池が定期的に発見されるが、なんか得体の知れないメーカー(きっと中国製)だし、

膨らんでいるなら別に国産品でも家電量販店で回収してもらえないし、

自治体でゴミ回収をしてもらえるような書かれ方はしてないし、業者に頼むにしても回収してもらえるまで自宅に保管しておかなければならないので、

駄目なのは知っているが野外でハンマーでかち割って敢えて発火させて二度と燃えないようにしてしまいたい。

安全に爆発させるキットがあるなら、ノリと勢いで買って古いパソコンのバッテリーを全部爆発させるかもしれない。その方が清々するからである。

芸術は爆発だ(意味不明)

それでなければ鉄板とか絶縁体とかで凄い防護された部屋を借りるなりして、何時爆発してもいいようにしてしまいたい。

いつか爆発する可能性のある物を保管するのは精神を使います。

もう手当たり次第にネットをさまよい歩いたが、電極をテープで絶縁した上で金属の缶か陶器の瓶にしまうしかない、

それでも燃える物が電池の近くにあれば一切安全ではないとか何の拷問ですか。

家の物置なんて建ててから長期間経っているから老朽化して防水とかどうしようもない、物置に置いたら隙間から水が入って物置が燃えかねないし、

かと言って気密性を保ちすぎると室温が上がったら上がっただけ高温で危険になる。電極を塞いではいるが膨らんでいるので一向に安心できない。

ここに持っていけば安心、という制度を作らないで個人の責任で片して下さいね、とか、自己責任だけれども自己責任の意味が違うと思うのである。

田舎とは何もかもないので、リチウムイオン電池も処分できません。

野原とか山とか川とか腐るほどあるが、迂闊に燃やしたら、山は死にますか、海は死にますか、私の大切な故郷もみんな逝ってしまいますか。

となりかねないが、個人の一存で勝手に捨てられないのでどうしようもないから本当にどうしようもない。一体何をどうしろと。

ここに持っていけば安心、という施設のある都会の自治体が本当にうらやましく思う。

そこに遠出をして回収してほしいが、問題はそこに運ぶ途中で衝撃を与えてしまい、爆発する可能性があることである。

車、公共交通機関、その辺を歩行中、家電量販店に持って行くのもヒヤヒヤしたのにその数倍の距離を運ばなければならない、とか、

膨らませたのも無責任だとは思うが、簡単に捨てられないのもまた無責任である。そもそもリチウムイオン電池はどれでもいずれ劣化し使えなくなる。

劣化するだけならまだいいが、発火したり爆発したりするものを簡単に捨てられないとか制度の欠陥でしかない。それなら売らないでくれと。

確かに燃えたら困る物だが、燃える物が、燃える可能性のある危険な物体を生活の範囲内で簡単に処分できないのも困る。

もはや家の中では原子力とか科学的な毒物同様の扱いをせざるを得ない。誠に遺憾である。