繁華街に行かない人間は繁華街がわからない | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

何か用事があって、又は誰かに呼ばれて都会に行くと飲み屋とか軒を連ねるような繁華街に行かされるじゃないですか。

一人ならほぼ絶対に足を踏み入れることのない場所であるから、得体の知れないエンカウントとかあったら困るので、

多分私は田舎の狭い風景から外にあまり出ない方がいい人間なのだろう。

田舎の繁華街って繁華してない寂れた雰囲気を一日中漂わせているから、名前は繁華街だけれども繁華街としてカウントされないことになる。

でかい街で飲み会をするとなれば当然田舎のレベルではなくなるので、

都会で飲み会や何かの会合が開かれると、普段しないことをしなければならなくなるから、

普段の生活の数倍から数十倍は疲れて外出先から家やホテルに戻ってくるころにはもうクタクタのヨレヨレになっている。

酒が入るので周囲は騒がしくなるし、別に自分は酒を飲まないし、話をしようにもかみ合う合う話題が見つからないし、

関節は朝から悲鳴をあげているので聞かなかったことにしている、これらの事を総合的に勘案しても何もかも自分には都合が悪い。

夜はさすがに限界なので流石にじっくり休みたい。

何というかは知らないけれど夜にこそゆっくりしたい。

日付が変わるまで遊び倒す、とか飲み歩いてはしゃぎ倒すとか、それはしたい人がすればいいのです。

自分には不適格なだけのことである。

もともと酒を飲むことを習慣にしている訳ではないし、晩に誰かと過ごす時間を確保している訳でもないし、本当に一人にしてくれと思う。

普通の人が夜の時間に飲み歩くことをストレス発散というならば、私は部屋で自分ひとりと向き合っていることがストレス発散である。

ストレス発散の方向性も指向性も違う人間を一緒くたにまとめて無事で済まされるはずがない。

世捨て人とか仙人とかそういう類の精神性の人間と社交的で人と触れあいたいという人間は根本的に住んでいる世界が違う。

たまには羽目を外したくなる時もありますが、あくまでもたまに、である。年に二回か三回あればいいし、頻繁にやられるともうこりごりだと思う。

あんまり飲み会とかに誘われすぎたりするととても精神の容量が足りなくなり、誘われたとき専用の頭のプログラムでも組まなければならなくなる。

誘われるとき専用に組んでいるので他の場面での応用はたぶん効かない。効いた試しがない。

あまりにも頭の容量を使うので本当に何回もやられると酒を飲んでないのに胃が痛くなる。しかしプログラムを動かしておかなければより痛くなる。

何かを静かに書いたり表現したりすることがストレス発散であれば、他人の声など騒音に近く迷惑であり、即ち仕事の邪魔である。

私の頭は大体フル稼働しているが、それはあくまでも内向的な、個人的な、人を巻き込めないタイプのものである。

飲み会が始まってしばらくすれば、自分は疎外感を抱いたり集団の場が面倒になったり、早く帰れるなら帰りたいとか大抵思うようになる。

何もすることがなくなるからである。何なら食事も酒を飲まないで自分で頼んだ分だけ速攻で食べてしまうから本当に何もなくなる。

食う以外にすることがないし、酒を飲むと胃腸がやられるし、食事とは静かに向き合いたいし、静かでなければ食事もなんだかおいしくなくなる。

酒の入ったグラスを乾杯と称してぶつけまくり、周囲に絡まる人とは一緒の時間を過ごしたくない。

飲み会でなくても、ファミレスで何かやけに騒がしい家族連れとかの子供ややんちゃな若者たちがはしゃぎ回ると、

美味しいはずの食事が砂を噛むような感じがして、何だかおいしく感じられなくなるのである。

生活の大半がクラシックの演奏会のように、演奏するときだけ楽譜の範囲内で音が鳴っていて、演奏していない時は静粛に、動かず、

とにかくドレスコードもあって微動だにしない、目の前でおきている演奏にだけ心躍る、

静けさがない生活なんて常にストレッサーに曝されるようなもので常に落ち着けない。

そういう人間が繁華街に好き好んで行くはずもなく、大体連れられて来るが、静けさが空に染み入る時間を見計らって早く帰りたい。

誠に遺憾である。