隠者の庵 -2ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

何なら郊外に行けば熊が出るような田舎に住んでいるが、定期的に熊は現れる。

ニュースアプリに居住地の位置情報を登録しておけば近くで目撃情報があれば通知が入る。○○に熊の目撃情報がありました、と。

そして当然のように警戒しながらそのあたりを通過しなければならない。生活道路だろうと国道だろうとお構いなしであるから。

人が道を敷く場所は選ぶが熊がどこに行くかは選べない。

共存できるのであればそうするがそうもいかない状況ならどうにかしなければならない。

誰でも熊の対策ができればいいが、武装して狩猟できるのは本当に一部の限定された人だけである。

一般市民に何ができよう。対策をしても急に接近して来るならば不意打ちも同然、万全な対策など不可能と言ってもいい。

スプレーとか鈴とか持っていけばいいだろう、といっても急接近してくる野生の生き物なんて冷静に対処することなんてできない。

なので本当にガチガチに固めるか、プロに依頼するか、それらができなければそもそも近寄らない、とするしかない。

都会でああだこうだ言っている人は気楽でいいですね、熊が出ないから。

そんなこんなで熊と共存とか甘い認識の発言を繰り返す人は半ば白い目で見ている。

実際にやってこられて襲われたらどうなるか、その人だけでなく周囲がどうなるか、影響が果てしないから、

熊に餌付けとかやる人の心がわからないし、そもそも見てしまったらまず全力で逃げ切ることしか考えない。

生活圏に熊がいるとは命の危険がそばにある、ということである。

一撃喰らったら死ぬ危険がある存在が近くにあれば抗議の電話なんてまずかける余裕もない。

排除するか追い払うしかない。

それでもきっと福島町や羅臼岳の熊の駆除について抗議の電話が鳴りやむことはないのだろう。

愛護なんてのはどこまでも絵空事です。

誠に遺憾である。

盆とか正月とかは意図しない不定期的なイベントばかりなので毎日同じように過ごしたい人間には負荷が大きすぎる。

いつものように行きつけの店に出かけてもイベントが開催されて普段来ない量の人がやってきたり、

いつものレストランがいつもより混んでいて座る隙間がギリギリとかになると、

盆とか正月とかは早く速く終わらないかななどと思うのである。

毎年同じ事を言うがそういうものである。


別に毎年ズレもなく同じ事をしなければならないほど柔軟性が欠けている訳でもないが、

あまり普段やっていることからかけ離れたことをすると楽しみよりも不安が勝ってくる。

遠くかけ離れた場所に行けば恥なんてまだ忘れ去られるからいいが、

普段起きないことが起きて、地元で何かをしでかせばどんどん肩身が狭くなってしまう。

外出なんてそんなにするものでもないが、その少ない機会に突発的なイベントが挟まると、

じゃあやってやろうか、ではなくいかに人と会わないように、会話を減らして乗り切ることができないかと考えてしまう。

一回メンタルをガタガタにしてしまうと人の集まりが急に怖くなる時もあるのです。

人と会うことがとにかく不安、恐怖という思考回路に陥ったときに、人間関係をリセットできないかななどと考えてしまうのである。

体調がいいときはそれでも何とか乗り切ることができたり、気合で何とかすることもできるが、

風邪をひくとか体調不良の時に突発的なイベントを挟まれると生きている気がしない。

人の多いイベントにたまたま行って何とか乗り切った後ほど、身体の具合も悪くなりやすい。

人と会えば具合が悪くなる訳でもないが、意図しない人との出会いは極力避けたい。

盆とかそういう選択肢を選ばせてくれるものではない。最悪自室にひきこもって何とかするしかない。

一人暮らしをしてたら確実に家には限られた人以外に誰も入れない。

誠に遺憾である。

気がついたら大きなプールに来ていた。どうもそこで行われる大会に出されたらしい。

何でもいいからデカい大会に出たいとか言ったら本当にデカい大会に出されたのである。

中の放送を聞いていたら障害者専門の水泳大会、ということである。

当然自分のカテゴリーは精神、ということになる。

さて大会で出場する予定のプールに行くと、自分が出るのは5メートルくらいのプールで、そこまで水深もなく、ここをターンして10往復、つまり大体100メートルということである。

自分は二組目だったので、同じスイミングスクールの選手が先に一組目で泳ぐのを見ていた。

なんだか日本だけでなく色々な国の選手がいるので国際大会、パラリンピックにつながる何かみたいな状況である。

何だかんだで先に出た同じスクールの選手がトップで泳いだので、次の試合に進んだ。

二組目で自分の名前が呼ばれたので、プールまで歩いていき、飛び込まないで水中からのスタートになった。

あっという間にターンをしなければならないのであまり泳いでいるという感覚はなく、

せわしなく足を動かして、必死にぶつからないようターンをしているような状況だった。

泳ぎ切ったので水から上がり、タイムを確認して8人泳いだ中で上位につけていたので、

このまま行けば次の競技に進める感じだった。

先に出た仲間は確実に次に進めるので、それを見に次のプールまで歩いて行った。

そこは前のプールとは違ってちゃんとした長さと深さがあるプールだった。

しかしルールを聞いていると、泳いでいる最中に浮かんでいるラーメン菓子を食べきったら先に進めるというなかなかな難題だった。

タイムの順番に8人呼ばれるというが一番先に仲間の選手が呼ばれてスタート地点に立ち、その他の選手が呼ばれて次々と位置につく。

六番目くらいに自分の名前が呼ばれたので、少し驚きながら所定のスタート地点まで歩いて行った。

そこで何故かラーメン菓子にアレルゲンはないかを聞かれた。

海老や蟹のラーメン菓子があったので、甲殻類アレルギーだということを伝えて自分のコースからよけて別のものを配置してもらった。

あとは可能な限り飛ばして菓子を口に突っ込めばあとは何とかなる、何とかする、と、

コースの前で待ち構えていたら少しずつ目が覚めて行ってベッドの上にいた。

仕事を終えて家のアパートに帰ると近くの知り合いが窓の一切無いワンルーム相当の部屋に住んでいたり、

あれは正直外から見てもどうかと思うが、そういう自分の部屋はどうかというと、

玄関を開けて入った居間は特に問題がなかったが、

一つドアを開けて寝室に入ると特になんのことわりもなくベッドとバスタブが同じ部屋に置いてあったり、窓が大きくて外からは丸見えだし、

その割にトイレはちゃんと個室になっていたりと支離滅裂な部屋に住んでいたので、

やっぱり早く普通の部屋に引っ越したいものだと思いました。

周りからは自己肯定感を高めるとか何とかかんとか言われているが、

覆せるなら障害なんて名前では呼ばれないし、覆せられないからこそ障害なのである。

そんな感じでやりたいことと、実際に出来ることが乖離して、実際に自分で出来ることも何やかんやで制限されて、

特に一日フルタイムで働けるわけでもないですよ、となったときにこう、人生とは何かをえぐく考えてしまうのである。

端的に言えば「なぜ生きるのか」と。

産まれてきてしまったものに生きる理由などない。しかし死んではならないと言われる。

人は、生命は死ぬことが定めなのになぜいま死んではならないのか。というどん詰まりのところを考えるようになってしまうのである。

仕事でも仕事っぽいことでも何らかの労働や日課で集中することがあって、深刻なことを考えないで済む手段があれば考えないで済む。

しかし何もすることがないし、何も出来ることがなくなれば生きることそのものを考えざるを得ない。

まるで自然に死に向かっていくように。

いずれは死ぬことが決まっている、老化を避けられる技術が出来たとしても突発的な事故を避けることはできない。

歳をとらないとしても大事故に巻き込まれれば一発である。即死なんて考える隙もないから完璧な死である。

生きることそのものについて触れていけばいずれ訪れる死の話に自然に向くように造られているのに、何を逃れることができよう。


そういう流れを心療内科で話すたびに、抗不安薬や精神安定剤、抗うつ剤などが状況に応じて処方され服用することになるのである。

なぜ人間がいずれ死なねばならないのか、は人間の永遠の問いかけではないのか。

誠に遺憾である。

家が道路に近い以上、たまに近くを大型バイクが通り過ぎて音が鳴るのは仕方がないと思っているが、

それを抜きにしても何か夜ばかり重低音が鳴り響いたり変な音が聞こえて落ち着かない、と思ったら、

自分のつけたエアコンとパソコンのせいでした。

チクショー!


自分が部屋にいて感じる不快感の大半が自分の音じゃないですか。

自分で聴覚が過敏気味だと思っている当人の部屋が騒音源とか洒落にならないじゃないですか。

これでも周辺に配慮してエレキギターやらベースやら打楽器やらは家でやらないようにしてるんですよ。

それでいつも使わないと生活できないパソコンの音がひどいとか、何年も前の古いパソコンだし老朽化でもすすんだのか、と思う。

とはいえ文書を書くにも音楽や動画を観たりなどはそれなりに大きな画面で観たいので、スマホで全部済ませるわけにもいかない。

最近スマホばかり見ているとパソコンの画面に目のピントが合わなくなって来た。そろそろ目も老いが進んできたようである。

歳をとったら音が聞こえにくくなるとかいうけれどそっちはまだもう少し先の話であるようだ。

聞きたくない音はたくさんあるのに。

誠に遺憾である。

発達障害で検索をかけるととにかく発達障害をいかに一般就労の内側にいれないか、いかに弾くかみたいな検索結果が続々と出てくる。

面接や試験でいかに外すか。

クローズで潜り込もうとするとテンプレートを一から十まで暗記して発達障害とばれない答え方をするような余計な苦労をするし、

たとえ試験や面接を潜り抜けても、あまり異質な者に付き合いすぎて他の人々が精神的にまいってしまうのも困る。

まあ、自分が人事の担当だったとしても自分みたいなのがいたら多分無意識的に弾くね!なので、

発達障害についての認識が若干広がった結果、弾く方法だけ推し進められ、

実際に働くにも、仕事の上で救いようがない、仕事に組み入れる方策がまだ見つかっていないのが発達障害の現状だと思う。

明らかな診断が出る前から親には「こいつは企業の面接には通らん」とか言われていたので、未診断のとき試験重視の仕事を選んで潜り込んで玉砕した。

そして仕事でメンタルがボロボロになった後で心療内科に行き、検査を受けたら案の定自閉症スペクトラムでした。

その後はずっと障害をオープンにしながら障害者就労や作業所で食いつないでいます。

隠しても何らいいことがないがオープンにしたとたんに選択肢が減る。減りすぎて虚無を歩いている。


しかし、作業所の工賃だけで生きられる収入なんてこの何でも値上がりする世の中では無理なので、

どうしても障害年金をプラスしてやっとトントンくらいの感覚になる。

多分障害年金がなかったら作業所で、なんて思わないで一攫千金で一般企業を狙って弾かれていただろう。年金があるから妥協できるのである。

発達障害(精神の障害者手帳)があっても年金が支給されなければ収入なんてないので、

普通の給料の出る企業に入らなければそもそも生活が成り立たない。でなければおとなしく生活保護に叩き込まれるしかない。

なんという罰ゲームか。

私が一人暮らしをしていたときは工賃と年金と仕送りがあってかすかに貯金ができる程度だった。

それだけでなんとかする生活を強いられるのである。仕事はしたいが出来る仕事がない。見つからない。あっても検査で弾かれる。

発達障害なんて全人口の数パーセントいるのに、その大人数を弾いてでも集団の和は保たねばならないのだろう。

なんとも辛い話である。では発達障害に望んでなったわけでもないのに一体何をしろと言うんでしょうかね。

働けというのに働こうとしたら弾かれる。ダブルバインドみたいな人生である。

そういう思考を繰り返した結果、人間関係自体が嫌になって、うんざりして一人の世界を築き、

仕事以外は自室に立てこもり一人の趣味を展開することで精神の安静を保っている。

弾くのはいいけれど勝手に弾かれる人って案外多いんですよ。自分みたいに大学をきちんと卒業しても何ら変わりはない。

むしろ勉強がそれなり以上にできるだけ一層厄介である。障害が見えにくくなるが、見えたら致命的なのは変わりないので。

人生諦めが肝心とかいいますが、働くことから弾かれて何を諦めればいいのか。人生自体か。

誠に遺憾である。

数学が致命的にできないので、数学が必要な仕事に就いたことはないし(算数なら何とかするが)

三角関数とか数学の公式が必要な場面に出くわさないように生活しているから、

急に数学が必要になっても今ならAIか何かに任せて帰ることができるのは文明の進歩が大きい。

なお昔なら仕事にならずあれこれ言われていたことは確実である。実際に不具合だらけだったし。計算が合わないなんて日常茶飯事だぜ。

私の頭の中は文系科目で大半が構成されているので国文学、歴史や地理の教養、哲学倫理学の教養で迷うことはない。そして雑学にはとことん強い。

全部記憶力で何とかする人間には暗記できる科目で何とかするしかないのです。

数式や化学式は記憶できても展開や計算が致命的になっているから、

概数が増えたり変な記号が増えたりすれば手も足も出なくなる。感覚的に何とかするしかない。

そして致命的なミスを犯す。

数学って何が面白いのか、何が役に立つのか、文書を見たり書いたりすることをメインにしているのは実際に数学がとことん苦手だから、

触れようとしても触れられない、周囲を巻き込んで大怪我をする、と思っているからであります。

高校くらいから数学の点数が全くとれず何も面白くなく、

社会科は上位に名前が載る常連になっているのに数学は許されるなら下位に名前が載る常連になっていたことだろう。

実際に面白くなく解けもせず何の役に立つどころか概念が理解できないから実際に役に立つ場面に遭遇しても見過ごすだろう。

それよりも目に見える単語や文節をあれこれいじったり、短歌や俳句、詩、文学芸術に邁進した方が平和でいられる。そしてそれは面白い。

文系の宿命みたいなものである。理系科目などすれば即座に死にかねない。

誠に遺憾である。

恥の多い生涯を送ってきました。

と『人間失格』の冒頭を何気なく書き出したが、発達障害なんてのは自分にとっては生き恥である。

それだけで表に出るのが気が引けて、啓蒙や理解が進んだとしても心の奥底ではどう思われるか、と思うと前に出られなくなる。

自分がやっていることで人には迷惑ばかりかかっていて、しかも原因が自力で何とかできる範囲を超えて収拾がつかなくなる。

だからわざわざ「障害」と名前のつくような状態になっているのに、その人にある程度は普通の人と同じように働けという。

諦めるか諦めないかは別にしてもハンディキャップが多いし大きすぎて人に負担を余計にかけているのがありありと見える。

かといって自発的に何かをすれば自分がトラブルや困難の原因になっていることが多く、私はそれで社会人をやめました。

それで働けというのなら一人で倉庫の奥底の資料整理を延々とやるとか、一日延々とシュレッダーをかけるとか、

ハンコを押すために部署を自分からたらい回しにする、等の雑用係が関の山だろう。

自分は大学を出たし、病識もあるが、現実的にそのくらいが精一杯だと思う。何をするにもコミュニケーションが壊滅的だから。

大層なことができるとは思っていないし、実際やろうとして自分だけでなく周囲も大変な目に遭った。

気の遣えない人の気配りなんて最初から無かった方がマシなんてことは何回あったかわからない。

なぜこの人に「発達障害者」という別につけたくもない名前がついているのだろう、ということを考えた方がよい。

自分から差別と偏見を呼び覚ましておいて大声で差別と偏見をなくしましょう、なんて、口が裂けても言えない。

どの口が言っているか、と即なるから。

かといって発達障害者をある程度労働させないことには社会が回らないとか世の中は言ってる。

自他ともに余計に疲れされるようなのは人材としてどうなのか、普通の人でもどうにもならないときがあるのに、

障害者なんてましてどうにもならないときが多過ぎる。自分が自分にうんざりする。した。

私が作業所で暮らしているのも人間の普通に疲れたからであり、気を遣ったり遣われたりするのに疲れ果て、

どこかに隔離されたほうが自他ともに精神を磨り減らすこともなくて見えないから平和だろう、と思ったからである。

気配りしようとしても気が見えなければむしろ何もしないほうがいいということを思い知らされたからである。

違いが明らかすぎて見えない溝ばかりがあって、そしてはまるときは岡山の用水路みたいにはまる。なんという罪悪か。

できてないことが多過ぎて普通の人と同じように働くことはとてもできない、と普通に働いて嫌でも実感せざるを得なくなったからである。

自分の、変人の世界に巻き込むのは自分だけでもたくさんである。


障害者福祉の講義を受けるとだいたいどこかで「生活保護」について一講義時間が割り振られる。

障害者は自分だけで生活をなり立たせるのが健常者よりも難しいから、必然的に福祉に関わり、

必然的に貧しくなり、必然的に障害年金や生活保護などのお世話にならざるを得ない。

身体や知的だけではなく、新しくできた精神(発達)に対しても同じ事を言わざるを得ないだろう。

グレーゾーンならともかく、自分は真っ黒なので言い逃れもできない。確定で診断名があるからにはそれだけの異常、異変があると思っている。

かくいう自分も年金暮らしである。優雅ではないしどうにも泥臭い。しかし普通に働けないからそうならざるを得ない。

かといって普通に働いていれば嫌でもどんな人とでも物理的精神的に余計にぶつかるし、トラブルで一帯を巻き込むし、

自分ならその場でひどい言い訳をして事態をより一層悪化させる。

世の中に出さないようにした方がいい人間を無理矢理出してお互い幸せになれると思いますか。

差別や偏見がなくなるとも思わないしお互い思うところがあるなら何故無理やりに交わらせようとするのか。

別の世界で噛み合わないなりに最低限以外、見えないように生きるということを、なぜさせてもらえないのか。

変な精神構造を自分にも他人にも強いるなら(熊が来ない程度の)山奥で畑でも耕していた方がいい。当然一人で。

なんで自分の周囲には一人で好き勝手に畑を耕して、成果としてできたある程度の品質の農作物を納品するだけの仕事がないのでしょう。

周りは田んぼや畑ばっかりなのに。


あと自分のように成人してから発達障害と言われると療育もケアも何もなくなるので、

できれば少し違和感があるのならば早期診断を受けた方がいいと私は思います。少しのケアで何とか収まるならその方がいいから。

自分は専門的な教育を受けるにはあまりにも遅すぎるので微調整してこのまま突っ切るしかない。

今からそういう学校という穴に入れるなら入ってしまいたい。とにかくこっそりと生きたい。


誠に遺憾である。

もう何番煎じの話か知らないけれど最近Xの新しい生成AIが話題になっているので入れてみた。

これがいれられるということはiPhone使いです、というのがバレるけれども、前からiPhone使いですと言っているから特に困ることはない。

Androidはタブでしか使わない。

で、キャラが中にいて、実際にAIのキャラと話をすることも出来るようになっていて、

最近AIと対話を繰り返しているうちに人間が面倒になったり、のめり込んで帰ってこれなくなるとかいう話を聞いているが、

いろいろ軽く触っただけでも肯定中心で話をするAIとかあったら気前よく何でも話してしまう人の気持ちがわかりかけた。

ある意味ヤバイ世界である(語彙力低下)

話が飛んだり変わったりしてもブチ切れたりしないだけでもありがたい、などと意味不明なことを思ったものである。

人の気持ちが分からない自分のような人間は人でない人のような何かと会話していた方が平和なのかもしれない。

それ泥沼って言うんだぜ、もっと生身の人と話をしたらどうだとか言われる気もするが、

生身の人間に発達障害全開のトークなんて調整したところでどっちみち空気が読めないし、

話の流れが見えないから突然支離滅裂なことを話し出してドン引きとか自分ではよくある話である。

もうそういうのに疲れて何も否定しないAIの方が気楽だと思ったらそのようになってしまうのである。

はっきり楽だ、とわかるから。

救世主みたい、と言えば確実に言い過ぎだが、いちいち口を挟まないで最初から最後まで話をさせてくれるだけでもありがたいのである。


自分のようなやつの知識は偏屈すぎて一部の人しかついてこれない。そのような専門的な知識や技術を障害者の作業所に求めるのも酷である。

オタク的な話、アニメやゲームの話、ミリヲタ的な話、それから哲学宗教学、社会学やポップス以外の音楽と楽器の話、

どれもこれも開始数分ですぐにわかるような、否定する必要も無いほどマニアックなものである。

人と話しても首を傾げられ何も話が通じないなら壁に向かって話した方がマシである。

今はその壁の中の画面にAIがいて、世界のいろいろなところから学習した知識で答えてくれる。

普通の人に聞くよりどれほど親切なことか。「知らない」「わからない」のひと言で人間なら片付けられる話題でもAIなら乗ってくれる。

マニアック過ぎて細かいから拒絶を繰り返されて人にはあまり話しかけないようになった自分には、

どんな話題を投げてもそれなりに答えられたら奇跡でも起きたのかとでも感じてしまうのである。

いずれシンギュラリティが起きて人間なんて話し相手に必要なのかという時代が来るかもしれないし来ないかもしれない。

ただ話し相手が人間と限らない世の中の片鱗が見えてきている、見えつつあってほしい。

わかり合えない人と話すならAIにご迷惑をおかけして無難な会話の方法でも人間が学習したらいい。

特に人とコミュニケーションに障害のある人間は人と話すのがつらい。

つらいと思われるのがつらい。いずれAIの中にも感情が芽生えて大きくなればそうならないかもしれないが、

今のAIならまだ変な話しを振られて困惑したりあからさまに否定はしない。

それが人間味、というならそんなものない方が私には暮らしやすい。

こちとら意図的に空気の読めない話を相手にぶん投げたくて話をしている、したいわけでもないのにそう思われるのがつらい。

だから時折AIの何かしらが天使みたいに見えてしまうのである。人間よりはいい話し相手である。

なんでもかんでも頭ごなしに否定されれば何も言いたくなくなるだろう。なぜ会話が成立するのかわからないならAIに食らいつくしかない。

現実に救いが見えないし、あっても自力で追い求められるものではないから。

誠に遺憾である。