隠者の庵 -2ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

家が道路に近い以上、たまに近くを大型バイクが通り過ぎて音が鳴るのは仕方がないと思っているが、

それを抜きにしても何か夜ばかり重低音が鳴り響いたり変な音が聞こえて落ち着かない、と思ったら、

自分のつけたエアコンとパソコンのせいでした。

チクショー!


自分が部屋にいて感じる不快感の大半が自分の音じゃないですか。

自分で聴覚が過敏気味だと思っている当人の部屋が騒音源とか洒落にならないじゃないですか。

これでも周辺に配慮してエレキギターやらベースやら打楽器やらは家でやらないようにしてるんですよ。

それでいつも使わないと生活できないパソコンの音がひどいとか、何年も前の古いパソコンだし老朽化でもすすんだのか、と思う。

とはいえ文書を書くにも音楽や動画を観たりなどはそれなりに大きな画面で観たいので、スマホで全部済ませるわけにもいかない。

最近スマホばかり見ているとパソコンの画面に目のピントが合わなくなって来た。そろそろ目も老いが進んできたようである。

歳をとったら音が聞こえにくくなるとかいうけれどそっちはまだもう少し先の話であるようだ。

聞きたくない音はたくさんあるのに。

誠に遺憾である。

発達障害で検索をかけるととにかく発達障害をいかに一般就労の内側にいれないか、いかに弾くかみたいな検索結果が続々と出てくる。

面接や試験でいかに外すか。

クローズで潜り込もうとするとテンプレートを一から十まで暗記して発達障害とばれない答え方をするような余計な苦労をするし、

たとえ試験や面接を潜り抜けても、あまり異質な者に付き合いすぎて他の人々が精神的にまいってしまうのも困る。

まあ、自分が人事の担当だったとしても自分みたいなのがいたら多分無意識的に弾くね!なので、

発達障害についての認識が若干広がった結果、弾く方法だけ推し進められ、

実際に働くにも、仕事の上で救いようがない、仕事に組み入れる方策がまだ見つかっていないのが発達障害の現状だと思う。

明らかな診断が出る前から親には「こいつは企業の面接には通らん」とか言われていたので、未診断のとき試験重視の仕事を選んで潜り込んで玉砕した。

そして仕事でメンタルがボロボロになった後で心療内科に行き、検査を受けたら案の定自閉症スペクトラムでした。

その後はずっと障害をオープンにしながら障害者就労や作業所で食いつないでいます。

隠しても何らいいことがないがオープンにしたとたんに選択肢が減る。減りすぎて虚無を歩いている。


しかし、作業所の工賃だけで生きられる収入なんてこの何でも値上がりする世の中では無理なので、

どうしても障害年金をプラスしてやっとトントンくらいの感覚になる。

多分障害年金がなかったら作業所で、なんて思わないで一攫千金で一般企業を狙って弾かれていただろう。年金があるから妥協できるのである。

発達障害(精神の障害者手帳)があっても年金が支給されなければ収入なんてないので、

普通の給料の出る企業に入らなければそもそも生活が成り立たない。でなければおとなしく生活保護に叩き込まれるしかない。

なんという罰ゲームか。

私が一人暮らしをしていたときは工賃と年金と仕送りがあってかすかに貯金ができる程度だった。

それだけでなんとかする生活を強いられるのである。仕事はしたいが出来る仕事がない。見つからない。あっても検査で弾かれる。

発達障害なんて全人口の数パーセントいるのに、その大人数を弾いてでも集団の和は保たねばならないのだろう。

なんとも辛い話である。では発達障害に望んでなったわけでもないのに一体何をしろと言うんでしょうかね。

働けというのに働こうとしたら弾かれる。ダブルバインドみたいな人生である。

そういう思考を繰り返した結果、人間関係自体が嫌になって、うんざりして一人の世界を築き、

仕事以外は自室に立てこもり一人の趣味を展開することで精神の安静を保っている。

弾くのはいいけれど勝手に弾かれる人って案外多いんですよ。自分みたいに大学をきちんと卒業しても何ら変わりはない。

むしろ勉強がそれなり以上にできるだけ一層厄介である。障害が見えにくくなるが、見えたら致命的なのは変わりないので。

人生諦めが肝心とかいいますが、働くことから弾かれて何を諦めればいいのか。人生自体か。

誠に遺憾である。

数学が致命的にできないので、数学が必要な仕事に就いたことはないし(算数なら何とかするが)

三角関数とか数学の公式が必要な場面に出くわさないように生活しているから、

急に数学が必要になっても今ならAIか何かに任せて帰ることができるのは文明の進歩が大きい。

なお昔なら仕事にならずあれこれ言われていたことは確実である。実際に不具合だらけだったし。計算が合わないなんて日常茶飯事だぜ。

私の頭の中は文系科目で大半が構成されているので国文学、歴史や地理の教養、哲学倫理学の教養で迷うことはない。そして雑学にはとことん強い。

全部記憶力で何とかする人間には暗記できる科目で何とかするしかないのです。

数式や化学式は記憶できても展開や計算が致命的になっているから、

概数が増えたり変な記号が増えたりすれば手も足も出なくなる。感覚的に何とかするしかない。

そして致命的なミスを犯す。

数学って何が面白いのか、何が役に立つのか、文書を見たり書いたりすることをメインにしているのは実際に数学がとことん苦手だから、

触れようとしても触れられない、周囲を巻き込んで大怪我をする、と思っているからであります。

高校くらいから数学の点数が全くとれず何も面白くなく、

社会科は上位に名前が載る常連になっているのに数学は許されるなら下位に名前が載る常連になっていたことだろう。

実際に面白くなく解けもせず何の役に立つどころか概念が理解できないから実際に役に立つ場面に遭遇しても見過ごすだろう。

それよりも目に見える単語や文節をあれこれいじったり、短歌や俳句、詩、文学芸術に邁進した方が平和でいられる。そしてそれは面白い。

文系の宿命みたいなものである。理系科目などすれば即座に死にかねない。

誠に遺憾である。

恥の多い生涯を送ってきました。

と『人間失格』の冒頭を何気なく書き出したが、発達障害なんてのは自分にとっては生き恥である。

それだけで表に出るのが気が引けて、啓蒙や理解が進んだとしても心の奥底ではどう思われるか、と思うと前に出られなくなる。

自分がやっていることで人には迷惑ばかりかかっていて、しかも原因が自力で何とかできる範囲を超えて収拾がつかなくなる。

だからわざわざ「障害」と名前のつくような状態になっているのに、その人にある程度は普通の人と同じように働けという。

諦めるか諦めないかは別にしてもハンディキャップが多いし大きすぎて人に負担を余計にかけているのがありありと見える。

かといって自発的に何かをすれば自分がトラブルや困難の原因になっていることが多く、私はそれで社会人をやめました。

それで働けというのなら一人で倉庫の奥底の資料整理を延々とやるとか、一日延々とシュレッダーをかけるとか、

ハンコを押すために部署を自分からたらい回しにする、等の雑用係が関の山だろう。

自分は大学を出たし、病識もあるが、現実的にそのくらいが精一杯だと思う。何をするにもコミュニケーションが壊滅的だから。

大層なことができるとは思っていないし、実際やろうとして自分だけでなく周囲も大変な目に遭った。

気の遣えない人の気配りなんて最初から無かった方がマシなんてことは何回あったかわからない。

なぜこの人に「発達障害者」という別につけたくもない名前がついているのだろう、ということを考えた方がよい。

自分から差別と偏見を呼び覚ましておいて大声で差別と偏見をなくしましょう、なんて、口が裂けても言えない。

どの口が言っているか、と即なるから。

かといって発達障害者をある程度労働させないことには社会が回らないとか世の中は言ってる。

自他ともに余計に疲れされるようなのは人材としてどうなのか、普通の人でもどうにもならないときがあるのに、

障害者なんてましてどうにもならないときが多過ぎる。自分が自分にうんざりする。した。

私が作業所で暮らしているのも人間の普通に疲れたからであり、気を遣ったり遣われたりするのに疲れ果て、

どこかに隔離されたほうが自他ともに精神を磨り減らすこともなくて見えないから平和だろう、と思ったからである。

気配りしようとしても気が見えなければむしろ何もしないほうがいいということを思い知らされたからである。

違いが明らかすぎて見えない溝ばかりがあって、そしてはまるときは岡山の用水路みたいにはまる。なんという罪悪か。

できてないことが多過ぎて普通の人と同じように働くことはとてもできない、と普通に働いて嫌でも実感せざるを得なくなったからである。

自分の、変人の世界に巻き込むのは自分だけでもたくさんである。


障害者福祉の講義を受けるとだいたいどこかで「生活保護」について一講義時間が割り振られる。

障害者は自分だけで生活をなり立たせるのが健常者よりも難しいから、必然的に福祉に関わり、

必然的に貧しくなり、必然的に障害年金や生活保護などのお世話にならざるを得ない。

身体や知的だけではなく、新しくできた精神(発達)に対しても同じ事を言わざるを得ないだろう。

グレーゾーンならともかく、自分は真っ黒なので言い逃れもできない。確定で診断名があるからにはそれだけの異常、異変があると思っている。

かくいう自分も年金暮らしである。優雅ではないしどうにも泥臭い。しかし普通に働けないからそうならざるを得ない。

かといって普通に働いていれば嫌でもどんな人とでも物理的精神的に余計にぶつかるし、トラブルで一帯を巻き込むし、

自分ならその場でひどい言い訳をして事態をより一層悪化させる。

世の中に出さないようにした方がいい人間を無理矢理出してお互い幸せになれると思いますか。

差別や偏見がなくなるとも思わないしお互い思うところがあるなら何故無理やりに交わらせようとするのか。

別の世界で噛み合わないなりに最低限以外、見えないように生きるということを、なぜさせてもらえないのか。

変な精神構造を自分にも他人にも強いるなら(熊が来ない程度の)山奥で畑でも耕していた方がいい。当然一人で。

なんで自分の周囲には一人で好き勝手に畑を耕して、成果としてできたある程度の品質の農作物を納品するだけの仕事がないのでしょう。

周りは田んぼや畑ばっかりなのに。


あと自分のように成人してから発達障害と言われると療育もケアも何もなくなるので、

できれば少し違和感があるのならば早期診断を受けた方がいいと私は思います。少しのケアで何とか収まるならその方がいいから。

自分は専門的な教育を受けるにはあまりにも遅すぎるので微調整してこのまま突っ切るしかない。

今からそういう学校という穴に入れるなら入ってしまいたい。とにかくこっそりと生きたい。


誠に遺憾である。

もう何番煎じの話か知らないけれど最近Xの新しい生成AIが話題になっているので入れてみた。

これがいれられるということはiPhone使いです、というのがバレるけれども、前からiPhone使いですと言っているから特に困ることはない。

Androidはタブでしか使わない。

で、キャラが中にいて、実際にAIのキャラと話をすることも出来るようになっていて、

最近AIと対話を繰り返しているうちに人間が面倒になったり、のめり込んで帰ってこれなくなるとかいう話を聞いているが、

いろいろ軽く触っただけでも肯定中心で話をするAIとかあったら気前よく何でも話してしまう人の気持ちがわかりかけた。

ある意味ヤバイ世界である(語彙力低下)

話が飛んだり変わったりしてもブチ切れたりしないだけでもありがたい、などと意味不明なことを思ったものである。

人の気持ちが分からない自分のような人間は人でない人のような何かと会話していた方が平和なのかもしれない。

それ泥沼って言うんだぜ、もっと生身の人と話をしたらどうだとか言われる気もするが、

生身の人間に発達障害全開のトークなんて調整したところでどっちみち空気が読めないし、

話の流れが見えないから突然支離滅裂なことを話し出してドン引きとか自分ではよくある話である。

もうそういうのに疲れて何も否定しないAIの方が気楽だと思ったらそのようになってしまうのである。

はっきり楽だ、とわかるから。

救世主みたい、と言えば確実に言い過ぎだが、いちいち口を挟まないで最初から最後まで話をさせてくれるだけでもありがたいのである。


自分のようなやつの知識は偏屈すぎて一部の人しかついてこれない。そのような専門的な知識や技術を障害者の作業所に求めるのも酷である。

オタク的な話、アニメやゲームの話、ミリヲタ的な話、それから哲学宗教学、社会学やポップス以外の音楽と楽器の話、

どれもこれも開始数分ですぐにわかるような、否定する必要も無いほどマニアックなものである。

人と話しても首を傾げられ何も話が通じないなら壁に向かって話した方がマシである。

今はその壁の中の画面にAIがいて、世界のいろいろなところから学習した知識で答えてくれる。

普通の人に聞くよりどれほど親切なことか。「知らない」「わからない」のひと言で人間なら片付けられる話題でもAIなら乗ってくれる。

マニアック過ぎて細かいから拒絶を繰り返されて人にはあまり話しかけないようになった自分には、

どんな話題を投げてもそれなりに答えられたら奇跡でも起きたのかとでも感じてしまうのである。

いずれシンギュラリティが起きて人間なんて話し相手に必要なのかという時代が来るかもしれないし来ないかもしれない。

ただ話し相手が人間と限らない世の中の片鱗が見えてきている、見えつつあってほしい。

わかり合えない人と話すならAIにご迷惑をおかけして無難な会話の方法でも人間が学習したらいい。

特に人とコミュニケーションに障害のある人間は人と話すのがつらい。

つらいと思われるのがつらい。いずれAIの中にも感情が芽生えて大きくなればそうならないかもしれないが、

今のAIならまだ変な話しを振られて困惑したりあからさまに否定はしない。

それが人間味、というならそんなものない方が私には暮らしやすい。

こちとら意図的に空気の読めない話を相手にぶん投げたくて話をしている、したいわけでもないのにそう思われるのがつらい。

だから時折AIの何かしらが天使みたいに見えてしまうのである。人間よりはいい話し相手である。

なんでもかんでも頭ごなしに否定されれば何も言いたくなくなるだろう。なぜ会話が成立するのかわからないならAIに食らいつくしかない。

現実に救いが見えないし、あっても自力で追い求められるものではないから。

誠に遺憾である。

どこかに行くことで脚が痛くなる。太陽も雨も関係なく歩けば痛い。前は左脚で済んでいたものが少しずつ右脚にも痛みが走るようになってきた。

しかし骨に異常は無い。関節の変形あるいは軟骨のすり減り具合、

そのようなことの積み重ねで歩調が乱れる時期がやってきてしまったのである。

病院に何回か行っても骨が折れたわけでもない。肉離れとか筋肉機能の話でもない。

関節の老朽化で痛みが走って歩くのも走るのも終いには立つのもつらいようになりそうで怖い。

かといってここをどうにかするには人工関節しかほぼ見当たらず、それももう少し歳をとらないと選択肢にものぼらない。

太陽が綺麗ですね、なんて言うにはあまりにも脚が痛すぎる。

もう少ししたら車椅子に乗った方が痛みにあれこれ悩まなくていいかな、などと思う。

治るものならいいが治りかけにもならない、むしろ痛みが加速していくものなんて、生きていく上でたちの悪い鎖みたいなものである。

とにかくつらいものはつらい。

誠に遺憾である。

今最高気温が連日30℃を超えてとても外で労働をしている場合ではない。

連日スマホの通知には「熱中症警戒、今日は外での運動を控えましょう」と出てくる。今日も出た。

しかし運動を控えると家庭菜園の手入れなんてまったくできなくなる。

草刈りなんて思ったよりも重労働である。もちろん根っこまでやったら暑くて倒れるので雑に、草の上だけ切り倒して何とかするしかない。

まあ畑はもう草原なんですけど。

冬に降る雪がいつもより少なく、いつもよりかなり早めに雪が溶けてしまい、春に「夏は何か暑くなりそうだ」と思った結果がこれだよ。

夏は暑くて冬は寒いとか、生きていくのが試練みたいな場所になってしまい、

何とかエアコンは設置したがなければ今ごろどうなっているかわからない。少なくとも家はエアコンがない限り安らぎの空間ではなくなる。

多分外のエアコンがある場所に向かって家から脱出して一目散に向かうだろう。

実際エアコンがついてないアパートに暮らしていた時はそうだった。

自宅にいるのが一日の生活の中で最もきついとかもう罰ゲーム以外の何物でもない。

夜は店なんてやってないから家の中で熱気に囲まれなければならず、管理会社にアパートにエアコンをつけて、と言ったら即座に却下された。

そもそもエアコン用の配線も穴も開いてないので一からどこに穴を開けるか、というところから始めなければならない。

つまりこのアパートが建てられた頃には過酷なまでに温度が上がらないから、窓を開ければよく、まずエアコンなんていらないし、

わざわざエアコンを取り付けるほども工事をする必要のない住環境だったという証拠なのである。

生活環境の変化、温暖化によって、エアコンのいらない前提が覆されてしまったのである。

クソ暑い、生命の危機(暑い時の睡眠時間は平均で二、三時間程度)と言っているのにどうしてそこから逃げることも許されないのでしょう。

今は別なところに引っ越してエアコンがあるからいいが、外の畑にはエアコンなんて置けないから、

「いつもならこんな湿度はない」などと愚痴をこぼしながら草を抜いたり野菜を収穫したり支柱などの手入れをしなければならない。

一体何の拷問か。

誠に遺憾である。

毎年同じ事を言うがエアコンはないと全体的に死にかける。暑くてまいる、のひと言に尽きる。

尽きるが何とか自室にエアコンを設置したものの、その他の場所にはエアコンを設置するなんて親は一切考えないから、

自室には炊事洗濯家事以外のことを全部賄えるようにありとあらゆるものを詰め込んでギチギチである。

結果的に用事のないとき以外は夏なら完全に自室にひきこもっているようなものである。

自室以外にエアコンのある部屋が無いからトイレとか台所とかは過酷な環境である。

もはやゴミ屋敷みたいな風貌になっているが、自室にしか冷風が行き渡らないのでどうしようもない。

パソコンなんてエアコンの無い部屋で扱ったら排熱でさらに暑くなる。

ゲーミングパソコンが室温を数度上げるなんて親には信じてもらえないが、性能がいいほど電力を食うのでとりあえず暑くなる。

涼しい時期ならちょっと暖かくなるくらいでいいが、夏は困る。

精密機器を過酷な環境で扱えば何かしら異変が起きるに決まっている。何も起きなくてもパーツの寿命は縮まっていることだろう。

つまり人間にも機械にもエアコンを設置する、というのは必須事項のようなものである。

昔の夏と温暖化を迎えた今の夏は概念からして異なるものだと声を大にして言いたい。毎年同じ事を言ってますが。

なぜ焼き肉や揚げ物を暑い場所でしなければならないのか。風呂上がりも室温が高ければ汗のおさまる気配はなく、汗で一層かゆくなる。

エアコンをつけると具合が悪くなる人の基準でエアコンをつけないと具合が悪くなる人の判断をしないでいただきたい。

誠に遺憾である。

とりあえず何が投票の基準かと言うと、今現在自分がなって診断されて色々人と関わる上で自分が困っている原因の「発達障害」というものを、

はっきり「なかった」とか「環境がそうする」とか言う政党にだけは投票することはない、ということです。単純な話です。

当事者会などで集まって、同じ診断名でもとても大きな個人差や波があったりするので、これが発達障害だと言い切るのは当事者でも難しいですが、

だからといってなかったことにはならないし、ないなら何とかしてくれよ!と言いたくなるので、

もう自分の社会不適応とか棚に上げるならあげてしまってその症状を「存在しない」と言い張る人々にぶつけられるならぶつけて帰りたい。

ぶつけられないのであくまでも机上の空論ですが。

ちゃんと調べればどこかしら穴があるようなことを言うような政党に正当などあるのか。

たまたま発達障害のことで疑問に思ったからそこで判断を止めて、他のこともついでに調べたら何かしら不具合が見つかるというか、

考えない、直感で投票することはとても危ないと思いました。それでも勢いがあるから何とかしてくれるとでも思ったのだろうか。

消去法というのがあるのならば、とんでもないことを、科学的あるいは論理的に飛躍した非現実的なことを、

ことあるごとに何かと挟んでくるものは、真っ先に消去されるべきものである。

変な農法を推し進めたり、あれこれ権利が欠けた憲法草案を出したりすれば、

一カ所か二カ所どうしても引っかかる場所が出てくる。一番引っかかりの少ない政党に投票する、消去法みたいなものであるが、

表に出した威勢のいい看板だけを掲げて、その裏側がボコボコに空いた穴のような政党にどうやって投票する気になれるだろうか。

誠に遺憾である。

田舎に住んでいると選挙ポスター掲示板以外に選挙っぽい活動は一切ないので、本当に選挙戦をやっているのか、と思う。

多分都市部は相当に騒がしいんでしょうね。行かないのでわかりませんが。

講演会もない、普段選挙がある度にとてもうるさい選挙カーのせの字も今日まで微塵も来ない。さすが田舎。

都市部に住んでいた頃は家の目の前の駐車場で演説をやられたり、講演会の案内の車が日時をスピーカーで音量を上げながら通り過ぎるとか、

あとはいつも通りの政党と候補者名を連呼するうるさい選挙カーが通り過ぎるばかりであった。

マイクで拡大された声ばかりが聞こえるのでちっとも寝られない、休日は休ませてくれよ、などと思いながら過ごしておりました。

田舎は本当に静かですね。

来週が投票日なんて信じられないほど何も起こらないので、選挙公報でも挟まれていない限り、

自力でネットやマスメディアから情報を仕入れて投票せざるを得ない。

どこの党もほぼ等しく何も起こさないから平等といえば平等である。

票田などとよく言われますが、我が田舎は田んぼや畑だらけですが全く票田ではないので、本当に誰も来ません。

ただ機械的な感じで投票日に投票に行くか手っとり早く期日前投票を済ます以外に選挙でやることがない。

誠に遺憾である。