恥の多い生涯を送ってきました。
と『人間失格』の冒頭を何気なく書き出したが、発達障害なんてのは自分にとっては生き恥である。
それだけで表に出るのが気が引けて、啓蒙や理解が進んだとしても心の奥底ではどう思われるか、と思うと前に出られなくなる。
自分がやっていることで人には迷惑ばかりかかっていて、しかも原因が自力で何とかできる範囲を超えて収拾がつかなくなる。
だからわざわざ「障害」と名前のつくような状態になっているのに、その人にある程度は普通の人と同じように働けという。
諦めるか諦めないかは別にしてもハンディキャップが多いし大きすぎて人に負担を余計にかけているのがありありと見える。
かといって自発的に何かをすれば自分がトラブルや困難の原因になっていることが多く、私はそれで社会人をやめました。
それで働けというのなら一人で倉庫の奥底の資料整理を延々とやるとか、一日延々とシュレッダーをかけるとか、
ハンコを押すために部署を自分からたらい回しにする、等の雑用係が関の山だろう。
自分は大学を出たし、病識もあるが、現実的にそのくらいが精一杯だと思う。何をするにもコミュニケーションが壊滅的だから。
大層なことができるとは思っていないし、実際やろうとして自分だけでなく周囲も大変な目に遭った。
気の遣えない人の気配りなんて最初から無かった方がマシなんてことは何回あったかわからない。
なぜこの人に「発達障害者」という別につけたくもない名前がついているのだろう、ということを考えた方がよい。
自分から差別と偏見を呼び覚ましておいて大声で差別と偏見をなくしましょう、なんて、口が裂けても言えない。
どの口が言っているか、と即なるから。
かといって発達障害者をある程度労働させないことには社会が回らないとか世の中は言ってる。
自他ともに余計に疲れされるようなのは人材としてどうなのか、普通の人でもどうにもならないときがあるのに、
障害者なんてましてどうにもならないときが多過ぎる。自分が自分にうんざりする。した。
私が作業所で暮らしているのも人間の普通に疲れたからであり、気を遣ったり遣われたりするのに疲れ果て、
どこかに隔離されたほうが自他ともに精神を磨り減らすこともなくて見えないから平和だろう、と思ったからである。
気配りしようとしても気が見えなければむしろ何もしないほうがいいということを思い知らされたからである。
違いが明らかすぎて見えない溝ばかりがあって、そしてはまるときは岡山の用水路みたいにはまる。なんという罪悪か。
できてないことが多過ぎて普通の人と同じように働くことはとてもできない、と普通に働いて嫌でも実感せざるを得なくなったからである。
自分の、変人の世界に巻き込むのは自分だけでもたくさんである。
障害者福祉の講義を受けるとだいたいどこかで「生活保護」について一講義時間が割り振られる。
障害者は自分だけで生活をなり立たせるのが健常者よりも難しいから、必然的に福祉に関わり、
必然的に貧しくなり、必然的に障害年金や生活保護などのお世話にならざるを得ない。
身体や知的だけではなく、新しくできた精神(発達)に対しても同じ事を言わざるを得ないだろう。
グレーゾーンならともかく、自分は真っ黒なので言い逃れもできない。確定で診断名があるからにはそれだけの異常、異変があると思っている。
かくいう自分も年金暮らしである。優雅ではないしどうにも泥臭い。しかし普通に働けないからそうならざるを得ない。
かといって普通に働いていれば嫌でもどんな人とでも物理的精神的に余計にぶつかるし、トラブルで一帯を巻き込むし、
自分ならその場でひどい言い訳をして事態をより一層悪化させる。
世の中に出さないようにした方がいい人間を無理矢理出してお互い幸せになれると思いますか。
差別や偏見がなくなるとも思わないしお互い思うところがあるなら何故無理やりに交わらせようとするのか。
別の世界で噛み合わないなりに最低限以外、見えないように生きるということを、なぜさせてもらえないのか。
変な精神構造を自分にも他人にも強いるなら(熊が来ない程度の)山奥で畑でも耕していた方がいい。当然一人で。
なんで自分の周囲には一人で好き勝手に畑を耕して、成果としてできたある程度の品質の農作物を納品するだけの仕事がないのでしょう。
周りは田んぼや畑ばっかりなのに。
あと自分のように成人してから発達障害と言われると療育もケアも何もなくなるので、
できれば少し違和感があるのならば早期診断を受けた方がいいと私は思います。少しのケアで何とか収まるならその方がいいから。
自分は専門的な教育を受けるにはあまりにも遅すぎるので微調整してこのまま突っ切るしかない。
今からそういう学校という穴に入れるなら入ってしまいたい。とにかくこっそりと生きたい。
誠に遺憾である。