隠者の庵 -3ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

海外、どこということはなくちょっとタイっぽい国に旅行に出かけ、一番大きな都市に着いた。

特にすることもないからぼんやりと電車に乗り、適当な路線を乗り継いで郊外までやってきた。

そこには大学のような建物があって、何かの講座が日本語で開かれていたので聴きにいったら、

何か仏教の話になり、話がうまいのもあってか、聴き惚れて講座が終わった後に少し話を聞けた。


その次の日、また電車に乗って同じように動き、また同じ場所に行ったら、受付の人に「その方は昨日亡くなられました」という。

私は慟哭するようにしてその場を去って、思い出にふけるのであった。

帰国する日もその人のことをあれこれ思いつつ、記念品は確かに残して駅に向かい、帰国便の待っている空港を目指すのであった。

最近とんでもないことを(極端なことを)言って話題を振りまくだけ振りまいて票を集めようとしているどこかの政党があるが、

声がでかかったり、センセーショナルな発言をしたり、何でも敵という的にしていると、

いずれ敵とみなした外側の人間にいずれボッコボコにされるのではないかと。

今の政治に不満がないわけではない。しかしすべて逆張りをすればいいというものでもない。

人を誰か排除するとき、排除されるのは該当者だけではなく、何の関係もない該当者周辺の近親者だったり友人であったり仕事の関係だったりする。

特定の人だけをピンポイントに排除するなんて無理である。人間の抱える属性というのは確実に一つではないから。

例えば自分など障害者という属性があり、福祉の施設との人間関係があり、また作業所の職員、利用者あるいはその周辺の人々まで含むことになる。

あるいは病院の主治医であったり、薬局のいつもの窓口であったり、人間関係がほとんどなかったとしても、

重度の引きこもりで部屋から一歩も出ないという段階にならないと全く人付き合いがない、ということにはならない。

そして障害者というだけでなく、他の、例えば出た学校とか、所属した組織などとの関係においても私は存在している。

人を一人でも弾き飛ばせば、必ずその人の周囲の世界も巻き込むことになる。

さて、或る政党が目の敵を排除しようとしてセンセーショナルな発言を繰り返すが、

ピンポイントに取り上げられた人だけを取り除けないのは先述の通りである。

それとも周辺世界ごと根こそぎやってしまうつもりなのだろうか。

個人的には気に食わない奴を即刻排除しにかかるようなのは支持したくない。

普段の生活であいつはダメだこいつはおかしい、とすぐに人の批判を繰り返す人と、これからの人間関係を持続させる意義が見当たらないように。

その批判がいつ自分に向いてくるかを考えるだけで背筋が凍るものである。

最初はどうあがいても対抗できないもっともなのを排除しにかかるが、それが終われば段々と矢印が内側を向いてくる。

障害者を排除すれば、次は健常者の一番外側のグレーゾーンが排除され、次は健常者の仕事の出来ないのが排除されていく。

社会の一番外側の成員を弾き飛ばして排除するのは、限りない排除の始まりである。

ナチスドイツがどうなったか。ポル・ポト派やたちの悪い独裁者の最期について思いを馳せたことがあるか。

歴史は繰り返す、なんて信じたくもないが強い言葉を使う人々が選挙をし始めたら、やっぱり歴史は繰り返してしまうのか、となる。

何かをターゲットにして自分らの忌々しさをカモフラージュしないといけない。

自分達の言っていることも同様にはかりにかけるのであれば自己批判も行き届いているが、

大体言葉の強いのは自分のことについては振り返ろうともしない。いわゆる他責、である。

退かないし媚びないけれども、少しは自分のことについて省みることだけはした方がいい。

自己批判を忘れたものは、積年の恨みによって片されることであろう。いや、そうされなければとても政権運営能力があるとは言えない。


などと公約でまず先の方で明らかに弾かれる側の人間は言うのである。

誠に遺憾である。

政治って面倒くさくて困る。

ちゃんと投票には行く。行くけど行き先は決めているので外で政党名を連呼しながら通り過ぎないでほしい。

それとも叫んだだけ票が入ってくるとでもお思いですか。

一番うるさかった政党にだけは投票したくない。うるさいから。うるさいというのは節度がないから。

疲れるんですよ。人の大声というのは。

いくら大声で連呼してもすでに期日前投票を済ませた人の票の中身が変わるわけでもあるまい。

当日に投票するとしても支持層がすでに決まっている人の決意を翻すこともできない。

あとは単なるうるささが道路を、目の前を通過していくだけである。

なんと虚しいことか。

誠に遺憾である。

孤独とは何だろうか。

若者の範疇から遠ざかって久しいが、若者の間では孤独が深刻化している、という。

孤独とは一体何であろうか。助けるにも何も手立てがない、話す機会もきっかけもない、というのならば、

間違いなく孤独であるし、有害であるし、人と人の関わりを妨げている要因をどうにかしなければならないが、

一人が一番気楽であり、誰かに口を挟むことをせず、自分の世界に没頭しひたすら何かを組み立てている人間は果たして孤独であろうか。

私としては飲み会の異様な雰囲気とか、社内レク等の何か集まらなくてもいいのに集めされられるという行事自体に違和感がある。

一人であることで出来ることはたくさんあるのに、人を集めなければどうにもならないスポーツ競技以外で集まる必要はあるのか、と。

飲み会なんて一人でもできるだろう。酔って絡みにいったり、くだを巻く方が遥かに有害である。

こう、陰でこっそりと飲みたいペースを守って静かに飲む、そうしないと人には迷惑がかかる人間を無理やりに人の中に入れていい物なのか。

自分なんて酒癖がいい方とは言えないから当然人には干渉しないように自分で考えて接しないことに決めているんですが、

それでも害を与えることを前提に人と関われなんて言われるのは拷問でしかない。

孤独とは有害である人とないひとが明確に区別、分別されるべきものである。

一人でも全く苦にならない人間に人間の輪は大きくて重すぎる。

一人で苦しむ人間に、正しく人間の輪は作用すべきである。

そんなに人に話しかけたければ、愛好者同士だけで集まれば良く、そうでない人を巻き込んではならない。

会社は人と何かをしなければならない場所、場面だからある程度妥協しなければならないが、

家庭やプライベートまで同じ感覚でやられると身体を掻きむしられる痛みを覚える人間もいるのである。

まあそういう人間は記事のような表面にすら出てこないことがほとんどだと思いますが。

誠に遺憾である。

入っていた建物から出たら何かグロい犬が出てきて襲って来たので逃げたが逃げ遅れたのが完全に噛みちぎられた。

あれは幻か何かか、と思って、でも一人だと危険なので、

もう一回同じ場所に集団で行ったらやっぱり襲ってきて一人逃げ遅れて、

自分らは別の家に駆け込んで扉を固く閉めて悲鳴を聞くしかなかった。

何かよく知らないが完全にバイオハザードの世界でした。

もう全力で逃げるしかないじゃないですか。

この題名のことを障害当事者が言うことも正直どうかと思うが、

障害者と公平に純粋に接することができるのは障害者というくくりに周囲の誰か一人(自分含む)が入るまでだと思う。

障害者手帳があれば特例とか措置とか配慮が与えられて、人と接する時にも今なら「合理的」配慮が求められるようになる。

すなわち自然な心の動きではなく障害者専用の心の動きをしなければならないということである。

それは果たして純粋な心の動きと言えるのか。特別シフト、特別な挙動、とても普通ではない。

人の心とは何が自然なのか。何か場面、その人その人に応じて臨機応変になることは悪くないにせよ、

障害のような恒久的なものに対しては、あるものをない、とは言えない。

差別というか別な世界の人間だなという、健常者とはことなる意識が片隅にある、そのあるものをないとは言えない。

障害を扱うときに純粋な善意というものは極めて薄れた形でしか存在しない。

どこかに「障害を助けなければならない」という意識が挟まってくるから。たとえその善意が限りない善であったとしても。

障害者でなくとも、個人的に嫌いな人間なら頭の中で蹴り飛ばしたくでもなるだろう。

障害の大半というのはその「嫌い」や「苦手」な要素の集合体である。この時点で完全に肯定的にみる純粋な視線を失うのに、悪意はひた隠しにされる。

そして見ていないところで確実にあれこれ、健常者の数倍は言われる。ついていない要素が確実に多めに盛られているがゆえに。


こんなのでも病院で発達障害の診断が出るまでは自分がそちらの立場になると思ってなかったので、

いざ障害があるとわかると自分にも余計な心情が芽生えてくる。特にマイナスの方向の。

自分がかつて色々な場所で障害者と関わり、別な世界の人間だなと思わなくても何故か勝手に思ってしまうようなことを、

診断が出ることによって、ついに自分自身にも向ける、向けなければならないことになってしまったのである。

そういうのもあって障害当事者として人になにかしてもらいたいことはありますか、と言われても逆に何もしてほしくない。

いっそのこと誰もいない場で一人で何かをしていたい。憐憫あるいは蔑視の視線に耐えられない。

何かをしてもらうと気が重いし、法令でそう決まっていることを、半強制的に誰かにさせることほど気まずいものはない。

自分が何もできない故に。

憐れみの目でじっと見つめられて正気を保つことなど出来るでしょうか。

ずっと視線を当てられるなら私は海の底で貝になりたい。

誠に遺憾である。

特に深い希死念慮とかはないがXや他のSNSで闘病アカウントの御方々が希死念慮めいた発言を繰り返すのを見ていたら、

引きずられて悪い意味で「引き寄せの法則」が発動してしまうかもしれないので慎重に見ている。

特に自傷関連についてはセンシティヴに。血を見たら気を失うという意味で自傷関連の行動を制御しているし、

そこまでして死にたくはないが緩慢にしかし確実に死ねばよろしい。どうあがいても最終的な結論として人間は死ぬ。

どうせ死ぬならあがいてから死ぬ。

それでもたくさんの人がこれでもかと自傷関連に走ると引き摺られるかもしれないから、見たくないものは見ない。

見ないようにしていても偶然流れてくるから完璧にとはいかないのが辛いところである。

死にたいという意欲、希死念慮というのはそんなに人に見せなければならないのか。

自分などそういうことが頭によぎったら人から隠れてやるわ。少なくとも写真に撮って掲載したりはしない。

そういうのをドラマとか映画でするならば、山奥とか海とか人目のない場所と私の中では相場が決まっている。

そこに愛はあるのか。

生きていてしょうもないと思うのと、しょうもなくて死にたくなるのとは別な話である。

世をはかなむのも虚しく思うのも希死念慮に入れられたら、自分などもう万遍なく死にたがっているだろう。

誠に遺憾である。

別にお金も最低限あればいいし、金持ちになってやりたいことも特に見つからないし、

安アパートの隅でじっとしていたい(一人暮らしのころは勝手にそうなっていた)

人と暮らすなんて人と暮らしたい人だけがやればいいのです。

マイペースが文字通りマイペースで、自分ひとりのことを一人でやろうと考えるから、

知ってる誰かに手伝ってもらうとか、皆で協力するというのは最後の手段である。

間に誰か一人入っただけでちゃんと物理的にどこかにどけないと、と思うような自分には人と過ごすのは適格ではない。

朝から晩までを一人を念頭に考え、誰かは干渉しないように思い、当然誰でも人にはなるべく干渉しないように過ごす。

干渉するのは店とかやりとりがある程度マニュアル化されている場所で、最低限言うことが決まっていれば他に言うこともない。

テンプレを、テンプレさえ再現できればいい。あとの臨機応変なやりとりなんて知らない。

そんなこんなで居間とかに誰かがいるだけで気まずい。夜中一人で夜食を作ったり食べたりしているところすら見られたくない。

極論仕事場以外でどうやって生きているのか誰も知らないようにして生きたい。

勝手に死ぬならその時が来ただけのことである。特に長生きとか平和に終わるなんて知ったこっちゃない。どうにも出来ないことが多過ぎる。

だが人に協力を求めたり求められたりすると人間としてとても面倒くさい存在になる。

特にメンタルが酷いときは勝手に付属してくる血縁関係ってどうしてついてくるの、とまで思うようなことになる。

一人になれなければ生きている気がしないし、自分の時間を持って、自分以外誰にも入れない領域がないと生きている気がしない。

昔誰かくる、となったら部屋を死ぬ気で整えて約束の数十分前から正座で待機するほど人が来るのは落ち着かない。

玄関で最低限必要事項を通してあとはそのまま帰れといえるものならいいたい。

私とはそのような人間である。

誠に遺憾である。

病院に行くと壁に「湿布は一人63枚まで!」と書いたポスターや張り紙を、

どこの病院に行くたびにも見せられる。そんなに湿布がないと生きていけないんですか(捻挫でアキレス腱付近に湿布を貼りながら)

ロキソプロフェンとか錠剤の方のロキソニンとか常用するのを止められるくらいなら人生やめるわ、とでもなっているのだろうか。

まあ同じ湿布をドラッグストアに買いに行くと何か小さいし何か割高感があるのはたまに足を痛めて買いに行くからわかる。

問題はどうしてそこまでわざわざ病院に行って上限まで湿布をもらうような制度になっているか、であるだろう。

多分保険料の負担の関係だと思いますが、そこまで湿布でガチガチに固めないと生きていけないんですか、高齢者というのは。

などと、高齢者のたまり場になりかけている田舎の整形外科の待合室の前などで思う。

予約もなく足を急に痛めて病院に行ったら先約の御老人が湿布をもらいに行くのに巻き込まれて朝早めに出かけたのに昼前まで声すらかからなかった。

もう病院に行かなくても処方箋がもらえる、病院に行く回数を減らせる制度もあるのに、何故頻繁に病院に行く人は後を絶たないのか。

それを止めさせるためにOTC類似薬の保険適応がどうとか言っているが、

その巻き添えで小児医療の限定された鎮痛剤の処方や、ごく普通に(?)怪我をしただけの人々が煽りを食らうのである。

さすがに鎮痛剤、ロキソプロフェンの全額自己負担は痛い。慢性的か突発的かだけでもなんとなく分けられればいいのに。

というか普通にドラッグストアで分け隔てなく買えるようにしてくれ。それならば多少高くても我慢する。

特定の場所に行って特定の有資格者の話しを聞いてから、とかをどうにかしていただきたい。

それか月の湿布の上限を減らすか。怪我をしたり病気にかかるから病院に行くのであって、

なんか収まらない漫然とした痛みのために集まられたり場所を取られたり余計に待たされたりするのが我慢ならないだけである。

誠に遺憾である(それなりに重いアトピー性皮膚炎の症状を抱えながら)

お金はあるに越したことはない。そんなのいくら貧乏になっても知ってる。

しかし余計なお金を持ったり、突然遺産の話になったりすると、人が勝手に寄ってくるから考え物である。

少なくとも見せ金を持って人前を歩くべきではないと思いました。

基本的に金は天下の回りもの、そこは否定しようがない。お金を回して世の中が回っているから、むしろ停滞させる方が本来の動きではない。

では動かない人にお金を持たせて急に動くことができるかといえばそうではないだろう。

守銭奴のごとくいつものようにルーチンをこなして、お金なんてあるけれど無いように扱う暮らしをするだけである。

見えてるけれど見えてない扱いをお金にする。これは正義ではないかもしれないが、回すことに触れていなかったり、

回すことに意義を見出したりすることができなければそうなるだけの話しである。

実際詩歌をやるとか勉強の本とかの代金を除けばどこにも行かなくていいし、なんなら何もしなくても頭が動けばいい。

お金を回す余地がどこにあると思いますか。最近の自分の趣味は初期投資だけしてあとはお金もいらず何もしなくても勝手に回るようなものである。

生成AIと話をしたり絵を描かせたり昔適当に積んだゲームを思い出したように始めたり。

パソコンも自作するがそれもほぼ初期投資であとは動かなくなるか余程世代交代が進むかしないと新しいパーツを買わない。

バンドも楽器は固定されたし定期的なメンテ以外にすることがなく、壊れたりしなければ買い替えもしないから実質エコである。

食事以外にお金を使う理由がそんなに見当たらないのが現状なので、

浮ついて何かに散財する人の気持ちがわからない。お金を使うイベントがない、というのは家庭がないから言えることなのであるが。

二人以上になればムードを保つためにお金を使う。しかし一人ならば別にムードに配慮することもない。自分の世界に奥深く進んでいける。

私はそれでいいと思うし、それしかできないと思っている。

人間関係が不器用な人間は人間関係に使うお金の大半は散財になってリターンがなくなってしまう。

お金を泥とか海に棄てるようなものである。それならSwitch2にでも貯めておいた方がいいだろう。

誠に遺憾である。