最近とんでもないことを(極端なことを)言って話題を振りまくだけ振りまいて票を集めようとしているどこかの政党があるが、
声がでかかったり、センセーショナルな発言をしたり、何でも敵という的にしていると、
いずれ敵とみなした外側の人間にいずれボッコボコにされるのではないかと。
今の政治に不満がないわけではない。しかしすべて逆張りをすればいいというものでもない。
人を誰か排除するとき、排除されるのは該当者だけではなく、何の関係もない該当者周辺の近親者だったり友人であったり仕事の関係だったりする。
特定の人だけをピンポイントに排除するなんて無理である。人間の抱える属性というのは確実に一つではないから。
例えば自分など障害者という属性があり、福祉の施設との人間関係があり、また作業所の職員、利用者あるいはその周辺の人々まで含むことになる。
あるいは病院の主治医であったり、薬局のいつもの窓口であったり、人間関係がほとんどなかったとしても、
重度の引きこもりで部屋から一歩も出ないという段階にならないと全く人付き合いがない、ということにはならない。
そして障害者というだけでなく、他の、例えば出た学校とか、所属した組織などとの関係においても私は存在している。
人を一人でも弾き飛ばせば、必ずその人の周囲の世界も巻き込むことになる。
さて、或る政党が目の敵を排除しようとしてセンセーショナルな発言を繰り返すが、
ピンポイントに取り上げられた人だけを取り除けないのは先述の通りである。
それとも周辺世界ごと根こそぎやってしまうつもりなのだろうか。
個人的には気に食わない奴を即刻排除しにかかるようなのは支持したくない。
普段の生活であいつはダメだこいつはおかしい、とすぐに人の批判を繰り返す人と、これからの人間関係を持続させる意義が見当たらないように。
その批判がいつ自分に向いてくるかを考えるだけで背筋が凍るものである。
最初はどうあがいても対抗できないもっともなのを排除しにかかるが、それが終われば段々と矢印が内側を向いてくる。
障害者を排除すれば、次は健常者の一番外側のグレーゾーンが排除され、次は健常者の仕事の出来ないのが排除されていく。
社会の一番外側の成員を弾き飛ばして排除するのは、限りない排除の始まりである。
ナチスドイツがどうなったか。ポル・ポト派やたちの悪い独裁者の最期について思いを馳せたことがあるか。
歴史は繰り返す、なんて信じたくもないが強い言葉を使う人々が選挙をし始めたら、やっぱり歴史は繰り返してしまうのか、となる。
何かをターゲットにして自分らの忌々しさをカモフラージュしないといけない。
自分達の言っていることも同様にはかりにかけるのであれば自己批判も行き届いているが、
大体言葉の強いのは自分のことについては振り返ろうともしない。いわゆる他責、である。
退かないし媚びないけれども、少しは自分のことについて省みることだけはした方がいい。
自己批判を忘れたものは、積年の恨みによって片されることであろう。いや、そうされなければとても政権運営能力があるとは言えない。
などと公約でまず先の方で明らかに弾かれる側の人間は言うのである。
誠に遺憾である。