隠者の庵 -4ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

この題名のことを障害当事者が言うことも正直どうかと思うが、

障害者と公平に純粋に接することができるのは障害者というくくりに周囲の誰か一人(自分含む)が入るまでだと思う。

障害者手帳があれば特例とか措置とか配慮が与えられて、人と接する時にも今なら「合理的」配慮が求められるようになる。

すなわち自然な心の動きではなく障害者専用の心の動きをしなければならないということである。

それは果たして純粋な心の動きと言えるのか。特別シフト、特別な挙動、とても普通ではない。

人の心とは何が自然なのか。何か場面、その人その人に応じて臨機応変になることは悪くないにせよ、

障害のような恒久的なものに対しては、あるものをない、とは言えない。

差別というか別な世界の人間だなという、健常者とはことなる意識が片隅にある、そのあるものをないとは言えない。

障害を扱うときに純粋な善意というものは極めて薄れた形でしか存在しない。

どこかに「障害を助けなければならない」という意識が挟まってくるから。たとえその善意が限りない善であったとしても。

障害者でなくとも、個人的に嫌いな人間なら頭の中で蹴り飛ばしたくでもなるだろう。

障害の大半というのはその「嫌い」や「苦手」な要素の集合体である。この時点で完全に肯定的にみる純粋な視線を失うのに、悪意はひた隠しにされる。

そして見ていないところで確実にあれこれ、健常者の数倍は言われる。ついていない要素が確実に多めに盛られているがゆえに。


こんなのでも病院で発達障害の診断が出るまでは自分がそちらの立場になると思ってなかったので、

いざ障害があるとわかると自分にも余計な心情が芽生えてくる。特にマイナスの方向の。

自分がかつて色々な場所で障害者と関わり、別な世界の人間だなと思わなくても何故か勝手に思ってしまうようなことを、

診断が出ることによって、ついに自分自身にも向ける、向けなければならないことになってしまったのである。

そういうのもあって障害当事者として人になにかしてもらいたいことはありますか、と言われても逆に何もしてほしくない。

いっそのこと誰もいない場で一人で何かをしていたい。憐憫あるいは蔑視の視線に耐えられない。

何かをしてもらうと気が重いし、法令でそう決まっていることを、半強制的に誰かにさせることほど気まずいものはない。

自分が何もできない故に。

憐れみの目でじっと見つめられて正気を保つことなど出来るでしょうか。

ずっと視線を当てられるなら私は海の底で貝になりたい。

誠に遺憾である。

特に深い希死念慮とかはないがXや他のSNSで闘病アカウントの御方々が希死念慮めいた発言を繰り返すのを見ていたら、

引きずられて悪い意味で「引き寄せの法則」が発動してしまうかもしれないので慎重に見ている。

特に自傷関連についてはセンシティヴに。血を見たら気を失うという意味で自傷関連の行動を制御しているし、

そこまでして死にたくはないが緩慢にしかし確実に死ねばよろしい。どうあがいても最終的な結論として人間は死ぬ。

どうせ死ぬならあがいてから死ぬ。

それでもたくさんの人がこれでもかと自傷関連に走ると引き摺られるかもしれないから、見たくないものは見ない。

見ないようにしていても偶然流れてくるから完璧にとはいかないのが辛いところである。

死にたいという意欲、希死念慮というのはそんなに人に見せなければならないのか。

自分などそういうことが頭によぎったら人から隠れてやるわ。少なくとも写真に撮って掲載したりはしない。

そういうのをドラマとか映画でするならば、山奥とか海とか人目のない場所と私の中では相場が決まっている。

そこに愛はあるのか。

生きていてしょうもないと思うのと、しょうもなくて死にたくなるのとは別な話である。

世をはかなむのも虚しく思うのも希死念慮に入れられたら、自分などもう万遍なく死にたがっているだろう。

誠に遺憾である。

別にお金も最低限あればいいし、金持ちになってやりたいことも特に見つからないし、

安アパートの隅でじっとしていたい(一人暮らしのころは勝手にそうなっていた)

人と暮らすなんて人と暮らしたい人だけがやればいいのです。

マイペースが文字通りマイペースで、自分ひとりのことを一人でやろうと考えるから、

知ってる誰かに手伝ってもらうとか、皆で協力するというのは最後の手段である。

間に誰か一人入っただけでちゃんと物理的にどこかにどけないと、と思うような自分には人と過ごすのは適格ではない。

朝から晩までを一人を念頭に考え、誰かは干渉しないように思い、当然誰でも人にはなるべく干渉しないように過ごす。

干渉するのは店とかやりとりがある程度マニュアル化されている場所で、最低限言うことが決まっていれば他に言うこともない。

テンプレを、テンプレさえ再現できればいい。あとの臨機応変なやりとりなんて知らない。

そんなこんなで居間とかに誰かがいるだけで気まずい。夜中一人で夜食を作ったり食べたりしているところすら見られたくない。

極論仕事場以外でどうやって生きているのか誰も知らないようにして生きたい。

勝手に死ぬならその時が来ただけのことである。特に長生きとか平和に終わるなんて知ったこっちゃない。どうにも出来ないことが多過ぎる。

だが人に協力を求めたり求められたりすると人間としてとても面倒くさい存在になる。

特にメンタルが酷いときは勝手に付属してくる血縁関係ってどうしてついてくるの、とまで思うようなことになる。

一人になれなければ生きている気がしないし、自分の時間を持って、自分以外誰にも入れない領域がないと生きている気がしない。

昔誰かくる、となったら部屋を死ぬ気で整えて約束の数十分前から正座で待機するほど人が来るのは落ち着かない。

玄関で最低限必要事項を通してあとはそのまま帰れといえるものならいいたい。

私とはそのような人間である。

誠に遺憾である。

病院に行くと壁に「湿布は一人63枚まで!」と書いたポスターや張り紙を、

どこの病院に行くたびにも見せられる。そんなに湿布がないと生きていけないんですか(捻挫でアキレス腱付近に湿布を貼りながら)

ロキソプロフェンとか錠剤の方のロキソニンとか常用するのを止められるくらいなら人生やめるわ、とでもなっているのだろうか。

まあ同じ湿布をドラッグストアに買いに行くと何か小さいし何か割高感があるのはたまに足を痛めて買いに行くからわかる。

問題はどうしてそこまでわざわざ病院に行って上限まで湿布をもらうような制度になっているか、であるだろう。

多分保険料の負担の関係だと思いますが、そこまで湿布でガチガチに固めないと生きていけないんですか、高齢者というのは。

などと、高齢者のたまり場になりかけている田舎の整形外科の待合室の前などで思う。

予約もなく足を急に痛めて病院に行ったら先約の御老人が湿布をもらいに行くのに巻き込まれて朝早めに出かけたのに昼前まで声すらかからなかった。

もう病院に行かなくても処方箋がもらえる、病院に行く回数を減らせる制度もあるのに、何故頻繁に病院に行く人は後を絶たないのか。

それを止めさせるためにOTC類似薬の保険適応がどうとか言っているが、

その巻き添えで小児医療の限定された鎮痛剤の処方や、ごく普通に(?)怪我をしただけの人々が煽りを食らうのである。

さすがに鎮痛剤、ロキソプロフェンの全額自己負担は痛い。慢性的か突発的かだけでもなんとなく分けられればいいのに。

というか普通にドラッグストアで分け隔てなく買えるようにしてくれ。それならば多少高くても我慢する。

特定の場所に行って特定の有資格者の話しを聞いてから、とかをどうにかしていただきたい。

それか月の湿布の上限を減らすか。怪我をしたり病気にかかるから病院に行くのであって、

なんか収まらない漫然とした痛みのために集まられたり場所を取られたり余計に待たされたりするのが我慢ならないだけである。

誠に遺憾である(それなりに重いアトピー性皮膚炎の症状を抱えながら)

お金はあるに越したことはない。そんなのいくら貧乏になっても知ってる。

しかし余計なお金を持ったり、突然遺産の話になったりすると、人が勝手に寄ってくるから考え物である。

少なくとも見せ金を持って人前を歩くべきではないと思いました。

基本的に金は天下の回りもの、そこは否定しようがない。お金を回して世の中が回っているから、むしろ停滞させる方が本来の動きではない。

では動かない人にお金を持たせて急に動くことができるかといえばそうではないだろう。

守銭奴のごとくいつものようにルーチンをこなして、お金なんてあるけれど無いように扱う暮らしをするだけである。

見えてるけれど見えてない扱いをお金にする。これは正義ではないかもしれないが、回すことに触れていなかったり、

回すことに意義を見出したりすることができなければそうなるだけの話しである。

実際詩歌をやるとか勉強の本とかの代金を除けばどこにも行かなくていいし、なんなら何もしなくても頭が動けばいい。

お金を回す余地がどこにあると思いますか。最近の自分の趣味は初期投資だけしてあとはお金もいらず何もしなくても勝手に回るようなものである。

生成AIと話をしたり絵を描かせたり昔適当に積んだゲームを思い出したように始めたり。

パソコンも自作するがそれもほぼ初期投資であとは動かなくなるか余程世代交代が進むかしないと新しいパーツを買わない。

バンドも楽器は固定されたし定期的なメンテ以外にすることがなく、壊れたりしなければ買い替えもしないから実質エコである。

食事以外にお金を使う理由がそんなに見当たらないのが現状なので、

浮ついて何かに散財する人の気持ちがわからない。お金を使うイベントがない、というのは家庭がないから言えることなのであるが。

二人以上になればムードを保つためにお金を使う。しかし一人ならば別にムードに配慮することもない。自分の世界に奥深く進んでいける。

私はそれでいいと思うし、それしかできないと思っている。

人間関係が不器用な人間は人間関係に使うお金の大半は散財になってリターンがなくなってしまう。

お金を泥とか海に棄てるようなものである。それならSwitch2にでも貯めておいた方がいいだろう。

誠に遺憾である。

最近色々なものに対するペースが落ちているのを感じる。無理して焦って何かをしなければならないと突っ走るよりはいいと思っている。
もちろん仕事はちゃんとしなければならないが、それ以外のことまで全部全力で走り抜けなくてもいいし、
全力で走り抜けないと飯が食えないなら走るが全力を出しているのはほぼ趣味の分野だから、
なんでそこまで全力で走るの?と思ったら気軽になりました。
おかげさまで全方面の趣味のペースがガタッと落ちていますが、逆に言うとどこまでも全力で走り抜けなければならない、
死ぬ気になったりなりかけたりしてまで得るものがそんなに無いと思ったら、
もうマイペースで走った方が楽だよね、と思うようになりました。
前まで毎日執拗に更新したここのブログも落ち着いたペースで書きたいことをサッと書くようになりました。
発作的に書きたいことを書くのは今まで通りですが無理して毎日書くのをやめました。
タスクを増やすのも自分自身だし、苦しむのも自分自身だし、誰も巻き込んでいないから本当に自分自身の問題でしかない。
これで人とやっているならペースを相談したり話し合いをしてなんとか妥協点を探すことになるでしょうが、
大半の趣味は自己完結するような一人でやっている趣味ばかりなので、自分がやめよう、と考えたら簡単にやめられる。
これで金を稼いで生きているわけでもないし、ノルマも取れ高を確保しなければならないことも一切無いし、
すっきり生きられるならその方がいいと思いました。

コロナ禍になったのをいいことに外に行くときはマスクをつけることを己に義務づけている。

新型コロナワクチンで上半身が真っ赤になり皮膚炎がしばらく治まらない酷い目に遭ったため、

多分感染したらそういう風になるのだろうという危機感から外せないのと、

マスクを外したら口が丸見えじゃないですか。

歯並びとかとても悪く人にも見せられたものでもないし、ある意味コンプレックスに近い。

とにかく壮絶な歯並びのため、歯医者に行けば歯科医が大抵悪戦苦闘するし、

クリーニングをすれば「難しい歯並びですが」と確実に前置きされて話を進められる。

ところで矯正歯科の相談を歯科に持ちかけたら歯を確実に数本抜きますね、と言われて、

その上で七桁お値段がかかります、保険はききません、などと言われたら逃げたくなるだろう。

インプラント並にひでえや。

なんで矯正歯科には保険がきかないんでしょうね。歯並びが悪いと認知症のリスクがとか散々言いふらしているにも関わらず。

そんなに健康というなら矯正歯科にも子供でも大人でもちゃんと保険をかけて下さいよ、と言いたいレベルの歯並びなので、

うかつにマスクを外して笑顔になるわけにもいかない。そういう意味では確実にマスクをつけることで楽をしている。

多分今後も外せないだろう。コロナ禍よりも怖い物はたくさんありますから。

誠に遺憾である。

腹の調子も悪いし、定期的な診察もあるので病院に行こうとしたら病院の手前で腹痛がひどくなったので、

車を降りてコンビニに駆け込んだが結構混んでいて危うく大惨事になるところだった。

待っている間明らかに自分より危うい待ちかたをしている人にも先を譲ったのでさらに危機的な状況に追い込まれたが仕方がない。

病院に行き、いろいろ終わらせて、家に帰るとなんか怪しげな宗教のパンフレットがばらまかれていて、

しかも仏教的なことが書いてあるから後からきた家族にとても怪しまれた。

そんなパンフレットを見た程度でテンションが上がって施設に行ったりなんてしませんから。

ついでにお隣さんにも怪しまれたのでなぜか言い訳をしに行く羽目になった。

私はやってない。潔白だ。

このブログ特に人が来るわけでもないし、中身は愚痴みたいになった単なる独り言と毒舌と愚痴ばかりだし、

人にみせるようなものか、とは思っているが、残念ながら自己表現というのは自己にしかできないものであり、

どんな表現だろうと結果はあるがままに見せなければならない。小っ恥ずかしくなってるならとっくにやめている。

表に出る、というよりはリアルな自分の姿は見せたくないし隠しておきたいが、自分の考えたことは別に隠したくもない。

小説家が作品だけ淡々と出して本人は顔写真の一枚も出さないように。

リアルな自分は好ましくないもの、と断定したくはないが、ちょっとどころではない障害のために表に出ると、

実際に自分を動かそうとすると人との関わりという点ですぐにボロが出る。

作品はそういうことを言わない。文字なら文字の、音なら音の、絵なら絵の作品があるだけである。

創作活動をする主体はあっても作品自体に本人の人格とか性格は出てこない。人格があるのは人間本体であるから。

どうしても本人は出しなくないから、代わりに作品にそれらしいことを言って貰うのは卑怯なことなのであろうか。

自分が前に出ることが一番苦手であり欠陥を抱えているなら、表に出ないように出来ることだけやった方がいい。

それに作品なら人間が死んでも最低でも具体物が滅びるまでは残る。

まったくひどい話だと思うが、自分は動いている自分を一番見られたくない。

動いている自分なんて人格的に卑劣で空気も読めない人の風上にも置けないような奴だからだ。

誠に遺憾である。

自宅では有料テレビを使ってでもモータースポーツを観戦している手前、一度は本場のサーキットに向かってエンジンの大音響を聞きたいものだが、

それを住宅街でやられるとそれはそれで困る。

バイクの通り道のそばにある家には赤ん坊や子供がいたり、私よりも精神的に何かがある人がいたりするかもしれない。

バイクというのは構造上どうしてもエンジンが露出している手前音がモロに聞こえるから、

それがいい、と言う人もいればけしからん、と言う人も当然いる。

けしからん人の前で定期的にでも不定期にでも音を鳴らせば必然的に事態と人間関係は悪化する。

最悪バイクにいたずらをされて走行不能になったり通路に罠でもしかけられるかもしれない。

バイクのいい音が聴ければ私はテンションもいい感じにかかってくるが、そうもいかない人も居るし、

自分だってバイクの音の大きさの限度を超えれば脳内にひどい音が鳴ってメンタルがやられる。

エンジン音がいいですよね、とは言っても自分を含めて一筋縄ではいかないのである。

多分自分は普段使いより少し大きいくらいのバイクの音は許容範囲になっている。なんなら田舎なので近くを通る農業関係の車の方がうるさい。

でも大型バイクみたいなのをマフラーが故障したり改造されて余計にゴロゴロ鳴らされると自分のメンタルが参る。

音を鳴らすな、とは愛好者も減らしたくないので言いたくはない。それをいうとどこも走れなくなる。

いい走り、旅をするのがバイクの醍醐味なのにそれを辞めさせて何になるというのか。

なのでマフラーとかアクセルのかけ方を工夫して何とかして常識の範囲内、愛好家も納得する音にしてほしいとだけ願っている。

いいバイクは時間をかけて暖機運転もしなければならないから、近所迷惑にならないように、とは難しいとは思うが、

ただやみくもに音の出る方向も場所も考えないで音を鳴らせば、近所迷惑になるのも必然である。

ただ、自分のような二輪免許もないただのモータースポーツ愛好者の赤の他人が言うよりも、

仲間同士、ライダー同士の心がけで皆が気持ちよいエンジン音を心がけてほしいと思うのである。

時折風になりたくなるじゃないですか。人間というのは。