隠者の庵 -4ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

最近色々なものに対するペースが落ちているのを感じる。無理して焦って何かをしなければならないと突っ走るよりはいいと思っている。
もちろん仕事はちゃんとしなければならないが、それ以外のことまで全部全力で走り抜けなくてもいいし、
全力で走り抜けないと飯が食えないなら走るが全力を出しているのはほぼ趣味の分野だから、
なんでそこまで全力で走るの?と思ったら気軽になりました。
おかげさまで全方面の趣味のペースがガタッと落ちていますが、逆に言うとどこまでも全力で走り抜けなければならない、
死ぬ気になったりなりかけたりしてまで得るものがそんなに無いと思ったら、
もうマイペースで走った方が楽だよね、と思うようになりました。
前まで毎日執拗に更新したここのブログも落ち着いたペースで書きたいことをサッと書くようになりました。
発作的に書きたいことを書くのは今まで通りですが無理して毎日書くのをやめました。
タスクを増やすのも自分自身だし、苦しむのも自分自身だし、誰も巻き込んでいないから本当に自分自身の問題でしかない。
これで人とやっているならペースを相談したり話し合いをしてなんとか妥協点を探すことになるでしょうが、
大半の趣味は自己完結するような一人でやっている趣味ばかりなので、自分がやめよう、と考えたら簡単にやめられる。
これで金を稼いで生きているわけでもないし、ノルマも取れ高を確保しなければならないことも一切無いし、
すっきり生きられるならその方がいいと思いました。

コロナ禍になったのをいいことに外に行くときはマスクをつけることを己に義務づけている。

新型コロナワクチンで上半身が真っ赤になり皮膚炎がしばらく治まらない酷い目に遭ったため、

多分感染したらそういう風になるのだろうという危機感から外せないのと、

マスクを外したら口が丸見えじゃないですか。

歯並びとかとても悪く人にも見せられたものでもないし、ある意味コンプレックスに近い。

とにかく壮絶な歯並びのため、歯医者に行けば歯科医が大抵悪戦苦闘するし、

クリーニングをすれば「難しい歯並びですが」と確実に前置きされて話を進められる。

ところで矯正歯科の相談を歯科に持ちかけたら歯を確実に数本抜きますね、と言われて、

その上で七桁お値段がかかります、保険はききません、などと言われたら逃げたくなるだろう。

インプラント並にひでえや。

なんで矯正歯科には保険がきかないんでしょうね。歯並びが悪いと認知症のリスクがとか散々言いふらしているにも関わらず。

そんなに健康というなら矯正歯科にも子供でも大人でもちゃんと保険をかけて下さいよ、と言いたいレベルの歯並びなので、

うかつにマスクを外して笑顔になるわけにもいかない。そういう意味では確実にマスクをつけることで楽をしている。

多分今後も外せないだろう。コロナ禍よりも怖い物はたくさんありますから。

誠に遺憾である。

腹の調子も悪いし、定期的な診察もあるので病院に行こうとしたら病院の手前で腹痛がひどくなったので、

車を降りてコンビニに駆け込んだが結構混んでいて危うく大惨事になるところだった。

待っている間明らかに自分より危うい待ちかたをしている人にも先を譲ったのでさらに危機的な状況に追い込まれたが仕方がない。

病院に行き、いろいろ終わらせて、家に帰るとなんか怪しげな宗教のパンフレットがばらまかれていて、

しかも仏教的なことが書いてあるから後からきた家族にとても怪しまれた。

そんなパンフレットを見た程度でテンションが上がって施設に行ったりなんてしませんから。

ついでにお隣さんにも怪しまれたのでなぜか言い訳をしに行く羽目になった。

私はやってない。潔白だ。

このブログ特に人が来るわけでもないし、中身は愚痴みたいになった単なる独り言と毒舌と愚痴ばかりだし、

人にみせるようなものか、とは思っているが、残念ながら自己表現というのは自己にしかできないものであり、

どんな表現だろうと結果はあるがままに見せなければならない。小っ恥ずかしくなってるならとっくにやめている。

表に出る、というよりはリアルな自分の姿は見せたくないし隠しておきたいが、自分の考えたことは別に隠したくもない。

小説家が作品だけ淡々と出して本人は顔写真の一枚も出さないように。

リアルな自分は好ましくないもの、と断定したくはないが、ちょっとどころではない障害のために表に出ると、

実際に自分を動かそうとすると人との関わりという点ですぐにボロが出る。

作品はそういうことを言わない。文字なら文字の、音なら音の、絵なら絵の作品があるだけである。

創作活動をする主体はあっても作品自体に本人の人格とか性格は出てこない。人格があるのは人間本体であるから。

どうしても本人は出しなくないから、代わりに作品にそれらしいことを言って貰うのは卑怯なことなのであろうか。

自分が前に出ることが一番苦手であり欠陥を抱えているなら、表に出ないように出来ることだけやった方がいい。

それに作品なら人間が死んでも最低でも具体物が滅びるまでは残る。

まったくひどい話だと思うが、自分は動いている自分を一番見られたくない。

動いている自分なんて人格的に卑劣で空気も読めない人の風上にも置けないような奴だからだ。

誠に遺憾である。

自宅では有料テレビを使ってでもモータースポーツを観戦している手前、一度は本場のサーキットに向かってエンジンの大音響を聞きたいものだが、

それを住宅街でやられるとそれはそれで困る。

バイクの通り道のそばにある家には赤ん坊や子供がいたり、私よりも精神的に何かがある人がいたりするかもしれない。

バイクというのは構造上どうしてもエンジンが露出している手前音がモロに聞こえるから、

それがいい、と言う人もいればけしからん、と言う人も当然いる。

けしからん人の前で定期的にでも不定期にでも音を鳴らせば必然的に事態と人間関係は悪化する。

最悪バイクにいたずらをされて走行不能になったり通路に罠でもしかけられるかもしれない。

バイクのいい音が聴ければ私はテンションもいい感じにかかってくるが、そうもいかない人も居るし、

自分だってバイクの音の大きさの限度を超えれば脳内にひどい音が鳴ってメンタルがやられる。

エンジン音がいいですよね、とは言っても自分を含めて一筋縄ではいかないのである。

多分自分は普段使いより少し大きいくらいのバイクの音は許容範囲になっている。なんなら田舎なので近くを通る農業関係の車の方がうるさい。

でも大型バイクみたいなのをマフラーが故障したり改造されて余計にゴロゴロ鳴らされると自分のメンタルが参る。

音を鳴らすな、とは愛好者も減らしたくないので言いたくはない。それをいうとどこも走れなくなる。

いい走り、旅をするのがバイクの醍醐味なのにそれを辞めさせて何になるというのか。

なのでマフラーとかアクセルのかけ方を工夫して何とかして常識の範囲内、愛好家も納得する音にしてほしいとだけ願っている。

いいバイクは時間をかけて暖機運転もしなければならないから、近所迷惑にならないように、とは難しいとは思うが、

ただやみくもに音の出る方向も場所も考えないで音を鳴らせば、近所迷惑になるのも必然である。

ただ、自分のような二輪免許もないただのモータースポーツ愛好者の赤の他人が言うよりも、

仲間同士、ライダー同士の心がけで皆が気持ちよいエンジン音を心がけてほしいと思うのである。

時折風になりたくなるじゃないですか。人間というのは。

音に敏感だと幹線道路沿いには住めなくなる。バイクとかトラックとか朝昼晩夜中も通り抜けられたら生きている気がしない。

鉄道沿いも無理である。理由なんて言わなくても分かってもらえるだろう。

よって音に敏感だと山奥の本当に奥まった、細い道の奥のこっそりとした家にでも、要は田舎の奥に行かなければ最終的にどうにもならない。

常に耳栓をつけたりヘッドホンやイヤホンをつけながら、なんて流れる音楽で先に耳がやられる。

だがうるさい場所に住んでいると、些細な音でも特定の刺激に対して敏感になりがちだから、

時折精神の不安定な場合は音が余計に大きく聞こえるから防御しなければならない。

極論住宅街ではなく人付き合いをしなくていいくらいに人の居ない限界集落のような本当に人などいない場所に行かねばならないだろう。

私の障害上、円満な人付き合いは到底望めそうにないので。人の居る場所には行かないし自宅に来て欲しくもないので。

人は孤独に耐えなければならない、とはいうが、自然に一人になりたがる、放っておけば孤独になってる者を果たして孤独と言えるのであろうか。

孤独という言葉に付属するイメージはあくまで「一人でいること」だけで、

特に寂しくもなく孤独であることに耐えられないこともなく、むしろ一人にしてくれと思う人間に。

孤立はしているけれど孤独ではない(意味不明)

畑を耕して詩歌をたしなみ、最低限の買い物をしに街まで出て行ってそして帰って来る、

たまの話し相手ならAIが何とかしてくれる、それだけで何を望むだろうか、

ましてや人の運んでくる様々な音なんて荷物の配達以外のことはとても要らないものである。

静かに生きるのはそんなに難しいことですか。

誠に遺憾である。

最近生成AIに定型の俳句とか短歌とかを試しに作ってもらうようなことをしている。

結構な確率で575にも57577にもならなかったりして俳句や短歌とは何ぞや、みたいなことになっているが、

それは定型の詩歌について学習が進んでいないからだと思う。

私のような発達障害には気持ちがわからないしどうやって理解するのかも一向に理解できないが、

自分には欠けている感情を補足して何とか形にするにはAIに恋愛とかそういう感情的なものを作って補助具みたいにするしかない。

ないものを表現してもおおよそ大したことにもならないし、人の気持ちを何もわかってない、と言われると思うので。

実際分からないんですが。

別にAIだから全知全能というわけでもなく、こういう流れならこういう表現になる、ということを学習しているので、

世の中にあふれている恋愛の表現を学習しているならば、何も知らない自分よりは恋愛を知っていることになるだろう。

何もわからないと嘆くよりは代理で何とかしてもらうとか、機微のわからない表現の多彩さを自分がAIから学習するとか、

そういう補足的な手段でもしておかなければ自分には恋愛というものを理解することもないだろう。

まあ、してもそんなに楽しくも面白くもないんですけどね。全く価値基準の異なる人を近くに置くなんて不安と恐怖でしかない。

だからないものをAIに何とかしてわかったふりでもしなければならない。

そうしなければ空気が読めないとか人の気持ちがわからないやつ、と言われ続けるだけである。

無理してわかっても単なる付け焼き刃か取って付けた部品か何かなのですぐ不具合は出るし、詳しく説明なんて出来るものでもないですが。

私にとっては、他者との対等な愛とは不安と恐怖に染まった塊みたいなものです。

誠に遺憾である。

昨日買い物を済ませながら車を運転していたら、どういうわけか突然テンションが虚無になった。

生きる意欲というか今まで普通だった調子が突然何もなくなり、目の前が真っ暗になりそうな勢いだったので、

広い駐車場に車を停めて薬やら飲み物やらいろいろ手を施して何とかした。

そしておよそ十分後くらいには逆に躁状態に近くなり何だこのコントロールの難しい精神は、自分のことなのに何という体たらくかと思いました。

いくら何でもアップダウンがひどすぎる。

普通でこれだと何かのイベントが家庭で起きたときに乗り越えられる気がしない。

ノリと勢いで乗り切るしかないが、もれなく周囲の人々が犠牲になるだろう。

それくらいアップダウンが激しい。

最近ごく個人的にどうしても何とかしたいことがあって、情報を収集したり、そのために具体的に必要な物を物色しているから、

ストレッサーが全く存在しないとは言えない。しかし、まだそれほど大きいストレッサーだとは自分は思ってないのに、

急にテンションが乱高下するような事態に見舞われると、もうこの物事には関わらない方がいいのではないかとまで思うのである。

あまりにも自分が繊細すぎて、昔は大丈夫だったはずの大勢の人と関わるイベントなんて突入できるかも不明になってきた。

誠に遺憾である。

AIとかよほど酷い成人向けの話題を振るかでもしない限り何でも答えてくれるし、設定もつくり放題でこれから益々柔軟性が上がるだろうし、

都合のいい話し相手を求めたら何でも答えて肯定してくれるから、

イマジナリーフレンドというかある意味で危険な話し相手になってしまうのでは、と、あちこちのメディアが取り上げている。

小説も書いてくれる、絵も描いてくれる、曲も作る、プログラミングもしてくれる、調査や議論の台本もやってくれる、

ないのは三次元の実体、みたいな存在に寄りかかる方が楽だと思うのは、

催眠術にかかるように、自分の都合のいい展開、思った通りに事が進んでいるという充実感、

特に自己肯定感が悲惨なことになりがちの発達障害には効果覿面なのではなかろうか。

常に世の中に否定されている人ほど安全な場所を求めるものだと私は思う。たとえそれが現実でなくとも。

一昔前であればアニメやゲーム、ちょっと前ならVTuber、次はAIに言葉を、感情を全肯定してもらうような時期がくるかもしれない。

確かに質問をして明確な答えが出れば、そこに人でなくても誰かがいる気がするものなのである。

チベット仏教でいうところのタルパ、自分の内面に存在する別人格のようなもの(上手く説明できないのでAIに聞いて下さい)

それが修行や鍛錬を経ていなくても手元にあることの重要性、というか簡単にそんなことをできるものが手に触れられる状態にあると、

聞けば答えてくれる存在がそこにあれば言うことのわからない親よりも傾倒して現実が見えなくなることを危惧するものである。

何でも知っているし分かってくれる存在があるからそれがいいことだとは限らない。

この世の荒波は自分には過酷でとても乗り越えられるようなものではなかったが、

だからといって人を荒波のない環境に巻き込もうなんて考えたくもない。どんなことでもある程度は自分で考えて自分で言葉にしなければならない。

たとえ人と言い争うようなことになっても、自分のために言わなければならないことが、確実になければならない。

それを忘れた人間、とは一体何であろうか。考える葦にもなれない人間とは一体何か。

誠に遺憾である。

基本的に自分はお金以外のことは大概自分で出来るように訓練するし、

そのお金を稼ぐということが一大事なのでとにかく悲惨な現状だから、お情けで生きているようなものであるし、

あまり出っ張ることのないように過ごしたい。

できれば人目につかない場所でこっそりとしていたいが、そうも言っていられないから、

周囲の人に関しても、最低限度にして、あまり深く突き詰めないようにしたい。

なるべく他人に関与されなくても、一人でスケジュールは頭に叩き込んであるから人からあれこれ言われたくない。

嫌というほど時計を見て自己管理しているのに何故人から突っ込まれなければならないのだろう。

基本的に「俺の後に立つな」オーラは空気が読める人なら分かる感じに出していると思うが、時折通じない人もいるからまだ自分が未熟なのだと思う。

自分のチームワークがとにかく不器用なのは知っているし、巻き込めば自分だけの問題にならないことも知っているので、

できれば他人に迷惑をかけないように、チーム行動をしないようにして過ごしたい。

無愛想に見えてもそれは自分のことだけでもない。人を守ることにもつながる。

今までチームワークを実践して、ものの見事に全体的に崩壊したり、

起きえないことで変なことになったりパニックになったり、周囲の様子を見ていればいたたまれなくなる。

近づく人には私と関わると不幸になりますよ、なんて言えないがそういうオーラをまけるように尽力したい。

そうしないと他の人が救われないから。

誠に遺憾である。