この題名のことを障害当事者が言うことも正直どうかと思うが、
障害者と公平に純粋に接することができるのは障害者というくくりに周囲の誰か一人(自分含む)が入るまでだと思う。
障害者手帳があれば特例とか措置とか配慮が与えられて、人と接する時にも今なら「合理的」配慮が求められるようになる。
すなわち自然な心の動きではなく障害者専用の心の動きをしなければならないということである。
それは果たして純粋な心の動きと言えるのか。特別シフト、特別な挙動、とても普通ではない。
人の心とは何が自然なのか。何か場面、その人その人に応じて臨機応変になることは悪くないにせよ、
障害のような恒久的なものに対しては、あるものをない、とは言えない。
差別というか別な世界の人間だなという、健常者とはことなる意識が片隅にある、そのあるものをないとは言えない。
障害を扱うときに純粋な善意というものは極めて薄れた形でしか存在しない。
どこかに「障害を助けなければならない」という意識が挟まってくるから。たとえその善意が限りない善であったとしても。
障害者でなくとも、個人的に嫌いな人間なら頭の中で蹴り飛ばしたくでもなるだろう。
障害の大半というのはその「嫌い」や「苦手」な要素の集合体である。この時点で完全に肯定的にみる純粋な視線を失うのに、悪意はひた隠しにされる。
そして見ていないところで確実にあれこれ、健常者の数倍は言われる。ついていない要素が確実に多めに盛られているがゆえに。
こんなのでも病院で発達障害の診断が出るまでは自分がそちらの立場になると思ってなかったので、
いざ障害があるとわかると自分にも余計な心情が芽生えてくる。特にマイナスの方向の。
自分がかつて色々な場所で障害者と関わり、別な世界の人間だなと思わなくても何故か勝手に思ってしまうようなことを、
診断が出ることによって、ついに自分自身にも向ける、向けなければならないことになってしまったのである。
そういうのもあって障害当事者として人になにかしてもらいたいことはありますか、と言われても逆に何もしてほしくない。
いっそのこと誰もいない場で一人で何かをしていたい。憐憫あるいは蔑視の視線に耐えられない。
何かをしてもらうと気が重いし、法令でそう決まっていることを、半強制的に誰かにさせることほど気まずいものはない。
自分が何もできない故に。
憐れみの目でじっと見つめられて正気を保つことなど出来るでしょうか。
ずっと視線を当てられるなら私は海の底で貝になりたい。
誠に遺憾である。