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隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

自分もギターやベース、あとはドラムや超絶下手なピアノを弾いたりフルートを吹く手前あまり大きな事は言えなくなっているが、

基本的にハーレーみたいなどでかいバイクとかトラックなどのどでかいマシンの音はかなり苦手な部類である。

(ただ、どちらかといえばそういうマシンが通り抜ける時に乗じてうるさいと誰かが叫ぶ方がうるさいと思う)

現代音楽とか不協和音を愛好する人がそれ言いますか、とか言われると思うが、

まだ音階があるだけいいじゃありませんか(意味不明)

バイクの排気音とかトーンクラスターより酷いわ。

一番説得力がないのはMotogpを見ながらそれを言うことですが。

モーターショーみたいなのはサーキットでやってくれ。近所にはそんな場所はありませんが。

先述の楽器の練習なんて家に人が居ないときしかしないし、

エフェクターをフルに効かせて、となると変な音が出る前提でつまみをいじったり、アンプもそれなりの音量を出さないといけないから、

それはそれでとても近所迷惑であるし、身をわきまえて演奏しなければならない。

つまり事実上家でフルパワーでの演奏はできない。

本当に楽器の本来の目的が出せないので、肩身の狭い思いをしていてストレスがある、というのもあるが、

同じ音でも外からの刺激にはそんなに強くないようなので、別にどでかい音でなくても、

プラスチック同士の軽くぶつかる音とか、照明のスイッチを押す音が個人的にとても響いてきて、

なんで自室の目の前にオブジェクトやスイッチなんてあるのよ、などと思うのである。

年を追うごとに特定の音が個人的によく、はっきりと大きく聞こえるように感じるので、

そろそろ物理的に耳を覆う手段を考えなければならないかもしれない。

音楽をやっているのに、たまに耳が聞こえなくなったら楽だろう、と思うときもある。

聴覚のオンオフスイッチとかあって、自意識で切り替えられたらとても生活が楽になるのに、などと思うのである。

自然音とて、そんなに自然に聞こえない時もあるから、いい加減耳が限界なのかもしれない。

まあバンドとか自主練で限界までヘッドホンに大音量で耳を酷使したから当然と言えば当然である。

誠に遺憾である。

私は世間話というのが最も苦手である。

その辺の人のうわさ話、芸能関係の他愛もない話、人の身の上話など特に興味もなく、
文字通り時間の無駄だと思っている。
もっと具体的な話はできないのかと苦虫をかみつぶしたような顔をして聞いている。
家庭菜園ならどのような品種が今年新しく出て来ているとか、流行の話でもトマトやピーマンの新種や収量の見込める苗の話とか、
新しい生成AIの話し、AIに新しく何をさせることができるか、これからのAIの方向性について、
哲学ならある特定の哲学者についての個人の解釈、雑に言ってその人の個人的な印象だけでも何かのヒントになるかもしれないのだが、
そういう話は一向に聞かない。障害者界隈に紛れ込んでいるからなのだろうとは思っているが、それにしても自分に合う話題がない。
あまりにも無いからもう他愛もない話題は、下らないことであり、大したこともないのに話しかけるのはやめろと言いたくなってしまう。
個人の込み入った事なんて聞きたくも話したくもない。そんなことよりも客観的な真実や理性や悟性の内容について話したいものである。
何なら宗教の話しとか勧誘や集会に呼ばない限り、お金を取らない限りいくらでも聞くだけ聞く、と意味不明なことも言う。
現状趣味に関しても誰とも興味関心が被らないから何も喋ることがなく、とても物静かな人間だと言われている。
趣味が被れば音量的にも内容的にもとてもうるさいことを、私の周囲の人々は知らない。
何ならニンテンドーの歴代ゲーム機の話をさせるだけでも時間単位で演説を続けるだろう。
私が興味のあるのは目に見えている物、具体的な言葉で表せるものである。
それ以外の形にならないもの、人の気持ちとか、その場の雰囲気とか、適切な話題とか、そんなものは知らない。
本当に大したこともない話題で、個人的には唾棄すべきものである。
趣味が被らないし人間関係が限られてしまうと、このように悲惨な環境に置かれてしまうわけである。
人間関係は大事です。
誠に遺憾である。

故郷の昔あった学習塾が郊外に大規模新築されたというので見に行った。

そこには田舎にあるまじき高層ビルが建っていて、中も何だか都会っぽい。外は田舎ですが。

中に入ると受付みたいなものがあるが、一階ロビーというか、もう吹き抜けのような広場で塾生も何も区別するものもなく、

ただの広い施設の入り口みたいになってしまっている。

受付にもなにも咎められなかったのでそのまま中に入ると、当然塾なので細かく分けられた教室があり、というかどう見ても塾であり、

本当にただの中年を何もせずパスする必要も何もないと思いました。

そうしてあちこち歩いていると、昔の同級生とか当然同い年なので中年の面々と鉢合わせになり、

適当に昔話をしながら何でこんなものが建ったかなどと話していた。

なお何処をどう見ても塾は二階か三階くらいまでてあり、その上がどうなっているのかは関係者しか知らない。

正直無駄な建物だと思いました。

最近は固定電話にかかってくるのが何かのセールスか変な国際電話だったり、

もう固定電話を維持する理由もなくなりつつある気がしてならない。

私みたいに誰にも用事のない人間は体調不良の時に施設にお休みの連絡をいれたりするくらいで他に使い道もない。

災害が何か来ると携帯の回線がつながらなくて困るから、はあると思うが、それなら固定電話にも変な国際電話を勝手に着信拒否したり、

スマホ並みの機能、とは言わないが番号登録をもっとスマホに合わせてやってほしい。

でないとかかって来た電話にいちいち応対しなければならなくなる。

機材に詳しい人が、家にかかって来たあらゆる電話をそのまま自分のスマホに転送するようなことをしていたが、

転送するにしてもそういう新しい機能を搭載出来るだろう固定電話を新調しなければならないし、

機械を使いこなせる人ではなく、高齢者に同じようなハイテクな機能を使いこなせるかという疑問も生じてくる。

たとえ子機があっても最低子機まで歩いて行かねばならない時間の無駄と、手元にあるスマホとどちらが優先すべきか言うまでもない。

まあ何かの公の手続きをする時には固定電話の番号を書いた方が理由のわからない安心感があるのは間違いないですが。

ただそれなら固定電話をもう少しスマホに寄せた機能をつけてもらわないと、変な電話ばかり鳴り続けるとそれだけで憂鬱になる。

誠に遺憾である。

最近言いたいことは大抵言ったような気がして、新たに書くのも今までの焼き直しか補足説明みたいに感じる。

ネタ切れとはそういうものです。

歳をとってからゲームとか娯楽に取り組む意欲も少しずつ失われてきているような気がして、ゼロではないのだが、

自分を投げ捨ててまでやるゲームはあるのかなどと変なことを考える。

どんどん娯楽も短絡化しているのではないか、と。

何かに取り組む気が失せるとかベッドから出られないようなうつ病の重篤な症状がある、とか言うわけでもない。

締め付けられるような不安とか思考の渦にも最近は入る頻度も減った。

人と会うのは後ろめたいが全く家から出ないということもない。普通に作業所にも行く。

そこまで自分好みの環境にしているのに、自分のことになると急にやる気が出なくなる。

何のために人とわざわざ会わないでいるのか、一人で文芸やゲーム三昧をしたかったのではないか。

なんか自分が虚しくなる。

そして畑を耕そうと思うと天気が良くなくてやることがない。

誠に遺憾である。

連休何もしなかったのは、連休で行楽地に人間全員を押し込んでとにかく混むことと、

価格が何でも高くて外に行く気にすらなれないことのダブルパンチである。

誠に遺憾である。

最悪パスタを毎日食べればいいよね(意味不明)

住んでいるのがそもそも田舎だとまず街に出てくるまでに時間と手間がかかるし、

そこから空港に走って飛行機に乗るとかもっと手間と時間がかかるので、

わざわざ人が多い時期にそんなことしなければならないのかと首を傾げたらもう家で畑でも耕していた方がいい。

畑を耕すのは自分の身体を動かしてお金をかけない娯楽だと私の頭の中には書かれてあります。

わざわざ行楽地に行って人混みをかき分けて乗り物に乗って乗る前からくたくたになり、

幾つか乗り終わったら、肉体も精神も全体的にクタクタになってベンチで虚空を見つめるようなのが娯楽だと思いますか。

人に潰されることが果たして成果になり得るのでしょうか。私は思わない。

それなら人の入る隙間のない、自分のやりたいことにもっと時間と手間をかけたい。その結論がひたすら畑に携わることである。

遊園地に行きたいとか思う人には目の敵みたいな存在だが、ぶっちゃけ畑の作物の育ち具合を見ているだけで数時間はつぶせる。

つぶせる、というよりは観察や監修にひたすら時間をかけて変化や異常を見逃さないようにする、と言った方が正しいかもしれませんが。

一日畑を見ていなければ一日分の変化を見過ごすことになる。そんなことは今の自分にはとても耐えられるものではない。

半日家を空けるくらいならいいが、ホテルに数日間泊まっていると次第に畑が気になってドンドン不安になる。

なので旅行するなら断然冬である。気にかける植物が雪に埋もれて一切なくなるから。

数日間雨が降らないで晴れ、しかも高温とか、ずっと曇りあるいは雨みたいな天気予報だと家を長期に空けることに苛立ちか不安を覚える。

猫の額みたいな狭い畑しかないのに何を御大層なことを、とは思っているが、それでも植えているものは見つめていなければ気が気でない。

それを忘れたふりをして行楽に出かけても気分は晴れないどころか曇天か荒天である。

最早畑に引きこもった方がいいのかもしれない。でも部屋にこもらず畑にはほぼ毎日出てきて何かしているので引きこもりではない(意味不明)

誠に遺憾である。

もう歳もとって子どもとかも居なければ、連休に人の居るところにわざわざ出かけていく人の気が知れなくなる。

そして別に行楽に出かけることもなく普通の休日と同じように過ごし、ああもう連休も終わるなどと独りごちる。

むしろ仕事というか作業所に行く方がボケなくていいのではないかなどと思ったりする。

それか家庭菜園に出向いて草を引っこ抜いたり苗の手入れをするか。

とは言え雪が溶けてまだそんなに経っていないので苗は貧弱極まりない。要は勝手に生えてきた草を引っこ抜くしかすることがない。

雪があるときは畑が全面雪で埋もれて何もできないし出たら雪に埋まって自分も死にかねないし、

雪があるときはあるように、ないときはないようにするしか内容がないのでわずかな植物の成長ではしゃぎ回るのが現状である。

こんなに(数ミリ)植物は育っているのにみんな外に出かけて何をしようというのか、などと真剣に言いかねない。

誠に遺憾である。

最近Xを見ているとセンセーショナルな単語結構な確率で並んでいて辟易する。

「日本の敵」とか「増税」が何たらとかとにかく人を煽りかねない言葉ばかりがあふれている。

Xとはそのような存在、と言われたら返す言葉もなくなってしまうが、

言葉をぶつけ合う人々のライフサイクルにだけは巻き込まれたくないと思うわけである。

要するに言葉で喧嘩を売っているわけでしょう。肉体でないだけの話である。

流行語もなんか作為的なものが感じられて追いかける気もなくなったが、

あまり言葉を追い求めると余計に疲れそうな気がしてならない。

毎回同じことを言うがインフルエンサーはインフルエンザでもかかってしばらく全員居なくなったらどれだけSNSは静かになるのか。

誠に遺憾である。

最近何が厳格化されたのかわからないが、とにかく障害年金の審査に蹴られて不支給になった人が前の二倍になっているという。

障害基礎年金、厚生年金だけで生きるには心許ないし、だいたい障害者就労か作業所の工賃を加算して何とか乗り切るレベルの話になる。

年金をもらったら生活が楽になってウハウハなどは一切ありません。もっと泥臭い生きるための一部分です。

生活保護の方がまだ安定してるじゃん、と言いたくなるレベルである。そっちは現状だと役場に行けば即蹴りだされますが。


自分が年金を申請書類を揃えて申し込んだころはこんなことにはなっていなかったので、

自分で書いた書類と医師の診断書で何とかなった。士業の人々や福祉のスタッフなど専門家に書類の書き方を相談するとかもしなかった。

主治医とは診断書と書類の記述にズレがないよう打ち合わせしたが、おかげ様で一回で素直に通った。

ただそれは十年以上前の話であって、今の状況であればその程度でどうにかなっていないのかもしれないと思うと寒気がする。

この現実では自分のような知的障害のない発達障害に二次障害のうつをこじらせた程度ではどうなるかわからない。

そもそも主症状の自閉症スペクトラムで障害者手帳すら申請できないという体たらくである。

いくらうつが寛解しても基礎基本のところで発達障害が根本にあるのなら、症状として対人関係が上手くいかないから、すぐにうつが再発しかねないが、

発達障害で申請しても知的障害を併発していたり病識が無く暴れまわるくらいの重度レベルでないと、

申請しても何もなく却下扱いで蹴られて帰ってくるだけである。医者や福祉スタッフが言っていたのだから間違いない。

でも軽度発達障害は決して軽度ではありません。

結果私の障害者手帳申請も年金申請の書類にもうつとしか書いてない。

発達障害が主症状なのにご飯(うつ)に対するごま塩程度の扱いである。

それでも申請は何とかなったからあらゆる関係者に感謝を申し上げるしかない。

多分今申請するなら廻し蹴りでも喰らって門前払いで追い出される扱いになっているのだろうか。

既得権益、ではないけれど周りにろくな仕事のない田舎に住んでいれば何とか年金を守りきらざるを得ない。

仕事も本当に何もないから。

この辺である求人のスーパーや何処かの店員をやろうにも、足がズタボロで、

遠目でも歩き方で足に不具合があるようにはっきりと見える人間が長時間品物を運んだり並べたりする仕事なんてできると思いますか。

しかしそんな事を言っている場合ではない、本当に重い、普通に生活できない、

出来ても日常的なケアを時間をかけてでも必要とする人々の申請が蹴られるのであれば、年金とは一体何のためにあるのか。

それなら昔芸能人の年金未納が社会問題になったように、わざと納めない扱いをされても仕方ないのではないか。

本当に困った時に蹴られて何にもならないなら、一体何のための年金か。

誠に遺憾である。

人付き合いで大事なのは自分の好みを明かさないことである。そこから人は話しのきっかけを見いだそうとするから。

基本どのような場所でも一人で行動し、一人で全部やることを念頭において行動する人間には、他人に触られるのは想定外である。

身内でも親戚でもあらゆる人からもできれば声かけをしてほしくない。

何なら「あいつ何考えてるかわからん」と思われて疎外されるくらいがちょうどいい。


何か聞かれても最低限の返答はするが、人間関係なんて興味ないから近所の誰かのうわさ話なんて振られても返答のしようがないし、

論点のわからない世間話が最も苦手なので、あまり会話を勝手に広げないでほしい。

自分は何なら哲学とか宗教学の話でもしますか、という、ツボに入った話なら演説気味に話す面倒な人間なので、

他の人からすれば口を開かせればうんざりするだろうから、そういうことのないよう、人に話しかけられるきっかけがないように行動する。

何も明かさなければ不気味な人と思われるだろうが、些細なものの好みや言動から、

人の気持ちも知らずに寄ってくる人に絡まれるよりははるかにいいだろう。襲ってくる人でなくても逃げ出したくなる。

店で買い物をするときは大体喋ることが決まっているから、テンプレから外れなければなんとかなる。

海外で買い物をするときの値引き、値段交渉とか恐ろしくて、店で品物に貼ってある価格で買うなんて日常茶飯事である。

当然ながら争い事や倒れている人でもいなければ声かけなどこちら側からはしない。

AEDは使うし救命処置はするが、それ以外の日常会話はしない。

いざという時だけ正義感だけで現れて終わったらまた霧や霞のようになる人間になりたい。

あれこれの感情を天秤にかけながら傾きすぎないように、なんて社会性のない自分にはできない。

できないから人には関わらない。不穏分子なんていない方がいいからである。

誠に遺憾である。