医者や福祉関係者のホームページや本などのデータを色々調べていると、
発達障害者というのは大人になっても顔が若々しく見えることが多い、という話になっている。
うまく表現出来ないが、生きてきた苦労を皺とか顔の各パーツに染みこませていない、
要するに子供っぽさというか、年齢相応の苦労とか苦痛を体験していない、とかついでに書かれることもある。
けれど別に発達障害者とて苦労をしていないという訳ではない。むしろ人間関係がわからん、という苦労は人一倍している。
顔のパーツが云々というのは複雑な、多様な人間関係の釣り合いを取らなければならない所謂中間管理職みたいな折衝を常に求められる立場、
あるいは毎日職人技を会得するために同じ鍛錬をずっと続けているとか、そういう肉体的、精神的な疲労的な経験という物があって、
発達障害者にはそれが根本的に足りないから顔に味が出ない、とか言われているのかもしれない。
しかし発達障害者は別に人間関係に苦労をしていない訳ではない。苦労はしているが苦労の方向性が違うから結果が顔に出てくるのである。
発達障害者、特に自閉症スペクトラムの人々は人間の感情、人間関係の機微を読み取ることに困難がある。
人の苦労も知らないのに、とはよく言われたものだが、人と人の間を調節調整する能力がないのにやっても疲れるだけである。
出来ないから疲れるのであって、何とか乗り越えて疲れるのとは方向性がかなり違うので、
人の間に立って問題を処理するのに奔走して密な連絡を取り合い苦労する、というのと、
そもそも何故相手が怒ったり問題を提起している理由が人間関係の動きの中にあることがわからないから、動けなくて苦労する、というのは、
私の場合は無論後者であり、人とのトラブルを持ち込まれてもちょっとしたことで簡単にフリーズするので、仕事を任せてられない、
もうやってられん、他の人に回すわ、となり、最終的に簡単な仕事をこなすだけの日々に必然的になっていく。
そうすると苦労もできないので顔は歳をとらない。取りたくても問題の難しさが違うからどうにもならない。
結果的にわからないところはわからないまま終わる。何が問題だったのでしょう、とは一切理解できないままで。
そして発達障害傾向の行動が理解できないという方向の苦労も、普通の人の顔の皺に刻み込まれることでしょう。
そして当事者側は(人間関係が出来ないとわかるまでゴリゴリに脳を活用して押し通すために)普通の人が顔の皺に刻み込まれることが精神に刻み込まれる。
それが発達障害者によく見られる二次障害、うつや適応障害だったり不安障害だったり、
行動障害、強迫症だったり、それらの混合体だったりするのであろうと私は思っている。
だから発達障害者は苦労をしていない訳ではない、苦労が違うところにダメージとして入ってメンタルが耐えきれなくなるのである。
少なくとも顔には入ってないから、顔つきが若い、年をとっていないと言われるのかもしれない。
訓練しようにも相手の気持ちがわからない、空気が読めない、場と時期に応じた柔軟な行動ができない、つまり一切臨機応変さがない。
その状態で人間関係の何を学んだらわかったつもりになるのでしょうか。
人の苦労を察したり、人間関係を調整する能力もないのに、皺に苦労が刻み込まれるようなことはないだろう。苦痛は別な場所に刻まれます。
人間がわからないという苦労は顔の皺に刻み込まれるようなことはないらしい。
誠に遺憾である。