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四国八十八カ所 お遍路日記

お遍路日記・感謝と合掌の遍路道

    平成27年10月9日

      (金) 第1日目 ③ 

大日寺より1.8km。

 第五番・奥之院 五百羅漢

            真言宗御室派

         ご本尊 釈迦如来

          開基 実聞・実名  

  地蔵寺の北側に位置する五百羅漢に参拝する。

            五百羅漢堂

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  羅漢、あるいは阿羅漢と呼ばれるのは仏陀の教えを正しく伝え守る修行僧を云い、人間では最も仏に近い人々のことである。

 地元では「羅漢さん」の名で親しまれている羅漢堂はコの字型で、正面が釈迦如来、その左右に弥勒菩薩と弘法大師を安置した御堂が回廊で結ばれている。

            弥勒堂

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   弥勒堂から回廊に入り、ほぼ等身大で木造の羅漢像を拝顔しながら正面の本堂で釈迦如来に参拝し、また羅漢像を拝顔しながら大師堂で参拝して出る仕組みになっている。

   木造の羅漢像は全国でも珍しく、建物は登録有形文化財に指定されている。

           大師堂

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  安永4年に実聞・実名という兄弟の僧が生涯を通じて諸国を行脚し、それによって得た浄財で堂宇を建立し羅漢像を収めて創建。  

  大正4年の火災で焼失し、大正11年に再建されたのが現在の堂で3度目の復興である。羅漢の大部分は焼失したが、現在200体ほどの羅漢像が鮮やかに彩色されて残っている。

 喜怒哀楽の様々な表情を持つ等身大の羅漢像の表情には、それぞれの個性や生活までが、滲み出ているようで興味深い。

   その中には参詣者と縁のある故人の姿が、必ず見つかるとも言われている。

             地蔵寺を望む

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   参拝を終えて、五百羅漢を背に石段を下り、塀に沿って回り込むと地蔵寺の境内に出る。

 地蔵寺も羅漢さんと呼ばれ親しまれている。

            仁王門

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     第五番 無尽山地蔵寺

          真言宗御室派

   ご本尊 勝軍地蔵像菩薩 

          開基 弘法大師

 地蔵菩薩真言 

     おん かかかび 

         さんまえい そわか

   御詠歌 

     六道の能化の地蔵 大菩薩 

     導き給え この世のちの世

            金剛力士像

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            金剛力士像

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   仁王門を入ると、まず大銀杏に目を奪われる。

    大銀杏・初夏  晩秋

     四国八十八カ所 お遍路日記   四国八十八カ所 お遍路日記

  樹齢800年を超える大木で、秋になると境内は黄金の葉で染まる。大銀杏の先で石畳が交差して、左に進むと手水舎があり、正面奥に本堂が建っている。

            本堂

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  その右手には不動堂と恵比須堂が棟続きで並び、石畳を戻ると手水鉢の向かいに水琴窟が在り、地蔵尊が祀られている。

  大師堂は本堂に向い合わせの位置に在り、大師堂の右に淡島堂がある。山門の正面に庫裏が在り、庫裏の左前には八角堂がある。

            大師堂

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  弘仁12年、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開基、その時、刻まれたのが勝軍地蔵菩薩と云われる。

 その後、宇多天皇の時代に浄缶上人が紀州熊野権現の遷宮導師を務めている時に、権現の霊木で延命地蔵尊を刻み、その胎内に弘法大師作の本尊を収めたと伝えられる。

   最盛期には塔頭26坊と阿波、伊予、讃岐の3か国に末寺300ヶ寺を有する大寺院だったが、天正年間に長曽我部元親の兵火で堂塔を焼失する。 

             鐘楼

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  現在の建造物はその後に再建されたもので、本堂・不動堂・大師堂は登録有形文化財に指定されている。

        水子地蔵尊と八角堂

          

  菩薩は如来に次ぐ高い見地であるが地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば我、菩薩界に戻らじ」との決意でその地位を退し、六道を自らの足で行脚して救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続ける。

  幼い子供が親より先に世を去ると親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川を渡れず賽の河原で鬼のいじめに遭いながら、石の塔婆作りを永遠に続けなければならないと伝えられている。

 地蔵菩薩は賽の河原に率先して足を運んでは鬼から子供を守ってやり、仏法や経文を聞かせて、成仏へ導く逸話は有名である。

  このように地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を、最優先で救済する菩薩であることから、古来より絶大な信仰の対象となった。

            勝軍地蔵菩薩像

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   しかし、この寺の地蔵菩薩は1寸8分、身に甲冑を纏い、右手に錫杖を持ち左手に如意宝珠を載せ、背に後光を負いながら軍馬に跨っており、いかにも勇ましい姿をされている。

   あどけない幼児を失って、悲しみにくれる母親を慰めるような姿ではない。

 「蓮華三昧経」という経典が鎌倉時代に伝わり、武装した菩薩が軍陣に現われて悪業煩悩の軍を剣で切るという思想から戦に勝ち、宿業、兵刀、飢餓を免れるとして源義経を始め多くの武将達の間に信仰された地蔵菩薩という。

             淡島堂

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  淡島堂は万病封じの「へちま加持」で知られる。

  病名を紙に書いて、これを乾いたヘチマの中に封じ込め、「南無淡路大明神」と唱えれば、病気が治ると信じられている。 

   特に女性に効くと言うことで、拝むだけでなく女性にとって大事な髪の毛を切って、淡島堂に供えて願掛けをする人も居るという。

              弘法大師像

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  札所は弘法大師の霊跡であるので、当然であるが境内に大小様々、材質も様々の修行大師像が在る。像様は右手に錫杖を持ち、左手に鉄鉢を持って網代笠を被った遍路姿の大師像である。お顔は凛々しくもあり、慈愛に満ち溢れておられるように見える。

             水琴窟

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   納経を済まして水琴窟の前で耳を澄ますと、ピーンと琴のような澄んだ音色が聞こえる。底に穴をあけた瓶を逆さにして地中に埋めて置き、その穴の上を石で覆う。水を垂らすと一滴一滴が瓶の中に落ち、柔らかな反響音を聞かせてくれるという仕組みのものだ。

   水一滴の命を尊ぶ人々が伝えてきた伝統の音の文化であろう。参拝を済ませた後では美しい音色が一層すがすがしく心に響く。

 遍路道を外れ県道を進み神宅地区に入ると、昭和47年に廃止された国鉄鍛冶屋原線の神宅駅跡の傍に「遍路小屋神宅」がある。この県道12号線は廃線跡が県道12号線に転用されたものです。今も神宅駅の跡地だったことを記す「国鉄神宅駅跡」の記念碑や線路を横断したと思われる「地下道」が残り、当時の面影を残している。

            遍路小屋

            

   大山寺に向かう。

地蔵寺の参道を南へ300m程進み、県道と並んだ撫養街道で右折する。歩き出すとすぐに板野町から上板町に入る。

 山裾に沿って旧道らしい風情がある道が続き、沿道には八坂神社や殿宮神社といった由緒ありそうな神社がある。

 八坂神社を過ぎて小川沿いの道から神宅小学校の前の分岐点に出る。

直進して、地蔵寺から安楽寺に向う旧撫養街道は歩き遍路が多く通る。両札所のちょうど中間、上板町神宅の街道沿いに、こぢんまりした遍路用の「小柿休憩所」がある。

            小柿休憩所

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   小屋を建てたのは、遍路道の整備を通して地域活性化を図る住民グループ「上板町いやしの道づくり実行委ベンチ・サイン部会」。

   徳島県の支援を受けて会員が手作りし、2006年に完成した。県産スギが使われており、木のぬくもりが感じられる小屋だ。 

            上板町・銀杏

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   広さはわずか約7 ㎡。

中に置かれているのは10人程が座れるイスとテーブル、同会が作成した遍路マップなど。

 歩き遍路にとっては腰を下ろす場所があるのは助かるようで、寛ぐ姿が時折みられる。夏には小屋内に小さなテントを張り、野宿にする人もいるという。

   同会は遍路道沿いで、様々な計画を進めてきた。木製ベンチやテーブル、道標などを製作し、これまで15ヶ所にに設置した。

 2008年からは県内のNPO法人と共同で、桜を植樹する取組も始めた。

   遍路が多くなる春に満開の桜でもてなす為である。

            ヘンロ小屋

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 神宅小学校前の別格大山寺と6番安楽寺への分岐点に「ヘンロ小屋47号・神宅」がある。

   小屋の基礎工事は地蔵寺で準備して頂き、平均年齢60代後半の男女10数名が地蔵寺住職の応援を得て2日で完成しました。

    費用削減のため会員の手作りで建設するため、高度な技術を要しない小屋のデザインになりましたと紹介されている。 

   令和2年現在、ヘンロ小屋は53ヶ所建設されているがこれらの遍路小屋の設置を提唱したのは海部町出身の建築家である歌一洋氏で、平成13年より「四国八十八ケ所ヘンロ小屋プロジェクト」として建設を推し進めている。

  「ヘンロ小屋」がある神宅小学校門前で右折し、遍路マークに従い路地を道なりに進む。

  徳島自動車道の高架を潜った先で左から来る道に合流して、川沿い少し上ると川が離れていった先で右に遍路道がある。

            八丁目休憩所

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  飛地蔵堂の横を進み、車道を横断して1km程で再び車道に合流、車道には案山子が寛ぐ、「八丁目休憩所」も建っている。

   更に車道と遍路道を繰り返して、2km程を上っていくと大山寺がある。

             遍路道

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   遍路道からは瀬戸内海、中国、関西地方が一望出来る景勝地で、徳島百景のひとつである。

   大山より西には四国88番大窪寺の背後に聳える女体山や矢筈山が連なり、更に西には別格20番大瀧寺の大滝山、西端近くには四国66番雲辺寺の雲辺寺山が在り、弘法大師ゆかりの霊場が連なっている。

           徳島平野を望む

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 16:40 標高400mの

         大山寺に着く。

地蔵寺より 6.5Km。

   別格一番 仏王山大山寺

           真言宗醍醐派

     ご本尊 千手観音菩薩

           開基 西範僧都

 千手観音菩薩真言

おん ばざら たらま きりく

御詠歌 

 さしもぐさ 頼む誓いは

     大山の松にも法

       花やさくらむ

             仁王門

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   大山寺は香川と徳島の県境を南北に隔てる阿讃山脈の東部に位置する標高691mの大山の中腹に甍を並べ、地元の人達に「おおやまさん」と呼ばれて親しまれ、開運、縁結びの寺としても名高い。

             金剛力士像

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            金剛力士像

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  仁王門の傍に樹齢不詳の大杉がある。

          樹高 28.0m

        目通幹囲 6.2m

      根本周囲 8.24m

 この木は縁結びを祈願して稙えられたと言い伝えられ、たび重なる山火事や台風等の災害から免れた巨樹である。

             門前の大杉

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   仁王門を潜り、竹林の続く長い参道の石段を上りきって山門を潜る。

             竹林の参道

         

              山門

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   広い境内の正面に本堂、右手に大師堂、庫裡が建っている。境内の左手に大きな銀杏の樹が、右手に「力餅の像」がある。

             本堂

          

   寺伝によれると西暦500年頃、西範僧都が開基にしたと伝えられる。

   阿波仏法最初の道場で弘法大師が阿波入国のとき、堂塔を整えられ恵果和尚より授かりし、千手観世音菩薩像を安置して、四国霊場開創の根拠地とされた。

             大師堂

         

   源平の争乱期には源義経が屋島合戦のとき、戦勝祈願をしたと伝えられており、数々の伝承や由来のものが残されている。

             弁慶の大銀杏

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   なかでも目を引くのが、武蔵坊弁慶の手植えと伝わる樹齢800年の「弁慶イチョウ」である。境内を覆うかのように大きな枝を広げており、秋の黄葉の頃は非常に見事だという。

 源義経は屋島合戦の後、三宝荒神像、初音のつづみ、愛馬「薄雪」を戦勝のお礼として寄進し、髪懸堂を建立したという。

              薄雪の像

          

   鎌倉時代には承久の乱後に土佐に流され、後に阿波に移された土御門上皇が元仁元年に参詣し、安貞年間には護摩堂を建立、不動明王像を奉納したと伝わる。

    戦国時代に怪力無双の武将として知られている七条兼仲が、参拝して大力を授かるよう祈願している。

             力餅の像

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  400年の伝統を有する「力餅大会」は、兼仲が祈願成就の鏡餅を奉納したのが起源とされ、三方に載せた巨大な重ね餅を両手で抱え、歩く距離を競う行事で、毎年1月の第3日曜日に催されている。

    大山寺は江戸時代に本堂、庫裡などを火災で焼失し、現在の本堂は火災の数年後に、再建されたもので、堂内には千手観世音菩薩、脇侍の不動明王、毘沙門天が祀られている。

  大師堂は文久3年(1863)に再建されたもので、中央に弘法大師、左右に理源大師、役行者、三宝荒神、愛染明王、歓喜天が安置されている。

             不動明王像

         

   境内には「薄雪の墓」や銅像も立っており、牛馬の守護にご利益があると信仰を集めている。

   そのことに由来するのか、境内に立つ「健二」と云う人の歌碑がある。

              歌碑

         

   売られゆく 牛は気配に 

    聡くして手綱持つ手を 

         舐めて動かず  

 17:30 参拝を終えて遍路道を打戻り、大山寺を3km 程下った処の飛地蔵堂の空地にテントを設営して野営する。ふとしたことで、テントを設営して寝ることは「野宿」でなく、「野営」であると知った。

             飛地蔵堂

           

   私と同じように混同して表現している人もいるが、本来は雨、風、夜露を凌ぐことが出来ない屋外で寝ることが野宿であると云う。

 あらためて私は自分の不明を恥じながら、「お遍路日記」の「野宿」を「野営」と修正した。

       究極の一人用テント

         

   私の遍路は3回目から、宿泊と野営の併用型にしている。今後も元気なうちはこのスタイルで歩き続ける気でいる。

  第1日目の歩行距離

          25.8キロ。

  平成27年10月10日

     (土)第2日目 ①

 6:20 野営地を発ち、

           安楽寺に向かう。

   遍路道を打戻り、徳島自動車道の高架の手前で来た道に入らず直進する。高架を潜った先を右折して、橋を渡って突き当りを右折し、道なりに南下すると県道12号線に突き当たる。

  県道を西にしばらく歩き住宅街を抜けて、県道139号線の交差点で右折すると安楽寺が見えてきた。

       門前の休憩所所

         

 7:20 安楽寺に着く。

   野営地より 3.8km。

     第六番 温泉山安楽寺

          高野山真言宗

        ご本尊 薬師如来

          開基 弘法大師

   御詠歌 

  仮の世に 知行争う 無益なり 

   安楽国の 守護をのぞめよ

薬師如来真言 

 おん ころころ せんだり 

       まとうぎ そわか

            仁王門

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  竜宮門形式の鐘楼門を入ると右に手水鉢が置かれ、左側には回遊式日本庭園が在って、池の奥に多宝塔が建っている。

           金剛力士像

         四国八十八カ所 お遍路日記

           金剛力士像

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  正面奥に本堂が建ち、その右手奥に大師堂、左側に観音堂が建っている。

  屋根が銅板葺きの本堂は、昭和38年に再建された鉄筋コンクーリト造りの立派な建物で、本堂の右手の大師堂は本瓦葺きの木造で本堂とは対照的である。

            境内の風景

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   開基当時は現在地より北西に2km先の、安楽寺谷という処に在り、古くから鉄錆色の天然温泉が湧出て、諸病に効能があると云われていた。

   弘仁6年、この地を42歳の大厄を逃れた弘法大師が巡錫中に、この温泉を見つけ人々を厄難や病気から救う為に薬師如来を刻み、堂宇を建立して温泉山安楽寺と名付けられた。

            本堂

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   天正年間に長曽我部元親の兵火で焼失したが、慶長3年(1598)に阿波初代藩主・蜂須賀家政の庇護を受けて駅路寺として、再興され広く開放された。

  江戸時代に同じく駅路寺だった瑞運寺と合併して現在地に移転した。

            大師堂

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   駅路寺は徳島を中心に五つの街道に設けられ、遍路や旅人に宿を提供すると共に軍事、治安上の取締りなどに役立てたのである。

 駅路寺は6ヶ寺あったようで、「駅路寺文書」が大切に保管されている。

            多宝塔

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   多宝塔の近くに弘法大師の命を救ったと伝えられる「さかさ松の跡」がある。 

 大師が四国を巡錫され、当地に薬師如来の影現を拝して、心に薬師法を修して、国家安穏、諸人快楽を祈られました。

 その折り、病の父親に猪の肝を飲ませようと狩りをしていた青年が、大師を獲物と間違えて弓を放ってしまいました。

 すると1本の松の枝が風もないのにその矢を受け、身代わりとなりました。

            さかさ松の跡

          

   謝る青年に話を聞くと大師は青年の父親を加持し、私利私欲を離れて懺悔せよ、供養の心を起こし、人の為、世の為に自分を惜しむこと無く提供するよう説法されました。  

 不思議、翌朝青年の父親は足腰が立ったのでした。ご利益を受けた一家は労力と資金を惜しみなく投じて本堂を建立しました。

             修行大師像

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 大師は身代わりになった松の枝を青年に逆さまに植えさせ、この松が芽を出し栄えることがあれば末世の者、この地を踏むことによって悪事災難を免れると言い残された。

 後にこの松は芽を出し栄え「6番のさかまつ」と言い伝えられました。

 以来、松を拝むと厄除けに霊験あらたかと云われ、遍路以外にも参拝者が絶えない。しかし、残念ながら今は松は枯れ石碑がある。

            弥勒菩薩像

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  駅路寺時代の名残で、かつては無料で泊まれる「通夜堂」があり、遍路に好評だったが巡礼バスが登場し、周辺にも宿泊施設が整備され、約30年前に取壊された。

   しかし、遍路への粋な計らいで鐘楼門の2階部分を無料の宿場として開放した。広さは約4畳半、大晦日だけ使うという鐘を取り囲むように4人まで寝泊まり出来る。

  鐘楼門はコンクリート造りのため「冷えないように」と、いつの間にか毛布や敷布団用の段ボール等が備えられた。

             慈母観音像

         

  ここで偶然、以前高松で仕事関係でお付き合いあった方にお逢いする。

  この方は車で回っている様子、「歩いて回っているのですか」と聞かれる。

  今まで何度か四国を巡拝したが、道中で知人と遭遇するのは始めてであったせいか、何故かこの方が急に身近な人に思えた。

      西国三十三観音霊場

         

   参拝を終えて、十楽寺に向かう。門前を左に行き、県道139号線に出ると、左に曲がり西に進む。

 県道を200m余り行き、細道に入ると江戸時代の遍路石である「真念のしるべ石」が残されている。

   真念は高知出身の江戸時代前半の僧侶で大阪で活動し、四国を訪れて弘法大師が修行したと伝わる霊場を巡った。

              真念しるべ石

         

   真念は四国を回ること20余回、四国遍路の父とも云われ、 「四國邊路道指南」、「四國偏礼功徳記」など庶民に遍路を紹介する書物を記した。

 また他国の人が地理不案内で佇んでいるのを見て、四国各地に標石200余基を建てたり、遍路宿がなく、難渋しているのを知り遍路宿も建てた。

  標石は昔ながらの遍路道には残っている。  

  高松市牟礼町の洲崎寺に真念の墓がある。洲崎寺は眺海山円通院と号し、大同年間に弘法大師により創建された。本尊である聖観世音菩薩像は大師の作と伝えられている。

  そのまま道なりに西へ進むと阿波市に入り、十楽寺は近い。

  8:00 十楽寺に着く。

   安楽寺より1.2Km。

      第七番 光明山十楽寺

           高野山真言宗

        ご本尊 阿弥陀如

           開基 弘法大師

   御詠歌 

 人間の八苦を早く 離れなば

  到らん方は 九品十楽  

   阿弥陀如来真言 

  おん あみりた 

         ていぜい から うん

            鐘楼門

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   のどかな田園風景が広がる山裾に、十楽寺の山門が見えてきた。背後の山に映える朱色と白の中国風の鐘楼門が印象的だ。鐘楼門を潜ると、前に水子地蔵尊が並んでいる。

           水子地蔵尊

           

   左側の石段を数段上ると、遍照閣の額が掛けられた門がある。この門は上層に愛染堂と護摩堂があり、中門を兼ねる三兼堂門。

         中門(三兼堂門)

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          手水舎

          

   中門の向かいに手水鉢があり、左に奥へ入ると本堂が建っている。

            境内の風景

         

   さらに左へ行くと治眼疾目救歳地蔵尊の小堂があって、その先の石段を上ると大師堂がある。

  境内には波切不動尊が祀られ、休憩用の東屋も建てられている。

            本堂

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   大師がこの地に留錫して、阿弥陀如来を感得したので本尊として刻み、開基したと伝えられる。

  そして人間のもつ八つの苦難(生、老、病、死、愛別離、怨憎会、求不得、五陰盛)を離れ、十の光明に輝く楽しみ(極楽浄土に往生する者が受ける十の快楽)が得られるように、寺号を十楽寺と名付けた。

             大師堂

         

   創建当時は現在地より約3km程離れた十楽寺谷堂ヶ原に在り、大伽藍を誇る大寺院として知られていたが、天正年間に長曽我部元親の兵火で焼失した。

  この時、住職は本尊を背負い、弟子に経本を持たせて逃がしたところ、弟子は途中で負傷して経本を土に埋めて隠し、息絶えたという。経本を埋めた場所は経塚と呼ばれ、今もその跡が残っている。

 その後、寛永年間に現在地に再建され、明治以降にようやく現在の姿になった。本尊は焼失せず創建当時の尊像が現在も安置されている。

   中門の上層には愛染明王が祭られている。

  衆生が仏法を信じない原因の一つに「煩悩・愛欲による浮世のかりそめの楽に心惹かれている」ことにある。愛染明王は、「煩悩と愛欲は人間の本能であり、これを断ずることは出来ない、むしろこの本能そのものを向上心に変換して仏道を歩ませる」という功徳を持っている。

              愛染明王

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   愛染明王は一面六臂で他の明王と同じく忿怒相であり、頭にはどのような苦難にも、挫折しない強さを象徴する獅子の冠をかぶり、叡知を収めた宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に、結跏趺坐(足の表裏を結んで座する)で座るという大変特徴ある姿をしている。

  元来、愛を表現した仏であるため、身色は真紅であり、後背に日輪を背負って表現されることが多い。

  愛染明王信仰はその名が示す通り、「恋愛・縁結び・家庭円満」などを司る仏として古くから行われており、「愛染は藍染」と解釈し、染物・織物職人の守護神として信仰されている。愛欲を否定しないことから遊女、現在では水商売の女性の信仰対象にもなっている。

       治眼疾目救歳地蔵尊

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   また、本堂左手にある治眼疾目救歳地蔵尊は眼病に霊験があると言われ参拝を終えた後、開眼した例があるという。

             地蔵堂

        

   初めての歩き遍路の時、この寺の宿坊に宿泊した。

   夕食の案内があり、食堂にゆくと40畳ほどの和室に、数十名のお遍路さんがいたが 殆どがバスで巡拝のようだった。

 寺の夕食は精進料理ではなく、酒も飲めるのでビールを注文した。

   夕食後、宿泊者全員が本堂で住職と共に1時間ほどの謹行。独特な香りと雰囲気で、いやがうえにも遍路気分が高まった。最後に法話を拝聴し、道中の安全を祈念した。

              不動明王像

        四国八十八カ所 お遍路日記

   数珠の正式な持ち方も教わる。正式には長い数珠の大きい珠の付いたところを右手中指に掛け、半分ひねって反対側を左手の人差し指に掛ける。

  そして、ザッザッザッと3回、両手を擦り合わせて合掌一礼する。  

  部屋は4人相部屋、他の3人は同行者のようで鼾を心配したが、疲れですぐ眠てしまった事を懐かしく思い出した。

            観世音菩薩像

          

  8:25 参拝を終え、熊谷寺に向かう。

  十楽寺前の県道235号線を横断して西に進み、国道313号線と交差して500m程行くと道沿いに「おもてなし公園」が見えてくる。

             全景

         

             実家の碑

         

   令和2年3月、故三木武夫首相の生家が阿波市に寄贈され「おもてなし公園」となり、その一角に「支援する会」への寄付金等で」「ヘンロ小屋・第57号土成」が建設された。

   小屋のコンセプトは名物のたらいうどんと、磨き丸太をを並べた土柱(どちゅう)と言われる。

              ヘンロ小屋

         

            記念碑

         

   入口に三木邸実家の碑、地元高校生デザインの三木さんの記念碑「人信無くば立たず」、ヘンロ小屋、水洗トイレやなどがある。

  暫く進み、熊谷寺の看板があるので右側の細道を入る。徳島自動車道の高架を潜ると大きな仁王門が見えてきた。

   9:25 熊谷寺に着く。

 十楽寺より 4.2Km。

    第八番 普明山熊谷寺

          高野山真言宗

    本尊 千手観世音菩薩

         開基 弘法大師

御詠歌 

  薪とり 水熊谷の 寺に来て

  難行するも 後の世のため

 千手観世音菩薩真言

おん ばざら たらま きりく

     仁王門

        

   あたりには農家が点在し、ひっそりとした山村の風景が展開する。

             金剛力士像

       

   厚な2層の仁王門は桜の季節であれば、その美しさが目に浮かぶような桜並木の参道に建っている。

             金剛力士像

        

   この仁王門は徳島県有形文化財建造物に指定されている。貞亨4年(1687)の建立で、和様と唐様を折衷した建築様式である。

   全体の寸法は、桁行9m、梁間5m、高さ13mで江戸期の山門として四国随一の規模を誇る。

             天女の画

        

   上層広間の東西二本の丸柱には東に昇り竜、西に降り竜を、天井には六体の天女を描き、総て極彩色で壮麗である。

 これらの絵画は建立者・長意和尚の弟子で、龍意の代の宝永3年に補充完成された。長意和尚は熊谷寺中興の祖と云われる当時の住職である。

   山門を潜って50mほど進み県道139号線を横断すると右手に弁天池が、左手には寺務所と駐車場がある。駐車場の先から左手に上がっていくと、参道の左側に多宝塔が建っている。

   真言宗独特の堂宇が

「多宝塔」と言われる。

           多宝塔

        

   二層の仏塔で下層が方形、上層は円形でその上に相輪を載せた屋根を戴き、上層と下層の連結部は饅頭型をしている。

   こうした形式は中国や朝鮮半島にもなく、日本で生まれた独自の建物だと考えられる。

   一般的に内部には、胎蔵界の大日如来を中心に、東に阿閦如来、南に宝生如来、西に無量寿如来、北に不空成就如来と、四方に四仏が祀られている。

             多宝塔軒天井

         

   多宝塔は安永3年(1774)に建立され、高さ20.7mあり四国では最大最古の規模を誇っている。

   屋根を支える垂木がなく、板張りに彫刻が施されているのが特徴で、雲を模った極彩色の渦巻き模様が広がっている。

             石畳の参道

         

   参道を進み、石段を上がると中門に至る。中門には色も鮮やかな広目天と増長天の二天の像が安置されており、他の二天は本堂から中門を通らない迂回路に安置されている。 

  霊場に四天王が祀られているのは、この寺が始めてであるが今後は色々の霊場でお目にかかると思う。

            中門

         四国八十八カ所 お遍路日記

   四天王は帝釈天に仕える4人の仏教守護神である増長天、広目天、多聞天、持国天のことを云う。

  その姿には様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた、唐代の武将風の姿で表されることが多い。

             増長天

         

   増長天は南方を護る守護神として造像されることが多い。仏堂内部では本尊の向かって、左手前に安置されるのが原則である。持物は刀や剣の場合が多い。

  胎蔵界曼荼羅では体色は赤肉色、右手は胸の前で剣を持ち、左手は拳にして腰に置く姿で描かれる。

              広目天

         

   広目天は西方を護る守護神として造像されることが多い。仏堂内部では本尊の向かって、左後方に安置されるのが原則である。

  持物は古くは筆を持ち、巻物に何かを書き留めている姿で表現された。

  しかし、これは主に天平時代のもので平安時代以後は徐々に別の持物を持つようになった。

   胎蔵界曼荼羅では体色は赤色、右手は三鈷杵を持ち、左手は拳にして左腰に置く姿で描かれる。

            多聞天

         四国八十八カ所 お遍路日記

   多聞天は北方を護る守護神として造像されることが多く、毘沙門天とも呼ぶ。

   また四天王の一員としてだけでなく、独尊として信仰の対象となっている。

  四天王の一尊として、造像安置する場合は多聞天、独尊像として造像安置する場合は毘沙門天と呼ぶのが通例である。

  持物は宝塔が一般的で、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。

   例えば密教の両界曼荼羅では甲冑に身を固めて右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれる。

             持国天

         

   持国天は東方を護る守護神として造像されることが多い。仏堂内部では本尊の向かって、右手前に安置されるのが原則である。持物は刀の場合が多い。

   例えば胎蔵界曼荼羅では体色は赤く、右手を拳にして右腰に置き、左手に刀を持つ姿で描かれる。

   中門から石段を上ると右側に手水場があり、正面に本堂が建っている。

  本堂手前の左手に鐘楼塔があり、その先の42段の「男厄除けの石段」を上ると大師堂があり、境内が懐の深い寺である。

             本堂

          四国八十八カ所 お遍路日記

   弘仁6年に弘法大師が、この地の奥にある閼伽ヶ谷という所で修行されているとき、紀州の熊野権現が現われ、5cm余りの観音菩薩の金像を感得された。

  そこで大師は結跏趺坐されて日夜精進し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観音菩薩を刻まれ、仏舎利120粒と共に金像の本尊を胸に納め、堂宇を建立して安置された。

  因みに一刀三礼とは仏像などを彫る態度が敬虔であることを云い、仏像をひと彫りするごとに三度礼拝する意味という。

           千手観世音菩薩

               四国八十八カ所 お遍路日記

   千手観世音菩薩とは、千本の手とその手に目をもつ仏様で、千とは方便が無明であると意味し、延命・減罪・除病を祈り、差し延ばされた手は、永遠の幸福を授けると言われる。

  子生れのお守本尊

             大師堂

         四国八十八カ所 お遍路日記

   天正年間の兵火で多くの寺院が焼失したが、この寺は山中にあったため被害を免れた。

    しかし、昭和2年の火災で本尊千手観音菩薩像と本堂は焼失してしまった。

  現在の本堂と本尊を安置する奥殿は昭和15年に再建され、昭和48年に祀られた千手観世音菩薩(秘仏)を本尊にしている。

             鐘楼塔

         四国八十八カ所 お遍路日記

   霊場には熊野信仰との関連を思わせる札所がいくつかある。この熊谷寺のご詠歌に詠まれた「薪とり」や「水をくむ」に来た人物は、熊野の修験者だろう。

  神仏混交の時代には四国霊場も熊野神社も同じような神仏のおわす処として、人々に信仰されていたのだろう。

           延命龍頭観音像

        

   寺宝の弘法大師像は室町時代の永亨3年(1431)の造像銘を持ち、12番焼山寺の像に次いで県内では2番目に古い。

             修行大師像

         

   参拝を終え、法輪寺に向かう。境内を打戻り、再び仁王門へ。

   この辺は山麓の小高い傾斜地になるので、目の前の仁王門の向うには徳島平野と山並みが見渡せる。

  仁王門を出た先を右に折れ、徳島自動車道の高架を潜り、法輪寺を示す道路標識に従って20分程歩くと、前方の平野のなかに法輪寺らしき、こんもり茂った森が見えてきた。

 10:30 法輪寺に着く。

   熊谷寺より2.4km。

     第九番 正覚山法輪寺

          高野山真言宗

     ご本尊 涅槃釈迦如来

         開基 弘法大師

釈迦如来真言 

 のうまく さんまんだ 

              ぼだなん ばく

御詠歌 

大乗の誹謗も咎も ひるがえし 

      転法輪の 縁とこそきけ

              仁王門

         四国八十八カ所 お遍路日記

   法輪寺は広々とした田んぼの中にポッコリと、孤島のように佇んでいる。

           金剛力士像

         四国八十八カ所 お遍路日記

           金剛力士像

         四国八十八カ所 お遍路日記

   重層の山門を入ると左側に手水場があり、最も奥に本堂が建ち、本堂の右に大師堂が並んで建っている。

   本堂に向かって左側に綺麗な参拝者休憩所、納経所等が建てられ、その休憩所の左手に鐘楼がある。コンパクトなお寺で閑静なことこのうえない。

              境内の風景

         四国八十八カ所 お遍路日記

   弘仁6年、巡錫中の大師が北方山麓の法地ヶ谷で白蛇を見つけ、「 これは御仏の使いである 」 とこの地に寺を開基し、白蛇山法林寺と名付けたという。

             本堂

         

   本尊は弘法大師が刻まれたと伝えられる釈迦如来涅槃像で、四国88ヶ所霊場ではここだけと言われる。

  釈迦は悟りを開かれてから45年余り、主として中インド地方の諸国を巡って説法され、人々の救済に当たっておられたが80歳に至るや涅槃に入ることを自覚し、拘戸那掲羅城外の沙羅双樹の下に床を延べ、最後の教えを説かれたあと横になって、頭を北に顔を西に向け右脇を下にして、涅槃に入られたという。

         釈迦如来涅槃像

             

   それを静かに見守る菩薩や嘆き悲しむ羅漢や大衆の様相を彫刻によって表現したのが、本堂に安置してある本尊の涅槃像である。

  この寝姿は別名「賢者の寝相」とも呼ばれ、安静を保つには最良の形であると云う。 5年に一度開帳される秘仏である。

             大師堂

         

   当時は寺勢も強かったが、天正年間に長曽我部元親の兵火で焼失した。

  土石流の影響もあり、正保年間に現在地に再興され、その時に山号と寺号も改められたが、安政6年に火災で楼門以外を焼失し、現在の堂宇は明治時代に再建された建物である。

           奉納された草鞋

         

   松葉杖なしでは歩けなかった人がこの寺を訪れ、参道の真ん中辺りで足が軽くなって、杖が無くても歩けるようになり、足が完治したという逸話がある。

  そのため本堂には健脚祈願の草鞋が多数奉納されている。私も「健脚祈願」の草鞋を模ったお守りを買って奉納した。

             鐘楼

         

             梵鐘

         

   休憩所で休んでいると地元の方らしい年配の男性が話しかけてきた。

 「どちらから来られましたか」と聞かれ「香川県から」と答えると、「なんだ、香川県か」という顔をされたように思えた。

  地元の方が話しかけてくる最初の言葉は、「どちらから来られましたか」が多い。「北海道から来ました」と答えるのを期待して、「それは遠方からご苦労様」と労いの言葉をかけたいのであろう。

            修行大師像

         四国八十八カ所 お遍路日記

   私の勘違いでなく、四国出身の遍路の共通の印象であると後日分かった。

   そういうことが度重なると私も「北海道から来ました」と答えたいと思うが、お遍路の心得としての十善戒に「不妄語・嘘をつかない」という戒めがあるので嘘もつけない。

 「近くから来ました」と言葉を濁すことにした。

   因みに十善戒はとは次の戒めである。

 1.不殺生 2.不偸盗 

 3.不妄語 4.不邪淫 

 5.不綺語 6.不悪口 

 7.不両舌 8.不慳貪 

 9.不瞋恚 10.不邪見

  悪いことをしない、嘘や悪口を言わない、そして欲や怒りなどの悪い考えを抱かない、「持戒」とは戒めを守ること。

  しかし、我々は「盗まない」というように自分の意志で出来るものがある一方で、守ることが出来ないものもある。

            水子地蔵尊

         

   たとえば、「不殺生」といっても、我々は肉や野菜などの生き物を食べなければいけない。

  このように十善戒といって総てを守ることは、現実的には不可能に近い。

  だから、あまり厳密に考えることなく、遍路の心構えとして少しずつ出来るところから始めていけばよいのではないかと思う。

              立派な休憩所

         四国八十八カ所 お遍路日記

             灯篭

           

   法輪時の参拝を終えて切幡寺に向かう。

のどかな田園風景の中、法輪寺南側から西の方角に回り込むように進む。

  途中には円光寺といった由緒ある寺があり、参道の左側に「番外霊場・小豆洗大師堂」とお堂の傍に泉が湧いている。 

  当地に水がなく、農民が苦労しているのを憐れんだ大師が、小豆の洗い水に加持をして水が得られたという伝説の霊跡である。

             小豆洗大師堂

         

   また、別の伝承もある。

大師は法輪寺を建立されたのち、切幡寺に向かわれましたが日が暮れてしまった為、当地で野宿されることにされました。

  折しも12月の寒い季節でありましたので、身体が温まる小豆粥を焚こうとされましたが、付近に水がありません。
   そこで大師が近くにあった楠の木の根元を杖で突くと、清冽な清水が湧き出したそうです。
  その清水こそが、「小豆洗大師堂」の傍にある泉であると云われます。
   周辺の真言宗の家には、大師が清水を湧出させた12月24日の夜は必ずお粥を焚くという、この伝承に因む習慣が近年まで残っていたそうです
               門前町
         四国八十八カ所 お遍路日記
   そこから県道139号線の合流地点を左折して、更に西の方に進むと切幡寺下の門前町に着く。

   切幡寺はここから500m程の山麓にある。