平成27年10月9日
(金) 第1日目 ③
大日寺より1.8km。
第五番・奥之院 五百羅漢
真言宗御室派
ご本尊 釈迦如来
開基 実聞・実名
地蔵寺の北側に位置する五百羅漢に参拝する。
五百羅漢堂
羅漢、あるいは阿羅漢と呼ばれるのは仏陀の教えを正しく伝え守る修行僧を云い、人間では最も仏に近い人々のことである。
地元では「羅漢さん」の名で親しまれている羅漢堂はコの字型で、正面が釈迦如来、その左右に弥勒菩薩と弘法大師を安置した御堂が回廊で結ばれている。
弥勒堂
弥勒堂から回廊に入り、ほぼ等身大で木造の羅漢像を拝顔しながら正面の本堂で釈迦如来に参拝し、また羅漢像を拝顔しながら大師堂で参拝して出る仕組みになっている。
木造の羅漢像は全国でも珍しく、建物は登録有形文化財に指定されている。
大師堂
安永4年に実聞・実名という兄弟の僧が生涯を通じて諸国を行脚し、それによって得た浄財で堂宇を建立し羅漢像を収めて創建。
大正4年の火災で焼失し、大正11年に再建されたのが現在の堂で3度目の復興である。羅漢の大部分は焼失したが、現在200体ほどの羅漢像が鮮やかに彩色されて残っている。
喜怒哀楽の様々な表情を持つ等身大の羅漢像の表情には、それぞれの個性や生活までが、滲み出ているようで興味深い。
その中には参詣者と縁のある故人の姿が、必ず見つかるとも言われている。
地蔵寺を望む
参拝を終えて、五百羅漢を背に石段を下り、塀に沿って回り込むと地蔵寺の境内に出る。
地蔵寺も羅漢さんと呼ばれ親しまれている。
仁王門
第五番 無尽山地蔵寺
真言宗御室派
ご本尊 勝軍地蔵像菩薩
開基 弘法大師
地蔵菩薩真言
おん かかかび
さんまえい そわか
御詠歌
六道の能化の地蔵 大菩薩
導き給え この世のちの世
金剛力士像
金剛力士像
仁王門を入ると、まず大銀杏に目を奪われる。
大銀杏・初夏 晩秋
樹齢800年を超える大木で、秋になると境内は黄金の葉で染まる。大銀杏の先で石畳が交差して、左に進むと手水舎があり、正面奥に本堂が建っている。
本堂
その右手には不動堂と恵比須堂が棟続きで並び、石畳を戻ると手水鉢の向かいに水琴窟が在り、地蔵尊が祀られている。
大師堂は本堂に向い合わせの位置に在り、大師堂の右に淡島堂がある。山門の正面に庫裏が在り、庫裏の左前には八角堂がある。
大師堂
弘仁12年、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開基、その時、刻まれたのが勝軍地蔵菩薩と云われる。
その後、宇多天皇の時代に浄缶上人が紀州熊野権現の遷宮導師を務めている時に、権現の霊木で延命地蔵尊を刻み、その胎内に弘法大師作の本尊を収めたと伝えられる。
最盛期には塔頭26坊と阿波、伊予、讃岐の3か国に末寺300ヶ寺を有する大寺院だったが、天正年間に長曽我部元親の兵火で堂塔を焼失する。
鐘楼
現在の建造物はその後に再建されたもので、本堂・不動堂・大師堂は登録有形文化財に指定されている。
水子地蔵尊と八角堂
菩薩は如来に次ぐ高い見地であるが地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば我、菩薩界に戻らじ」との決意でその地位を退し、六道を自らの足で行脚して救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続ける。
幼い子供が親より先に世を去ると親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川を渡れず賽の河原で鬼のいじめに遭いながら、石の塔婆作りを永遠に続けなければならないと伝えられている。
地蔵菩薩は賽の河原に率先して足を運んでは鬼から子供を守ってやり、仏法や経文を聞かせて、成仏へ導く逸話は有名である。
このように地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を、最優先で救済する菩薩であることから、古来より絶大な信仰の対象となった。
勝軍地蔵菩薩像
しかし、この寺の地蔵菩薩は1寸8分、身に甲冑を纏い、右手に錫杖を持ち左手に如意宝珠を載せ、背に後光を負いながら軍馬に跨っており、いかにも勇ましい姿をされている。
あどけない幼児を失って、悲しみにくれる母親を慰めるような姿ではない。
「蓮華三昧経」という経典が鎌倉時代に伝わり、武装した菩薩が軍陣に現われて悪業煩悩の軍を剣で切るという思想から戦に勝ち、宿業、兵刀、飢餓を免れるとして源義経を始め多くの武将達の間に信仰された地蔵菩薩という。
淡島堂
淡島堂は万病封じの「へちま加持」で知られる。
病名を紙に書いて、これを乾いたヘチマの中に封じ込め、「南無淡路大明神」と唱えれば、病気が治ると信じられている。
特に女性に効くと言うことで、拝むだけでなく女性にとって大事な髪の毛を切って、淡島堂に供えて願掛けをする人も居るという。
弘法大師像
札所は弘法大師の霊跡であるので、当然であるが境内に大小様々、材質も様々の修行大師像が在る。像様は右手に錫杖を持ち、左手に鉄鉢を持って網代笠を被った遍路姿の大師像である。お顔は凛々しくもあり、慈愛に満ち溢れておられるように見える。
水琴窟
納経を済まして水琴窟の前で耳を澄ますと、ピーンと琴のような澄んだ音色が聞こえる。底に穴をあけた瓶を逆さにして地中に埋めて置き、その穴の上を石で覆う。水を垂らすと一滴一滴が瓶の中に落ち、柔らかな反響音を聞かせてくれるという仕組みのものだ。
水一滴の命を尊ぶ人々が伝えてきた伝統の音の文化であろう。参拝を済ませた後では美しい音色が一層すがすがしく心に響く。
遍路道を外れ県道を進み神宅地区に入ると、昭和47年に廃止された国鉄鍛冶屋原線の神宅駅跡の傍に「遍路小屋神宅」がある。この県道12号線は廃線跡が県道12号線に転用されたものです。今も神宅駅の跡地だったことを記す「国鉄神宅駅跡」の記念碑や線路を横断したと思われる「地下道」が残り、当時の面影を残している。
遍路小屋
大山寺に向かう。
地蔵寺の参道を南へ300m程進み、県道と並んだ撫養街道で右折する。歩き出すとすぐに板野町から上板町に入る。
山裾に沿って旧道らしい風情がある道が続き、沿道には八坂神社や殿宮神社といった由緒ありそうな神社がある。
八坂神社を過ぎて小川沿いの道から神宅小学校の前の分岐点に出る。
直進して、地蔵寺から安楽寺に向う旧撫養街道は歩き遍路が多く通る。両札所のちょうど中間、上板町神宅の街道沿いに、こぢんまりした遍路用の「小柿休憩所」がある。
小柿休憩所
小屋を建てたのは、遍路道の整備を通して地域活性化を図る住民グループ「上板町いやしの道づくり実行委ベンチ・サイン部会」。
徳島県の支援を受けて会員が手作りし、2006年に完成した。県産スギが使われており、木のぬくもりが感じられる小屋だ。
上板町・銀杏
広さはわずか約7 ㎡。
中に置かれているのは10人程が座れるイスとテーブル、同会が作成した遍路マップなど。
歩き遍路にとっては腰を下ろす場所があるのは助かるようで、寛ぐ姿が時折みられる。夏には小屋内に小さなテントを張り、野宿にする人もいるという。
同会は遍路道沿いで、様々な計画を進めてきた。木製ベンチやテーブル、道標などを製作し、これまで15ヶ所にに設置した。
2008年からは県内のNPO法人と共同で、桜を植樹する取組も始めた。
遍路が多くなる春に満開の桜でもてなす為である。
ヘンロ小屋
神宅小学校前の別格大山寺と6番安楽寺への分岐点に「ヘンロ小屋47号・神宅」がある。
小屋の基礎工事は地蔵寺で準備して頂き、平均年齢60代後半の男女10数名が地蔵寺住職の応援を得て2日で完成しました。
費用削減のため会員の手作りで建設するため、高度な技術を要しない小屋のデザインになりましたと紹介されている。
令和2年現在、ヘンロ小屋は53ヶ所建設されているがこれらの遍路小屋の設置を提唱したのは海部町出身の建築家である歌一洋氏で、平成13年より「四国八十八ケ所ヘンロ小屋プロジェクト」として建設を推し進めている。
「ヘンロ小屋」がある神宅小学校門前で右折し、遍路マークに従い路地を道なりに進む。
徳島自動車道の高架を潜った先で左から来る道に合流して、川沿い少し上ると川が離れていった先で右に遍路道がある。
八丁目休憩所
飛地蔵堂の横を進み、車道を横断して1km程で再び車道に合流、車道には案山子が寛ぐ、「八丁目休憩所」も建っている。
更に車道と遍路道を繰り返して、2km程を上っていくと大山寺がある。
遍路道
遍路道からは瀬戸内海、中国、関西地方が一望出来る景勝地で、徳島百景のひとつである。
大山より西には四国88番大窪寺の背後に聳える女体山や矢筈山が連なり、更に西には別格20番大瀧寺の大滝山、西端近くには四国66番雲辺寺の雲辺寺山が在り、弘法大師ゆかりの霊場が連なっている。
徳島平野を望む
16:40 標高400mの
大山寺に着く。
地蔵寺より 6.5Km。
別格一番 仏王山大山寺
真言宗醍醐派
ご本尊 千手観音菩薩
開基 西範僧都
千手観音菩薩真言
おん ばざら たらま きりく
御詠歌
さしもぐさ 頼む誓いは
大山の松にも法の
花やさくらむ
仁王門
大山寺は香川と徳島の県境を南北に隔てる阿讃山脈の東部に位置する標高691mの大山の中腹に甍を並べ、地元の人達に「おおやまさん」と呼ばれて親しまれ、開運、縁結びの寺としても名高い。
金剛力士像
金剛力士像
仁王門の傍に樹齢不詳の大杉がある。
樹高 28.0m
目通幹囲 6.2m
根本周囲 8.24m
この木は縁結びを祈願して稙えられたと言い伝えられ、たび重なる山火事や台風等の災害から免れた巨樹である。
門前の大杉
仁王門を潜り、竹林の続く長い参道の石段を上りきって山門を潜る。
竹林の参道
山門
広い境内の正面に本堂、右手に大師堂、庫裡が建っている。境内の左手に大きな銀杏の樹が、右手に「力餅の像」がある。
本堂
寺伝によれると西暦500年頃、西範僧都が開基にしたと伝えられる。
阿波仏法最初の道場で弘法大師が阿波入国のとき、堂塔を整えられ恵果和尚より授かりし、千手観世音菩薩像を安置して、四国霊場開創の根拠地とされた。
大師堂
源平の争乱期には源義経が屋島合戦のとき、戦勝祈願をしたと伝えられており、数々の伝承や由来のものが残されている。
弁慶の大銀杏
なかでも目を引くのが、武蔵坊弁慶の手植えと伝わる樹齢800年の「弁慶イチョウ」である。境内を覆うかのように大きな枝を広げており、秋の黄葉の頃は非常に見事だという。
源義経は屋島合戦の後、三宝荒神像、初音のつづみ、愛馬「薄雪」を戦勝のお礼として寄進し、髪懸堂を建立したという。
薄雪の像
鎌倉時代には承久の乱後に土佐に流され、後に阿波に移された土御門上皇が元仁元年に参詣し、安貞年間には護摩堂を建立、不動明王像を奉納したと伝わる。
戦国時代に怪力無双の武将として知られている七条兼仲が、参拝して大力を授かるよう祈願している。
力餅の像
400年の伝統を有する「力餅大会」は、兼仲が祈願成就の鏡餅を奉納したのが起源とされ、三方に載せた巨大な重ね餅を両手で抱え、歩く距離を競う行事で、毎年1月の第3日曜日に催されている。
大山寺は江戸時代に本堂、庫裡などを火災で焼失し、現在の本堂は火災の数年後に、再建されたもので、堂内には千手観世音菩薩、脇侍の不動明王、毘沙門天が祀られている。
大師堂は文久3年(1863)に再建されたもので、中央に弘法大師、左右に理源大師、役行者、三宝荒神、愛染明王、歓喜天が安置されている。
不動明王像
境内には「薄雪の墓」や銅像も立っており、牛馬の守護にご利益があると信仰を集めている。
そのことに由来するのか、境内に立つ「健二」と云う人の歌碑がある。
歌碑
売られゆく 牛は気配に
聡くして手綱持つ手を
舐めて動かず
17:30 参拝を終えて遍路道を打戻り、大山寺を3km 程下った処の飛地蔵堂の空地にテントを設営して野営する。ふとしたことで、テントを設営して寝ることは「野宿」でなく、「野営」であると知った。
飛地蔵堂
私と同じように混同して表現している人もいるが、本来は雨、風、夜露を凌ぐことが出来ない屋外で寝ることが野宿であると云う。
あらためて私は自分の不明を恥じながら、「お遍路日記」の「野宿」を「野営」と修正した。
究極の一人用テント
私の遍路は3回目から、宿泊と野営の併用型にしている。今後も元気なうちはこのスタイルで歩き続ける気でいる。
第1日目の歩行距離
25.8キロ。