阿波第1日目 ② 金泉寺~大日寺 | 四国八十八カ所 お遍路日記

四国八十八カ所 お遍路日記

お遍路日記・感謝と合掌の遍路道

       平成27年10月9日

       (金) 第1日目 ② 

11:00 

         金泉寺に着く。

 極楽寺より 2.6Km。

   第三番 亀光山金泉寺

           高野山真言宗

        ご本尊 釈迦如来

           開基 行基菩薩   

釈迦如来真言 

  のうまく さんまんだ

               ぼだ なん ばく

御詠歌 

 極楽の宝の池を 思えただ 

 黄金の泉 澄みたたえたる

            仁王門

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   山門での合掌・礼拝が出来ない裏口から入山は、ちょっと妙な感じなので、狭い境内を山門に回る。

   以後の寺でも、裏から入山する所は幾つかあったが、なかには裏から入るのを禁じている寺もあったがそれが本当だろう。

            金剛力士像

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            金剛力士像

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  重層で朱塗りの山門を入り、極楽橋を渡ると正面に本堂が建ち、その左に護摩堂、手前右手に大師堂が建っている。

   大師堂の右奥には黄金の井戸と閻魔堂がある。

              極楽橋

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  参道の左手に手水鉢・鐘楼・慈母観音像があり、参道右手に朱色も鮮やかな観音堂、その前に修行大師像が立っている。 

            観音堂

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  寺伝によれば聖武天皇の勅願にて、行基菩薩が本尊の釈迦如来像を脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を刻み、堂塔を建立して金光明寺と称せられた。

    板野町大寺という地名が示すように、金光明寺はかなり大きな寺であったと推測される。

  金光明寺跡からは天平様式の蓮華文鐙瓦などが発掘されているので、創建当時の寺の規模やその後、堂塔の建立が幾たびか行われていたことが知られる。

            本堂

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  その後、弘仁年間(810~24)になって弘法大師が巡錫中に、地元の住民が水不足を訴えたので大師が井戸を掘ったたところ霊水が湧き出たため、金光明寺を金泉寺と改め諸堂を整えられたと伝えられる。

           大師堂

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  水は今も湧いて、この水を飲むと長寿になるとか、

井戸に顔が映れば3年は死ぬことはないと云い伝えられている。

             黄金の井戸

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  境内に青銅の倶利迦羅龍王像がある。倶利伽羅龍王は不動明王の化身とされ、火炎に包まれた宝剣にからみつく姿で表される。

 不動明王は仏の守護にして煩悩を除き、身体と心の一切の悩みと願いを成就してくれると言われている。

          倶利迦羅龍王像

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            慈母観音像

       

  阿波の札所には、源義経に纏わる言い伝えが多い。この寺には納経所前の庭園に「弁慶の力石」がある。

   源平の戦いの時、源義経がこの寺で休息していた時、力試しとして弁慶に持ち上げさせた大石である。

            弁慶の力石

         

  海上を見張っていた平家の意表をつき、阿波に上陸して陸路から屋島を攻めた義経は、阿波に様々な伝説や事蹟を残した。

   98代・長慶天皇が崩御された所と伝えられ、本堂の横を奥に進むと多宝塔の前に御陵と云われる大きな墓石もある。

           長慶天皇の御陵

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            鐘楼

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  参拝を終え、愛染院に向かう。山門を出てから右に進み、板野駅への分岐点辺りから短い商店街となる。

           商店街の休憩所

         

  板野町役場の付近は「板野の銀座」と言われ、最初の遍路の時分は道路のレリーフが鮮やかで、田舎にしては活気を感じるたが今は陶板レリーフも無くなり、少し寂しくなっている。

           道路のレリーフ

          

           道路のレリーフ

         

  讃岐の国・引田に抜ける峠、「右大坂越」の道標の横を通り高徳線の踏切を渡って、しばらく行くと岡上神社がある。

            右大坂越の標石

         

  この神社は昔、源義経が勝浦に上陸し、讃岐屋島へ向かう途中、当社に参詣し武運長久を祈願した。

           岡上神社の大楠

         

  境内に大きな楠木が植えられているが徳島県の天然記念物であって、根回り

24.5m、樹高35m、根元から幹が何本かに分かれていて、一本立ちの楠木とは、また違った風情の大木である。

            宝国寺大師堂

         

  宝国寺を過ぎ、しばらく行くと振袖地蔵ある。

  今から約400年前、板西城(板野町)の城主であった赤澤信濃守の娘「カヨ」を、供養する為に建てられたお地蔵さんです。

  天正10年中富川の合戦で、信濃守が討ち死にした時、幼い姫カヨは母親と侍女と共に逃げましたが、母親は自害しカヨと侍女はこの辺りで、土佐方の兵士に切り殺されました。

             振袖地蔵

         

  命の短かったカヨ姫を哀れに思った村人達が、振り袖姿の地蔵さんを祀り、振袖地蔵・カヨ地蔵とも呼ばれ、子供を守るお地蔵さんとして親しまれています。暫く進むとに「四国のみち(四国自然歩道)」の案内板があった。

  今後も至る処でこの類の看板や石柱を何度も見かけるが、「四国のみち」は歩いて景色の優れている自然公園や文化財、名勝等を訪ね、自然と文化に接し併せて、健康の増進に役立てるために作られた。

          四国のみち・終点

         

  四国を一周すると全長は1,600kmで、徳島県の延長は約300km。

 ここ徳島県の起点は鳴門市、終点は板野町、現在地である。

 遍路道が「四国のみち」と重複する処もあるが、そうでない処も当然あるので注意が必要であると紹介されている。

             案内図

          

 板野歴史文化公園を過ぎると、犬伏の集落で右手から徳島自動車道の高架が迫ってくる。高架下を過ぎると遍路道案内の道標に誘導されて遍路道に入る。

            馬酔木と桜

        

  最初の遍路道らしい土道で、木々に覆われていて夏場でも涼しげである。暫く歩き、ちょっとした起伏を超えると第三番札所奥の院・愛染院の手前に出る。

             遍路道

         

 12:00

      愛染院 に着く。

   金泉寺より3.0km。

       第三番・奥の院 愛染院

             高野山真言宗

           ご本尊 不動明王

             開基 弘法大師

  山門には大草鞋が奉納され、腰から下の病に霊験あらたかと云われている。

  弘仁7年、弘法大師がこの地を巡錫された時、この地を霊地と感得され堂宇を建立して、自ら不動明王の座像を刻み安置された。

             山門

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  以来今日に至るまで家内安全、災難魔除、交通安全等に霊験あらたかな寺として広く知られ、土地の人々からは那東の「不動さん」と呼ばれ親しまれている。

             本堂

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  不動明王の座像は珍しく、日本全国に三体しか存在しない。一般的には慧刀と羂索を保持し、一目にして威怒身で猛炎の中、岩盤上に立っている。

  御仏の守護仏であると云われ、私達の煩悩を除ぞき一切の災いを打ち砕いてくれます。

          酉年生れのお守本尊

              大師堂

         

  納経書は四国唯一刷毛書梵字で書かれ、全国でも非常に珍しいものである。

  板西城主・赤澤信濃守も祀られている。

         赤澤信濃守を祀る

         

 愛染院でしばらく、休憩する。

   還暦になったのを機会に、区切りで順打ちを始めたときのことがである。

   ある時、休憩所の東屋で地元の人らしい同年輩の人に「何処から来ましたか」と話しかけられ、色々話していると最後に「結構な身分ですね」と嫌味とも羨望とも思えることを云われた。

   自分自身は物見遊山ではなく、信心と思い家族にも知人にもそう話していた。

           鐘楼

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   しかし、云われてみれば、確かに「結構な身分」かもしれない。宿に泊まりながら何日もかけて歩き回って、経済的にもかなりの出費になる。 四国に在住しているということで、家族に区切りの地点まで送り迎えをしてもらったのも、2度や3度ではない。

   心すべきは常に家族の協力で遍路が出来ていること、接待をしてくれる善意の人々も多いが遍路を歓迎しない人も決して少なくないということだ。

参拝後、大日寺に向かう。

   愛染院から民家の庭先をかすめるような道を進み、小さな橋を渡って進み、県道と交差すると、この地で藍作りに功績があった、犬伏久助を祀る藍染庵と岩田ツヤ子の碑がある。

   久助は栄村下庄に生れ、文政12年(1829)に82歳で天寿を全うするまで、阿波藍の栽培と製造の改良及び子弟の養成に尽力し、大きな功績を残した。

              藍染庵

         

  特に藍の染を図形化することに成功したことは、品質を著しく向上させて、販路を拡大させ、阿波藍の名声を一挙に高めた。

  庵のなかに久助の像が祀られてある。

この像は弟子の役郎が、久助の生前の恩に報いるため自ら刻み、日頃信仰していた当藍染庵に安置し残したものという。

           岩田ツヤ子の碑

         

  岩田ツヤ子については第二次世界大戦中、国の方策に依り、藍作りは食糧増産の為、禁止作物となった。

 藍は一年草の為、毎年種を採り続けないと途絶えてしまう。

 叔父、佐藤十助の依頼を受け、憲兵、警察の目を逃れ、命がけで松谷の山奥で5~6年間種を採り続けた。この努力が実り、戦後いち早く佐藤家で藍作りが復活したという。

  藍染庵の角を畦道に沿って左に入り、緩やかな遍路道を登って自動車道の高架を潜り、小さな峠を越える。山の尾根を掘り切ったように通るこの道。

             古道の遍路道

         

  横には古そうな地蔵尊や石碑も置かれており、昔ながらの古道であることが分かる。それほど長い区間ではないが、初めて遭遇する古道の遍路道だ。 

  峠を越え、果樹園を過ぎて車道に突き当たり、緩やかな登りの車道を100 m程行くとで大日寺の鐘楼門が見えてくる。

12:45 大日寺に着く。

  愛染院より 2.0km。

      第四番 黒巌山大日寺

             東寺真言宗

         ご本尊 大日如来

          開基 弘法大師

   御詠歌

眺むれば 月白妙の 夜半なれや 

    ただ黒谷に 墨染めの袖

大日如来真言

   おん あびらうんけん 

            ばざら だとばん

  山を背にした朱色の鐘楼門、山に囲まれた落ち着いた雰囲気の中に木々の緑に映える朱色のコントラストが美しい。

             鐘楼門

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   重層で上層を鐘楼とした山門は釘を一切使わず、

組み木で建てられ、1階が角柱、2階が丸柱で建てられている。

 角柱は両界曼荼羅でいう 「金剛界」、丸柱は「胎蔵界」を表すという。

 山門を入ると左手の池の先に手水鉢があり、本堂まで敷石の参道が続き、境内の右手に大師堂が建つ。

             本堂

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  弘法大師がこの寺に長く留まって修法されているとき、大日如来を感得したため、その尊像1尺8寸を刻まれ、本像とし寺号を大日寺と名付けられたという。

  祀られている本尊は秘仏となっている為、一般にはお前立ち(代わりの像)を拝観する。

             大師堂

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  大日如来は真言宗の本尊であり、真言宗最高の仏様である。闇の世界から人々を光明の世界へと導く光明遍照の仏で、この世の総てのものを養護されている。

 未・申年生れのお守本尊

   幾度も廃寺と再建を繰り返したが現在の堂宇は、元禄年間に阿波藩主・蜂須賀公により大修理され、蜂須賀家の守り本尊が大日如来であったことから、篤く信仰されたと云われる。

             薬師堂

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  本堂から大師堂へは回廊で結ばれており、そこには西国三十三ヶ所の木造観音像と、青面金剛像、賓頭盧尊者像が安置されている。

         西国三十三観音

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  この木造観音像は明和年間に、大坂の信徒が奉納したとされる。彩色が残る美しい姿である。 

         西国三十三観音

         

   観音様は観世音菩薩、観自在菩薩とも云い、悩み、苦しむ人がその名を唱えると、三十三身に変身して救い下さると云われる。

   賓頭盧尊者は「平癒の仏」とも呼ばれる。

  十六羅漢の第一尊者で、江戸時代から除病の撫仏として有名、右手と左手で三回づつ、やさしく頭を撫でると無病が約束される。

            賓頭盧尊者像

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  赤味は酒を呑み過ぎて、一時お釈迦さんから破門されたが後に修行を高めて、一番弟子になったと云われるが、これは俗説。

 身体が赤味である本当の意味は、生命が充満して生気の血が漲っている様を云い、それは修行が最高にたかまった状態で、その時の強い力を頂いて病気に罹らないというのだ。

 青面金剛を祈ると病魔、悪災、諸難等のいわゆる自分や他人、親類縁者が背負っている悪いことから守ってくれるという。

 中国の道教の神(庚申の本尊)で、我が国へは天台宗・比叡山に伝えられ、室町時代以降に各地で流布するようになった。

             青面金剛像

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  疫病神を取除く厄除の代表で、町や地方の辻に石造の庚申さんが祀られることも多い。身体の一部に魔よけの蛇、ドクロを付ける。

 また、申の縁から見ざる、言わざる、聞かざるの三猿を足下に配置する。

  三 猿は山王日吉神社に住む神の使いという。

 祈願文は「南無青面金剛」を三遍となえる。

 境内で休憩しながら行き来する遍路を見て、遍路の装束について考えてみる。

 お遍路さんの衣装といえば、白装束である。白い地下足袋に手甲・脚絆、白衣に白い笈摺、そして、菅笠に杖。これは冥界へ旅立つ死者の装束、すなわち「死装束」である。

   古来、四国(死国)は死霊の集まる他界であると考えられていた。

 巡礼者はその死後の世界に身を投じ、亡き親族と共に霊場を巡ってはその故人の菩提を弔い、死後の世界で修行を積み、新たな心と体を得て現実の世界に「甦る」のである。

 遍路の装束は遍路をどう捉えるかによって異なる。観光バスの団体遍路は年配者が多く、装束も本格的である。家族連れは、朱印集めと観光を兼ねての参拝か、普段着が多い。若者は行動的なジーンズ姿。

             境内の風景

         

  参拝の手段も歩き、観光バス、マイカー、自転車、バイク、稀に生活道具全部と思える程の荷物を引いたリヤカーの遍路姿も見た。

  年齢も人種も色々、私が逢った歩き遍路の最少は9歳の小学生、最高は81歳の後期高齢者、外国人も多い。驚くことに日本語がほとんど話せない外国人の歩き遍路もいた。

            石仏群

         

  菅笠は上部の4隅に「迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処有南北」の四句が記されている。

  この四句は、「迷うが故に三界に城あり、悟が故に十方空なり、本来、東西なく、いづくにか南北あらん」と読み、この世界の現象はすべて無常で、実体を持たないという、「般若心経・空」の悟りの境地が詠われている。

  雨や日光を遮るだけでなく、本来は葬儀の際に棺桶に書き付ける文句で、遍路が死亡した場合、これを覆って棺桶の代わりとしたと云われる。

            門前の東屋

         

  菅笠には前に弘法大師を表す梵字、後に「同行二人」と書かれている。「同行二人」とは、常に「弘法大師と二人で歩いている」という意味で、手に持つ金剛杖は弘法大師の身代わりの意味がある。つまり、遍路の本質は現実的には「一人で歩く」ことである。

 その後、菅笠の前後を意識せず被り、他の遍路に注意される苦い経験もした。

 参拝を終えて、地蔵寺に向かう。登ってきた車道を戻り、遍路道への分岐点を過ぎて南下する。

 徳島自動車道の高架のところで、県道を外れ田の中の細道を歩いて行くと、地蔵寺奥の院の五百羅漢が右に見えてきた。