阿波 第2日目 ③ 切幡寺~藤井寺 | 四国八十八カ所 お遍路日記

四国八十八カ所 お遍路日記

お遍路日記・感謝と合掌の遍路道

11:50 切幡寺に着く。

   法輪寺より3.8km。

   第十番 得度山切幡寺

       高野山真言宗

 ご本尊 千手観世音菩薩

       開基 弘法大師

  千手観世音菩薩真言 

おん ばざら たらま きりく

御詠歌 

  欲心をただ一筋に 切幡寺 

 後の世までの障りとぞなる

             参道

         

 これまでは別格霊場・

大山寺は別にして、熊谷寺で多少の階段を上がったものの、他のお寺は平坦な処にあったが、ここ切幡寺は切幡山の中腹、155mにあるため山麓から本堂まで800mは急な坂道と石段が続き、金剛杖の有り難さを痛感する札所である。

             仁王門

         

  参道を歩き始めると「お遍路さん!お参りに行く間、荷物をお預かります。お接待ですから、どうぞ」と仏具店から優しい言葉をかけて頂いた。

  有難い「お接待」である。店内に歩き遍路が2名、お茶を頂いている。

   私も好意に甘えて、荷物を預け参拝する。

  以後も土佐の清滝寺、伊予の岩屋寺の直前でも、同じ「お接待」に与った。

             金剛力士像

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             金剛力士像

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   山門を抜けて参道を進むと「是より333段」の石段が始まり、参道脇に石仏群が祀られている。

   99段を上ると経木場があって更に向きを変えて

159段、上部の女厄坂、男厄坂を上りきると広い境内で、右手に手水場、その後に鐘楼がある。

           是より333段

         

            経木場

         

   正面奥に本堂が、右手に大師堂、左手には不動堂が建っている。石段を上ると大塔が在り、本堂と大師堂の間には美しい幡切観音像が建っている。

            女やくよけ坂

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            男やくよけ坂

         

 寺の縁起によると弘仁年間、弘法大師がこの地を訪れた時、僧衣が破れていたので麓の家を訪ねて繕いの布を求めると、若い機織娘が織りかけの白い布を惜しげもなく切って、大師に差し出したという。

            本堂

           

   その好意に感激した大師がお礼に「何か望みはないか」と聞くと娘は「亡き父母の供養の為に観音像を彫って下さい」と頼んだ。

  大師は娘の願いに応えて、一夜で千手観世音菩薩を刻むと娘を得度させ灌頂を授けると、娘の身から七色の光明が放たれ、即身成仏して千手観世音菩薩の姿に変身した。

           大師堂

         

   そこで大師は千手観世音菩薩を本尊として切幡寺を開創し、山号を得度山切幡寺とした。女人成仏の寺として、女性の人気が高い霊場である。

  本尊の千手観世音菩薩像は2体あり、弘法大師作の像を南向きに、この寺の伝説にまつわる女人即身成仏の観音像(秘仏)を、北向きに安置している。

            幡切観音像

         

            銀杏の大木

         

   大塔は説明文によると、

  構 造 形 式・五間二重塔婆

        間口 = 10.0m

         高さ = 24,1m
 切幡寺大塔は慶長12年(1607)徳川家康の勧めに依り、豊臣秀吉の増進菩提のため豊臣秀頼が大坂・住吉大社神宮寺の再興時に、東西二基の塔を建立した塔である。

             大塔

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   明治初頭、神仏分離令により神宮寺が廃寺になった為、当時の住職天祐上人が買い受け、解体移築したが同上人の時代には初重部のみ仕上がり、続いて智堪上人が二重部を仕上げ、完成に10年を要した。

  昭和50年6月には現存する唯一の二重方形塔婆で、移築による改造も少ないことから国の重要文化財に指定された。

            鐘楼

         

            梵鐘

         

   大塔から更に80m程奥に進むと、奥の院・八祖大師堂が在り、真言宗八祖の肖像画が祀られている。

  八祖大師は伝持の八祖と云われ、真言宗が日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師で龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、善無畏三蔵、一行禅師、恵果阿闍梨、弘法大師の8人を云う。

           奥ノ院

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           八祖大師像

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  新聞記事の紹介。

切幡寺も「健脚祈願」で知られている。毎年10月に開かれる「タイムトライアルIN切幡」が名物となっている。

  山門から境内までの石段を駆け上がるタイムを競うもので、高低差約160mの過酷なレースでる。大人から子供まで毎年約150人が参加するという。  

  参拝を終え、眺めのすばらしい境内で休憩する。

  眼下に四国三郎と呼ばれる吉野川がゆったりと流れ、その後方は四国山脈に連なる山々が重なりあって雄大な展望である。

 11番藤井寺はこの山の麓にあり、12番焼山寺はこの山を越えるのである。

       境内から眼下を望む

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  ここ切幡寺下は八十八ヶ所を結願した遍路が霊山寺に打戻るルートのひとつでもある。

  打ち戻るルートは大別すると2ルートある。

 1つは大窪寺から東に進み、国道377号に合流してさぬき市から東かがわ市に入り、五名の集落から国道と分れ南下して進む。

  阿波市に入り、その先で県道2号線に合流して進むと切幡寺下で、霊山寺へ逆に進むルートである。  

 1つは五名の集落から東進して、四国88ヶ所・総奥の院と云われる番外霊場 與田寺、番外霊場 東照寺、東海寺を参拝して、

東かがわ市から大坂峠、卵辰峠経由して霊山寺に戻るルートである。

  このルートのことが念頭になかった私は以前の逆打ちの時に、結願して霊山寺に向かう遍路を逆打ちと勘違いしたことがあった。

 ただ、打ち始めた札所にお礼参りをする決まりはないと云う。

  完全に四国を一周するという意味はあるが、比較的最近の風習である。

  因みに私の場合は霊山寺から高野山に歩く目的で打ち戻った。

       ヘンロ小屋・空海庵

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  参道を下って切幡寺下の門前町を直進して南へ進みと途中に、新しく「ヘンロ小屋45号・空海庵・切幡」が建てられていた。

 小屋は「大師が破れた僧衣の繕いの布を求めると、若い機織娘が織りかけの白い布を惜しげもなく切って差し出した」切幡寺縁起がモチーフとなっている。

  建設資金は建設実行委員会を組織して、浄財寄付を集めて建設された。

  県道12号線の交差点を過ぎて少し進むと、やや賑やかな街並みとなる。

   立派な社殿がある八幡神社の三叉路を右に折れて、工場の駐車場にある「善意の休憩所」を過ぎて、吉野川の堤防に突き当たる。

            善意の休憩所

         

            善意の休憩所

         
  吉野川は延長距離こそ四万十川に及ばないが、四国山脈有数の高峰・瓶ヶ森から湧き出で、伊予、土佐、阿波と三国を潤しながら東進して紀伊水道に注ぐ雄大な流れだ。

  流域面積(雨や雪が流れ込む範囲の広さ)では四国最大の河川である。

   上流には祖谷渓、大歩危、小歩危などの渓谷が在り、上流の肥沃な土砂が下流に押し流されて、名高い阿波藍を生み出している。

  一方、ときには降雨による氾濫は流域に大きな被害を与える。その功罪は様々といえよう。

            中州の案内板

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 吉野川の堤防を越えると善入寺島へ渡る潜水橋が在り、吉野川の中洲である大きな島に入る。

 この善入寺島と呼ばれる中洲は、日本で最大の川の中の無人島である。大正初期の吉野川改修工事が行なわれるまでは、この島には506戸、3,000人が住んでいたという。

  島は見渡すかぎり田畑が広がり、まるで大平原の真っただ中に来たかのような感じで、平原の中を藤井寺へ向かう遍路道が真直ぐに走っている。

        藤井寺へ 5.9km

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  中州を20分程歩き、川島橋と呼ばれる潜水橋を渡って吉野川市川島町に入る。潜水橋は高知県では沈下橋と呼ばれ、四万十川にも多く見られる橋である。

 増水時は水が橋の上を流れ橋が沈んでしまうことから、潜水橋の名前が付けられた。潜水橋は年に何度か増水時に、流木で欄干が破壊されるため始めから設けられていない。

             川島橋

         

             川島城

         

  橋から階段で堤防に上がると右側には遍路休憩所が在り、「一泊に限り、宿泊可。但し、火気厳禁」と表示されて、水道の設備もある。

              堤防の休憩所

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 更に、藤井寺とは方向が違うが吉野川の堤防を下ると粟島の渡し跡と江川湧水源・休憩所がある。

 粟島の渡し跡

鴨島町粟島と吉野川最大の川中島である善入寺島を結ぶ渡しの一つでした。

弘法大師が吉野川を渡る時、ここを通って行かれた由緒ある渡船場です。

   文化元年の記録によると「切幡村より吉野川を渡る本渡しは流れが強く渡し難いので、渡し賃が高い」と記されています。

 遍路は光明庵や篤志家の寄付によって、無銭で渡し船に乗ることができた。

 その後、八幡橋や阿波中央橋、川島潜水橋などが完成し役割を終えました。

    案内板

    

 昭和60年に名水百選に選定された江川の湧水は、夏は冷たく10度前後、冬は暖かく20度以上という異常な水温で、県の天然記念物でもあります。

    江川湧水源・休憩所

    

 ここにも大きな東屋とトイレが併設されて、一泊限り野営が許可されている。

   江川湧水源

  

 休憩所から堤防を下り、遍路マークに従い歩いてJR徳島線の踏切を渡る。

   暫く進むと老婦人に呼び止められ、「米寿まで息災であったことを仏に感謝して、お接待をさせて戴いています」と言われ、記念のタオルとボトル、駄菓子の接待に与かる。

   この老婦人がいつまでも元気で過ごされることを祈念したい。

           鴨島町・菊の花

         

   国道192号線に出て左折し、すぐ先の信号で右折して県道240号線に入る。

   更に2km程先で右折して住宅街を歩くと藤井寺まで1km足らずである。

   県道をそのまま直進して、3km程で鴨島温泉「鴨の湯」がある。

 施設の駐車場には男女別に善根宿が有り、以前お世話になったことがある。

  令和2年7月、新型コロナウイルスの流行により、一時的ではあろうが善根宿が閉鎖されました。

15:20 藤井寺に着く。

   切幡寺より9.3km。

    第十一番 金剛山藤井寺

          臨済宗妙心寺派

         ご本尊 薬師如来

             開基 弘法大師

   薬師如来真言 

おん ころころ せんだり

       まとうぎ そわか

   御詠歌 

色も香も無比中道の藤井寺

真如の波のたたぬ日もなし

           仁王門

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   仁王門を入ると右側に鐘楼があり、傍に「色も香も無比中道の藤井寺・・」と、御詠歌に詠われた美しい藤棚が在り、大師お手植えと伝えられる。

   因みに藤棚は4月下旬~5月上旬が見頃である。今は少し様子が違うが、初めての遍路のときは本当に素晴らしかった。

            藤棚

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  参道は先で右に折れ、石段を上がった左側に手水場、水掛け地蔵、不動堂、白龍弁財天堂が並び、正面奥に本堂が建っている。

  本堂の手前右側に大師堂が建ち、大師堂の裏側に庫裡がある。

             金剛力士

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             金剛力士像

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  弘仁6年、この地を訪れた弘法大師は山に囲まれた渓流の仙境に惹かれ、八畳岩の上に護摩壇を築いて金剛不滅の道場とし、17日間の修行をしたという。

  そして薬師如来を刻み、本像として堂宇を建立したと寺の縁起にあり、寺号はこれに由来する。

             本堂

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  当初、寺は真言密教の道場として栄えたが、天正年間に長曽我部元親の兵火で本尊を除くすべてを焼失し、延宝年間に徳島城下の臨済宗慈光寺の南山国師が再興したのを機に臨済宗に改宗した。

  その後の天保3年の火災で再び焼失し、現在の本堂はその後の建立という。

             大師堂

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  本尊の薬師如来像は天正の兵火は時は谷に転がり落ちて無事であり、天保3年の火災の時は近くの住職によって被害を免れた。

  幾たびの苦難に遭いながらも無事な本像を、人々は「厄除の薬師」として信仰するようになった。

            修行大師像

       

      水子地蔵尊と経木場

        

  本尊は秘仏であり通常は公開されないが、像内の銘文から久安4年、仏師経尋の作と判明している。

  元来、釈迦如来像(像高86.7cm)として造立されたが、いつの時代からか左手に薬壺が載せられ、以降は薬師如来として信仰されてきたという。

   国の重要文化財の正式名称も「木造釈迦如来坐像」である。平安時代の制作年・作者が明らかな四国霊場最古の仏像とされる。

           不動堂

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            鐘楼

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  本堂の天井には畳にして30畳ほどの広さ一面に、迫力ある龍が描かれている。これは本堂を改修した昭和52年に描かれたもので、郷土出身の南画家林雲渓の作であり、大師堂には林正明の描いた美しい障壁画もある。

           本堂の天井絵

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   因みに障壁画とは襖・衝立などに描いた障子絵、床の間・違い棚や長押の上の壁などに貼りつけた壁貼付絵などの総称。

  広義には障屏画と同義に用いられる。

           大師堂の障壁画

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  白龍弁財天堂には8本の手を持つ白龍弁財天が祀られている。

            白龍弁財天堂

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   手に蔵の鍵や弓矢など様々な物を持ち、金運の上昇や武術の上達、芸事の上達などの願いごとを叶えてくれると云われている。 

             白龍弁財天

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  初めての歩き遍路の時は門前の遍路宿に宿泊。

   1人部屋で安心した。

   同宿の7名が一同に会して夕食となったが、同席した30代のご夫婦と言葉は交わさなかったが1年後に区切りで逆打ちをした時、今治の遍路宿で再会するという奇遇になろうとは知るよしもなかつた。

            境内の風景

         

          焼山寺への遍路道

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  藤井寺からは「遍路ころがし」と言われる遍路最大の難所が待っている。

  疲れた遍路が転落して転がされてしまうほどの過酷な難所のことを「遍路ころがし」と言い、焼山寺へは2つの山を越えていく道で88ヶ所の中でも最も厳しい難所と言われている。

  四国霊場には大師の計らいによって、6ヶ所の苦行の場がある。

  ここ焼山寺と20番鶴林寺、21番大龍寺、27番神峰寺、60番横峰寺、66番雲辺寺の各札所が、すれぞれが「遍路ころがし」と言われる険しい山上の寺である。

  結願後に最も印象として残る難所である。

             遍路道

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15:45 参拝を終え、

       藤井寺を出発する。

 本堂の脇に「焼山寺道」と刻まれた標石に健脚5時間、平均6時間、弱足8時間と表示されている。

  遍路道に入ると林の中にミニ88ヶ所が在り、その中を進んで行くと左に弘法大師が護摩を焚いたという八畳岩が、右手には奥の院の大日如来の祠がある。

       奥ノ院・大日如来像

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  この先からの急な登りをしばらく行くと、「遍路ころがし 1/6」の標識が在った。翌日は 2/6~6/6に出会う。最初は距離を表示しているのかと思ったがそうとも違うようだ。

 「遍路ころがし」全行程のなかの「難所」を表示しているようだ。

  やがて茶畑に囲まれた標高225mにある「端山休憩所」に着いた。

  遙か彼方に数時間前に参拝した切幡寺の大塔らしき姿が見える。

            端山休憩所 

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           吉野川市を望む

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16:20 端山休憩所を自然のお宿」として、テン トを設営する。

  藤井寺から1.5km。

   明日は最初に経験する難所、焼山寺への「遍路ころがし」である。

  足が少しづつ痛くなってきたが頑張ろう。

  第二日目の歩行距離は 

          26.2キロ。

     計 52.0キロ。