阿波 第4日目 ① 番外霊場 吉祥院~大日寺・奥の院 建治寺~大日寺 | 四国八十八カ所 お遍路日記

四国八十八カ所 お遍路日記

お遍路日記・感謝と合掌の遍路道

    平成27年10月12日 

          (月) 第4日目

 6:30 「道の駅・湯の里神山」から国道を500m程進み、吉祥院に参拝。

 番外霊場 金剛密寺 吉祥院

             真言宗御室派 

 ご本尊 鍬持大師 般若菩薩

          開基 弘法大師 

御詠歌 

鍬を持ち 衆生を救う 御誓願 

後の世までも 変わることなし

     般若菩薩真言 

  おん じくしりしゅろだ 

     びじゃえい そわか

 平安初期に弘法大師が修行の途中に来錫された時、この地は山に囲まれた大きな湖で、村人達は山の斜面の痩せた土地に田畑を作って暮らしていた。

   そこで大師は村人を集めて山を切り崩し、湖を干拓して豊かな農地を作った。

   その時、吉良山に住居として草庵を結び、般若菩薩を本尊として安置されたのが開基と伝えられるが、

工事終了後に大師がこの地を去ったため廃絶した。

            石柱

         

  平安時代の後期に阿波出身の青蓮大和尚が再建を発願。和尚と親交の深かった白河天皇の第五皇子・聖恵法親王より般若菩薩の尊像を寄進され、吉祥院の院号を賜った。

  しかし、天正年間に長曽我部元親の兵火で堂宇は焼失して再び廃絶。

  以後、伝説の庵となっていたが平成14年に、現住職が京都仁和寺門跡の裕信大和尚を中興開山として勧請し、再建された。

  大師堂に祀られる 「鍬持大師」は身代わり、厄除け、商売繁盛に霊験あらたかで、この地を干拓されたときのお姿を刻んだ日本で唯一の鍬を持った大師の尊像である。

   早朝の為、人影もなく様子が分からず、鍬持大師の確認も出来ず、建治寺(こんじじ)に向かう。 

             本堂 

         

  国道438号線を東の方向に進み、鬼籠野(オロノ)の集落で国道と別れ、県道21号線を大日寺の方向に向かって進む。

   オーロ喜来のバス停から右折して、「県道207号線に進み3.0km程先から、遍路道は県立神山森林公園の方向に登って行く」と事前の調べで分かっていたが、交差点の遍路マークに気付かず、そのまま鮎喰川まで進む。

   広野の集落で遍路道とマークを見つけて念のため、地元の人に確認すると「ここは道が悪いので、天の原から車道を行きなさい」と忠告されたので、忠告どうり車道を上る。

   県道から30分程で建治寺の門前にたどり着いた。

   鮎喰川沿いの県道を離れてからは、一人も遍路を見かけない。今では建治寺に寄る遍路は殆んどいないのだろうか。

11:30  建治寺に着く。

 吉祥院から15.6km。

 十三番奥の院 

   大滝山建治寺

             東寺真言宗

    ご本尊 金剛蔵王大権現 

        開基 役の行者小角

御詠歌 

わが胸に 悩み苦しむ 心をば 

   神の威徳で建て治す寺

金剛蔵王大権現真言 

  おん ばざらくしゃ 

  あらうんじゃ うん

             石柱門

         

             眼下を望む

           

   ここは大日寺の奥の院と称され、天智天皇の治世に役小角が開基したと伝えられている。

   弘仁年間に弘法大師が四国巡錫の際に、当山に登り霊験あらたかなその聖地に感じ入り、修行場所として最適と暫く逗留された。

  その折、金剛蔵王大権現を感得して尊像を刻み、薬師如来と共に安置される。

            本堂

         

   天正13年、蜂須賀家政が阿波藩主として着任後、戦に出陣した際、戦況不利となり苦戦をしいられていたある晩、夢枕に白髪の翁が現われて勝利に導く霊示をされた。

  半信半疑不思議に思いはしたものの、お告げの通り軍を進めたところ大勝を博する結果となり、大いに喜ばれた。

   帰国後、そのお告げは当寺の本尊の化身と悟り、城下に堂を建立し薬師如来と共に持ち帰って城の守り本尊とした。

            大師堂

         

   その後、奇異なことが続き、本尊が帰りたいと望んでいることが分かり、仏師に同じものを造らせ、それを寺に納めたものの依然に奇異なことは続いた。

  ついに手元に置くのを断念し、寺に返却したことから、本尊の金剛蔵王権現が弘法大師作の阿形と、蜂須賀公の彫らせた吽形の阿吽二体が祀られている。 

 その後は阿波藩主蜂須賀公祈願所として栄えた。

            境内

         

           観世音菩薩

         

   大師堂の向かって右手に進むと、「龍門窟(りゅうもんくつ)」と呼ばれる狭い洞窟があり、最奥には不動明王が祀られている。

   奥行は約100m程だが内部は人が1人何とか通れる洞窟で手足をついたり、腹這いになる箇所もあるそうで内部は遠慮する。

             龍門窟

         

             身代瀧不動

         

   参拝を終えて、登って来た一般道でなく遍路道を下り大日寺に向かう。 

  大日寺の奥の院ということなので、本来はこの道が表参道なのだろう。

  石仏が並ぶ遍路道を少し下ると「左道・迂回路(安全)」、直進・鎖坂道(すべり注意)」と書かれたヘンロ標識がある。

   大したことはないだろうと直進したが、山岳霊場に相応しい岩場を鎖を伝って慎重に下った。 

             ヘンロ標識

         

                 鎖場

                

   境内から遍路道を500m程下と滝行場の「建治の滝」がある。金治谷川の沢の最上部に滝で、普段は水量は少なく滝壺もない為、よほどの大雨が続かない限りは迫力ある姿は見られないと云われている。

                建治の滝

              

            石仏

         

  傍の小さな祠に不動明王が祀られていた。少々残念に思いながら、遍路道を下っていく。

 やがて視界が開け、一般道路へと出ると小さな集落には道端に石仏が祀られており、昔の遍路道の名残りを感じることができた。

            不動堂

         

             石仏

         

  遍路道を下り県道に戻って、大日寺に向かう。 この地方は遍路をもてなす風習が篤い所でもあろう。

 初めての遍路の時、この付近でシルバーカーを押している老婦人に呼止められ、「何処かで飴でも買って下さい」と100円のお接待をされ、初めての経験で非常に感動した。

   四国にはお遍路に対して、地元の人々が食物や飲み物、金品、善根宿などを提供する接待と呼ばれる伝統がある。

  遍路は接待にあったら気持ち良く受け、合掌して「南無大師遍照金剛」と3回唱え、持っている納札を渡すのが礼儀であるが、後で「納札」を差し上げなかったことに気が付いた。

  「納札を受け取って頂く」ことは知識として理解していたが、自然に行動出来なかった。この納札を玉にして玄関に吊るしておくと、厄難除けになる信じられている。

 「お接待」の心は接待することによって功徳を積むとか、遍路は弘法大師の化身であるという云い伝えや、自分の代参と思うとか、思いは様々である。

  私も遍路姿をして四国を歩く以上は、その「役割」を果たすことが最低限の責務である。

  十三番札所・大日寺で、このお婆さんの長寿を心から祈念したした。

             おやすみなし亭

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 すぐ先には歩き遍路の為の、「無人接待所・おやすみなし亭」もある。

 地元の主婦 Mさんが路上で休憩する歩き遍路のために休憩所を作りたいと提案したら、建設会社の経営者が小屋を建ててくれた。

  無人の室内には「お遍路さんへ 安心してご賞味ください」と書かれた文が壁に張られ、ポットとインスタントコーヒー、飴や、ミカンが並び、冷蔵庫には冷たい水が入っている。

            内観

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 近くの住民が作った手作りの巾着袋やフクロウの人形、地図や観光パンフレット等も手に入る。

 休憩させて頂き、感謝の気持を込めて納札に「感謝」と記入して残した。

 ここからは大日寺までもう1.8km程、深々と頭を下げて後にした。

11:00 大日寺に着く。

  建冶寺より 4.2km。

    第十三番 大栗山大日寺

          真言宗大覚寺派

  ご本尊 十一面観世音菩薩

           開基 行基菩薩

御詠歌 

阿波の国 一宮とは ゆうだすき 

   かけて頼めや この世後の世

十一面観世音菩薩真言 

  おん まか 

     きゃろにきゃ そわか

 大日寺は通行量が多い県道を挟んで、一宮神社と向い合う形で建っている。

             山門

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   山門を入ると、正面に「しあわせ観音」がある。合掌する手の中に、小さな観音像が入った「しあわせ観音」はその名の通り、幸せを願って祈ると叶うと参詣者の人気を集めている。

            しあわせ観音

         

   しあわせ観音の左に手水場が在り、右に大師堂が建っている。左奥に大師堂と向き合う形で本堂が建ち、その左に地蔵堂がある。

             本

         

   寺伝によれば弘仁6年、

巡錫中の弘法大師が護摩修行中に、紫雲と共に出現した大日如来の霊告を受けて堂宇を建立し、大日如来の姿を刻んで本尊とした。

 寺名もこれに由来すると伝えられている。

            大師

           

  開基当時は現在地より、少し西側の大師ヶ森にあったが、天正年間に長宗我部元親の兵火で焼失、阿波藩4代藩主・蜂須賀光隆によって、現在地に移転して再建された。

            地蔵堂

         

   その後、阿波一宮神社の別当寺となり、江戸時代には一宮寺と呼ばれ栄え、一宮神社が札所とされた。 

   別当寺は本地垂迹説により、神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏習合の時代に、「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて渾然一体となっていた。

            水子地蔵尊

         

   この時代に神社で最も権力があったのは別当で、宮司はその下に置かれた。  

 本地仏とは仏・菩薩が衆生を救う方便として、神の姿で顕われることを垂迹身というのに対して、本源そのままの仏・菩薩の真実身を本地仏という。

   熊野権現の本地仏は阿弥陀如来、春日一宮は不空羂索観音菩薩、鹿島大大明神は十一面観音菩薩というように奈良時代以降、神仏習合の理論的支柱になった。

             鐘楼

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            梵鐘 

        

   しかし、明治初年の神仏分離令により、一宮神社の本地仏だった十一面観世音菩薩がこの寺に移された。

   そのため元々この寺の本尊だった大日如来が脇仏となり、十一面観世音菩薩が本尊となった。

 如来とは悟りを開いた存在、菩薩は悟りを目指して修行中の存在。

  如来の方が格上なので、如来が菩薩の脇侍として従うのは珍しい。

             倶利伽羅龍王

         

   政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、仏教排斥を意図したものではなかったけれど、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動が起こり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。

 神官や国学者が扇動し、檀家制度のもとで寺院に搾取されていたと感じる民衆がこれに加わった。

 しかし、明治5年3月の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し、神仏共同布教体制となった。

            賓頭廬尊者

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   現在の堂宇は明治に入ってから、再建された。

             一宮神社社殿

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           渡れない太鼓橋

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   神社にはよくある太鼓橋ですが一宮神社の太鼓橋は、かなりの急角度でめったに見ない丸さである。

 これは阿波藩主・蜂須賀公が阿波に入国したとき、”国が丸く治まるように”という願いをこめて奉納したものだと言われる。

           狛犬の足に鈴を?

         

             巨大な灯籠

         

   一宮神社に参拝して、常楽寺に向かう。県道を大日寺の角で左に折れ、田畑の中を延びる細い道を進み一宮橋で鮎喰川を渡る。

   橋の北詰で右折して、左に曲がり標識に従い進むと福祉施設の「常楽園」が在り、その先の池を廻ると常楽寺がある。