焼山寺~童学寺へ
おへんろ駅から少し下がって、左の野道に入ると玉ヶ峠(たまがとうげでなく、たまがたお)遍路道である。約2kmで300mを上るのだが、始めは緩やかだが途中からはかなり急になる。
玉ケ峠への遍路
最後は喘ぎながら、林道にたどり着くと僅かな距離で弥勒菩薩堂と小さな庵がある玉ヶ峠に着く。
弥勒菩薩堂
玉ヶ峠を過ぎて、カーブを曲るとアスファルト舗装の下り坂が続く。
歩き遍路は多かれ少なかれ、マメに悩まされる。
私も最初のころは、歩き始めて3日目してマメで足が痛くなった。
特に土道と違い、アスファルトの道を長時間歩くことが、マメの出来易い状況なのであろう。
特に下りのアスファルト道は、靴の中で足が前に滑る感じで指先が先端にぎゅっと詰まって痛くなる。
巡拝が終わると親指と小指の爪の下が内出血でどす黒くなっていた。
マメを治す特効薬はないが、処置方法は人それぞれに云う。
小さいマメでも出来た瞬間に潰してテーピングをして歩くと云う人、逆にマメの中には治し汁が入っているので潰さず、テーピングをして辛抱して歩き、固まるのを待つと云う人。
どちらが正解であるか分らないが、結局は人それぞれ体質が違うので、色々体験して自分に合った方法を見つけることだと思う。
私は両方やってみて、潰さない方法を選択した。
下り坂
林道は山と木々に囲まれているが、やがて見通しのよい所に出ると「ヘンロ小屋36号・神山」が在り、暫く休憩する。
地元住民の寄付で建設され、デザインは飛び立つ鳥のイメージという。
新築されて間がないようで木の香りが残っていた。
ヘンロ小屋
ここからは山里の集落が一望でき、眼下の広大な斜面には数軒の木造家屋が張り付くように建ち、谷底には蛇行して流れる鮎喰川の川面が光輝いて、素晴らしい風景であった。
山里の集落
更に林道を下ると「番外霊場・鏡大師」。弘法大師がここで休憩した際に、傍らの石を撫でると輝きだして、物が映るようになり 「鏡石」 と呼びようになったと言われる。
鏡大師
本名集落で県道20号線に合流して、阿野局の先を右に入って鮎喰川を渡って左折、遍路道を歩く。
駒坂峠から鮎喰川
駒坂峠を越えて木製の細い潜水橋で鮎喰川を渡ると、再度県道に合流する。
細い潜水橋
そのまま鮎喰川に沿った県道を進むと「かかし夢街道」の看板がある。
かかし夢街道
昔懐かしい風景、ワラ縄・ワラ草履・炭を入れる籠編み、遠い昔の記憶が蘇ります。昔の農村の冬の作業で、おそらく神山町おこし事業の一環であろう。
かかし夢街道
黄門様・助さん・格さんの人形も展示されていた。
県道を鮎喰川を右に見ながら約4km歩くと県道は川から離れて、歯ノ辻神社の交差点で左に向かう。
高瀬休憩所
観光案内
長さ641mの新童学寺トンネルの中で石井町に入り、トンネルを出た少し先で左の細道に入り、竹林を下りると小さな池の向こうに童学寺が見えてくる。
山門は遠目には人の顔のように見え、ユーモラスな味わいがある。
焼山寺より19.1Km。
別格二番 東明山童学寺
真言宗善通寺派
ご本尊 薬師如来
開基 行基菩薩
御詠歌
参るなら 三世の悪業
消えはてる 南無や
薬師の瑠璃の光に
薬師如来真言
おん ころころ せんだり
まとうぎ そわか
山門
童学寺のある石井町は奈良時代には、国分尼寺や石井廃寺があった処である。
昭和45年から行われた国分尼寺跡の発掘調査によると、その寺域は160m四方に及ぶことが確認されており、全国的にもスケールが大きく、壮麗なものであったことが偲ばれる。
本堂
童学寺は天武天皇の勅願により、白鳳年間に行基菩薩によって創建されたと伝えられる古刹である。
寺号は弘法大師が幼少のころ、この場所で学問修行に励んだという縁起に由来し、「弘法大師御学問所」と謳われている。
大師は、「いろは歌 四十七文字」を創作したという伝承もあり、「いろは寺」とも呼ばれる。
大師堂
幾つか、大師に因んだ伝承が残され、境内裏手にある「逍逢園」は桃山時代の庭園で入口に「お筆の加持水」という泉がある。
大師が硯の水を求めた場所で、以来一滴の水も絶えることがなく、この水を硯に貯え書道の修練に用いたならば、誰でも筆達者になれると云われ、飲めば諸病平癒に効験あらたかであると語り継がれている。
大師は42歳の時に再びこの地を訪れ、厄除薬師如来、阿弥陀如来、観音菩薩、持国天、毘沙門天等を刻み、堂宇を整えられた。
歓喜天堂
ミニ四国別格二十番霊場
本堂に祀られる薬師如来坐像は平安時代後期の彫刻で、像高64cmの秀麗な寄木造りであり、光背・台座は後に補われている。
11番 藤井寺、日和佐の23番 薬王寺の像と共に、阿波の代表的な薬師如来像とされ、国の重要文化財に指定されている。
他にも藤原時代作とみられる多聞天像、持国天像、聖観音菩薩立像、鎌倉時代作とみられる阿弥陀如来坐像、釈迦如来坐像などの由緒ある仏像がある。
ミニ四国別格二十番霊場
古い歴史を有する童学寺だが、天正年間に長宗我部元親の兵火によって総てを焼失、元禄年間に肥後の僧湛霊比丘の尽力で、再建したと伝えられている。
境内には、ぼけ封じにご利益がある脳天不動明王や七福神も祀られている。
脳天不動尊
七福神
「切支丹灯籠」も在り、石井町指定・有形文化財の説明文が掲示されている。
総高170cm、竿石幅32cm、奥行25cmの四角柱、笠58cm角の花崗岩製の灯籠で竿石の上部が十字に模られ、下部は直接土中に埋められている。
年代は明らかでないが側面の刻字にある武市左馬助は、寛永2年~宝永元年に実在した人物で寛永年間に奉納したと思われる。
切支丹灯籠の特徴として
① 台石が無く竿石が地面
に埋められている
② 竿石の上部に十字型が
ある
③ 正面に記号又は異様な
人像が刻まれている
④ 不思議な伝説や禁忌の
口碑を伴っている
⑤ 時には庚申石として
信仰されている
⑥ 竿石の正面に記号が
あるものがある。
切支丹灯篭
藤棚
残念なことに平成29年3月に火災に遭い、本堂他主要部分が焼失する事態になってしまいました。