阿波 第4日目 ② 常楽寺~井戸寺 | 四国八十八カ所 お遍路日記

四国八十八カ所 お遍路日記

お遍路日記・感謝と合掌の遍路道

平成27年10月12日

      (月) 第4日目 ② 

13:00  常楽寺に着く。

  大日寺より2.3km。

    第十四番 盛寿山常楽寺 

           高野山真言宗

        ご本尊 弥勒菩薩 

          開基 弘法大師  

   弥勒菩薩真言 

おん まい たれいや そわか

 御詠歌 

 常楽の 岸にはいつか到らまし 

   弘誓の船に乗り遅れずば

             石柱門

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   寺には仁王門は無く、石柱門から石橋を渡って石段を上り、境内に足を踏み入れると岩肌がむき出しになった境内に驚かされる。

   風雪に長い年月さらされて、流れる水のような模様が幾筋も刻まれた「流水岩」だ。流水岩は約15m四方に広がり、高さは約50cm、今でも風雨など自然環境によって、形が変化し続けているそうだ。

            流水の庭

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   人間には造出すことが出来ない自然の美しさで、流水岩の庭と呼ばれている。

   参拝者はごつごつして歩き難い岩の上を、足元を確かめながら慎重に進む。

 寺の大きな特徴である。

 四国88ヶ所の札所うち唯一、弥勒菩薩を本尊としているのが常楽寺である。

 京都の広隆寺、滋賀の三井寺の弥勒菩薩像と共に、日本三体の一つに数えられる秘仏である。

               弥勒菩薩

                

 「考えている仏様」といえば、京都・広隆寺の弥勒菩薩を思い浮べる。

   じっと静かに何かを考えている美しい清らかな姿、やや前屈みの顔。右の手を膝の上に置き、指でそっと頬を支え、左の膝に右足を平らに乗せ、左足は台座に下ろしておられる。

 これを半跏思惟と云う。

             本堂

          

 境内の正面に本堂が建ち、その前に「あららぎ大師」、右手に大師堂と庫裡が建って、左手には手水場、鐘楼がある。

  寺伝よると弘仁6年に弘法大師がこの地で修行中に、化身した弥勒菩薩が多くの菩薩を従えて現れ、説法を行ったという。

   そこで大師は弥勒菩薩を霊木に刻み、堂を建て安置したのが開基とされる。

 弥勒菩薩は釈迦の次に仏になる菩薩で、慈しみの菩薩と言われる。

            大師堂

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 その後、大師の甥で、弟子である真然が伽藍を整備したと伝わっている。

 真然は高野山金剛峯寺第2世で大師入定後、同寺の基礎を固め経営を担った。

   中世の頃には阿波守護大名・細川頼春の祈願所となり、寺領も寄進され金堂、講堂、三重塔などが並ぶ大寺として栄えたが、天正年間に長曽我部元親の兵火で焼失する。

  そのため荒廃していたが、万治2年に阿波4代藩主・蜂須賀光隆によって再建された。

 文政元年には灌漑用の貯水池を造る為、近くの山を切崩し岩盤の上に移転した。

              あららぎ大師

               

 本堂に覆い被さるように、枝を広げている常緑針葉樹の櫟(いちい)の大木が寺のもう一つの特徴でもある。

   高さ約20m、幹回り約1.8mで「あららぎの霊木」と呼ばれ、色々な病気に霊験があるとされる。

  大師が病に苦しむ老人に持っていた霊木を削って飲ませたところ、たちまち病が治ったので同じ病に苦しむ人の為にと、残った木を植えたのが根付き、大木になったと云われている。

    この木の枝別れしている処には、小さい大師の石像が祀られ、櫟の木は「あららぎ」とも呼ばれるので、「あららぎ大師」として親しまれている。

             修行大師像 

         

 遍路は出会いの旅であり、何の拘りもなく別れられる旅である。普段は出来ない見ず知らずの人とも心を開き、自然と話し合えるのが遍路だ。

   境内のベンチで休憩していると、同じように休憩していた巨漢の外国人の遍路が片言で話しかけてきた。

   この外国人も日本語が十分分らないようである。

   私も自慢にならないが日本語以外は全く話せない。身振り手振りである。

             観世音菩薩像

         

  国はオランダで私と同じ日に遍路を始めて、野宿でここまで来たようだ。

   見ると大きなリュックと敷物のマットが傍にあり、本格的な登山家のような風情である。

  私が荷物の重さを訊ねると25kgと云う返事と、私のはと聞いてくるのでイレブンと答えた。

 私がこの先にある善根宿を紹介するが「ノー」と答え、寺の後方の山を指差したので、山中で野宿するようである。野宿に拘りをもっているのだろうか。それ以上は勧めず、別れたがその後は一度も逢ってない。

             鐘楼

         

           梵鐘

         

   私の荷物について紹介すると、参拝用品は経本、ろうそく、線香、数珠、納経帳、野営用のテント(一人用・700g)、寝袋(2°対応・950g)、小型のヘッドライト、携帯ラジオ、マットレス、衣類は替ズボン、下着の予備、靴下(5本指と普通を併用)、洗面道具一式、非常用の医薬品、雨具、デジカメ・携帯電話と充電器、免許書と保険書のコピー、地図帳、リュックの自重を含めて10kg余りになる。

  地図帳は遍路道保存協会の「四国遍路ひとり歩き同行二人」がよい。

  殆どの歩き遍路が持っているが、この地図帳には札所間の距離・標高、番外霊場・所縁の霊跡、遍路小屋・トイレの位置、民宿・ホテル・食堂・レストラン、公共施設の位置等が細かく記されている。最後には宿泊施設一覧表があり、非常に便利である。

 但し、気を付けなければいけないのは、地図に載っている店舗も廃業や定休日の札が掛っている処がやたらに多い。自分が住む丸亀の近郊も然りである。

   常楽寺を参拝し、裏にある奥の院・妙雲山慈眼寺に参る。

    高野山真言宗

    本尊 十一面観世音菩薩 

           開基 弘法大師

   本堂には十一面観世音菩薩と脇仏に弁財天、毘沙門天が安置され、本堂の東側に生木地蔵堂がある。

             本

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  生木地蔵については、

昔、越中国高岡の住人で田中喜八と云う人が四国巡拝の時に、当寺の通夜堂で一夜を過ごした。その夜、修行大師がが顕われ「本堂前の桧に地蔵尊を勧請せよ、祈願する者には必ず一願を叶へしめん」との夢告があり、斉戒沐浴して彫刻して安置したのが、この寺の地蔵菩薩である。

 以来、祈願成就する者が跡を絶たない。  

  しかし不幸にして、昭和29年の台風の被害を受け、古桧は裂け倒れたが尊像は、瑕もなく現存し霊験は益々あらたかである。

 当時、跡片付けの際、霊威に触れて熱病に犯された程の霊験高い仏様である。

 因みに「斉戒沐浴」とは、飲食や行動を慎み、水を浴びて心身を清めることである。

            生木地蔵堂

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  慈眼寺の参拝を終えて、国分寺に向かう。車道に出て左に進み、住宅街を遍路マークに従い15分程歩くと国分寺がある。

13:40  国分寺に着く。

     常楽寺より0.8km。

   第十五番 薬王山国分寺

              曹洞宗

        ご本尊 薬師如来

          開基 行基菩薩 

薬師如来真言 

 おん ころころ せんだり 

      まとうぎ そわか

御詠歌 

  薄く濃く わけわけ 色を

  染めぬれば 流転生死の 

      秋のもみじ葉

             山門

         

   薬王山の扁額を掲げた山門を入ると右に手水場が左には地蔵堂、七重塔礎石、鐘楼堂が並び、正面に本堂が建って、大師堂は境内の右手に新築されている。

   本堂右が烏瑟沙摩明王堂で、納経所は境内の右奥に在り、裏に庭園がある。

                石柱

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   国分寺の所在地、国府は古代の律令制で国ごとに置かれた地方行政府の在った処で、付近は地方の中心地として栄え、古くから多くの寺院が建立されてきた。

  天平13年、聖武天皇が鎮護国家実現を為、各国に建立を命じた国分寺・国分尼寺の一つである。

   四国霊場に4つの国分寺が在り、勅命を受けた行基菩薩により建立された。

 当時の規模は寺領二町四方、鎮護国家の祈願所として七重塔や金堂、講堂、南大門などを置く大寺院として知られていた。

   当初は法相宗であったが、弘法大師が弘仁年間に四国霊場の開創のため巡錫された際に、宗派を真言宗に改められた。

            境内      

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   その後、天正年間に長宗我部元親の兵火で、烏芻沙摩明王堂を残して焼失して、長く廃寺となっていたが、寛保元年(1741)に吼山養師和尚が阿波藩の命により再建、その時に宗派も曹洞宗に改められた。

            本堂 

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   現在の本堂は文化・文政年間に再建されたもので、裳階のある重層入母屋造りの建物は、一見すると2階建てにも見え、堂々と聳える様は大寺院だった昔日の面影を伝えている。
  本尊の薬師如来は行基菩薩が彫ったと言われ、堂内には聖武天皇と光明皇后の位牌も祀られている。

             大師堂

         

  本堂右に烏瑟沙摩明王が祀られるお堂がある。

   烏芻沙摩明王は密教の仏で、世の一切の汚れや悪を焼き尽くして、不浄を清浄にする徳を持ち、眼と体の下半身の病に霊験があるとも云われ、特に厠(便所)を守護して下さる。

 烏芻沙摩明王の真言は 

    おんくろだのう うんじゃく

            烏瑟沙摩明王堂

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             地蔵堂

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   境内一帯からは七重塔の心礎と言われる礎石の他、伽藍の回廊跡や陶磁器等が出土し、阿波国分寺跡として史跡に指定されている。

  七重塔の心礎については天平12年、国分寺造営詔勅の前年諸国に七重塔造営が詔されているので、天平年間には建立されていたと思われる。

   心礎は環溝型という珍しい形式で、元の位置は寺の南西側の「塔ノ本」の字名が残る水田の中から出たとも、興禅寺前の田圃とも云われているが確認はされていない。

               七重塔の心礎

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  また寺の背後には徳島市と石井町の境にある標高212mの気延山が在り、寺の 「巨石の庭園」はこの山を借景にしている。

   新聞記事から 

    「巨石の庭園」を紹介  

 本堂周辺を囲む異様な光景に圧倒された。

   ぐいっと、地中から突き出たかのように鋭く伸びた巨石。宇宙から降ってきた隕石のようにどっしりと、居座る大きな岩。

  豪快に「自己主張」する無数の巨石。庭園の枯れ池の周辺に「阿波の青石」の巨石群が立ち並ぶ。

  独創的な庭が脚光を浴びたのは最近の平成12年、県の文化財指定などすっ飛ばして、いきなり国の名勝に指定された。

 本堂西の立石は高さ4.3mもあり、庭石としては国内最大という。落ち着いた日本庭園と異なり、豪快無比な作風。

               撫で仏

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  桃山時代初期の作で誰が造園したのかは不明だが、阿波の国を治め、寺を館とした豪族・三好氏が造らせたとの説がある。

  大きな石は中国の神仙思想で、仙人が住むとされる蓬莱山。鋭く伸びた石は山水画に描かれる遠山。

 庭園中央にある「トンネル状の洞窟石組」は世界遺産にもなった中国の天然の橋「天生橋」とみる。

  作者は中国の文化をよく知り、創造力のある個性的な人だったと推察される。実際に中国に行ったことがあったかも知れない。

           説法石

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 参拝を終え、観音寺に向かう。山門を出て、西側の長い白塀に沿った遍路道を北の方向に進む。東向きに方向転換をして国道192号を横断してから左折して、国道に沿うように北へ向かうと突き当たりに観音寺がある。 

 15:00  観音寺に着く。

  国分寺より 1.8km。

   第十六番 光耀山観音寺

          高野山真言宗

   ご本尊 千手観世音菩薩

          開基 弘法大師 

   千手観世音菩薩真言

おん ばざら たらま きりく 

   御詠歌

忘れずも 導き給え 観音寺 

西方世界 弥陀の浄土へ

            鐘楼門

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   観音寺は県道沿いにあり、商店、民家が軒を並べる古い街並みに溶け込むように建ってい。鐘楼門の両側には、石柱が塀代わりに長く並んでいる。

  大正時代の石柱もあり、当時の寄進額も「金三百円」、「金三十円」と様々である。

  山門を入ると左手に手水場が在り、右に夜鳴き地蔵が祀られている。

   奥行のない境内の正面に新しい本堂が建ち、本堂右手に大師堂、右手奥に八幡大神宮と総社大御神を合祀した社が建っている。

               本堂

         

  本堂前に水子地蔵、仏足石、修行大師像がある。

納経所は左右に短く伸びた境内左奥にある。

   町中ゆえ、とにかく狭い印象であるが、町に溶け込んだ親しみやすい雰囲気を持つ寺である。

             大師堂

         四国八十八カ所 お遍路日記

   天平13年、聖武天皇の勅願道場として建立され、その後、弘法大師がここを訪れた時に、千手観世音菩薩を刻んで本尊とし、更に鎮護国家のために毘沙門天と、悪魔降伏の意を込めて不動明王を刻んで、脇仏として祀られた。

   本尊の千手観世音菩薩は等身大の秘仏の為に拝観することは出来ない。

             庚申堂

         

   天正年間に長宗我部元親の兵火で総てを焼失して、長く衰退していたが万治2年に、宥応法師が阿波藩主・蜂須賀公の支援を受けて再興した。  

  お釈迦様の左足跡「仏足石」が目を引く。5世紀のインド・ダプタ朝時代の最も古い仏足石の模型だ。

                  仏足石

                四国八十八カ所 お遍路日記

   釈迦の入滅後、現在のような仏像礼拝をするようになる以前は信者はその足跡を彫り付け、礼拝していた。仏足石を合掌した手で、治して欲しい身体の一部を触れれば所願成就すると云われる。

              夜泣き地蔵

         四国八十八カ所 お遍路日記

   境内にある夜泣き地蔵は夜泣きに霊験あらたかと言われて、子供の夜泣きに悩む親や、不眠に悩むお年寄りが拝んで行くという。

   本堂は閉ざされて見えないが、内陣に火に包まれた女人像の絵がある。この絵は淡路島の宮崎某女が奉納したのである。

 明治時代のこと、四国霊場巡りをしていた彼女がこの寺を訪れ、雨に降られたため茶堂で休み、焚き火で白衣を乾かしていた。

              水子地蔵尊

         四国八十八カ所 お遍路日記

  すると白衣に焚き火が燃え移り、大火傷をした。辛うじて一命を取り留めた彼女は若い頃、姑との仲が悪く、姑を柱に縛り付け、燃えている薪で折檻したことを告白した。

 そこで大師から、その戒めを受けたと反省した彼女がこの絵を奉納した。

   根は純情だったのだ。巡礼の旅は普段は心の奥に潜んでいるものが、見えてくる自己発見の旅でもある。

           修行大師像

         四国八十八カ所 お遍路日記
  参拝を終え、井戸寺に向かう。
山門を出て、左に曲がり観音寺の街並みを東に歩いて、「府中の宮」と親しまれている大御和神社の角を左折して、直進すると国道192号線へ出る。

  左折して100m程行くと以前、お世話になった善根宿がある。車庫の2階に6帖間が2部屋があり、浴室も使わして戴いた。

   残念ながら、

      令和2年現在閉鎖。 

  今日は民宿に宿泊するため、国道を横断する。

  JR徳島線・府中(こう)駅の先を左折し、踏切を渡って田畑と民家が点在する風景を20分程歩く。

 16:10 井戸寺に着く。

   観音寺より2 .8km。  

 第十七番 瑠璃山井戸寺 

         真言宗善通寺派

     ご本尊 七仏薬師如来 

        開基 天武天皇勅願  

   薬師如来真言 

おん ころころ せんだり 

      まとうぎ そわか

   御詠歌 

面影を映してみれば 井戸の水

 結べば胸の垢や落ちなん

             仁王門

         

   仁王門には驚かされる。

山門というより武家屋敷の長屋門といった様子で屋根の幅や間口が広く、鮮やかな朱色の門が堂々とした佇まいを見せている。

  阿波10代藩主・蜂須賀重喜の大谷別邸から、寄進され移築されたという。

            金剛力士像

         四国八十八カ所 お遍路日記 

            金剛力士像

         四国八十八カ所 お遍路日記

   仁王門を入ると、左に手水場があり、正面に本堂が建っている。本堂の右側に光明殿と大師堂が並んで建ち、左には日限大師堂とその中に面影の井戸がある。

 手前に白亜の六角堂、左奥に鐘楼がある。

             境内の風景

         四国八十八カ所 お遍路日記

   井戸寺は天武天皇の勅願道場として白鳳2年(674)に開基され、その頃は妙照寺と呼ばれ、八町四方の広大な境内と12坊を有する巨刹だったという。

 本像は全国でも珍しい七仏薬師如来の坐像で七難即滅、七福即生、厄除け開運などに霊験あらたかと云われている。

「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」に説かれる善名弥吉祥王如来、宝月智厳光音自在王如来、金色宝光妙行成就如来、無量最勝吉祥如来、法海雷音如来、法海勝慧遊戯神通如来、薬師如来)という七尊の仏で、「七仏薬師」と呼ばれる。

   七仏像は聖徳太子、脇侍の日光・月光の菩薩像は行基菩薩作と伝えられる。

             本堂

         四国八十八カ所 お遍路日記 

   弘仁6年、弘法大師はこの地に巡錫された際に、水不足に苦しむこの地の住民を哀れみ、錫杖で井戸を掘られた。すると清水がこんこんと湧き出したという。

 以来、この寺の寺号は井戸寺となった。そして大師は寺に留まり、本像を拝して修行され、十一面観世音立像を刻まれて安置されたと伝わる

               大師堂

         四国八十八カ所 お遍路日記

 この十一面観世音立像、普段は六角堂に安置されていて、拝観出来ないが座高192 c m 、榧の一本造り、平安時代初期の作で国の重要文化財である。

 右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶を持つ姿は珍しく、奈良・長谷寺の観音像と同じ形式である。

             日限大師堂

         

   大師ゆかりの井戸は境内の「日限大師堂」の中にあって、その水面に自分の顔が映れば、願いが叶うと言われている。

             面影の井戸

         

 このお堂の大師像は、井戸の水に映ったご自分の姿を大師自ら刻んだとされる霊像で三日、七日と期限を決めて参拝し続けると願いが成就するという。

   また覗き込んで水面に自分の姿が映れば無病息災、映らないと3年以内に変事があるとの言い伝えが金泉寺と同様ここにもある。

             光明殿 

         

             六角堂

         

  貞冶元年に細川頼之の戦火の影響で焼失する。

  その後、再建されたが天正年間に、長宗我部元親の兵火で再び焼け落ちた。

 万冶4年に阿波藩主・蜂須賀公によって本堂が建立されたが昭和43年に本堂を残して焼失、昭和46年に再建されている。

              水子地蔵尊

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             鐘楼

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   令和2年7月時点、新型コロナウイルスの流行により、一時的ではあろうが通夜堂が閉鎖された。

16:20 門前の遍路宿 に入る。今日は歩いた距離は少ないが、札所が多く時間がかかった。 

  遍路が宿泊する施設は民宿、旅館、ビジネスホテルと色々あるが、遍路を対象とした民宿を利用する者が多いと思う。

  民宿は料金は安く家族的な雰囲気は良 いが、設備も古く、仕切りは襖一枚、風呂は順番制、トイレは和風で共同、部屋の施錠も出来ない処が多い。場所によってはそういう古い民宿しかない所もある。  

  宿を提供する方も殆んどが遍路相手の商売で経営的にも採算が取れないという。宿泊客が私1人か、他に一名の時も何度か経験した。後継者も無く 「自分の代限り」と云女将さんが多く、だんだんと消滅していくのだろうか。

  ただ、民宿のなかには協力関係のネットワークを結んでいる所がある。歩き遍路に対する細やかな、心遣いの行き届いた宿が多く、次の札所の優良宿の情報提供をしてくれる。

  情報どうり、その宿を利用すると間違いなく殆んどが良い宿であった。紹介する方も紹介された方も、お互いに喜んで貰えるよう接客に努めるのだろう。

  殆んどの民宿には有料の洗濯機と乾燥機があるが、洗濯の御接待に与かり、感謝の一日であった。

   第4日目の歩行距離

            27.5キロ

        計 104.0キロ