平成27年10月10日
(土)第2日目 ①
6:20 野営地を発ち、
安楽寺に向かう。
遍路道を打戻り、徳島自動車道の高架の手前で来た道に入らず直進する。高架を潜った先を右折して、橋を渡って突き当りを右折し、道なりに南下すると県道12号線に突き当たる。
県道を西にしばらく歩き住宅街を抜けて、県道139号線の交差点で右折すると安楽寺が見えてきた。
門前の休憩所所
7:20 安楽寺に着く。
野営地より 3.8km。
第六番 温泉山安楽寺
高野山真言宗
ご本尊 薬師如来
開基 弘法大師
御詠歌
仮の世に 知行争う 無益なり
安楽国の 守護をのぞめよ
薬師如来真言
おん ころころ せんだり
まとうぎ そわか
仁王門
竜宮門形式の鐘楼門を入ると右に手水鉢が置かれ、左側には回遊式日本庭園が在って、池の奥に多宝塔が建っている。
金剛力士像
金剛力士像
正面奥に本堂が建ち、その右手奥に大師堂、左側に観音堂が建っている。
屋根が銅板葺きの本堂は、昭和38年に再建された鉄筋コンクーリト造りの立派な建物で、本堂の右手の大師堂は本瓦葺きの木造で本堂とは対照的である。
境内の風景
開基当時は現在地より北西に2km先の、安楽寺谷という処に在り、古くから鉄錆色の天然温泉が湧出て、諸病に効能があると云われていた。
弘仁6年、この地を42歳の大厄を逃れた弘法大師が巡錫中に、この温泉を見つけ人々を厄難や病気から救う為に薬師如来を刻み、堂宇を建立して温泉山安楽寺と名付けられた。
本堂
天正年間に長曽我部元親の兵火で焼失したが、慶長3年(1598)に阿波初代藩主・蜂須賀家政の庇護を受けて駅路寺として、再興され広く開放された。
江戸時代に同じく駅路寺だった瑞運寺と合併して現在地に移転した。
大師堂
駅路寺は徳島を中心に五つの街道に設けられ、遍路や旅人に宿を提供すると共に軍事、治安上の取締りなどに役立てたのである。
駅路寺は6ヶ寺あったようで、「駅路寺文書」が大切に保管されている。
多宝塔
多宝塔の近くに弘法大師の命を救ったと伝えられる「さかさ松の跡」がある。
大師が四国を巡錫され、当地に薬師如来の影現を拝して、心に薬師法を修して、国家安穏、諸人快楽を祈られました。
その折り、病の父親に猪の肝を飲ませようと狩りをしていた青年が、大師を獲物と間違えて弓を放ってしまいました。
すると1本の松の枝が風もないのにその矢を受け、身代わりとなりました。
さかさ松の跡
謝る青年に話を聞くと大師は青年の父親を加持し、私利私欲を離れて懺悔せよ、供養の心を起こし、人の為、世の為に自分を惜しむこと無く提供するよう説法されました。
不思議、翌朝青年の父親は足腰が立ったのでした。ご利益を受けた一家は労力と資金を惜しみなく投じて本堂を建立しました。
修行大師像
大師は身代わりになった松の枝を青年に逆さまに植えさせ、この松が芽を出し栄えることがあれば末世の者、この地を踏むことによって悪事災難を免れると言い残された。
後にこの松は芽を出し栄え「6番のさかまつ」と言い伝えられました。
以来、松を拝むと厄除けに霊験あらたかと云われ、遍路以外にも参拝者が絶えない。しかし、残念ながら今は松は枯れ石碑がある。
弥勒菩薩像
駅路寺時代の名残で、かつては無料で泊まれる「通夜堂」があり、遍路に好評だったが巡礼バスが登場し、周辺にも宿泊施設が整備され、約30年前に取壊された。
しかし、遍路への粋な計らいで鐘楼門の2階部分を無料の宿場として開放した。広さは約4畳半、大晦日だけ使うという鐘を取り囲むように4人まで寝泊まり出来る。
鐘楼門はコンクリート造りのため「冷えないように」と、いつの間にか毛布や敷布団用の段ボール等が備えられた。
慈母観音像
ここで偶然、以前高松で仕事関係でお付き合いあった方にお逢いする。
この方は車で回っている様子、「歩いて回っているのですか」と聞かれる。
今まで何度か四国を巡拝したが、道中で知人と遭遇するのは始めてであったせいか、何故かこの方が急に身近な人に思えた。
西国三十三観音霊場
参拝を終えて、十楽寺に向かう。門前を左に行き、県道139号線に出ると、左に曲がり西に進む。
県道を200m余り行き、細道に入ると江戸時代の遍路石である「真念のしるべ石」が残されている。
真念は高知出身の江戸時代前半の僧侶で大阪で活動し、四国を訪れて弘法大師が修行したと伝わる霊場を巡った。
真念しるべ石
真念は四国を回ること20余回、四国遍路の父とも云われ、 「四國邊路道指南」、「四國偏礼功徳記」など庶民に遍路を紹介する書物を記した。
また他国の人が地理不案内で佇んでいるのを見て、四国各地に標石200余基を建てたり、遍路宿がなく、難渋しているのを知り遍路宿も建てた。
標石は昔ながらの遍路道には残っている。
高松市牟礼町の洲崎寺に真念の墓がある。洲崎寺は眺海山円通院と号し、大同年間に弘法大師により創建された。本尊である聖観世音菩薩像は大師の作と伝えられている。
そのまま道なりに西へ進むと阿波市に入り、十楽寺は近い。
8:00 十楽寺に着く。
安楽寺より1.2Km。
第七番 光明山十楽寺
高野山真言宗
ご本尊 阿弥陀如来
開基 弘法大師
御詠歌
人間の八苦を早く 離れなば
到らん方は 九品十楽
阿弥陀如来真言
おん あみりた
ていぜい から うん
鐘楼門
のどかな田園風景が広がる山裾に、十楽寺の山門が見えてきた。背後の山に映える朱色と白の中国風の鐘楼門が印象的だ。鐘楼門を潜ると、前に水子地蔵尊が並んでいる。
水子地蔵尊
左側の石段を数段上ると、遍照閣の額が掛けられた門がある。この門は上層に愛染堂と護摩堂があり、中門を兼ねる三兼堂門。
中門(三兼堂門)
手水舎
中門の向かいに手水鉢があり、左に奥へ入ると本堂が建っている。
境内の風景
さらに左へ行くと治眼疾目救歳地蔵尊の小堂があって、その先の石段を上ると大師堂がある。
そして人間のもつ八つの苦難(生、老、病、死、愛別離、怨憎会、求不得、五陰盛)を離れ、十の光明に輝く楽しみ(極楽浄土に往生する者が受ける十の快楽)が得られるように、寺号を十楽寺と名付けた。
大師堂
創建当時は現在地より約3km程離れた十楽寺谷堂ヶ原に在り、大伽藍を誇る大寺院として知られていたが、天正年間に長曽我部元親の兵火で焼失した。
この時、住職は本尊を背負い、弟子に経本を持たせて逃がしたところ、弟子は途中で負傷して経本を土に埋めて隠し、息絶えたという。経本を埋めた場所は経塚と呼ばれ、今もその跡が残っている。
その後、寛永年間に現在地に再建され、明治以降にようやく現在の姿になった。本尊は焼失せず創建当時の尊像が現在も安置されている。
中門の上層には愛染明王が祭られている。
衆生が仏法を信じない原因の一つに「煩悩・愛欲による浮世のかりそめの楽に心惹かれている」ことにある。愛染明王は、「煩悩と愛欲は人間の本能であり、これを断ずることは出来ない、むしろこの本能そのものを向上心に変換して仏道を歩ませる」という功徳を持っている。
愛染明王
愛染明王は一面六臂で他の明王と同じく忿怒相であり、頭にはどのような苦難にも、挫折しない強さを象徴する獅子の冠をかぶり、叡知を収めた宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に、結跏趺坐(足の表裏を結んで座する)で座るという大変特徴ある姿をしている。
元来、愛を表現した仏であるため、身色は真紅であり、後背に日輪を背負って表現されることが多い。
愛染明王信仰はその名が示す通り、「恋愛・縁結び・家庭円満」などを司る仏として古くから行われており、「愛染は藍染」と解釈し、染物・織物職人の守護神として信仰されている。愛欲を否定しないことから遊女、現在では水商売の女性の信仰対象にもなっている。
治眼疾目救歳地蔵尊
また、本堂左手にある治眼疾目救歳地蔵尊は眼病に霊験があると言われ参拝を終えた後、開眼した例があるという。
地蔵堂
初めての歩き遍路の時、この寺の宿坊に宿泊した。
夕食の案内があり、食堂にゆくと40畳ほどの和室に、数十名のお遍路さんがいたが 殆どがバスで巡拝のようだった。
寺の夕食は精進料理ではなく、酒も飲めるのでビールを注文した。
夕食後、宿泊者全員が本堂で住職と共に1時間ほどの謹行。独特な香りと雰囲気で、いやがうえにも遍路気分が高まった。最後に法話を拝聴し、道中の安全を祈念した。
不動明王像
数珠の正式な持ち方も教わる。正式には長い数珠の大きい珠の付いたところを右手中指に掛け、半分ひねって反対側を左手の人差し指に掛ける。
そして、ザッザッザッと3回、両手を擦り合わせて合掌一礼する。
部屋は4人相部屋、他の3人は同行者のようで鼾を心配したが、疲れですぐ眠てしまった事を懐かしく思い出した。
観世音菩薩像
8:25 参拝を終え、熊谷寺に向かう。
十楽寺前の県道235号線を横断して西に進み、国道313号線と交差して500m程行くと道沿いに「おもてなし公園」が見えてくる。
全景
実家の碑
令和2年3月、故三木武夫首相の生家が阿波市に寄贈され「おもてなし公園」となり、その一角に「支援する会」への寄付金等で」「ヘンロ小屋・第57号土成」が建設された。
小屋のコンセプトは名物のたらいうどんと、磨き丸太をを並べた土柱(どちゅう)と言われる。
ヘンロ小屋
記念碑
入口に三木邸実家の碑、地元高校生デザインの三木さんの記念碑「人信無くば立たず」、ヘンロ小屋、水洗トイレやなどがある。
暫く進み、熊谷寺の看板があるので右側の細道を入る。徳島自動車道の高架を潜ると大きな仁王門が見えてきた。