観なければと思っていた映画は2012年に公開されていた。

 朝鮮で植林事業の推進と白磁の美術価値を発掘した日本人、浅川巧を主人公にした高橋伴明監督の『道――白磁の人』である。

 浅川巧は山梨県出身であり、兄の伯教は朝鮮磁器の研究で知られている。

 巧が朝鮮に行った頃は、日韓併合後でそのころの統治の仕方が、いまも様々な歴史問題となり、日韓の現在に影を落としている。

 その背景の中で、巧は朝鮮にわたり、総督府に所属する林業試験所で働き始める。

 帝国陸軍の軍人の横暴と巧の母の朝鮮人蔑視が、支配者日本を表現し、対極に巧を置いて脚本は考えられたようである。

 巧は林業試験所で働く若き朝鮮人と親しくなり、彼から朝鮮語を学ぶとともに、林業試験にともに精進する。 

 浅川巧は兄伯教や柳宗悦らと朝鮮民族美術館の建設を志したり、『朝鮮の膳』『朝鮮陶器名考』など彼の視点で朝鮮の文化を日本に紹介したりして、朝鮮と日本の関係改善を、本人のできる範囲内でする。

 さらに、朝鮮の風土に合わせた土で植林事業を推進できるようにする。

 巧は山梨の友人の姉と結婚し、白磁のかけらを妻に贈る。娘が誕生するが、妻は死ぬ。

 印象的だったのは、巧の母は朝鮮人の葬列を、「あんなに泣いてはしたない」と言っていたのが、巧の葬列のとき、その葬列から離れ、人家の片隅で大声で泣き出す場面である。


 わたしは、サブタイトル「白磁の人」と言った割には、白磁の収集程度しか映像化していなかったのは残念であった。

 巧は、官窯跡を訪ねたり、柳や友人を白磁の故郷に案内したりと調査をしている。これは映像化してもらいたかった。

 また、敗戦直後の朝鮮で日本人が朝鮮人に集団で襲われる中、巧の家だけは大丈夫だったことまで映像化していたが、わたしはこれは蛇足であると思った。

 韓国文化院の周囲は警察に警備されていた。

 文かと人間でつながることの困難を改めて感じている。

 

 午後から外出する。

 地下鉄丸ノ内線四谷三丁目で友人と待ち合わせしている。

 韓国文化院主催の映画観賞が目的である。

 韓国文化院は以前は地下鉄麻布十番から行っていた記憶がある。

 ところが、3年前に四谷四丁目に越したという。

 世の中は動いているのである。

 

 今日の映画は『道ー白磁の人』である。

 3,4年前に完成したが、いわゆるロードショウ上映ではなく、ゲリラ上映で映画の命をつないでいる。

 この映画の主人公は浅川巧さん。第二次世界大戦に朝鮮に行き、林業技術者として朝鮮の緑化に貢献するとともに、李氏朝鮮時代の官窯跡を探索し、日本に白磁の文化を紹介した人間である。

 彼の墓はソウル郊外にあり、いまでも韓国の人々に見守られている。


 どういう映画に仕上がっているか、楽しみである。


 いまもコリアンタウンは人手が減っている。

 どうにか、韓国と日本の関係を良好な状況に戻らせるためには、文化でつながるしかないのであろう。

 東日本大震災をきちんと追いかけているマスコミはNHKだけである。今日も「写経の中の苦しみ」をテーマに奈良薬師寺の僧侶の行動を丹念になぞっていた。

 僧籍にあるものは「覚悟」をもって自らの生を生きようとしても、その覚悟を震災、原発で家族を失った被災者、いまだ仮設住宅に縛りつけられている方々に、言うことができない。

 つまり、被災者はあまりにも重い経験を課せられてしまっているのである。

 仏教の教えでは導きえない人々が被災者の数だけいるのである。

 写経で救われた被災者がいるかと思えば、いまだ救われない方もいる。

 薬師寺僧侶、大谷氏は「覚悟」をもって東北と向き合うことこそ、いまの事態を突破できるとようやく考え着いたが、それすら被災者と向き合うと無力を感じる時がある。


 わたしは、自らの職業に「覚悟」を課し、生きようとしている善なる人がこの日本にはいることを、力強く思った。

 2,3日前、わが街にホンドキツネが徘徊しているとニュースがローカルに流れた。

 タヌキやイノシシのニュースはしばしば目にするが、キツネは珍しい。

 梅雨になっても、今日も一滴も雨は落ちないと天気予報が言っていたので、キツネが出たという地区を散策してきた。

 もちろん、こんな真昼間にキツネが徘徊するわけはないとは思ったが、住宅街を夜中に歩くわけにはいかない。

 すべて世は事もなしであった。


 しかし、なぜ、住宅街に現れたのであろう。

 ホンドキツネの生息域は草原や野山であろう。

 食べ物がないため、人家に近いところまでさまよい出てきたの出る。

 人家から出た食べ物に味を占め、夜な夜な食物あさりをしだしのであろう。

 わが街にも畑地は結構あるが、野菜などが荒らされているとの情報はまだない。

 それにしても、気の毒である。

 本来、人間と動物は共存しなければならないのに、圧倒的強者である人間が環境を支配している。

 そこに突然現れたキツネは、迷惑な存在として扱われる。

 犬好き、猫好きの住人はわが街に多い。

 キツネ好きの人はいないが、その候補者は多い。

 立ち上がってもらうわけにはいかないのだろうか。

 NHKの午後5時台のテレビを見ていた。

 滋賀県で結婚祝いにするびん細工手毬の実演と普及を報じていた。

 保存会の会長さんが結婚する孫娘さんに10日間かけて作ったびん細工てまりには感動した。鶴と亀のデザインが美しいうえ、孫娘さんが好きな紫色も入れていた。

 会長さんの想いが「苦しいとき、悲しいときにこの手毬を見てもらいたい」という。結婚は楽しいときだけではないとの経験が言わせた言葉だろうが、孫娘さんは「幸せになります」と受け止めていた。

 何より心を打ったのは、祖母と孫娘さんが結婚式の引き出物にするため小体のびん細工手毬を作っている姿であった。

 この女性たちの想いが伝統工芸を永遠に伝えてきたのであろう。


 ただ、手毬をびんに詰めることは門外不出ということであった。

 本書はワイド版岩波文庫から2009年2月17日に発行された。

 シルバーにワイドは最適である。本文の文字が大きいので読みやすさが際立つ。また、明治の文学作品では漢字にルビが降られることが多いいが、そのルビも識別可能である。


 本書は、健三、お住夫婦の擦れ違いを軸に、健三の元養父、島田との絡みを従にして進行する。

 健三夫婦には女の子が二人いるが、健三は自宅で仕事をしているため、子どもをしかるがかわいがらない。

 お住は、健三から、

 「お前は馬鹿だ」

 「もっと本でも読んで勉強しろ」

 と、軽蔑されていると感じている。

 健三はお住はまるで自分のことを理解しようとしていないと感じている。

 健三は真面目に働き、自分のために時間を使っている。これをお住は仕方がない人間と思っている。

 自分本位の生き方をする男と自分が考える男の生き方とは違う男が健三であると考えるお住。どこまでいってもかみ合わないみたいだが、島田の出現、3人目の子供の出生、健三の兄、姉の亭主、比田などの存在が健三とお住を変えていく。

 

 本書は漱石の自伝告白小説であろう。

 以前はまるで気にならなかった、漱石の核心、女性蔑視が鼻につくが、女性は負けてはいない。

 この面白さは100年後も漱石を日本人の心の中で生き続けていくのではないかと思う。

 それにしても漱石は『明暗』を完結させたかったとわたしは思う今である。

 終わったと確信していた衣替えにはパート2が控えていた。

 出し終えた夏着を点検したが、白に黄ばみがついている。

 半袖のYシャツ、ランニングシャツが、黄ばんでいた。

 午前中に洗濯した。これがパート2である。

 今後はYシャツはクリーニングに出し、アンダーウエアは夏冬兼用にしようと考えた。


 出したらすぐに着られるが、モットーなので、かなりのショックである。

 それにしても、肌着は正直である。

 いくら洗濯してからしまっても、肌着に染みついた雑菌は落ちないんだ。


 これからは、見かけの白さを疑おうと考えた。

 洗濯の方法も一工夫必要である。


 学ぶことのみ多かりきである。

 すでに半袖のポロシャツは着ているが、冬着は出したままである。

 今日は、いよいよ衣替えをしようと決心していた。

 さあ、やるぞと体を動かそうと思ったとたん、段ボールに入れる防虫剤がないことに気がついた。

 やらないでいい、いいわけができたので、時代小説を読み始めてしまった。

 2時間たち、はっとこのままやりすごしてよいものかどうか考えた。

 もう昼飯も食べた。

 やはり、やるときめたことをやったほうがいい、と内なる声が胸をたたく。

 思い切って、外出の準備をする。

 ここのところ外出づいているので、準備は素早く整った。

 ドラッグストアに行く。

 顔見知りの美人の店員が挨拶をしてくれる。

 先だってニュースが流れた、震災の食糧準備は7日分を用意するようにを思い出す。1リットルの水が2本足らない。買って帰ろうと決めた。

 こうして、衣替え準備だけでなく震災準備までできたことに感謝した。


 午後4時を過ぎたところで衣替え完了。

 これで夏よ、どんと来いである。

 地震は、来てもらいたくない。

 姉がいまある家を壊し、新しく家を建てると言う。

 最初は、都心のマンションに移るつもりでいたが、都心のマンションを購入すると財産をほとんどすべて投入するため、有料老人ホームに入るのが難しくなると考えたようだ。

 そこで、築37年になる父母の労苦に感謝しつつ、平屋を建てようと考えたわけである。

 マンションに移るか、いまの場所に新しい家を建てるか、悩んだそうである。

 弟のわたしは、姉の考えに沿って動こうと思っていたので、マンションのときもいいと言い、家を建て替える時もいいと言っている。

 いろいろと話は聞いていたが、動けない。

 そこで、住宅展示場へ行き、次のステップに動かそうと考えたわけである。

 姉はきちんと話を聞きたい住宅メーカーを考えてきており、そのメーカーのモデルハウスを訪ねた。

 1社目は女性が受付をしており、丁寧に案内してくれたのち、姉の質問に丁寧に答えてくれた。2時間かけた。

 もう1社は、姉の本命の会社であった。

 ここでは。30代の男性が対応してくれた。

 丁寧さは女性と同じ。

 ただ、こちらは姉の要望に対して簡単な見積もりができると言った。

 モデルルームを一巡してから話し合った。

 見積もりをしてもらい、あまりの高さにわたしはあっけにとられたが、姉は動じず、最後まで和やかに話して終了。


 驚いたのは、モデルルームは建坪150坪から200坪であるのである。

 こんな家は、応対した人に聞いたが2社目の家が13年間で2件売れただけであった。

 大邸宅を見て、夢を持ってもらう狙いがあるのであろう。

 わたしは建売を買ったので、注文住宅に取り組む気持ちはわからない。

 当分、姉について家づくりのノウハウを習得しようと考えている。

 谷中銀座を後にして、地下鉄千駄木駅を見て、団子坂に向かう。

 団子坂を上りきると、左手に何とも不思議な形の建物が迎えてくれた。文京区立森鷗外記念館である。鷗外の住居として有名な観潮楼が現代、そして未来に生きるのである。入館料500円。

 地下が展示場である。鷗外の年齢別にその足跡を展示してある。

 長いのぼりにその年齢の代表的事項を書きつけ展示してあったが、この展示の必要性はないし、ゴテゴテ展示の典型に思えた。

 明治時代の銀座、京橋、新橋などの写真は明治にタイムスリップさせてくれた。

 記念館にはティールームがあり、わたしは紅茶をいただいた。

 小さな庭が見え、感じのいい女性の店長ともどもまた来たいと思った。

 団子坂には、歩道はあるが車道と高さが同じ。歩道に守られているいる安心感はない。

 青鞜発祥の地には、銅板に文字が刻まれていた。

 平塚雷鳥の友人であり、青鞜の同人になる物集和子の家が青鞜の事務所になったのである。

 「元来女性は太陽であった、知ってる。ここは記念すべき場所なんだよ」

 「えー、何ですかそれは」

 連れは全くピンときていない。明治は遠くになりである。

 最後の目的地、夏目漱石の『吾輩は猫である』の舞台になった後を探す。最後に至ってわたしの方向音痴がまた活発に動き出した。

 みかねた連れが、宅配所に入って聞く。わざわざそこのご夫婦は道路に出てきてくれた。指をさし示して、交代に説明してくれる。

 理解したわれわれは歩き始めたが、見当たらない。

 この辺で、また聞く。自転車に乗った初老の婦人である。

 わざわざ方向をちがえてくれて案内してくれる。

 あのブロンズの猫が上から迎えてくれた。

 川端康成が揮毫した石版が堂々と立ち祈念写真を撮るには格好の場所になっていた。午後5時を過ぎ、地下鉄根津駅に向かう。

  総ケヤキ造りのはん亭が趣あるつくりの建物で迎えてくれた。歯切れのいい口調で若い女性がてきぱきとメニューを説明してくれる。思わず「熱燗2合で」と歯切れよく注文し、連れが非難のまなざしを送った。

 たれは、3種類。海苔の佃煮、岩塩、そーす。

 生野菜は大根と人参のステッキ、キャベツ。

 会話が途切れた。

 旅の話はないのである。

 相手によって、コースは変えようと考えた。