ついに参りました。今年の最終日が。

 街はいい日和に誘われて、買い物客でごった返している。

 今日の主人公は年越しそばである。

 わたしは、珍しくよく訪れるおそば屋さんに2人前お願いした。

 昼も年越しもそばに決めた。

 しかし、広辞苑で「年越しそば」を確かめた。

 すると、大晦日または節分に食べるそばと説明されていた。

 つまり、お祝いするときは日本にはいっぱいあるのである。

 いい風習が残っている、日本には。

 月末は、翌月への願いがこもっているのであろう。

 年越しそばは、新年をいい年にと願う気持ちをくみ取る風習であろう。

 それが節分と言う節目にも日本人は願いを込めていたのである。

 祝いたいことの回数は多くあった方がいい。

 とくに、いろいろあった年の終わりには新しい年こそと言う願いは強い。

 その強い願いのため、日本人は三十日そばを忘れてしまったのかもしれない。


 さて、本格手打ちそばはゆで方が難しい。

 説明書に書いてある通り昼に作ってみたが、うまくいかなった。

 なにせ、1分以内のゆで時間か、5分の乾麺しか食べていないわたしにとっては本格手打ちそばのゆで方は難しい。

 しかし、年越しそばのゆではうまくいかせるつもりである。

 徒然草に弓矢の教えで、ふつう射る時は二矢を手にするらしいが、教える側は一矢しかないの気持ちで射なければならない、と指導する。

 おいしく食べるためには私は必死であったがうまくゆでられなかったわたしは、いろいろとうまくいかなかった理由を考え、二度目はうまくやろうと考えている。

 みなさま、ぜひぜひ、よいお年をお迎えください。

 来年もよろしくお願いいたします。

 すでに大掃除は済ませ、おせち料理も買った。

 正月の準備を早めに済ませたので、やることが思いつかない。

 そこで、少し考えてみた。

 もう何十年も前から年末に1年の反省はしたことがない。

 つまり、元旦に1年の計を考えたこともないため、反省することもないのである。

 中学のころまでは、勉強頑張ろう、数学はとくにと考えていた。

 しかし、毎年1年の計を実現したことがないので、考えることの無駄を感じてしまったのである。

 年末にこういう状態にあるのは空虚である。

 反省の対象がないとさびしいのかもしれない。

 昭和の風景は東京でも数少なくなっている。

 現代は過去を消滅させながら進歩と言う道を歩き続ける。

 それは親の代を引き継ぐと言うよりは、親の代を否定しさると言うことである。

 江戸、明治からの名園は東京には残っているがこれは管理体制が時代に耐えられるようにつくられているからであろう。

 計画も消え去り、建物なども消え去る。

 それでも思いを込めた計画は必要なのかもしれない。

 退屈の年末よりは計画がうまくいったならば、自己満足を感じることができるし、実現できていなければなぜかと自問できる。

 つれづれなるままに仏道に入りたいとは思わないので、せめて、1年の計を来年には持とうと考えた。

 心ざわめく、年末になった。

 ちゃんと生きてきただろうかとちらっと反省の気持ちが心をゆする。

 仕事は誠意を持ち続けてやり遂げたと思うが、老死については避け続けてきた。

 まだ、身心が動く限り考える必要を感じなかったのである。

 それでも海外旅行を実行しなかったのはなぜだろうかと自問すると、

いまの身心では、たぶん迷惑をかけるのではないかと考えてしまうのである。年末海外に行った方は160万人を超えたらしい。

 この人たちは旅行体力に何の心配もないのだろう。

 わたしは言いたくないのだが、昨年のスペインツアーで、現地初日に寝過ごし、ツアーメンバーに迷惑をかけてしまった。

 つまり、機内で費やしたエネルギーを回復させる体力が残っていなかったのである。

 これが今年の自分の行動を決めた。

 人に迷惑をかけない。

 しかし、愉しくはなかった。

 行動の制約は心が自由にならない。

 心が自由であれば行動を自由にする。

 いま、天皇杯の準決勝の第二試合が終わった。

 広島が東京をPK戦で破り、横浜と決勝を戦う。

 画面を見ていて、体力のある男たちがその技術精いっぱい発揮して活動していた。

 いい、と思った。

 生きている限り、自分の能力を精一杯発揮してこそ、自分の道を切り開けるのではないかと教えられた。

 本書は2007年7月10日にちくま文庫から刊行された。

 2012年5月5日に第三刷されているので、読者はこういった体裁の本から徒然草、方丈記に入っているのだろう。

 本の特徴は、原文から入るのではなく、段ごとにまず口語訳から入り、原文・注釈と構成されている。

 わたしは高校時代古文の教師が嫌いだったので教師=古文と言う図式で古文を熱心に学習しなかった。

 それで、いまや学習の門をたたいているので、若気の至りとはいえ損をしたものである。

 口語訳から学ぶと、内容にはスムーズに入り込める。

 その後、原文を読み、注釈で古文を確認する。

 ところが、こういう生き方こそよいと言う原文の内容が複雑に説明されているので、口語文だけではなかなか理解を促進してくれない。原文からきちんと理解しないとこの人生訓の本質には触れもできないのであろう。

 1回の通読ではほとんど理解できないのであろう。

 たとえば、徒然草では生死のことを4段にわたって論じている。

 同じようなことを言っているはずなのだが、言い方が違うので、その本質を読み取ることができない。

 わたしは、「つれづれなるままに」本書と格闘を来年まで続けることになる。意味が多少でもわかったならそこのところを書きたいと思っている。

 明日からはみなさん休暇に入る。

 お正月の買い物が増えるだろう。

 今日はわたしに与えたミッションはお正月用品の買い物である。

 単品でおせち料理を買いあさる。

 紅白の蒲鉾、伊達巻、昆布巻き、栗きんとん、ようは初酒用の酒の肴である。

 これで、年末に小松菜と山芋を買い、年越しそばをそば屋さんで受け取れば、年越し、お正月の準備は完了することになる。

 寒気が日本を覆っている。

 みなさんは銀行の現金自動支払機の前に行列を作っている。

 わたしは今週の月曜日に下ろした。

 早め早めに準備をしているのであるが、この気のまわし方が来年も健在だろうか自信がない。

 なにはともあれ、暖かい新年になればいいと願うのみである。

 わたしの街の、たぶん名店、きょうやで昼そばをきこしめした。

 もちろんわたしは12時前に行き、獺祭を注文。最後の1合をいただいた。

 甘口だけれども、切れ味は鋭い。

 あと、10分。

 携帯に連絡がなければ、約束の時間に二人は来るはず。

 来た。若い娘が登場すると、場が和やかになる。

 わたしと同年代の客たちもわたしと同じように感じてくれたのだろうか。

 和やかな時間の始まりである。

 相手は時間に縛られているため、わたしはその事情を説明し、協力を仰いでおいた。

 獺祭でわたしの顔を覚えていてくれた女主人は協力を約してくれた。

 「13時までに市役所まで戻れるタイミングで品出しをして欲しい」

 見事にその約束を果たしてくれた。

 今年は、この二人がいてくれたおかげでどれほど楽しく過ごせたか、わたしは説明した。すると二人はわたしがいてくれたおかげでどれぐらい助かったか話をしてくれた。

 一般論に戻して、話をしたが、

どうもこの3人には不幸はなかったようである。

来年の新年会の話をして、別れた。

明日からは、お節の買いあさりである。  

 ようやくブログ生活も1年6か月になった。

 ここまでやるとよさげな仲間もできる。

 わたしは徒然草のようなブログを志したが、徒然草を理解していなかった。

 いまようやく、徒然草の原典を読み始めて、こりゃ哲学書でないかと認識を改めている。

 わたしは哲学のイロハも知らない。

 徒然草を随筆だと思っていたのである。

 これはまずいと思っているが、自分の直感を信じることにした。


 わたしのブログを訪れる方も徐々に増えている。

 読者になってくださる方もいる。

 反応があることがうれしい。

 わたしの好みは想像力を駆使した読み物である。

 しかし、スペインやイタリアのいまを知りたいとも思う。

 さらに、いまを生きる人たちを見つめたいとも気持ちも強い。

 そんな人たち知らせてくれることを受け止めて年末まで来た。

 

 感想はよかったである。

 自分すら知らずにいる自分に未知の人間からいろいろなことを吸収できた。

 この道具をみんなで育てていかなければならないとしきりに思う。

 ブログの友人たち、お世話になりました。

 いい年をお迎えください。

 来年もよろしくお願いいたします。

 本日は日差しはあれど、午後3時を過ぎると寒かった。

 銀座はいつもの通りだが、活気はなかった。

 昨晩にクリスマスを終わらせた方々が多いのではないのでしょうか。

 銀座不二家も女店員が声を枯れせど、買う人はいなかった。

 この平日は人生が色濃くにおいたつ。

 クリスマスもなしに生きている人、クリスマスなど考えれない人。

 そんな人々がクリスマスイブに働いている。

 日本人はいいなあ、と思わざるを得ない。

 いま、三浦雄一郎さんのエベレスト80歳登山の映像が流れている。

 なんというか、感動的である。

 ご自分の夢にさまざまな人々を付き合わせる。

 さまざまな人はその夢を実現させるために努力する。

 それでも命短い人間に付き合ってくれる人々はいるのである。

 今日、父親の介護に向き合わざるを得なくなった女性からメールがあった。

 生きることに力を貸すことは血縁であれば、すぐ差し出す。

 血縁は血縁なのである。

 この血の濃さこそ血縁を生きさせる。

 わたしは父も母も失った。

 わたしを愛してくれる人はもういない。

 その喪失がわたしをうなだれさせる。

 今日は不二家の2000円のケーキを買って、食べた。

 来年、この孤独を無くすように努力したいと考えている。

 今日でわたしの後見人の仕事を終えることができた。

 これは仕事納と言えよう。

 被支援者は元気いっぱいで、暮れからのショートステイを楽しみにしていた。

 それにしても往復2時間の自転車走行も快適にできたのでよかったと思ったのだが、いま首が少々痛い。

 やはり運動能力は退化しているのである。

 来年は少し距離を伸ばしたサイクリングをしないといけないと反省している。

 明日はクリスマスイブ、参加するためにケーキを近くの洋菓子屋さんで買うことを決めている。

 ケーキは1個500円からいろいろな種類があり、クリスマスケーキになると1個2000円から3000円以上と洋菓子屋さんの商売は順調に発展している。

 和菓子は100円台からの値段がほとんどで、値上げしずらい商品である。進物用で利益を上げるしかないが、和菓子の利用範囲は狭い。

 それでもわたしの家の近くには2軒和菓子屋さんががんばっているが、わたしにしても年に数回買い求めるだけである。

 和菓子は好きだが、クリスマスとなるとやはりケーキであろう。

 手土産で喜ばれるのもケーキである。

 シルバーは増えてもどうも和菓子はじり貧である。

 逆らって、明日は和菓子でクリスマスを祝おうかと思ってもいるが、どうもすわりが悪い。

 高校女子駅伝は終わり、いま男子が沸騰している。

 昔、英語の女性教師が、マラソンを見ていると最後に涙が出てきて 

しまう、と言っていた。

 わたしも長距離走は嫌いであったが、見るのは大好きである。

 アマチュアはいまや高校生だろうと思われるので、この高校駅伝は

アマチュアの極致であろう。

 まだ、中学生を抜け出していない高校1年生も参加しており、初々しさが体格、表情に出ている。

 高校時代は劣等感の塊であった。それを自分に悟らせずにそれなりに毎日を生きていた。

 だから、高校時代はわたしに前向きに生きることの大切さを教えてくれた時間であった。

 自分の普通を自覚させてくれたこの時代はわたしの黄金のときであったと思う。

 それだけに、この全国大会の高校駅伝は、わたしを強引にあの時代に引き戻してくれる。

 いまケニアの生徒がトップを走っている。

 時代は変わり、日本を足掛かりにしてケニア人が高校、大学、社会人で活躍している。

 このような体制を創りあげているのは大人の知恵だが、まあ彼らの心までは変えていないであろうと考え、よしとしよう。

 それにしても、持っている力をここですべて出し切ろうとしている高校生は美しい。