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ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press


.ふく

プロセスは、
ふたたび大地へとかえってゆき、
また新しい出発がはじまります。
ポイントは、
「ふりだしにもどった」
わけではないということです。
たとえ、もし、
表面的には以前と同じようにみえたとしても、
それは以前のプロセスのやり直しではなく、
「あたらしい出発」とみるべきです。
なぜなら、すべてのものは常に移り変わっていくものであり、
一瞬たりとも「同じ状態」を継続することはできないからです。
それでもどうしても「前と同じ」にみえてしまうのあれば、
それは、観察の仕方が悪いのか、
または、
まだなにか学び残したことがある証拠です。
母方の祖母はまだ健在だが、
今ではすっかり疎遠になってしまっている。
昨年の夏に、
関西の施設まで会いにいったときには
すっかりやせてしまって
別人のようだった。

祖母に会って思い出したのは、
行動を起こすときとか、
なにかを決めるときには、
いつも手を合わせて、虚空をにらみ、
「神サン」に何事かたずねていた姿だ。
その視線の向かう先は、
時にはなにも入っていない押入れとか、
100年もたった家の中庭……
とかだったりしたこともあった。
ぼくら孫達が健康であることや、
家族が平和であることなどは、
ことあるごとに、
この「神サン」にお祈りをしていた。

昔の人だから信心深い?
しかし、こういうのを信心深い、
というのだろうか。
きいたことはないのでわからないが、
特定の対象を拝んでいたわけでもなさそうだし、
宗教に入っているわけでもない。
そのようなことを強要された覚えもない。
いったい祖母はなにを拝んでいたのだろう。
なにに質問していたのだろう。
なにかたずねたとき、
答えは……返ってくるらしい。

これって、
今風にいえば「チャネリング」
と、いうことかもしれない。
2005年11月16日付けログ、
「モーニンググレース」で、
人の頭に去来する想念には、
自分でつくりだしたもの、
他者がつくりだしたもの、
深い自己からあがってくるメッセージがある……
なーんていう話をしたが、
実は、もうひとつ、
別の存在からの情報というのもある(らしい)。

明確に別の存在からの情報だ、
とわかる形式のチャネリングには、
口寄せとか交霊(降霊)とか
呼ばれるタイプのものがある。
(今はもっとモダンに、
コンシャスまたは、
アンコンシャス・チャネリング、
と呼ぶらしいが)

私見だが、
こういった形式のチャネリングは、
古いタイプのものだと思う。
明らかに「自分以外のもの」
というのがわかる情報の伝え方は、
不必要な恐れを招くこともあるし、
なによりも、
いたずらに依存心を拡大し、
人間の生来の特性である自由意志を損なうからだ。
代わりに、なにげない思いつきや、直観、
ひらめきなどのかたちをとり、
情報は、今では、
もっと繊細な伝わり方をする。
ことさら「チャネリング」といった形式をとらなくても、
押入れに手を合わせなくても、答えがわかる。
そんな伝わり方をする。
私見だけど。

そして、情報の強制力は限りなく小さい。
無視しようと思えばいつでも無視できる。
ひらたくいえば、
心の中で何が正しいことかわかっていても、
容易に別の選択をすることができるのだ。
逆に、
異常に強制力の強い情報を受け取ったとしたら、
特に緊急性を要するものでないかぎり、
病理である可能性を含め、
その出所をよく見直してみたほうがいい。
私見だけど。

まあ、とにかく、「思い」は、
手にとってみることができない。
珠と石の区別は、
非常につけにくいのが実情のようだ。
ここで紹介している易システムが、
その区別をする一助となってくれれば、
紹介者として幸いだ。
また、そんな使いかたもできるのではないか、と思った次第。

祖母は、去年の11月に百歳を迎えた。
それが、神サンを拝んでいた
ご利益なのかどうかはわからない。
いまでも祖母は「カミサン」を拝んでいるのだろうか。

タマにはマジメに易のハナシ。

ずいぶん前のログになりますが、
2005年5月21日、「変爻のハナシ」のログで、
上下卦について、さらっと書きました。
今読み返してみると、
ちょっと説明不足なので、
もう少しちゃんと説明しておきます。

上下卦

図のとおり、
大成卦は二つの八卦から成り立っています。
二つの八卦のうち、上にあるものは上卦(じょうか)、
下にあるものは下卦(げか)といいます。

時間的には、下卦のほうが先で、
上卦はその後ということになります。
たとえば、
大成卦を一日とらえ、
内卦を午前、外卦を午後とみたてるのはその典型的な例です。
下卦のほうが先で、上卦はその後、
というリクツでいえば、
まあ別に、大成卦を一ヶ月とみたてて、
内卦を月の前半、外卦を後半、としてもいいわけです。

大成卦を一週間とみたてた場合は……以下同文。

この上卦と下卦は、
文字通り物理的な上下をあらわすこともありますが、
位の上下をあらわすこともあります。

また、上下卦は、
それぞれ、内卦、外卦と呼ばれることもあり、
この場合、内卦は自分の側、自分の内側、家、などをあらわし、
外卦は、相手側、外側、家の外、などをあらわします。

で、上卦と下卦の間にはギャップがあることになっています。
バックギャモンのゲーム盤の真ん中にあるバー、
中国象棋(誤字ではありません)でいえば真ん中の河
(だれも知らんて。そんなもん)。
ですから、
その直前直後の三爻、四爻は、
不安定ということになるわけです。

まあ……
上下卦の間に河がある、
というのが、順当なたとえでしょう。
易システム、出自は中国ですから。
古代中国では、
軍が河を渉る直前、そして渉りきった直後が、
いちばん攻められやすく、きわどかった。
だから、三、四爻は不安定。

一般的には易は、中庸を重んじるため、
上下卦の中央の位、
すなわち、二爻と五爻をもっとも尊び、
他は不安定とする(偏っている)、
といった説明になるかと思います。

二爻と五爻では、
どっちがえらいかというと
伝統的に五爻ということになっています。
キメの問題でしょうが、
あえてリクツをつけるなら、
中庸を重んじ、かつ、位の高い方=五爻
ということになるかと思います。

13の月の暦にしたがって生きている限り、
一年の計は元旦にはない。
2005年9月30日のログ、
「サイキンはじめたこと」にも書いたが、
13の月の暦にしたがって生きる限り、
一年のはじまりはグレゴリオ暦の7月26日になる。

「13の月の暦」は、
一週間7日×4週間×13ヶ月+1日=365日
で、「+1日」はグレゴリオ暦7月25日で、
「時間を外した日」。

そんなわけで年賀状もやめてしまった。


holga11
【あけてはいけない】
Harinezumi-Camera 110-ISO400
晴 日中 屋外


ぼくに年賀状を出したにもかかわらず、
返礼の賀状がこなかった皆さんには、
この場を借りて非礼をわびておこう。

ま、そういう事情なんだ。
よろしくナ。

(おい!だれも見てないぞ!
しかもゼンゼン「詫び」になってない!
なんだそのタカビーな態度は!)
(13の月だか、ウンのツキだか、
モチツキだか知らないが、
7月26日が始まりなら……
じゃ、ナニか、暑中見舞いは書くのか?!)

か、書かない……

(結局、メンドクサがってるだけやんけ!)

そうともいう。

なんかだけど、
ここしばらくは、
今通ってる学校を無事に卒業するまでは、
あけないし、めでたくもないような、
そんな気もする。


い

この組み合わせでは、
上は山で動かず、下は雷で、躍動することの象徴で、
全体としては「口」、かみくだくこと、
ひいてはだれか、または自分自身をやしなうことを意味します。
やしなうことから職業なども意味しますが、
実生活におけるバランスのとれた収支がここでのキーポイントです。
入ってくるものと出てゆくものを入念にチェックして、
そこにムダや重複がないかよく考えてみてください。
「本当に必要なもの」というのは意外に少ないものです。
健全な収支バランスは、収入と同額かそれ以下の支出、
そしてフローに乗っていることによりもたらされます。

親しい友人に、

「オマエって都営三田線ににてるよな」

だしぬけにそう言われたらどう解釈しますか?

まあ、面食らうわけです、
フツウは。

どうしても判らない。

そんな卦が出ることがあります。

オズボーンのチェックリスト
(2005年5月16日ログ、「行き詰ったときはこれかな」参照)
を使っても、わからない。

オゥ!
ヘ~~~ディック!

ということが、確かにあります。
あてはめようと、
または連想しようとするのですが、
どれもこれも今ひとつ。

「これだ」という回答にたどりつかない……
わんわんわわん、犬のおまわりさん。

最初のころはとくに、
こういうことがあります。

holga10
【クモヲツカム】
Baby-holga 110-ISO400
晴 早朝 屋外

こういう場合は、

1.問いを変えてみる。
問いの内容が適切でないのかもしれません。
より具体的にする、そしてできれば、
YES・NOで答えられる内容の問いにしてみましょう。
ムリならせめて
それに近づくように、問いを変えてみます。
あるいは、問いを分割してみる。
いろいろやってうちに回答が見つかったりして。
もしそうであれば、占う必要はありません。

2.時間をおいてから解釈しなおす。
急ぎでない場合は、
すこし頭を冷やしてから
考え直したほうがいいかもしれません。
時間をおくと意外なきっかけで、
意味がわかることがあります。

3.忘れる。
究極はコレですな。
こだわるのはやめて、
忘れてしまう。
なあに、ほっぽっといても、
別にバチはあたりませんや。
ぼくがいうのもナンですが、
所詮はウラナイです。

まあそんなときは、
親しい友人に
話を聞いてもらったほうが
いいかもしれません。

「オレは易システムに精通しているから、
ヲトモダチなんていらない」

なーんて、そんなことには絶対なりません。
それとこれとは別の話です。

……って、なんか前にも書いたな。
去年の……
などというと、ずいぶん以前のような感じがするが、
先月の……
占いテーマのブログで「記録すること」
ってな記事を書いた。
で、思い出したのだが、
今はアタリマエのように持ち歩いている、
「手帳」。
これいったい、
いつごろから持ち歩いているんだろう、
と、ふと思った。

手帳

本棚の、手帳が入っているスペースを
ほじくりかえしてみたが、
一番古いので、
98年の日付があるマンダラート手帳だった。
これよりも前に超整理手帳と、
さらにそれよりも前に、
保険屋のおばさんにもらった
ええかげんな手帳をええかげんに
使っていたはずだから、
手帳というものを使いはじめてから、
多分10年くらいにはなるのだろう。
手帳なんかいらんわ~
という人も多いかと思うが、
ぼくも最初はそうだった。
会社では作業日誌をつけていたので、
特にそれ以外必要がなかったのだ。

最初は、さっきも書いたが保険屋のおばさんにもらった
えーかげん手帳で、書いてある内容もエエカゲンだった。
あ~、内容エエカゲンってのは今でも変わらんか。

そのあと、出たばかりの超整理手帳にのりかえた。
超整理手帳は、「超整理法」で有名な野口悠紀雄氏 考案の手帳。
ジャバラ式に折りたたんだ
A4用紙に対応しているところが斬新だった。
そんなわけで、ついていたリフィルはほとんど使わなかった。
勝手なA4用紙を勝手に突っ込んで
超整理法というよりチョイ整理法って感じで(意味不明)
使わせてもらっていたが……

そのあと、マンダラート手帳(写真一番左)にのりかえた。
マンダラート はデザイナーである今泉浩晃氏
が考案したアイディアツール。
現在は手帳というのはなくなり、
電子ツールだけになっているようだ。
マンダラートは非常に強力なツールだが、
すべてをマンダラに収めることに少々ムリを感じて、
これもほどなくpalmに乗り換えることになる。

palmはPDAブームの火付け役ともなった機種だが、
今となってはPDA市場は見る影もない。
PDAブームなんてほんとうにあったのかなあ、
と疑いたくなるようなほど、量販店からも
きれいさっぱりなくなっている。
写真の真ん中がそのpalmだが、
いまではもう立ち上がらない。
母艦になっていたノートブックも壊れてしまい、
ほこりをかぶっている。
会社に通ってたころは、
出退勤のときに目の前の専用マシンで

ぴろり~ん
(そういうヌケた音がする)

と、データの同期をとるのが習慣だったのにな。

この音をたてると、ずらっと横一列に
並んで座っていた後輩達が
いっせいに、じろっとにらんだものだった。
彼らの視線はこう語る。

テメも~帰んのかよ。

結局、一番長く使っていたのが、
フランクリンシステム による手帳で、
これは「7つの習慣 スティーブン・R. コヴィー著」
のコンセプトによってつくられたシステム手帳。
人生の目的ともいえる「ミッション」からブレークダウンして、
「価値観」→「役割」を定義していき、
最終的にそれらを日々のtodoまでに落とし込む。
この仕組みが、「単なるスケジュール帳というだけではない」
手帳の使い方に改めて気づかせてくれた。
会社員を辞めた今、
todoやスケジュール管理のためだけの手帳は、
はっきりいって必要ない。
大げさにいえば、いまや手帳はぼくにとっては、
スケジュール管理のためにあるのではなく
(もちろんその機能も含むが)、
自分の内面と向き合うためにある。

そして13の月の暦 の手帳。
いままで知っていたのとは
まったく違う時間の流れが
あることを気付かせてくれただけでなく、
不思議なことに
様々な新しい人間関係まで運んでくれた。

そしていまは「ほぼ日手帳 」を使い始めている(写真一番右)。
「なんでもない一日一日を大切にする」コンセプトで
糸井重里氏の会社がつくっている手帳。
基本的には一日1ページだが、
「ここには××を書く!」
「そしてここには△△を書く!」
「んでもってここはこー使う!」
のような、
設計者による一方的押し付け的制約が少なく、
カバー共々、ゆる~い仕上がりとなっている。

いままで使ってきた手帳のコンセプトも、
完全に捨て去ってしまったわけではなく、
このゆる~い手帳に合併吸収した。

ま、結局……

最近は手帳ブームらしいが、
どっかの本のタイトルみたいに、
多分手帳で成功することはないし、
多分手帳で夢がかなうこともなく、
多分手帳で人生が変わることもないだろう。
成功することも変わることも、
夢がかなうことも、
あくまでその原動力は、
その人自身のなかにあるんじゃないか。
いい手帳はその原動力を引き出す触媒になる。

なんだか今回はとんだ「手帳自慢」に
なってしまった。

失礼。


ちゅん

水面下で新しい動きがあります。
まだ、目に見えるカタチであらわれるにはいたっていません。
あらたな動きはアタマをおさえられるようなかっこうで、しばらくはのびなやむ傾向にあります。
適切な時間がたてば、適切なタイミングでやがてその成果が目に見えるカタチであらわれます。
それまではしばしガマンのときです。
しかしそれはむだなガマンではありません。
まつこと。準備すること。
その時間は必要だからこそ、そこにあるのです。
ショートカットはできません。
できたようにみえても、
それは必要な時間を先延ばししたにすぎません。

意味も、それがナニモノかも、
その単語からだけでは類推を許さない、
漢字で書かれた単語が、
30個くらいあったとする。

それぞれの漢字も読み方も、
結構むつかしかったりする。
見たこともないような漢字も読み方も、
ケッコウ混じっている。
それらを順番どおり、
明日の朝までに記憶しなければならないとしたら、
あなたならどういう方法で攻めるだろうか。

まあ、ひとによっては、

『たいしたことナイや』

と思うかもしれない。
しかし、40過ぎ・酒好き(こりゃ関係ないか)の
おじさんにとってはケッコウ大変だったりする。

実は上の単語群は経絡と経穴のハナシ。
たとえば、鎖骨のところから親指の先端までのびる
経絡~太陰肺経穴の一部でこんなのがある。

肘窩外側から、母指先端まで、
・尺沢(しゃくたく)
・魚際(ぎょさい)
・少商(しょうしょう)

とびとびだが、比較的重要な経穴。
こんなのをトータル9セットほど覚える。
ぜんぶで27穴。

ぼくのやり方は、こんな感じである。
まず、イメージを考える。
上記単語が思い出せるイメージで、
日常生活から離れた出来るだけ突飛なイメージがいい。
それを文章にする。
上の例だとこんな具合になる。

(1)肘窩外側から尺トリ虫がピョ~ン、(尺沢)
(2)尺トリ虫は、しゃべる魚と海際で出会う。(魚際)
(3)しゃべる魚は少ない指紋(母指裏)を売る商(あきない)をする(少商)

この様子を画像として思い浮かべるだけで、だいたいアタマに入る。
思い出すときは肘窩外側(肘の内側親指側)をちらとみれば、
イモヅル式に、画像→単語が出てくるというアンバイ。
わかりにくいかもしれないが、
(1)→(2)、(2)→(3)……と、次が思い出せるように、
隣合ったイメージどうしリンクさせておく必要がある。

全27穴。
イメージを考えて文章にするのがだいたい30~40分。
そのころにはだいぶアタマに入っているが、
さらにイメージを確実にするのに、20分くらい。
まあ、1時間あればOK。
わすれたら文章を見返して、
イメージを復習する。
2,3回繰り返せば大抵定着する。

たまにテレビでタモリさんがやって見せているのは、
この方法の応用版である。

連想記憶方式。

古代ギリシャ時代からある(らしい)、
古典的記憶法。

純粋に、単なる、試験対策だ。
確かに「その部分だけ」では得点になるかもしれないが、
その後はぽか~んっと忘れてしまうだけだ。

それが証拠に今はアッパッパ~、である。
二年生になったらまたやるからいいや~
……
じゃなくて、
だからこそ今ちゃんと理解して記憶しなきゃならんのだが……
理解し、かつ現場での実感がともなわなければ、
血にもならなければ肉にもならない。
ヒーリングにその知識が生きることもない。
心ある人はこんな勉強(というより単なる方便)
の仕方はしないでほしい。

飲み込んで、吐き出す。
まるでエサを運ぶペリカンだ。
まあ、しかし……
そうせざるを得ない場合もあるんだなあ。
まったく試験ってヤツは。
だからキライなんだ。

---

※タイトルはウイリアム・ギブスンの同名小説から。
JM(ジョニー・ニーモニック)」
というタイトルで映画化され、
キアヌ・リーブスが注目されるきっかけをつくった。
たけしが出演したことでも話題になった。
(こういうことはよく覚えてる)


もし、この易システムを気に入っていただけて、
ちょっと使ってみようカナ……
とお考えになるのであれば、
自分で占った判断はログっておくといいと思います。

記録する項目としては、まあ、自由なんですけど、

一般的には、

・日時
・問いの内容
・出た卦(得卦といいます)
・各得卦における解釈

といったところでしょうか。
後日、結果がわかれば、

・結果と考察

を加えるといいでしょう。
あとは、問いに関連する事項で重要なものがあれば
ひかえておくといいと思います。

八卦リスト
(2005年03月23日【八卦をつかって占う:準備編】を参照してください)
のページも別に用意して、システムを利用しながら、
ご自分なりの意味を追加して、
オリジナルの「意味リスト」をつくっていくと、なお、
ご自分に合ったシステムになっていくでしょう。

とまあ、ここまでは、
教科書的な説明なんですけど、
なんていうか、全部きっちり書くのは、
ケッコウ面倒くさいときもあるわけです。
そんなときは、一言でいいので、
何かメモっておきましょう。

たとえばこんな感じ。

この間の中間テストの結果を、
気になる教科に限って占ったときの
ぼくのメモです。

----
占的(問い):各教科の得点や如何に?

(1)
「解剖は?」
渙<56>の困<26>に之く
『やばいかも』

(2)
「社会福祉は?」
大壮<41>の无妄<14>に之く
『ギリギリだね』

(3)
「生理学は?」
頤<74>の損<72>に之く
『マアよし』
----
(<>内は補足のコード番号です。
実際のメモには書いていません)

これだけです。

このやり方のいいところは、
ひとつには、
より気軽に占い、
かつ記録するということができるということ。
記録するとなると、それが面倒で、
占うこと自体から遠ざかってしまいがちだった場合などに。
もうひとつは、
実はコレが眼目なのですが、
一言で記録していると、
システムと会話しているような気分になる、
ということです。
気軽に占えるので、
「ちょっとシステムに聴いてみようか」
という頻度も増える。
頻度が増えれば、経験が蓄積されますので
精度もあがります。

易システムを使うということは、
ある意味、システムと対話するということです。
そして「システム」とは、
ほかならぬアナタが気付いていないあなた自身である、
ということは、
2005年11月14日付けログ【こたえはどこから】
などで書いたとおりです。

え、で、結果はどうだったか?

(2)、(3)は的占、
(1)は誤占。いいほうに外れたワケです。

誤占の理由は、
之卦の「困」と変爻を重く見すぎたこと。
変爻は二爻変だったので、
四爻以上を及第と観て「及ばず」
という判断をしてしまったわけです。
まああとは、自分自身を観る時は、
甘くなりがち(自分に都合のいいように解釈しがち)なので、
あえてきびしく判断した、ということもあります。

この場合は、本卦「渙」意味をスナオにうけとめ、
「悩みちる(渙る)」と、解釈すればよかったわけです。
(その場合、之卦の困は、悩んでいた過去、
または、結果が気になって困っている現状をあらわしている、
といった解釈になるでしょう)

ま、こんな具合にフィードバックもお忘れなく。